説明
フィオラと東雲波澄の過去話がギャラリー黒竜に眠っていた骨董品でよみがえる。あの時の記憶、思い出……。
エピソード1
湿った冷気と、数十年分の埃が堆積した静寂が、地下倉庫の隅々にまで澱のように沈殿していた。
ミハエル公爵の広大な屋敷の片隅に建つ「ギャラリー黒竜」の裏手、頑丈な鉄扉の向こうにある遺失物保管庫は、光の届かない深海のような暗がりを保っている。
フィオラ=アマオカミは、深紅のスリットドレスから覗く引き締まった脚をだらしなく木箱の角に投げ出し、指先で退屈そうに銀の鍵束を弄んでいた。
背中から生えた純白の羽が、倉庫の狭い通路の壁に擦れて微かに音を立てる。
竜の因子を持つその身体は、どれほどだらけていようとも周囲の空気の微細な振動を捉えていたが、今日の彼女はただ、終わりの見えない棚卸し作業の面倒くささに支配されていた。
指先で軽く弾いた鍵束が金属音を立てて跳ね、通路の奥に転がっていく。
それを拾い上げようと腰を屈めたフィオラの視界に、棚の最下段、他の荷物の影に押し込まれるようにして置かれていた一つの物体が留まった。
それは、使い古された黒い牛革のトランクだった。
角の補強革は擦り切れて繊維が露出し、真鍮製の頑丈な錠前は経年変化によってすっかり黒ずみ、緑青が浮いている。
表面には、手書きの文字が残る古いラベルが貼り付けられていた。
インクは退色して茶褐色に変色していたが、そこに記された「フィオラ=アマオカミ」という署名は、間違いなく彼女自身のものだった。
フィオラは眉をひそめ、そのトランクの取っ手に手を伸ばした。
革の表面に触れた瞬間、指先から脳裏へと、奇妙な懐かしさと共に、どこか冷たい霊波動が流れ込んでくる。
それは彼女がかつてどこかで失った、あるいは自ら手放した生い立ちに深く関わる骨董品特有の、重い存在感を放っていた。
トランクの脇に置かれていた、羊皮紙を綴じた厚い管理台帳を引き寄せる。
埃を払い、ページをめくって該当する番号の欄を確認したフィオラの指先が、ぴたりと止まった。
台帳の「預かり年月日」の欄には、かすれた万年筆の筆跡で、あり得ない数字が書き込まれていた。
――二百億年前。
この宇宙の誕生すら遡るような途方もない時間が、冷徹な事実としてそこに記録されていた。
「……二百億年? ちょっと、フィオラさん、それ何かの書き間違いですよね?」
背後から、恐る恐る覗き込むような声がした。
ギャラリーの雑用係として雇われている月日リアナが、書類を抱えたまま目を丸くしている。
黒い髪を小さく揺らし、赤い瞳に明らかな困惑を浮かべた彼女は、台帳に記された数字とフィオラの顔を交互に見つめていた。
地球という極めて平穏な物理法則の元で育った彼女にとって、億という単位の時間は、現実味を持たない単なる記号でしかなかった。
フィオラは台帳を見つめたまま、言葉を返さない。
ただ、トランクの底から伝わる微かな振動が、彼女の体内の竜の血を静かに沸き立たせていくのを感じていた。
「おやおや、これは実に見事な遺失物ですね。まさかこのような掃き溜めに、それほど貴重な年代測定不能の骨董品が眠っていようとは」
静寂を破るように、通路の奥から男の声が響いた。
足音もなく、いつの間にかそこに立っていたのは、仕立ての良い黒いスーツを纏った男だった。
ウル=シンソコ。
眼鏡の奥で冷徹な光を放つその瞳は、フィオラの手元にあるトランクを正確に捉えている。
180センチの長躯を優雅に揺らし、丁寧な口調でありながら、その声には隠しようのない傲慢さと、他者を見下す選民思想が毒のように混ざり合っていた。
彼は無駄のない陸上選手のようなフォームで、ゆっくりとフィオラとの距離を詰めてくる。
その全身から放たれる禍々しい霊気の揺らぎは、彼が既に普通の人間ではなく、吸血鬼の因子を取り込んだ異形のものであることを示していた。
「不法侵入でーす! そこの眼鏡男、勝手に入ってきて何ブツブツ言ってるんですかー?」
倉庫の天井近く、頑丈な鉄骨の梁の上から、軽い身のこなしで影が舞い降りた。
金髪をポニーテールに結び、体にフィットした青い忍者服を纏ったレティチュ=ド=エーロが、着地の衝撃を完全に殺して床に立つ。
彼女は緑色の瞳を鋭く尖らせ、すでに両手の指の間にクナイを挟み込んでいた。
普段のいたずら好きな表情は消え、侵入者に対する忍者としての警戒心がその全身に漲っている。
「ちょっと、レティチュ、急に飛び降りたら埃が舞うじゃない。……それにしても、相変わらず嫌な気配を隠さない男ね」
通路の陰から、ゴシック調の白いブラウスと黒のタイトミニスカートを揺らしながら、東雲波澄が姿を現した。
流れるようなポニーテールを揺らし、真面目な委員長のような佇まいを見せながらも、その指先には既に数枚の式神の符が握られている。
波澄の茶色い瞳はウルを射抜くように見つめ、その霊波動の網を周囲に張り巡らせていた。
男の視線を集めるような際どい服装を好む彼女だが、今はその色気を完全に戦闘の気配へと昇華させている。
「ふん、相変わらず耳障りな笑い方をする男だ。その眼鏡をもう一度叩き割られたいのか?」
さらに奥から、漆黒の翼を大きく羽ばたかせながら、ブラックヴァルキリー・カーラが歩み寄ってきた。
ゴールドのアクセントが効いた黒いアーマーが、倉庫の薄暗い魔導灯の光を反射して鈍く光る。
銀白の髪を乱暴に払いながら、彼女はウルを鼻で笑い、手にした槍の石突きを床に叩きつけた。
下界の食べ物に釣られてこの街に居着いている彼女だが、かつて魂を導いた戦乙女としての闘争本能は、ウルの持つ異常な気配を敏感に察知していた。
ウルは彼女たちの包囲網を前にしても、眉一つ動かさなかった。
むしろ、その薄い唇の端を吊り上げ、眼鏡の位置を指先で直す。

「貴公らの気配など、闇に紛れること能わず。私には最初から全て見えておりますよ。……フィオラ=アマオカミ、君がそのトランクを開けるというのなら、その中身、私が有効に活用して差し上げましょう。二百億年前の遺物……世界を支配する野望の礎には、これ以上ない素材だ」
「わたしの物を、あなたがどうこう言う筋合いはないわ」
フィオラはゆっくりと立ち上がった。
普段のだらけた様子は消え去り、その赤い瞳に黒竜としての圧倒的な威圧感が宿る。
体重250キロを超える彼女の肉体が、床のコンクリートを微かに軋ませた。
量子の世界を操る彼女の霊力が、倉庫内の空気を物理的に歪め始める。
二百億年前のトランクを巡り、薄暗い倉庫の空気は、一触即発の極限状態へと達した。
ウルが不敵な笑みを浮かべ、その白磁のような手をトランクへと伸ばそうと踏み出す。
レティチュのクナイが風を切り、波澄の符が青い火花を散らした。
最新エピソード
たわわに実った枇杷の葉が、濡れた風に揺れて窓ガラスを叩く。
東雲波澄は、ギャラリー「黒竜」の奥にある作業机で、古い和紙の束を整理していた。指先についた糊の香りと、古い墨の匂いが、
空を覆っていた重苦しい黒い霧が、ゆっくりと裂けていく。
雲の切れ間から差し込んだ一条の光が、泥に汚れた石畳を白く照らし出した。
「終わった、のか……?」
誰かの掠れた声が
窓の外の雨音が、いつの間にか天井を叩く低い重奏となって店内に満ちていた。
東雲波澄は、冷えた指先を新しく淹れ直された緑茶の湯呑みで温めながら、遠い日を見つめるように視線を落とした。細い
窓ガラスを打つ雨脚は、衰える兆しを見せない。
ギャラリー「黒竜」の天井からぶら下がった真鍮のランプが、湿気を含んだ風に小さく揺れ、床の古い絨毯に輪郭のぼやけた影を落としていた。
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