説明
十年ぶりに故郷へ帰った美咲を待っていたのは、危篤の母と、奇妙なほど親切な村人たち。
「お帰りなさい、神子様」
彼らはなぜ私を待っていた? 母が二十年間隠し続けた「秘密」とは?
逃げ場のない山村で、少女は自分の「運命」と対峙する。
——この村から、誰も出られない。
エピソード1
金曜日の夜。残業を終えた私が雑居ビルの狭い階段を上り、自分の巣と呼ぶにはあまりに無機質なワンルームのドアを開けると、澱んだ空気がぬるりと肌を撫でた。コンビニで買った味噌味のカップ麺にポットの湯を注ぎ、三分という永遠にも似た時間を待つ間、私はただぼんやりとテレビのバラエティ番組を眺めていた。派手なテロップと大げさな笑い声が、この部屋の静寂を埋めてくれる唯一の存在だった。
桐生美咲、二十八歳、独身。中堅企業の事務職。それが私の世界の全てだ。十八歳で故郷を捨ててから十年。私はこの無味乾燥な日常を、まるで自分を守るための盾のように大切に育ててきた。積み上げた書類の山、決まった時間に鳴るアラーム、金曜の夜のカップ麺。そのすべてが、私が「普通」であることの証明だった。
けたたましい電子音が、テレビの音を突き破って鼓膜を揺さぶった。ローテーブルの上で、私のスマートフォンが振動している。画面に表示されたのは、見慣れない市外局番から始まる固定電話の番号。営業の電話だろうか。無視しようか一瞬迷ったが、何故か胸の内で小さな棘がちりりと痛んだ。私はのろのろと手を伸ばし、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし」
『……桐生美咲さんのお宅でしょうか』
電話の向こうから聞こえてきたのは、古びた寺の柱を思わせる、低く、乾いた男の声だった。背景には、まるで風が木々を揺らすような、あるいは遠くで何かが燃えているような、微かな雑音が混じっている。
「はい、そうですが」
『わたくし、あなたの故郷の村で神主を務めております、大宮と申します』
神主。その単語を聞いた瞬間、私の胃は氷の塊を飲み込んだように収縮した。故郷。忘却の彼方に沈めたはずの二文字が、耳の奥で不気味に反響する。
『お母様が、ご危篤です』
声には何の感情も乗っていなかった。それは悲報というより、むしろ長年待った儀式の開始を告げるかのような、淡々とした響きだった。
『できるだけ早く、お戻りください』
私は何も答えられなかった。唇が乾いて張り付き、ただ喘ぐような呼吸だけが漏れる。男は私の返事を待つでもなく、一方的に用件を告げると、ぶつりと通話を切った。ツー、ツー、という無機質な切断音が、今起きた出来事が現実であることを冷たく突きつけてくる。三分経ったことを告げるカップ麺の蓋が、ぱかりと虚しく開いた。湯気を立てる麺を前に、私の食欲は完全に消え失せていた。
電話を切った後、私はどれくらいの時間、同じ姿勢で固まっていたのだろう。窓の外はとっくに闇に沈み、向かいのマンションの窓明かりが、まるで無数の監視の目のようにこちらを覗いている。十年。もう十年も、あの村には帰っていない。高校を卒業すると同時に、大学進学を口実にして、私は故郷から逃げ出した。東京での生活が始まってからも、年に一度か二度、母は私に会いに来てくれた。手作りの煮物や漬物を詰めた重箱を手に、私の狭いアパートを訪れる母は、しかし一度として「帰ってこい」とは言わなかった。私も、なぜ帰ってはいけないのか、あるいは帰りたくないのか、その理由を尋ねることはなかった。
それは、私と母の間に存在する、暗黙の了解であり、決して触れてはならない禁忌だった。私たちは二人とも知っていたのだ。桐生美咲は、あの村にいてはならない存在なのだと。なぜかはわからない。ただ、あの村の名を思い浮かべるだけで、胸の奥底から得体の知れない恐怖が這い上がってくる。それは特定の記憶に結びついた恐怖ではなかった。もっと曖昧で、根源的で、まるで生まれつき魂に刻み込まれた染みのような、どうしようもない恐怖だった。
私は壁を築いたのだ。故郷の記憶を閉じ込めるための、分厚い壁を。日々の仕事、都会の喧騒、意味のない人間関係。それら全てが、壁を塗り固めるためのセメントだった。時折、仕事中にふと手が止まり、自分が今何をしていたのか忘れてしまうことがある。ほんの数秒の空白。すぐに我に返るものの、その一瞬、全く別の場所にいるような奇妙な感覚に襲われる。医者には過労だと言われた。私もそう思っていた。だが、今ならわかる。あれは壁に生じた亀裂だったのだ。封じ込めたはずの何かが、外へ滲み出そうとしていた兆候だった。
母が危篤。その言葉が、私の築き上げた壁に巨大な鉄槌を振り下ろした。帰らなければならない。どんなに怖くても、母の最期に立ち会わないという選択肢は、私にはなかった。それは十年分の親不孝に対する贖罪なのか、それとも、この息苦しい日常から逃れるための無意識の口実なのか。自分でもわからなかった。
その夜、私は悪夢を見た。
夢の中の私は八歳だった。糊の効いた真っ白な浴衣を着て、大勢の人々に取り囲まれている。ぱちぱちと音を立てて燃え盛る篝火の赤い光が、周囲の大人たちの無表情な顔を不気味に照らし出していた。誰かが歌っている。それは村の祭りで歌われる古謡のはずなのに、旋律は歪み、歌詞は意味をなさず、ただただ不安を煽る呪詛のように聞こえた。私は人々の輪の中心で、なすすべもなく立ち尽くしている。
そして、私は「それ」を見た。
山の上から、巨大な影がゆっくりと降りてくる。人型をしているが、異常に手足が長く、まるで蜘蛛のようにも見えた。何より恐ろしいのは、その影に顔がないことだった。のっぺりとした暗闇があるべき場所には、ただ虚無が広がっているだけだ。影は私の真上まで来ると、ぴたりと動きを止めた。そして、影が口を開いた。声は、無数の人間の声が混じり合ったような、不快な囁きの集合体だった。それは私の脳に直接響き渡った。
『カエッテ……キタノカ……ミサキ……』
『ワレワレハ……オマエヲ……ズット……マッテイタ……』
全身を突き抜ける絶叫と共に、私は現実の世界に引き戻された。心臓が暴れ狂い、全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れている。荒い息を整えようと喘ぎながら、私は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。画面の光が目に痛い。そこに表示されていた時刻は、午前三時三十三分。悪魔の数字とでも言うべきその時刻が、ただの悪夢ではないと告げているようだった。
翌朝、私はほとんど眠れないままベッドから這い出し、震える指でスマートフォンの画面を操作した。故郷の村へ向かう新幹線の指定席を予約する。私は自分に言い聞かせた。これはただの帰省だ。病気の母を見舞うための一時的なもの。数日滞在したら、すぐにこの息苦しい東京に戻ってくる。そう、何も変わらない。私はこれからも「普通」の桐生美咲であり続けるのだ。
荷造りをしながら、ふと、スマートフォンの写真フォルダを開いた。仕事の付き合いで撮ったつまらない写真や、食べ物の記録が並ぶ中を、私は無心でスクロールし続ける。そして、一番最後まで辿り着いた。そこには一枚だけ、ひどく色褪せた古い写真のデータが保存されていた。
それは、八歳の私と母が、村の入り口にある大きな鳥居の前で撮ったものだった。写真の中の私は、幼い子供らしく歯を見せて笑っている。だが、その目は笑っていなかった。ガラス玉のように光を反射するだけで、何の感情も映していない。空っぽの瞳。私はこの写真がいつ撮られたものなのか、まったく覚えていなかった。母がいつ私の携帯にこれを入れたのかも、記憶にない。
もっと奇妙なことがあった。
写真の中の私の影。夏の日差しを背に受けているはずなのに、その影はまるで夕暮れ時のように、ありえないほど長く、歪に引き伸ばされていたのだ。それは地面に縫い付けられた黒い人型の染みのように見えた。私はスマートフォンの画面に映るその異常な影を、まるで何かに取り憑かれたように、じっと見つめ続けた。
最新エピソード
あれから、二十五年という歳月が流れた。
人の尺度で言えば、それは世代が一つ入れ替わるのに十分な時間だ。だが、私にとって、それは瞬きほどの意味も持たない。時間の流
その最初の光が祭壇を照らし出した時、白い祭祀服を纏った女が、まるで糸に引かれる人形のように、ゆっくりと立ち上がった。
その顔立ちは、紛れもなく桐生美咲のものだっ
意識は、闇の中に浮かんでいた。
もはや自分の体は感じられない。手足の感覚も、心臓の鼓動も、何もかもが遠い。ただ、思考だけが、最後の残滓のように虚空を漂っている。
祭典の夜が来た。
私は意思のない人形のように、村の女たちにされるがままになっていた。埃っぽい蔵から出された、古びた真っ白な着物を着せられ、長く伸ばしっぱなしだ







