Synopsis
不登校からのカムバックの仕方!
Chapter1
陽光が、ヴァーレンス公爵邸の広いリビングに、蜂蜜のような色の帯を落としている。
窓の外では、火明星(ほあかりぼし)特有の柔らかな風が、庭園の木々を揺らしていた。平和な午後。だが、テーブルを挟んで座る少年の表情は、その陽気さとは裏腹に、どこか重く沈んでいる。
ラルス=ローゼンベルグは、目の前に置かれた温かいハーブティーの湯気を、ただ黙って見つめていた。その視線は、カップの縁をなぞるばかりで、一口もつけようとしない。
「……父様。相談があるんだ」
小さな声。それは、部屋の隅で魔導書をめくっていた父に向けられた。
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ公爵。二十代の輝きをそのまま凍結させたような容貌の男は、息子の呼びかけに、しおりを挟んで顔を上げた。青い瞳が、わずかな陰りを帯びたラルスを捉える。
「ほう。ラルスから相談とは珍しい。新しい魔法の術理か、それとも将来の身の振り方かな? わたしの蔵書を全部譲ってもいいが、それには少しばかり腕力が足りないかもしれないな」
「そうじゃないよ。友達のことなんだ。コウ=フトウくんっていう子がいて……」
ラルスの声が、さらに一段低くなる。
「彼、もう一ヶ月も学校に来ていないんだ。不登校……っていうのかな。でも、本当は行きたいと思っている。昨日の夜、彼の家の前を通ったら、制服を抱えて泣いているのが見えたんだ。怖くて、足が動かないんだって。周りの目が、言葉が、全部自分を突き刺す針に見えるって……」
語るうちに、ラルスの指先がカップの表面を小さく叩いた。規則性のない、焦燥の音。
「僕、何て声をかけたらいいか分からなくて。行こうよって言うのは簡単だけど、彼にとっては、それが一番残酷な言葉になるかもしれないし」
ミハエルは、組んでいた脚を解き、静かに立ち上がった。黒いコートの裾が、音もなく空気をなぞる。彼は窓際まで歩き、遠くの街並みを眺めながら、思索の海に沈んだ。
「なるほど。魂が、場所との調律を拒んでいるわけだ。ヴァーレンスでは、魂は通貨であり、生命そのもの。その一部が恐怖によって委縮しているとなれば、言葉の栄養剤だけでは足りないだろうね」
その時、部屋の扉が乱暴に開いた。
「おい、ミハエル! 冷蔵庫の高級プリンを食べたのはお前か!? わたしの聖域を侵すとは、いい度胸だな!」
現れたのは、漆黒の翼を背負った女性、ブラックヴァルキリー・カーラだ。手には空の容器を握りしめ、黄金の瞳に憤怒を宿している。その後ろからは、黄緑色の髪をなびかせた精霊シルフィードが、ひらひらと舞い込むように続いた。
「ちょっとカーラ、それは後でいいじゃん。それよりラルスくんの話、面白そうだよ?」
「面白くはないよ、シルフィード。深刻なんだ」
ラルスが苦笑いを見せる。カーラは憤慨していたが、部屋に漂う重苦しい空気とラルスの横顔を見て、鼻を鳴らしながら腰を下ろした。
「ふん。学校か。人間の子供が群れて、無意味な序列を確認し合う場所だな。あんなところ、行かなくてもいいだろうに。魂を導く仕事に比べれば、ただの苦行だ」
「でもカーラ、あの不登校の子は、行きたいって言ってるんでしょ? だったら助けてあげるのがヴァルキリーの……あ、今は元、だっけ?」
シルフィードが意地悪く笑うと、カーラは槍の代わりにフォークを振り回した。
「元でもなんでも、守護者の端くれだ。だがな、心の壁は外側から壊せば、家そのものが崩れる。本人が扉を開けない限り、どうしようもない」
その言葉に、ラルスはますます肩を落とす。
沈黙がリビングを支配しようとしたその瞬間。
ミハエルが、くるりと振り向いた。その顔には、彼が何か突拍子もないことを思いついた時に特有の、悪戯っぽい光が宿っている。
「名案がある。ラルス、そのコウ=フトウくんに伝えてきなさい。――初日だけ、わたしが行ってやる、とな」
ラルスは目を丸くした。
「……はい? 父様が行くって、公爵様が学校の教室に座るの? 目立ちすぎるし、そもそも年齢制限で捕まるよ」
「いやいや、物理的に行くわけではない。ポゼッション(憑依)だよ。わたしの魂の一部を、彼の意識の奥底に滑り込ませる。身体の主導権は彼にありつつも、対外的なやり取りや『恐怖への耐性』だけを、わたしが代行するのさ」
ミハエルは自らの胸を指さし、芝居がかった仕草で続ける。
「彼が『怖い』と感じるその瞬間、わたしの精神が盾となり、盾の後ろから適切な言葉を投げかける。いわば、最強の外骨格ならぬ、最強の内骨格を彼に貸し与えるわけだ。どうだい? クリエイティブだろう?」
「えー……。逆に怖いんだけど、それ。父様が憑依した状態で、彼が変なこと口走ったりしない?」
ラルスの顔が引きつる。想像してしまったのだ。内気な友人が、突然「わたしが公爵だ。ひれ伏せ」などと教室で宣う姿を。
カーラが噴き出した。
「ハッ! 傑作だな! ミハエル、貴様の傲慢さが憑依したら、そのガキは一日でクラスを支配するか、あるいは精神病院送りだぞ」
「失敬な。わたしはTPOをわきまえる男だ。あくまで『ちょっと自信に満ちた、爽やかな少年』を演じてみせるさ。何しろ、わたしは子どもの頃から演技派でね。クラスメイトの失態を庇うために、自分のズボンを濡らしたことだってあるんだ」
「その話、もう何回も聞いたよ……」
ラルスは溜息をついたが、同時に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
父の提案は、いつだって常識の外側にある。だが、その非常識さが、時に閉ざされた扉を抉じ開ける鍵になることも、彼は知っていた。
「シルはどう思う? 精霊の目から見て、魂の憑依なんて……大丈夫なのかな」
シルフィードは空中で一回転し、ミハエルの周囲を漂う霊波動を観察した。
「んー、ミハエルなら精密機械みたいに制御できるだろうけど。でも、憑依される側には結構な負担だよ? 魂の波長が合わないと、一日中船酔いしてるみたいになっちゃう」
「そこは呪禁道の出番だ」
ミハエルが指を鳴らす。
「不快感の禁止。拒絶反応の消去。わたしの霊波動を、彼の魂の質感に合わせて調整する。まるで、使い込んだ毛布のように、彼の心に馴染ませてみせよう」
ミハエルは、ラルスの隣に座り、その細い肩に手を置いた。
「ラルス。君が友達を想う気持ちは、とても純粋で、貴いものだ。だが、優しさだけでは救えない領域がある。崖っぷちで震えている人間には、温かい言葉よりも、崖から引きずり戻すための頑丈なロープが必要なんだ。今回、そのロープはわたしの魂になる」
ラルスの瞳に、父の青い輝きが映る。
確かに、コウ=フトウくんは震えていた。一歩を踏み出せば、壊れてしまうのではないか。そう思わせるほど、彼の魂は薄氷のように脆くなっていた。
「……わかった。彼に聞いてみる。父様という、ちょっと変で、でも絶対的な用心棒を心の中に飼ってみないかって」
「言い方に棘があるな。だが、交渉としては合格だ」
ミハエルは満足げに頷くと、さっそくリビングの中央で魔法陣の構築を始めた。チョークの音ではなく、空気そのものを書き換えるような、不可視の筆致。
「おい、待てミハエル」
カーラが立ち上がる。
「その『ロープ』、わたしも少し補強してやろう。槍の力は貸せんが、戦乙女の加護……『勇気の残滓』くらいなら、わたしの魂からも切り分けられる」
「ほう、珍しい。プリンの恨みはどうしたんだい?」
「あれは別腹だ。後で三倍にして返してもらう。ただ……そのガキが、一歩を踏み出した後に『やっぱり自分はダメだ』なんて思わないように、少しばかりの闘志を混ぜてやるだけだ。敗北を認めるのは、戦い抜いた後でいい」
カーラはそう言って、自身の漆黒の羽根を一枚、抜き取った。羽根は彼女の手の中で黒い光の粒子へと変わり、ミハエルの魔法陣へと吸い込まれていく。
「わたしも! わたしも混ぜて! 追い風を送ってあげる。足が軽くなるように!」
シルフィードも楽しげに、指先から黄金色の風を注ぎ込む。
ラルスは、目の前で作り上げられていく「魂の贈り物」を、畏敬の念を持って見つめていた。
ヴァーレンスの公爵。元ヴァルキリー。風の精霊。
この世の理を超越した存在たちが、たった一人の、名もなき少年の「登校」のために、その魂を削り、力を尽くしている。
それは滑稽で、過剰で、そして、どうしようもなく温かい光景だった。
「……ありがとう、みんな」
ラルスの呟きは、魔法陣の起動音にかき消された。
翌朝。
コウ=フトウの家の玄関先は、深い霧に包まれていた。
冷たい空気。湿った土の匂い。遠くで鳴る、学校の予鈴を告げる鐘の音。
それらすべてが、少年にとっては死刑執行の合図に等しかった。
玄関の扉を開ける。その単純な動作のために、彼は三十分もノブを握りしめたまま、立ち尽くしていた。
胃の辺りが、氷を詰め込まれたように冷たい。呼吸が浅くなり、視界の端がチカチカと明滅する。
(行かなきゃ。でも、無理だ。みんな僕を見て笑うんだ。ああ、また来たって。一ヶ月も休んで、何食わぬ顔で席に座るなんて……)
彼の心に、暗い影が広がる。
その時。
背後から、穏やかで、だが芯の通った声が聞こえた。
「――お待たせ。約束通り、迎えに来たよ」
振り返ると、そこにはラルスが立っていた。そして、その隣には……。
黒いコートを翻し、朝日を背にして立つ、この世のものとは思えないほど美しい男。
「君がコウ=フトウくんだね」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ公爵は、優雅に一礼した。
「はじめまして。今日は、君の『影』を務めさせてもらう、しがない貴族だ。安心したまえ。君が嫌だと思えば、いつでも中止できる。だが、もし君が『向こう側』の景色を見てみたいと願うなら、わたしの手を、いや、わたしの魂を掴むといい」
コウ=フトウは、呆然としていた。
ラルスの父親だとは聞いていた。だが、この男から溢れ出す圧倒的な生命感と、包み込むような慈愛の波動は、少年の絶望を、一瞬で端の方へ押しやってしまった。
「……怖くないんですか?」
震える声で、少年は問うた。
「怖い? 何がだい? 人の視線かな? それとも失敗することかな?」
ミハエルは、少年の目の高さまで腰を落とし、その瞳をじっと覗き込んだ。
「いいかい、少年。この世界で一番恐ろしいのは、自分自身の想像力が作り出した幻影だ。君を笑う声も、君を拒む空気も、その大半は君の心が描いた幽霊に過ぎない。わたしの魂が君に入れば、その幽霊は霧散する。なぜなら、わたしの辞書には『他人の評価で自分を定義する』という項目が欠落していてね」
ミハエルが、右手を差し出す。
「さあ、始めようか。君の人生という名の舞台の、特別公演だ。主役は君、演出はわたし。観客は……まあ、適当に座っているジャガイモだと思えばいい」
コウ=フトウは、唾を飲み込んだ。
ラルスの、励ますような視線を感じる。
少年は、泥沼から這い出すような思いで、細い手を伸ばした。
ミハエルの、暖かくて大きな掌。
指先が触れ合った瞬間、衝撃が走った。
電気のような刺激ではない。それは、温かいお湯が、全身の血管に一気に流れ込んできたような、強烈な充足感。
ミハエルの身体が、わずかに発光したかと思うと、その姿が蜃気楼のように揺らぎ、少年の身体へと吸い込まれていく。
「……っ!」
コウ=フトウは、大きく目を見開いた。
背筋が、勝手に伸びる。
下を向いていた視線が、無理やりではなく、自然と前を向く。
そして、彼の内側から、自分のものではない、だが心地よい声が響いた。
(よし。調律完了だ。いい体だね、少年。少しばかり運動不足のようだが……それは、今日の帰り道にでも解決しよう)
コウ=フトウの口が、勝手に動いた。
「……不思議だ。身体が軽い。ラルス、これ……本当に、すごいよ」
その声は、いつもの弱々しいコウ=フトウのものだった。だが、語尾の響きには、今まで一度も聞いたことのないような、凛とした強さが宿っている。
ラルスは、感極まったように笑った。
「父様……本当にやっちゃった。でも、うん。今のコウくんなら、大丈夫な気がする」
「行こう」
コウ=フトウ――いや、公爵を内に宿した少年は、力強く一歩を踏み出した。
玄関のタイルを蹴る音が、朝の霧を切り裂く。
その後ろを、ラルスが、そして透明化して付き添うカーラとシルフィードが追う。
「ふん、意外と馴染んでいるな。ミハエルのヤツ、自分を殺して少年に合わせている。少しは見直してやってもいい」
カーラが腕を組みながら呟く。
「ねえねえ、見て! コウくんの足取り、スキップしそうなくらい軽いよ。わたしの追い風、効いてるでしょ?」
シルフィードがはしゃぐ。
学校への道。
いつもは永遠に続く地獄の回廊に見えたアスファルトが、今はただの、目的地へ続く道でしかない。
校門が見えてくる。
登校する生徒たちの姿。ざわめき。
コウ=フトウの心臓が、一瞬、激しく脈打った。かつての恐怖が、最後の手を伸ばして彼を現世に引き戻そうとする。
(少年。深く息を吸いなさい)
内なるミハエルの声。
(恐怖を否定しなくていい。それを、ただの『エネルギー』だと思いなさい。君を動かすための、ガソリンだ)
呪禁の力が、少年の脳内の化学反応を書き換えていく。
「恐怖」という信号が、ミハエルの手によって「高揚」へと翻訳される。
コウ=フトウは、深く、長く、息を吐いた。
そして。
彼は、自らの足で、校門を潜り抜けた。
クラスの扉の前に立った時、ラルスは祈るような気持ちで、友人の背中を見つめていた。
「コウくん……」
少年は、ドアノブを掴んだ。
以前のような、震えはない。
ガラガラ、と。
乾いた音を立てて、教室の扉が開く。
一斉に注がれる、視線の矢。
静まり返る教室。
コウ=フトウは、それらの視線を、真正面から受け止めた。
そして、内なる公爵の優雅さと、自らの勇気を混ぜ合わせ、彼は言った。
「おはよう。みんな。……久しぶり」
その言葉は、春の陽光のように、冷え切った教室の空気を、確かに溶かしていった。
廊下の隅で、不可視のまま見守っていたミハエル(の魂の残滓)は、少年の心の奥底で、静かに、そして誇らしげに微笑んでいた。
ヴァーレンスの公爵は、知っている。
どんなに強力な魔法も、どんなに高貴な魂も、最後に扉を開けるのは、その本人の、小さな、だが確かな意志であることを。
今日の授業は、始まったばかりだ。
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西日に染まるガラス窓の向こうで、下校途中の生徒たちの影が長く伸びていた。
油の跳ねる音と、香ばしい肉汁の匂いが立ち込める小さな店内。学校の敷地から角を二つ曲がった場所にあるハンバ
砂利を踏む音だけが、耳の底で妙に大きく響いていた。
靴底を通し、冷たい硬質さが足の裏へと伝わってくる。一ヶ月振りに踏みつける校門の敷居。鉄製の大きな門扉は、朝の湿気を吸ってくすんだ
陽光が、ヴァーレンス公爵邸の広いリビングに、蜂蜜のような色の帯を落としている。
窓の外では、火明星(ほあかりぼし)特有の柔らかな風が、庭園の木々を揺らしていた。平和な午後。だが、テ







