Synopsis
ギャラリー黒竜の日常風景からオークション、地底都市探検へと部隊は移る。
Chapter1
厚いベルベットのソファに身を沈め、フィオラ=アマオカミは、ただ重力に身を任せていた。
窓から差し込む午後の陽光が、宙を舞う微細な塵を金色の粒子に変えている。その光の帯を、彼女は半分閉じた瞼の隙間から、ただ目的もなく眺めていた。竜の因子を宿した身体は、人間としての形を保っていてもなお、その本質的な質量を隠しきれない。床に投げ出された黒い竜の尻尾が、時折、思い出したように床を叩く。低く重い音が、静まり返ったギャラリーの空気をかすかに震わせた。
「暇ねぇ……」
その声は、熱せられた蜂蜜のように甘く、そして粘りついていた。言葉というよりは、肺に溜まった退屈を吐き出した溜息に近い。
このヴァーレンス王国において、フィオラほどの力を持つ存在にとって、平和とは時として毒にも等しい停滞をもたらす。星の一つや二つ、その気になれば塵に帰すことさえ造作もない出力。
だが、そんな絶対的な暴力は、絵画を愛で、骨董を慈しむこの静謐な空間においては、何の役にも立たない。むしろ、繊細な陶磁器の隣で、嵐を飼い慣らしているような居心地の悪ささえあった。
カチャリ、と繊細な磁器が触れ合う音がした。
音の主は月日リアナだ。彼女は、ごく普通の人間であり、この非日常的な空間において、唯一と言っていい「日常」の楔である。彼女が運んできたティーセットからは、上品なアールグレイの香りが立ち上っていた。
「フィオラさん、お茶をどうぞ」
リアナの声は、よく整えられた庭園を吹き抜ける風のように涼やかだった。彼女は、このギャラリーで働くごく普通の従業員——特殊な能力を持たない、ただの人間——たちの中心的な存在だ。フィオラがどれほど強大な存在であろうと、あるいはこの国に蠢く怪異がどれほど恐ろしかろうと、彼女はいつも通りに茶を淹れ、いつも通りに微笑む。
「……あら、ありがとう」
フィオラは上体を起こすことさえ億劫そうに、指先だけでカップを手繰り寄せた。湯気の向こう側で、リアナが小さく、くすくすと笑みを漏らす。
「何がおかしいのかしら、リアナ?」
「いえ……。フィオラ様が、まるでお気に入りの日溜まりから動こうとしない大きな猫のように見えたものですから」
「猫、ね。サリサが聞いたら、また牙を剥いて怒りそうなお話だわ」
ホワイトライガーの因子を持つあの悪友の顔を思い浮かべ、フィオラは唇の端をわずかに吊り上げた。サリサとやり合うのは、彼女にとって数少ない娯楽の一つだが、あいにくと今日はその姿も見えない。
ギャラリー内には、他にも数人の「普通」の人々が働いている。近所の主婦であったり、定年を過ぎた元教師であったり。彼らは、この場所が神獣やヴァルキリー、忍者が集う魔窟であることも知らず、あるいは知っていてもなお、日々の生活のために丁寧に床を磨き、目録を整理している。
フィオラは、彼らの営みをどこか遠い国の出来事のように眺めていた。自分たちのような超越者には決して手が届かない、ささやかで、それでいて強固な「生」のリアリティ。
「今日は、伊藤あぽぽーも来ないわね。あの不愉快な太った鑑定士の顔でさえ、この退屈を紛らわせる種になるなら、少しはマシだったのだけれど」
あぽぽーの、あの自信に満ちた、それでいて審美眼の欠片もない物言い。それを適当にあしらって、最後に贋作を高値で掴ませる時の愉悦。それすらも、今のフィオラにとっては枯渇していた。
視線を転じると、ギャラリーの壁際に、一人の女性が立っていた。
漆黒の翼を背負い、銀白色の髪を揺らす戦乙女。ブラックヴァルキリー・カーラだ。彼女は、一枚の宗教画を前に、石像のように動かずにいた。
カーラは、かつて魂を導くという重責を負っていたが、今ではこの下界の喧騒と、何より美味な食べ物に毒されている。彼女の周囲には、ヴァルキリー特有の峻厳な空気が漂っているが、その目は熱心に絵画の色使いを追っていた。彼女にとって、芸術鑑賞は魂の休息であり、同時に「時間を有効に使っている」という自分自身への言い訳でもある。
ふと視線を上げれば、そこには天井の梁に逆さまに張り付いている影があった。
「…………」
レティチュ=ド=エーロ。エルフの忍者。
彼女は、まるで重力を無視することが呼吸と同じくらい自然であるかのように、天井からこの部屋を見下ろしている。金色のポニーテールが床に向かって垂れ下がり、悪戯っぽい緑色の瞳が、部屋の中の動きを敏感に察知していた。
彼女たち二人は、フィオラの呟きに反応を示さなかった。
カーラは芸術の深淵に潜り込み、レティチュは忍びとしての平穏(あるいは次なる悪戯の予兆)に浸っている。
「ねぇ、リアナ。あなたはどう思う?」
フィオラは、再びソファに身体を預け、天井を仰ぎ見た。
「はい、何でしょうか」
「このままここで、誰かが来るのを待っているのは、まるで化石になるのを待っているみたいだわ。美しさは永遠だけれど、私の心はそこまで硬質な石じゃないの」
リアナは、空になったティーカップをトレイに乗せ、少しだけ小首を傾げた。
「では、何か新しい『刺激』を探しに行かれますか?」
「ええ。そうね……。ちょうどいい口実が必要だわ」
フィオラは、窓の外に広がるヴァーレンスの街並みに思いを馳せた。貨幣制度が形骸化し、人々が己の「魂の欠片」を対価として支払う、この奇妙で平和な国。
「ちょっとオークションに行って、めぼしいものでも落札しましょうか」
その言葉がフィオラの唇からこぼれた瞬間、ギャラリーの空気がわずかに変わった。
天井のレティチュの耳が、ぴくりと動いた。
絵画を凝視していたカーラの肩が、かすかに震えた。
「オークション……。いい響きですねぇ、フィオラさん! 隠れた名品、埋もれた術具、それとも……美味しいお菓子が出てくる可能性もありまーす!」
レティチュが、天井から音もなく舞い降りた。着地の衝撃は一切なく、彼女のブーツはまるで絹を撫でるように床に触れた。彼女の声は、蜜を塗ったように甘く、それでいてエネルギッシュな響きを帯びている。
「フィオラ、それは名案だ」
カーラもまた、絵画から視線を外し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。彼女の漆黒の翼が、決意を示すように一度、力強く羽ばたく。
「魂の価値を知る者が集う場所。そこには、ただの金銭では測れない、真に重みのある何かが集まるはず。……それに、オークション会場の近くには、評判の甘味処があると聞いている」
「最後のが本音かしら?」
フィオラは苦笑しながら、ようやくソファから身を起こした。
立ち上がると、彼女の圧倒的な存在感が部屋を満たす。ルビー色のドレスが、しなやかな身体の線を強調し、スリットからは、竜の生命力を宿した長い脚がのぞいた。
「リアナ、準備をしてちょうだい。ギャラリーの留守は、いつものおじさんたちに任せればいいわ。私たちは、少しばかり『魂の遣い方』を学びに行きましょう」
「畏まりました。オークションの目録、すぐに手配いたしますね」
リアナは、この突然の決定にも動じることなく、丁寧に一礼して部屋を出て行った。その足取りは軽やかで、どこか楽しげでさえある。彼女にとっても、主人である黒竜が退屈に押し潰されているよりは、外で派手に立ち回ってくれる方が、安心できるのかもしれない。
フィオラは、ギャラリーの棚に置かれた一つの宝石箱に手を触れた。中には、彼女がこれまでに集めてきた、眩いばかりの記憶と価値が詰まっている。
ヴァーレンスにおける支払いは、魂だ。
清らかな心、あるいは強固な意志。それらが輝きとなって、物の価値と交換される。
「さて……。私の魂を切り売りするのは癪だけれど、退屈という名の死を待つよりはマシね」
彼女の赤い瞳に、ようやく生気という名の炎が宿った。
「レティチュ、カーラ。あなたたちも付いてきなさい。私の審美眼に適うものを見つける手伝い……いえ、ただの荷物持ちでもいいわよ?」
「えーっ、荷物持ちは忍者の仕事じゃなーいですよぅ! でも、面白そうだから付いていきまーす!」
レティチュは、早くも期待に胸を膨らませて、腰の忍刀を確かめるような仕草をした。彼女にとって、オークションは一つの「戦場」であり、同時に「遊び場」なのだろう。
「ふん……。おまえの審美眼が曇っていないか、わたしが見定めてやる」
カーラは慇懃無礼な態度を崩さないが、その黄金の目は、既に未知の芸術品(あるいは菓子)への期待に輝いている。
フィオラは、ギャラリーの大きな鏡の前に立ち、自らの姿を映した。
整った容姿、不敵な笑み、そして背後に揺れる黒い尻尾。
「オークション編……。悪くないわ。ヴァーレンスの夜を、少しだけ黒く染めてあげましょう」
彼女の一歩は、重く、そして優雅だった。
退屈な午後は終わりを告げ、欲望と美学が交錯する夜の帳が、ゆっくりと降り始めていた。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
王都ヴァーレンスの中心部、歴史を感じさせる石造りの建物が並ぶ一角に、そのオークション会場はある。
『ヴァーレンス国際珍しいもの取引場』
普段は静かなその場所も、今夜は異様な熱気に包まれていた。
会場の入り口には、豪華な馬車や、魔力で駆動する流線型の車両が次々と横付けされている。降りてくるのは、豪商、没落した貴族、あるいは他国から「魂の交易」を求めてやってきた野心家たちだ。
ヴァーレンスの経済は、外から見れば理解不能な代物だろう。
魔法であらゆる物資を生み出せるこの国において、物質的な欠乏は存在しない。それでもなお、人が「物」を欲するのは、そこに込められた歴史や、作者の魂を欲するからに他ならない。
「……随分な人混みね」
フィオラは、会場のロビーに足を踏み入れ、扇子で口元を隠しながら周囲を見渡した。
彼女の姿が現れた瞬間、喧騒が波が引くように静まり、次いで低いざわめきへと変わった。
漆黒の翼を背負ったヴァルキリーと、鮮やかな青い装束に身を包んだエルフ、そして何より、この世のものとは思えない美貌と威圧感を放つフィオラ。彼女たちの組み合わせは、この場所においても異質だった。
「見て、あの女。あの尻尾……まさか、アマオカミの一族か?」
「黒竜フィオラ……。あのアートギャラリーの主か」
囁き声が風のように通り抜けていく。フィオラはそれらを心地よい音楽として聞き流し、受付へと向かった。
受付には、緊張で顔を強張らせた若い男が立っていた。フィオラがその前に立つと、彼は言葉を失い、ただ彼女の赤い瞳に見入ってしまった。
「……予約していたフィオラ=アマオカミよ。同伴者が三人」
「あ、は、はい! 伺っております。アマオカミ様、特等席をご用意しております!」
男は震える手で、黒い光沢のある招待状を確認し、彼女たちを会場内へと案内した。
リアナは、フィオラの半歩後ろを、落ち着いた足取りで付いていく。彼女の赤い瞳もまた、会場の調度品や人々の動きを冷静に観察していた。
「フィオラさん、今日の予想出品リストです」
リアナが手際よく差し出したメモに、フィオラは軽く目を通した。
「……『悠久の涙』と呼ばれる碧玉、失われた魔導帝国の残滓、そして……あら、これは」
目録の中ほどに、一枚の古びた羊皮紙の写真があった。
説明書きには、こう記されている。
『原初の旋律——創造主がこの星を形作った際に零れ落ちた、音の残響を封じた楽譜』
フィオラの指先が、その文字の上で止まった。
「ふふっ……。面白いじゃない。退屈を殺すには、これくらいの『毒』が必要だわ」
彼女の背後で、カーラが小さく鼻を鳴らした。
「原初の旋律か。ヴァルキリーの伝承にも似たような話があるが、本物なら、魂の価値も相当なものになるだろうな」
「だーいじょうぶですよぅ、カーラさん! フィオラ様なら、魂なんていくらでも持ってるはずでーす!」
レティチュが能天気に笑うが、フィオラはただ、窓の外に広がるヴァーレンスの空を見つめていた。
魂を支払う、ということは、自分の一部を差し出すということだ。
このオークションで、人々は一体何を捨て、何を得ようとするのか。
「さあ、行きましょう。今夜の主役は、私たちがいただくわ」
フィオラは、高く、そして傲慢な声を響かせ、オークション・ホールの重厚な扉を押し開いた。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
会場内は、円形劇場のような構造になっていた。中央の演壇を囲むように、幾層もの席が配置されている。
フィオラたちが案内された特等席は、会場全体を見渡せる二階のテラス席だった。
席に着くと、すぐに冷えた飲み物と小菓子が運ばれてきた。
リアナが手際よくフィオラの前にグラスを置き、彼女の髪を軽く整える。
「ありがとう、リアナ」
「いいえ。フィオラさん。私の役目ですから」
リアナの言葉に、フィオラは満足そうに目を細めた。
階下では、既にオークションが始まろうとしていた。
舞台中央に、燕尾服を着こなした初老のオークショニアが登場し、銀のハンマーを高く掲げた。
「紳士淑女の皆様! 今宵、ヴァーレンスが誇る至高の美と、魂の共鳴の場へようこそお越しくださいました!」
彼の声は、魔法的な増幅を受けて、会場の隅々まで響き渡った。
「今夜出品されるのは、単なる物品ではありません。それは歴史であり、感情であり、そして皆様の魂の深淵を映し出す鏡であります。さあ、最初の品物を紹介いたしましょう!」
会場の照明が落ち、スポットライトが一つの台座を照らし出した。
そこには、淡い光を放つ小さなガラス瓶が置かれていた。
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フィオラ=アマオカミは、背中に生やした純白の翼を大きく広げ、霊気
安っぽい油の匂いと、粗悪な魔導灯の熱気が交じり合う。
『ヴァーレンス国際珍しいもの取引場』の一階、最奥に位置するD会場。ここは「梅コース」と呼ばれる、庶民や駆け出しの商







