Synopsis
日が沈む直前、夫は重厚な防音室に自らを閉じ込めようとする。愛する妻に「決して近づいてはいけない」と悲痛な声で警告する夫と、それを神妙な面持ちで聞いている妻。太陽が沈み、扉の向こうから地響きのような唸り声が響き渡り、均衡が破られる。
Chapter1
日の名残が、死にゆく者の流血のようにリビングを浸していた。
窓の外では、街を縁取る稜線が深い紫へと沈み、空には濁った朱色がわだかまっている。この時刻、光がその輪郭を失い、影が物質のような質量を持ち始める「逢魔が時」こそ、暁人が最も恐れ、そして志乃が最も渇望する瞬間の始まりだった。
重厚な鋼鉄の扉。
地下へと続く、あるいは異界を封じるためのその隔壁の前に、暁人は立っていた。武道家として鍛え上げられたその背中は、今はただ、逃れられぬ宿命に打ちひしがれた囚人のように丸められている。
「志乃。……もう、時間だ」
振り返った暁人の声は、喉の奥で小石が擦れるような乾いた響きを帯びていた。
その瞳は、日没の残光を反射して、わずかに金色の光彩を混ぜ始めている。人間としての理性が、その薄氷のような表面からひび割れ、内側に潜む「何か」に場所を譲ろうとしている証拠だ。
「今夜も、行くのですね」
志乃は、できる限り声音から湿り気を抜き、夫の悲劇に寄り添う貞淑な妻の貌(かお)を貼り付けた。
彼女の手は、暁人の逞しい腕にそっと添えられる。法医学者として数多の「静止した肉体」に触れてきた指先は、今、暁人の肌の下で暴風のように荒れ狂う生命の胎動を、敏感に感じ取っていた。
「すまない。代われるものなら、この呪いを引き受けてやりたいが……」
暁人の大きな手が、志乃の頬を包み込む。
その指先。爪の付け根から、人間のものとは思えぬ硬質な毛が、皮膚を突き破って芽吹いている。
暁人はそれを、愛する者を傷つける「凶器」への変貌だと信じて疑わない。彼は志乃を傷つけまいと、痛切なまでの自己犠牲の精神で、自らをこの鋼鉄の檻に閉じ込めようとしているのだ。
「いいえ。あなたは何も悪くありません、暁人さん」
志乃は目を伏せる。
彼女の視線は、夫の苦悶に満ちた表情ではなく、その袖口から覗く手首の「変異」に釘付けになっていた。
毛穴の一つ一つが隆起し、白銀の剛毛が、あたかも意思を持つ植物の蔓のように増殖していく。それは死体のような静寂を愛する志乃にとって、この世で唯一、生理的な嫌悪を通り越した「聖域」に見えた。
「志乃、約束してくれ。……何があっても、明日の朝までこの扉を開けてはいけない。中で私が、どんなに醜い声で鳴こうと、どんなにこの扉を壊そうとしようと。……いいか、決してだ」
暁人の声が、次第に低く、獣の唸りに似た周波数を帯び始める。
彼は武道家としての全人格を懸けて、自らの中の獣を否定していた。己を失うことへの恐怖。愛する妻にその無惨な姿を見せることへの屈辱。それらが彼を突き動かし、殉教者のような悲壮な決意をさせている。
暁人にとって、これは世界で最も不幸な悲劇であった。
だが、志乃にとっては――。
「ええ。あなたの誇りは、私が守ります」
志乃の言葉は、暁人の耳には「献身的な愛」として届いたに違いない。
彼は満足げに、しかし絶望の色を隠せないまま、最後の一瞥を志乃に投げた。そして、自ら死地へ赴く戦士のような足取りで、防音室の中へと消えていく。
ガチャン。ガチャン。ガチャン。
三重の電子ロックが、無機質な拒絶の音を響かせる。
厚さ十センチを超える鋼鉄の扉が、完全に閉じられた。
志乃は、その扉の前に立ち尽くした。
リビングの照明を消すと、闇の中に防音室のインジケーターの赤い光だけが浮かび上がる。
静寂。
いや、防音室の向こう側から、微かに、しかし確実に聞こえてくる。
骨が軋み、筋肉が異常な膨張を遂げ、皮膚が裂けて新たな「外装」に覆われていく、あの甘美な破壊の音が。
「……ああ」
志乃の口唇から、吐息が漏れた。
彼女は、自身のゆったりとしたブラウスの袖口に手をやった。
そこには、暁人には決して見せていない「準備」が隠されている。
滑り落ちてきたのは、プロのトリマーが愛用する、極細の針が密集した最高級の犬用スリッカーブラシ。そして、もう片方の手には、高濃度の静電気防止スプレー。
志乃は、扉の冷たい金属面に額を押し当てた。
暁人は今、あの中で理性の消滅を嘆き、獣の衝動に悶え苦しんでいるだろう。
武道家としての高潔な魂が、獣の荒々しい本能に食い散らされるその過程。それこそが、志乃にとっては、どんな精密な解剖図よりも美しく、生命の本質を射抜く光景だった。
暁人は、自分が「化け物」になったと思い込んでいる。
しかし志乃にとって、今の彼は、人間という不完全で脆い殻を脱ぎ捨て、至高の毛並みを纏った「完成体」へと至る途上にあった。
「もう少し、待っていてくださいね」
志乃は暗闇の中で、愛おしそうにスリッカーブラシの針を指先でなぞった。
金属の鋭い刺激が、彼女の皮膚に心地よい痛みを刻む。
夫が人間を辞め、ただの「愛護対象」へと成り果てる夜が、今、始まったばかりだった。
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カーテンの隙間から差し込む朝の光は、あまりにも白く、暴力的だった。
暁人は、珈琲カップを口に運ぶその些細な動作にさえ、形容しがたい違和感を覚えていた
暁人の視界が、不自然なほどに明滅を繰り返していた。
網膜に焼き付いていた、志乃の悦びに満ちた貌。それが朝の光にさらされ、無慈悲に輪郭を失っていく。
同時に、彼の身体の
地下室の空気は、もはや酸素よりも密度の高い、生命の余熱で満たされていた。
換気扇の回る微かな低音さえも、二人の鼓動にかき消されている。
志乃の膝
地下室の空気は、すでに夫の放つ獣の熱と、先刻までのブラッシングによって舞い散った微細な毛の粒子で飽和していた。
志乃は、白銀の海に沈んでいた顔をゆっくりと上げる。上気







