Synopsis
とある平和な村を立て続けに襲った怪事件。その魔の手はただ一人の親友へと伸びる。友の危機を救うため、男は立ち上がる。
ナビゲーター企画 #22:「人狼」応募作品です。
今日のテーマ: 「ナビゲーター企画」 月影 ナビゲーター企画 #22:「人狼」月影の下に牙を剥くのは、いったい誰か
Chapter1
第一章:静寂を裂く欠損
澄み渡る冬の空気を切り裂くように、斧が乾いた音を立てて薪に食い込む。レオンは振り下ろした腕の鈍い痺れを感じながら、割れた木片を脇に積み上げた。静寂。針葉樹の樹脂の匂いと凍てついた土の匂い、そして暖炉から立ち上る煙の香りが混じり合った、冬の森辺の村に特有の清廉な空気が満ちている。だが、その調和を乱す不純物が、彼の鼻腔の奥を執拗に刺激していた。
甘い。あまりにも甘ったるく、腐り落ちた果実を思わせるその匂いは、生命が活動を終えた後に放つ最後の残り香だった。それは冬の冷気の中では決して混じり合うことのない、異質で不快な死の匂い。彼の鋭敏すぎる嗅覚は、この匂いが村を囲む境界線の、その僅か外側から漂ってきていることを正確に捉えていた。そこで何かが「終わった」のだ。それも、自然の摂理に従った穏やかな終わりではない。無理矢リ断ち切られ、冒涜された、醜悪な終焉だった。
レオンは眉をひそめ、もう一度鼻を鳴らした。風はほとんどない。匂いはまるで底に澱んだ沼の水のように、その場に留まっている。彼は背筋を駆け上る悪寒を振り払うように、再び斧を振り上げた。知らない方がいい。関わらない方がいい。彼はこの村で、ただ静かに、目立たぬように生きることだけを望んでいた。己の中に眠る「何か」を、誰にも気づかれぬように。
しかし、彼のささやかな願いは、村の広場から聞こえてきた甲高い悲鳴によって無情にも打ち砕かれた。
斧を放り出し、音のした方へ駆けつけると、そこには既に人だかりができていた。皆、恐怖と好奇の入り混じった顔で、一点を見つめている。人々が作り出す壁の隙間から見えたものに、レオンは息を呑んだ。
雪の上に横たわっていたのは、数日前から行方不明になっていた若者、トーマスだった。だが、その姿はもはや「トーマス」と呼ぶことさえ躊躇われるほどに変わり果てていた。着衣は乱れ、凍てついた地面には黒ずんだ血が円を描いている。そして、最も村人たちを恐怖に陥れていたのは、その亡骸が抱えたおぞましい「欠損」だった。
左腕が、肩の付け根からごっそりと失われていた。切り口は獣が食いちぎったような無惨なものではなく、まるで熟練の外科医が用いる刃物で切り取られたかのように、異様なほど滑らかだった。それだけではない。開かれた胸腔からは、あるべきはずの心臓が綺麗に抉り取られていた。
「ああ、神よ…また森の悪魔の仕業だ…」
「なんて惨いことを…あいつは俺たちの仲間を喰らう気だ」
村人たちは口々に囁き、十字を切って祈りを捧げる。恐怖に歪んだ顔、顔、顔。誰もが遺体から目を逸らし、まるで呪いを避けるかのように森の方角を忌々しげに睨みつけた。彼らの目には、深い森の闇に潜む、角と牙を持つ悪魔の姿が映っているのだろう。
だが、レオンの目には違うものが見えていた。
彼は人々の輪から一歩踏み出し、遺体の傍らに屈み込んだ。村人たちのパニックに満ちた様々な体臭の奥で、彼は再びあの匂いを捉える。腐敗臭に混じって鼻を突く、薬品のつんとした刺激臭。それは自然界には存在しない、人工的な匂いだった。そして、雪の上に残された無数の靴跡の中、彼は不自然な一本の線を見つけた。まるで重い何かを引きずったかのような、真っ直ぐな跡。それは、獲物を引きずって巣に帰る獣の跡とは明らかに異なっていた。獣ならば、もっと乱雑で、複数の足跡が残るはずだ。
これは、獣の仕業ではない。
彼の内なる「野獣」が、低い唸り声と共に警告を発する。これは、より冷徹で、明確な意思を持った何者かによる犯行だ。獲物を狩るためではない。何か特定の「目的」のために、必要な「部品」を調達しただけだ。その冷え冷えとした事実に、レオンの喉の奥から獣じみた唸りが漏れそうになる。彼は奥歯を強く噛みしめ、込み上げてくる原始的な怒りと警戒心を必死に抑え込んだ。周囲の人間には悟られてはならない。この異常な感覚も、今にも喉から飛び出しそうな唸り声も、決して人間に許されるものではないのだから。
その夜、レオンは自らの小さな山小屋で、暖炉の火を見つめていた。広場で見た光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。村の長老たちは明日、森の入り口で悪魔払いの儀式を行うと決めた。だが、そんなものでは何も解決しないことを、レオンだけが知っていた。犯人は祈りや聖水など意にも介さない、人間だからだ。
冷たい恐怖が、じわりと彼の心を蝕んでいく。犯人が人間であるという事実は、獣の仕業であることよりも遥かに恐ろしかった。予測がつかない。何を考え、次に何を狙うのか、全く読めない。
その時だった。小屋の扉が、遠慮がちに、しかし切迫した様子で叩かれた。レオンが扉を開けると、そこに立っていたのは隣家に住む老女だった。彼女は息を切らし、顔を青ざめさせていた。
「レオン…大変だよ。エリックが…あんたの友達のエリックが、まだ家に帰ってこないんだ!」
その言葉は、まるで氷の杭のようにレオンの胸に突き刺さった。エリック。この村で唯一、心を許せる友人。都会から移り住んできた物好きな歴史研究家で、レオンの無口で孤立しがちな性格を気にすることなく、いつも明るく話しかけてくれる男。レオンが狼の血を引くことなど知らず、ただ「口数は少ないが、誰よりも優しい奴だ」と笑う、太陽のような友人。
血の気が引いていくのが分かった。頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。まさか。そんなはずはない。しかし、あの甘ったるい死の匂いが、再び鼻の奥で蘇る。
どうする?
自らの正体が露見する恐怖と、友を救いたいという焦燥が、彼の心の中で激しくせめぎ合う。森へ行けば、犯人と出くわすかもしれない。そうなれば、この忌まわしい力を使わざるを得なくなるだろう。村人たちに知られたら、自分は悪魔として狩られる側に回る。今まで築き上げてきたか細い平穏は、全て崩れ去る。
しかし、エリックを見殺しにできるのか?震える手で顔を覆う。脳裏に、エリックの屈託のない笑顔が浮かんで消えた。もし、彼があの若者のように、冷たい雪の上で「欠損」を抱えた亡骸になったとしたら——
その瞬間、窓から差し込む一筋の月光が、彼の拳を握った手を照らした。レオンははっと目を見開く。月光に照らされた己の爪が、僅かに、しかし確実に伸び、先端が鋭利に尖っていく感覚。指の関節が軋み、皮膚の下で筋肉が蠢く。抑えつけていた本能が、友の危機を察知して牙を剥こうとしていた。
恐怖と情動の葛藤は、もはや意味をなさなかった。選択肢など、初めから一つしかなかったのだ。
レオンは決意を固め、立ち上がった。壁に掛けてあった古い狩猟用のナイフを手に取り、腰に差す。それは気休めに過ぎない。本当の武器は、己の肉体そのものなのだから。
彼は小屋の扉を開け、一歩外へ踏み出した。冷たい夜気が肌を刺す。目の前には、黒々と口を開けた禁じられた森が広がっていた。月明かりが木々の枝を不気味な骸骨のように照らし出し、その奥からは、微かにあの腐敗臭が風に乗って運ばれてくる。それは死への誘いであり、彼が追いかけるべき唯一の道標だった。
レオンはもう一度、月を見上げた。銀色に輝く円盤は、まるで彼の決意を肯定するかのように、静かに地上を見下ろしている。彼は深く息を吸い込むと、闇の中へとその身を投じた。
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