Synopsis
「我儘令嬢」として断罪されるパーティーの最中、前世の記憶が戻る。王子から婚約破棄と言いがかりの罪状を突きつけられるが、アルベルティーナは震えるどころか、かつての凄みを利かせた「挨拶」で会場を凍りつかせた。
Chapter1
豪奢なシャンデリアの光が、床の磨き上げられた大理石に反射し、眩暈を誘う。
立ち込める香水の匂い。重なり合う、品性のない、粘ついた笑い声。
扇子の陰で囁かれる毒。
「アルベルティーナ・フォン・ヴァレット。貴様との婚約を破棄する!」
鼓膜を打つ声は、ひどく甲高い。
不快だ。頭の奥が、焼けた鉄を押し付けられたように熱い。
視界が、ぐにゃりと歪む。
エリオット王子の顔が、怒りと陶酔に歪んでいる。その背後に控える騎士たち、扇を口元に当てる令嬢たち。彼らの目は、死にかけた小動物を眺めるような、残酷な愉悦に満ちている。
――ああ、うるせえな。
その瞬間、思考の濁流が、アルベルティーナの脳髄を突き抜けた。
弾ける。
散る。
パズルのピースが、強引に組み合わさっていく。
泥水をすすり、裏切りと報復の連鎖の中で生きてきた記憶。
「龍崎怜奈」という女の、三十年の重み。
コンクリートの冷たさ。
火薬の匂い。
白刃の閃き。
そして、最後に背中を貫いた、冷たい鉄の感触。
「……ふう」
肺腑に溜まっていた熱い空気を、ゆっくりと吐き出す。
アルベルティーナ――いや、怜奈は、伏せていた睫毛を上げた。
視界が、驚くほど澄んでいる。
さっきまで自分を追い詰めていた王子の罵声は、もはや意味を持たない記号に過ぎない。
ただ、その「呼吸の浅さ」と「立ち姿の隙」だけが、冷徹な情報として頭に刻まれる。
「聞いているのか! 貴様がこれまでアルベルティーナ嬢……未来の妃という立場を利用し、どれほどの悪逆を尽くしてきたか! その罪状を……」
王子は、手元の羊皮紙を大仰に振るう。
その紙の震え。指先が、わずかに白くなっている。
虚勢だ。
怜奈は、ドレスの裾をわずかに持ち上げ、静かに一歩を踏み出した。
カツン。
ヒールの音が、静まり返った広間に響く。
ただの一歩。
しかし、その瞬間に、会場の空気が変質した。
沸き立っていた嘲笑が、音を立てて凍りつく。
周囲の騎士たちが、無意識のうちに柄に手をかけた。彼らはまだ、自分たちがなぜそうしたのかを理解していない。ただ、生存本能が「牙」を向けられたことを察知し、警告を発しているのだ。
「……ッ」
王子の声が、喉の奥で引き攣った。
怜奈は、さらに一歩。
彼女が歩むごとに、人波が割れる。モーセが海を割るのではない。猛獣の檻に投げ込まれた生贄たちが、本能的に道を開けている。
その足取りには、迷いがない。
死線を幾度も潜り抜けた者だけが持つ、独特の「間」。
呼吸を盗み、重心を殺す、完成された暴力の気配。
王子の至近距離。
あと数センチで鼻先が触れるほどの距離で、怜奈は立ち止まった。
護衛の騎士たちは動けない。彼らの視界には、彼女の華奢な指先が、いつの間にか王子の喉元を狙う刃に見えているからだ。
「おい」
低く、掠れた声。
王族に向けられるべき敬語も、令嬢としての猫なで声も、そこにはない。
ただ、冷徹な意志だけが乗った、剥き出しの言葉。
王子の瞳が、恐怖で細く収縮する。
怜奈の手が、ゆっくりと伸びた。
王子は、叫び声を上げることすら忘れ、木偶の坊のように固まっている。
彼女の指先は、王子の首筋へ。
――そして、歪んだネクタイを、慣れた手つきで直した。
裁縫は、この体の持ち主の趣味だったらしい。
指先は驚くほど器用で、生地の感覚を正確に捉える。
かつて、部下の傷口を、麻酔なしで縫い合わせた時と同じ集中力。
一分の狂いもなく、結び目を中央に据える。
「……立派なご挨拶、痛み入るよ」
至近距離で囁く。
王子は、蛇に睨まれた蛙のように、顎を小刻みに震わせている。
怜奈は、彼の襟元をパンパンと軽く叩いた。その仕草一つに、圧倒的な格の差が滲む。
「だがな、王子さん。そのツラ……身内には、とてもじゃねえが見せられねえな」
「な……な、なにを……」
「格好がつかねえって言ってんだよ。誰かを裁くなら、せめて小便くらい漏らさない覚悟で来な」
怜奈は、それ以上言葉を重ねなかった。
踵を返し、悠然と歩き出す。
その背中は、誰の助けも必要としていない、孤独で強大な王のそれだった。
会場の出口へ向かう彼女を、一人の男が遮った。
王家の筆頭執事だ。
彼は、主人の恥を雪ごうと、顔を真っ赤に染めて立ちふさがる。
「お、お待ちください! 貴女のような犯罪者を、このまま帰すわけには……っ!」
執事の罵倒が完成するよりも、怜奈の動きの方が、遥かに速かった。
彼女の手元にあった扇子が、吸い込まれるように執事の喉元へ突き出される。
ピタリ。
扇の先端が、執事の喉仏に触れるか触れないかの距離で止まる。
執事は、言葉を飲み込んだ。
もし、この扇が鋭利な鋼だったなら。
もし、彼女にその気があったなら。
今頃、自分の喉からは赤い花が咲き、床を汚していただろう。
それを、理屈ではなく「肌」で理解した執事の額から、大粒の汗が滴り落ちる。
「貸しにしておくよ」
怜奈の瞳が、薄氷のような冷たさで執事を射抜く。
「次はない。……どきな」
執事の膝が、ガクガクと音を立てて震え、崩れ落ちた。
怜奈は、その横を平然と通り過ぎる。
大きな扉が開かれ、夜の冷たい空気が流れ込んできた。
背後には、凍りついたままの社交界。
壇上で震える、無力な王子。
そして、今この瞬間、この国の「力」の天秤が、音を立てて逆転した。
アルベルティーナ・フォン・ヴァレット。
その名を持つ女は、死んだ。
代わりにここにいるのは、地獄から戻ってきた、誇り高き狼だ。
「……さて」
夜風に髪をなびかせながら、彼女は夜闇の先を見据えた。
「まずは、ケジメの付け方を教えてやるか」
馬車へと向かう足取りは、どこまでも軽く、そして重い。
残された者たちは、ただ、遠ざかるヒールの音を、呪縛のように聞き続けていた。
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断頭台の周囲を埋め尽くした怒号が、物理的な圧力となってエリオットを押し包んでいた。石畳を叩く槍の柄、剣を捨てる金属音。それらすべてが、彼が築き上げた砂の城
断頭台へと続く木造の階段が、彼女の靴音を吸い込んでは、鈍い、臓物を揺らすような音で吐き出す。
空は、不気味なほどに晴れ渡っていた。突き抜けるような青は、これから流れる血の
地下五階。光すら届かぬ「忘却の檻」は、王城の最深部で湿った獣の肺のように沈黙していた。壁から染み出す地下水が、一定の
夜の闇を裂いて、銀の鳥が飛び込んできた。
ルカだ。窓枠を音もなく越え、息を切らしてアルベルティーナの前に跪く。その小さな肩の震えが、事態の異常さを物語っていた。







