薔薇の仮面
Synopsis
偽りの結婚
Chapter1
## 第一章 偽りの花嫁
馬車の車輪が舗装された道を軋ませる音が、フェザリー・バルバロッサの鼓動と重なっていた。黒いヴェールを被った彼女は、窓の外に広がる見知らぬ風景をぼんやりと眺めながら、これから自分が踏み入れる運命について考えていた。
「もうすぐマイヤー家の領地に入ります、お嬢様」
老執事のアルフォンスの声が、馬車内の重苦しい沈黙を破った。彼はバルバロッサ家に三十年以上仕えてきた忠実な使用人で、今回の無謀な計画に唯一加担した人物だった。
「ありがとう、アルフォンス」フェザリーはか細い声で答えた。「…父上と母上は?」
「ご両人ともご無事でございます。しかし、ニーナお嬢様の失踪以来、お屋敷は影が覆ったようでございます」
妹の名前を聞き、フェザリーの胸に鋭い痛みが走った。二ヶ月前、結婚式の三週間前に、十九歳のニーナは忽然と姿を消した。手がかりは枕元に置かれた一枚の手紙だけ——「許してください。この結婚には従えません」——それだけだった。
バルバロッサ家は中級貴族とはいえ、財政的に逼迫していた。マイヤー家との縁組みは、家族を救う最後の手段だった。妹が失踪した今、婚約を反故にすれば、家は確実に没落する。そう考えた両親は、年子でよく似た姉のフェザリーに白羽の矢を立てたのである。
「顔は似ていますが、性格はまるで違うのに…」フェザリーはこっそりと呟いた。
ニーナは社交的で明るく、誰からも愛される存在だった。一方のフェザリーは物静かで、書斎に籠って古書を読むことを好む内向的な女性。舞踏会や茶会よりも、庭の薔薇の世話をしている方が気が楽だった。
「お嬢様、もう一度お願いいたします」アルフォンスの声に真剣みが増した。「ニーナお嬢様として振る舞うことをお忘れなく。マイヤー家は遠方の大貴族、これまで直接お会いになった方はご当主のエルハルト様だけ。婚約の際に交わされた肖像画も、若かりし頃のご夫人が描かれたもの。うまくいけば、ご成婚まで正体はお見破りにならぬでしょう」
「でも、ずっと嘘をつき続けるなんて…」
「ご成婚さえ済ませば、やがて本当のことをお打ち明けになることも可能かもしれません。それまで、どうかご無事でいてください」
馬車がゆっくりと減速し、巨大な鉄門の前で止まった。門の向こうには、広大な庭園に囲まれた荘厳な城館がそびえ立っていた。マイヤー家の本邸——人々が「冬の宮殿」と呼ぶその場所は、白亜の外壁が午後の陽光にきらめき、まるで夢の中の建造物のようだった。
門が開き、馬車が敷地内に入ると、両側に整然と並んだ使用人たちの列が見えた。皆、真剣な面持ちで新しい花嫁を迎えていた。
馬車が玄関前で完全に停止すると、アルフォンスが先に降りて扉を開けた。フェザリーは深く息を吸い込み、偽りの微笑みを浮かべた。ニーナのように軽やかに、そして優雅に振る舞わなければ。
「ニーナ・バルバロッサ様、ようこそマイヤー家へ」
玄関の階段の上から、威厳のある声が響いた。そこには、銀髪を整然と梳かした初老の男性——エルハルト・フォン・マイヤー侯爵が立っていた。その隣には、気品に満ちた女性が、やや冷たい表情で立っている。
「ご挨拶が遅れました。エルハルト様、そしてこちらは…?」フェザリーはできるだけ明るい声で尋ねた。
「私の妻、イルゼです」侯爵が紹介した。
イルゼ夫人はわずかに頷いただけだった。その碧い瞳には、温かみよりも審査するような鋭さが感じられた。
「長旅でお疲れでしょう。中へどうぞ。息子のカイは現在、領地の巡回に出ており、夕方には戻る予定です」
フェザリーは夫人の冷たい態度に内心ひるみながらも、笑顔を崩さずに侯爵に続いた。大理石の床が敷き詰められた広間を通り、二階へと導かれる。天井には壮大なフレスコ画が描かれ、壁には歴代当主の肖像画がずらりと並んでいた。
「こちらがあなたの部屋です。何か必要なものがあれば、侍女のリーズに申しつけてください」
扉が開かれ、目の前に広がったのは、フェザリーがこれまで見たこともないほどの豪華な寝室だった。絹のカーテン、天蓋付きのベッド、暖炉の上には精巧な彫刻が施された鏡——すべてが完璧で、そしてどこか冷たく感じられた。
「お休みになられて、夕食の準備が整い次第お迎えに上がります」
侯爵と夫人が去り、フェザリーはようやく一人になれた。彼女はベッドの端に腰を下ろし、震える手でヴェールを取り外した。鏡に映る自分の顔——確かにニーナに似ている。同じ金髪、同じ青い瞳。しかし、その表情には妹のような輝きはなかった。
「ニーナ…どこにいるの?なぜ逃げたの?」フェザリーは囁くように言った。
彼女は窓辺に歩み寄り、庭園を見下ろした。手入れの行き届いた薔薇園が遠くに見える。そこだけが、この冷たい宮殿の中で唯一心安らぐ場所のように思えた。
## 第二章 初めての対面
夕刻、フェザリーは侍女のリーズに導かれ、食堂へと向かった。リーズは二十歳前後の、物静かだが礼儀正しい女性だった。道中、彼女は控えめにいくつかの助言をくれた。
「カイ様は少々無口でございますが、心優しいお方です。ただ…最近は特に忙しくお疲れのようです」
食堂の扉が開かれると、すでに三人が着席していた。エルハルト侯爵、イルゼ夫人、そして——フェザリーの息が止まりそうになった。
窓際の席に座るその男性は、肖像画で見たよりもはるかに印象的だった。濃い栗色の髪、鋭くも憂いを含んだ灰色の瞳、引き締まった顎のライン——カイ・フォン・マイヤーは、彼女が想像していた以上に威厳と孤独を湛えていた。
「ニーナ、こちらが息子のカイです」エルハルト侯爵が紹介した。
カイはゆっくりと立ち上がり、フェザリーの方へ一歩進み出た。彼の動きは流れるように優雅で、完璧な貴族のそれだった。
「ようこそ、ニーナ・バルバロッサ様」
彼の声は低く、響き渡るような美しさを持っていた。しかし、その言葉には温かみがなかった。形式的な挨拶——それ以上でも以下でもない。
「ご挨拶が遅れました、カイ様。お会いできて光栄です」
フェザリーはニーナらしく軽やかな屈膝の礼をとった。心臓は早鐘のように打ち鳴らしていた。もしもこの瞬間に正体が露見したら——そんな恐怖が脳裏をよぎった。
食事が始まると、エルハルト侯爵がいくつか穏やかな話題を提供した。領地の話題、最近の政治情勢、文化サロンのニュース。フェザリーは注意深く受け答えをした。ニーナがどのように振る舞うかを何度も想像し、練習してきたつもりだった。
しかし、カイはほとんど口を開かなかった。時折、父親の話に相槌を打つ程度で、フェザリーに対して直接話しかけることは一度もなかった。その視線も、彼女を見る時だけ、どこか遠くを見ているようだった。
「ニーナ様は絵画にご興味がおありだと伺いました」イルゼ夫人が突然言った。「明日、城の画廊をご案内しましょうか」
フェザリーは内心で慌てた。ニーナは確かに絵が好きだったが、自分はどちらかと言えば文学派だ。しかし、ここで断るわけにはいかない。
「光栄です、イルゼ様。ぜひお願いいたします」
その時、カイが初めてフェザリーをまともに見つめた。その灰色の瞳には、一瞬だけ何かがよぎった——疑問?あるいは失望?
「絵画なら、私はあまり詳しくありません」カイが静かに言った。「申し訳ありません」
「とんでもありません」フェザリーはすぐに答えた。「私も初心者ですから」
その会話の後、再び沈黙が訪れた。フェザリーは銀のナイフとフォークが触れ合う音だけが響く中、なんとか食事を終えた。
食後、エルハルト侯爵が提案した。「カイ、ニーナ様に庭園を案内してあげなさい。ちょうど薔薇が一番美しい季節です」
カイはわずかに躊躇した後、うなずいた。「承知いたしました。父上」
二人は重い沈黙を抱えながら、食堂を後にした。廊下を歩く間、フェザリーは何か話さなければと焦った。しかし、どんな話題が適切かわからなかった。
「お庭の薔薇、とても美しいようですね」ようやく口にした言葉は、陳腐に聞こえた。
「はい。母が大切にされていました」カイの返事は短かった。
「お母様が?」
「私が十歳の時に他界しました」
「あっ…お悔やみ申し上げます。知りませんでした」
カイはそれ以上何も言わなかった。二人は黙ったまま薔薇園に到着した。夕暮れ時のオレンジ色の光が、様々な色の薔薇を照らし出していた。確かに美しい——しかし、フェザリーにはその美しささえも、どこか儚く悲しく感じられた。
「ニーナ様は、なぜこの結婚を受け入れたのですか?」
突然の質問に、フェザリーははっとした。カイは彼女をまっすぐ見つめていた。その目は、先ほどまでの遠くを見つめるような表情から一転、鋭く探究的になっていた。
「それは…家同士の約束ですから」フェザリーは必死に平静を装った。「貴方様とのご縁を光栄に思っています」
「光栄に?」カイの口元がわずかに歪んだ。「見知らぬ男性と、見知らぬ土地で暮らすことを?」
「貴族の女性として、それは珍しいことではありません」
「確かに」カイは再び遠くを見つめた。「では、あなたはそれで満足なのですか?運命に従うことに?」
フェザリーは答えに詰まった。この問いは、彼女自身の心にも突き刺さるものだった。偽りの花嫁としてここにいる自分——果たしてこれが運命への従順なのか、それとも愚かな冒険なのか。
「時には、従う以外の選択肢がないこともあります」彼女は本当の自分を込めてそう言った。
カイは彼女をじっと見つめ、何かを考えているようだった。しかし、結局それ以上は何も言わず、「そろそろ戻りましょう。夜の気配が冷たくなってきました」とだけ告げた。
部屋に戻る道中、フェザリーはカイの言葉を反芻していた。彼はこの結婚に不満なのか?それとも単に無関心なだけか?
寝室の扉を閉め、一人になると、フェザリーはようやく緊張から解き放たれた。彼女は鏡の前に立ち、偽りの自分を見つめた。
「これでいいの?このまま嘘をつき続けて?」
しかし、答えはなかった。ただ、窓の外では月が昇り、冷たい光が部屋を満たしていた。
## 第三章 画廊の審査
翌朝、フェザリーはイルゼ夫人と画廊を訪れた。城の東翼にあるその長い回廊には、歴代マイヤー家が収集した絵画がずらりと並んでいた。風景画、肖像画、宗教画——どれもが名家の財力を物語る傑作ばかりだった。
「これは十七世紀の巨匠、フォン・デア・リューデンの作品です」イルゼ夫人が一枚の肖像画の前で説明した。「当時の当主、ルドルフ・フォン・マイヤー侯爵を描いたもの。彼は領地の改革を行い、農民の生活を大きく改善しました」
フェザリーはうなずきながら絵を見つめた。しかし、彼女の関心は絵そのものよりも、夫人の態度にあった。イルゼ夫人の解説は正確で詳細だったが、そこには情熱が感じられなかった。まるで義務として説明しているようだった。
「夫人は絵画に大変お詳しいのですね」フェザリーが褒めた。
「単なる教養です」イルゼ夫人は淡々と答えた。「貴族の女性として当然のこと」
その言葉には、どこか刺があるように感じられた。フェザリーは自分が「貴族の女性として」十分ではないと暗に言われているような気がした。
「ニーナ様はどの絵がお好きですか?」夫人が突然尋ねた。
フェザリーは慌てて画廊を見回した。彼女の目に留まったのは、隅にひっそりと掛けられた小さな風景画だった。質素な農家の庭を描いた、技巧よりも情感が優先された作品だ。
「…こちらが好きです」彼女は思わず本当の好みを口にした。
イルゼ夫人の眉がわずかに動いた。「それは面白い選択です。この絵はカイが少年時代に描いたものです。師匠の作品と並べるには未熟だと、エルハルトは反対しましたが、私はここに飾ることを主張しました」
フェザリーは驚いて絵を再び見つめた。確かに、専門家の作品と比べると技術的には劣るが、そこには温かみと郷愁が込められていた。
「カイ様がお描きになったのですか?」
「はい。彼が十五歳の時の作品です。母である私が病に伏せる前、最後に一緒に訪れた村の風景です」
夫人の声には、初めて感情の響きがあった。しかし、それはすぐに消え、再び無表情に戻った。
「しかし、カイはその後絵を描くのを止めました。侯爵の息子としての義務に専念するためです」
その言葉には、複雑な思いが込められているように感じられた。フェザリーは夫人を見つめたが、彼女はすでに次の絵へと歩み出ていた。
画廊の見学が終わり、二人が中庭を通って戻る途中、フェザリーは勇気を出して質問した。
「イルゼ様、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「カイ様は…この結婚について、どのようにお考えなのでしょうか?」
夫人の足が止まった。彼女はゆっくりとフェザリーの方へ振り向き、鋭い視線を向けた。
「なぜそんなことを?」
「昨夜、お庭で少しお話ししたのですが…カイ様が何か悩んでおられるように感じました」
イルゼ夫人はしばらく沈黙した後、ため息をついた。
「カイは良い息子です。義務を果たし、家名を守ることを何よりも重視しています。この結婚も、彼にとってはその一環でしょう」
「しかし、幸せなのでしょうか?」
その質問に、夫人の目に一瞬の動揺が走った。
「幸せ?」彼女の声は冷たかった。「私たちのような家に生まれた者にとって、幸せは贅沢です。義務を果たすこと——それだけで十分なのです」
フェザリーは言葉を失った。夫人の言葉には、諦めと悲しみが滲んでいた。彼女自身も、義務のために人生を捧げてきたのだろうか?
「ニーナ様」夫人の声が再び響いた。「あなたは若く、美しく、そして婚約者に恵まれています。それだけで幸運なのです。余計なことを考えず、与えられた役割を果たしなさい」
それは助言というより、警告のように聞こえた。フェザリーはうなずくしかなかった。
その夜、フェザリーは寝室の窓辺に立ち、庭を見下ろしながら考えた。イルゼ夫人の言葉、カイの態度、そしてこの城全体に漂う冷たさ——すべてが彼女を圧迫していた。
「ニーナ、あなたはこれを感じていたから逃げたの?」
彼女は妹の選択を理解し始めていた。しかし、自分には逃げる選択肢はない。家族を守るため、この偽りの役割を演じ続けなければならない。
## 第四章 図書室の邂逅
数日が過ぎ、フェザリーはマイヤー家での生活に少しずつ慣れ始めていた。朝はイルゼ夫人と一緒に朝食をとり、午前中は夫人が様々な教養——紋章学、礼儀作法、領地管理の基礎——を教えた。午後は自由時間で、フェザリーはほとんどの時間を庭で過ごした。
しかし、ある雨の午後、彼女は偶然城の図書室を見つけた。それは彼女の寝室から遠く離れた西翼にあり、普段はほとんど使われていないようだった。
扉を開けると、埃っぽいが心地よい紙と革の匂いが漂ってきた。天井まで届く本棚には、古今東西の書籍が所狭しと並べられていた。フェザリーは思わず息を呑んだ。ここは彼女にとって天国のような場所だった。
彼女は一冊の詩集を手に取り、窓辺の肘掛け椅子に腰を下ろした。雨音をBGMに、彼女は夢中でページをめくった。ここにいる間だけは、ニーナになる必要がなかった。ただのフェザリーでいられた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
「ここにいたのか」
突然の声に、フェザリーは飛び上がるようにして本を落とした。振り返ると、入り口にカイが立っていた。
「カ、カイ様!ご無礼いたしました。ここを使ってもよろしいかお尋ねせずに…」
「構わない」カイはゆっくりと中へ入ってきた。「私も時々ここに来る。静かで、誰にも邪魔されないから」
彼はフェザリーの落とした本を拾い上げ、タイトルを読んだ。「レナートの詩集…珍しい趣味だ」
「ええ、少し…」フェザリーは慌てて言い訳を考えた。ニーナは詩よりも小説を好んだはずだ。
「レナートはあまり知られていない詩人だが、その作品には深い情感がある」カイが意外なことを言った。「特に雨の日には、彼の詩がよく似合う」
フェザリーは驚いてカイを見つめた。「カイ様もレナートをご存知で?」
「母が好きだった」カイの声が柔らかくなった。「彼女はよくこの図書室に来て、私に詩を読んで聞かせてくれた」
彼は本棚の前へ歩み寄り、一冊の古びた本を手に取った。「これが母のお気に入りだった」
フェザリーはためらいながら近づき、本を見た。それはレナートの初版本で、表紙は擦り切れるほど使い込まれていた。
「お母様は、文学がお好きだったのですね」
「ええ。父は『貴族に文学など不要』と言ったが、母は譲らなかった。『心を豊かにするものは何であれ大切だ』と」
カイは本をそっと棚に戻し、フェザリーの方へ向き直った。
「ニーナ様はなぜレナートがお好きなのですか?」
その質問に、フェザリーは本当の答えを口にしそうになった。彼女がレナートを好きな理由——それは彼の詩が、彼女自身の内面の孤独と共鳴するからだ。しかし、それをニーナとして説明できるだろうか?
「彼の詩には…偽りのない真実が込められているように感じます」彼女は慎重に言葉を選んだ。「飾り気がなく、それでいて深い」
カイの目が細くなった。彼はフェザリーをじっと見つめ、何かを探っているようだった。
「面白い意見だ」彼は最終的にそう言った。「ほとんどの人は、レナートを『晦渋で退屈』と評する」
「それは彼らが表面しか見ていないからです」フェザリーは思わず熱を込めて言った。「真の美しさは、往々にして一見ではわかりません。時間をかけて理解する必要があるのです」
その瞬間、カイの表情が変わった。これまでに見たことのない、驚きと興味がその灰色の瞳に浮かんだ。
「あなたは…」
しかし、彼は言葉を続けなかった。代わりに、窓の外の雨を見つめた。
「雨が弱んできたようだ。もうすぐ止むだろう」
フェザリーは何か言い損なったような気がした。しかし、カイはすでに去ろうとしていた。
「ニーナ様」彼は扉の前で振り返った。「もしよければ、明日の午後、領地を一緒に巡回しないか?父が、将来の領主夫人として領地のことを知っておくべきだと言っていた」
それは突然の招待だった。フェザリーは驚きながらもうなずいた。「喜んでお供いたします」
カイが去り、図書室に再び静寂が訪れた。フェザリーは窓辺に戻り、雨上がりの庭を見つめた。彼女の心には、複雑な感情が渦巻いていた。
カイとの会話は、これまでで最も自然なものだった。しかし、それは彼女がニーナとしてではなく、フェザリーとして振る舞ったからかもしれない。そして、カイはそれに気づいたのだろうか?
「危険だ」彼女は自分に言い聞かせた。「もっと注意しなければ」
しかし、心のどこかで、彼女は明日の巡回を楽しみにしている自分に気づいた。
## 第五章 領地の真実
翌日、フェザリーはカイと共に馬車で領地の巡回に出かけた。彼女はシンプルだが上品な旅行服を着て、髪を実用的に結っていた。ニーナならもっと華やかな装いを選んだだろうが、フェザリーは機能性を重視した。
最初の訪問先は、城からそう遠くない小さな村だった。馬車が村に入ると、人々が集まってきた。彼らの表情には期待と不安が混ざっているように見えた。
「カイ様!ご無事で!」
村長らしき年老いた男性が近づいてきた。彼の目には深い皺が刻まれ、長年の労働の跡がうかがえた。
「ヨハン、久しぶりだ」カイは馬車から降りると、男性の手を握った。「皆の調子はどうだ?」
「はい、皆元気にやっております。新しい井戸ができてから、水汲みの仕事がずいぶん楽になりました」
カイは満足そうにうなずき、フェザリーを紹介した。「こちらはニーナ・バルバロッサ様、私の婚約者だ」
村人たちは好奇の目でフェザリーを見つめた。彼女は緊張しながらも、できるだけ自然に微笑んだ。
「ご挨拶が遅れました。これからよろしくお願いいたします」
村の見学が始まった。カイは様々な場所を案内し、改善された点やまだ課題が残っている点を説明した。フェザリーは驚いた。彼の説明は詳細で、領民の生活に対する深い理解を示していた。
「この村では昨年、新しい農法を導入した」カイが畑を指さしながら説明した。「従来の方法に比べて収量が三割増えた」
「それは素晴らしいことです」フェザリーは心から感心した。「しかし、新しい農法を導入するのは大変だったでしょう」
カイは彼女を見て、わずかに驚いた表情を浮かべた。「その通りだ。年配の農民たちは変化を嫌う。説得するのに一年近くかかった」
「それでも諦めなかったのですね」
「諦めるわけにはいかない。彼らの生活がかかっている」
その言葉には、責任感と覚悟が込められていた。フェザリーはこれまでのカイの印象——冷たく、よそよそしい貴族——が、少しずつ変わっていくのを感じた。
次の訪問先は、少し離れた農場だった。到着すると、若い夫婦が迎えてくれた。妻は明らかに妊娠しており、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「カイ様、よくいらっしゃいました!」夫が声を弾ませた。「妻がもうすぐ産むのです。医師が定期的に来てくださるおかげで、安心しています」
「それは良かった」カイの声には、心からの喜びが感じられた。「何か必要なものはないか?」
「いえ、もう十分です。領主様のご厚意に、心から感謝しています」
フェザリーはその光景を見て、胸が熱くなった。ここでのカイは、城にいる時とは全く別人だった。肩の力が抜け、表情も柔らかく、そして何よりも——人間味があった。
巡回の最後に、二人は小高い丘の上で休憩した。そこからは、マイヤー家の領地が一望できた。緑の野原、整然と区画された農地、遠くに小さな村々——すべてが秩序立てられ、繁栄しているように見えた。
「美しい景色ですね」フェザリーが呟いた。
「ええ。これが私の守るべきものだ」カイは遠くを見つめながら言った。「父から受け継ぎ、次の世代へと繋げていく義務」
「義務…」フェザリーは繰り返した。「イルゼ様も同じことをおっしゃっていました」
カイは少し間を置いてから言った。「母は、義務だけが人生ではないと言っていた。しかし、父は違う。彼にとって、義務はすべてだ」
「ではカイ様は?」
カイは長く沈黙した。風が丘を渡り、彼の栗色の髪を揺らした。
「私は…まだわからない。義務を果たすことは大切だ。しかし、時々…」
彼は言葉を切った。フェザリーはそれ以上追及しなかった。彼の側に立ち、同じ景色を眺めながら、彼女は考えた。
この男性は、彼女が思っていたよりも複雑だった。冷たい貴族という仮面の下には、責任感の強いが、同時に悩める人間がいた。そして、その人間味が、彼女の心を惹きつけ始めていた。
「そろそろ戻ろう」カイが立ち上がった。「夕方までに城に戻らなければ」
帰路の馬車の中で、フェザリーは勇気を出して質問した。
「カイ様、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「あの…私たちの結婚について、本当はどうお考えですか?」
馬車内の空気が一瞬で変わった。カイの表情が硬くなり、目が再び遠くを見つめるようになった。
「それは必要なことだ」彼の声は再びよそよそしくなった。「家同士の約束であり、領地の安定のためにも重要だ」
「それだけですか?」
カイはフェザリーを鋭く見た。「他に何かあるというのか?」
「いえ…ただ」フェザリーは言葉を詰まらせた。「領地の人々と接するカイ様を見て、もっと個人的な感情をお持ちなのかと思いまして」
カイは長く沈黙し、窓の外を見つめた。
「個人的な感情など、どうでもいい。大切なのは義務を果たすことだ」
その言葉は、彼自身に向けたものでもあるように聞こえた。フェザリーはそれ以上何も言えなかった。彼女は、カイが自分自身に言い聞かせているのだと感じた——感情を捨て、義務に従えと。
城に戻ると、カイはすぐに書斎に引きこもった。フェザリーは寝室に戻り、一日の出来事を振り返った。
彼女はカイの二面性を見た。領民には心を開くが、彼女には心を閉ざす。それはなぜだろう?単に彼女がよそ者だからか?それとも、彼はこの結婚そのものに抵抗を感じているのか?
夜、フェザリーはベッドの中で目を覚ました。何かの物音が聞こえたような気がした。彼女はベッドから起き上がり、窓辺へ歩み寄った。
庭を見下ろすと、月光の中に一人の人影が立っていた。カイだった。彼は薔薇園の前でじっと立ち尽くし、何かを考えているようだった。
フェザリーは思わず窓に手を当てた。その孤独な姿は、彼女自身の心に深く響いた。彼もまた、偽りの仮面を被って生きているのだろうか?
「カイ様…」彼女は窓ガラスに息を吹きかけながら囁いた。「あなたも嘘をついているの?」
しかし、答えはなく、ただ月が静かに輝くだけだった。
## 第六章 舞踏会の夜
一週間後、マイヤー家で舞踏会が開催されることになった。近隣の貴族たちを招いた大規模なもので、フェザリーにとっては初めての公式な場での登場となる。
「これは重要な機会です」イルゼ夫人が厳しい口調で言った。「あなたがマイヤー家の一員として認められるかどうかがかかっています」
フェザリーは何度もダンスの練習をさせられた。ニーナは優れたダンサーだったが、フェザリーはどちらかと言えば不器用だった。何度もステップを間違え、夫人から厳しい指摘を受けた。
「もっと軽やかに!ニーナ・バルバロッサはこれほどぎこちないダンスはしません!」
その言葉はフェザリーの胸を刺した。彼女はニーナではない——しかし、そのことを誰にも言えない。
舞踏会の当日、フェザリーは豪華なドレスに身を包んだ。淡いブルーのシルクが彼女の肌に優しくまとわり、髪にはダイヤモンドのティアラが輝いていた。鏡に映る自分は、確かに貴族の花嫁のように見えた。しかし、その目には不安が宿っていた。
「大丈夫ですか、お嬢様?」リーズが心配そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫」フェザリーは無理に笑顔を作った。「ただ少し緊張しているだけ」
大広間にはすでに多くの招待客が集まっていた。絢爛たる衣装をまとった貴族たちが、楽しげに会話を交わしている。フェザリーが入場すると、一瞬にしてすべての視線が彼女に集まった。
エルハルト侯爵が彼女を紹介した。「皆様、こちらが息子カイの婚約者、ニーナ・バルバロッサ様です」
拍手が起こり、フェザリーは優雅にお辞儀をした。彼女は群衆の中からカイを見つけた。彼は壁際に立ち、無表情で彼女を見つめていた。
舞踏会が始まり、フェザリーは次々と紳士たちとダンスをした。彼女は必死にニーナのように振る舞おうとしたが、内心では恐怖でいっぱいだった。一歩間違えれば、正体が露見するかもしれない。
そしてついに、カイが彼女の前に現れた。
「踊ってくれますか、ニーナ様?」
彼の手を取ると、フェザリーはその冷たさに驚いた。音楽が流れ始め、二人はダンスフロアに滑り込んだ。
最初はぎこちなかった。フェザリーはステップを間違えそうになるたびに緊張した。しかし、次第にカイのリードに合わせて動けるようになっていった。
「あなたはダンスがお上手ですね」カイが囁くように言った。
「カイ様のリードが良いからです」
「いや、あなた自身の才能だ」
その言葉には、これまでにない温かみが感じられた。フェザリーはカイの目を見上げた。彼の灰色の瞳には、月明かりのような柔らかな光が宿っていた。
「今日のあなたは…いつもと少し違う」カイが続けた。
フェザリーの心臓が高鳴った。「どういう意味ですか?」
「城にいるときよりも…自由に見える」
それは危険な領域に踏み込む言葉だった。フェザリーはすぐに防御態勢に入った。
「舞踏会の興奮でしょう。ニーナはいつもこう言っていました——舞踏会は魔法がかかった時間だと」
「ニーナ?」カイの眉がわずかに動いた。
フェザリーは自分が三人称で自分自身を呼んだことに気づき、冷や汗をかいた。
「私のことを言っています」彼女は慌てて訂正した。「子供の頃から、舞踏会が大好きで」
カイは何も言わなかったが、その目には疑問が浮かんでいた。音楽が終わり、二人は拍手の中、ダンスフロアを離れた。
その後、フェザリーは他の紳士たちとダンスを続けたが、心はカイとの会話から離れられなかった。彼は疑い始めているのだろうか?
夜が更けるにつれ、フェザリーは疲れを感じ始めた。彼女はバルコニーに出て、少しの間一人になりたいと思った。
バルコニーにはすでに誰かがいた。カイだった。彼は手すりにもたれ、夜空を見上げていた。
「お邪魔でしょうか?」フェザリーが声をかけた。
カイは振り返り、わずかに驚いた表情を見せた。「いや、どうぞ」
二人は並んで夜空を見上げた。星々がきらめき、遠くで音楽が微かに聞こえていた。
「今日は楽しかったですか?」カイが尋ねた。
「はい。でも少し疲れました」
「私もだ」
その共感に、フェザリーはほっとした。彼女は思わず本当の気持ちを口にした。
「時々、すべてが夢のように感じられます。このドレスも、この城も、そして…」
彼女は言葉を切った。危険だった。あまりにも本音を吐きすぎていた。
「そして?」カイが促した。
「…そしてこの結婚も」フェザリーは嘘の結論で締めくくった。
カイは深く息を吸い込んだ。「私も同じだ。時々、すべてがあまりに完璧で、現実ではないように感じる」
「完璧ですか?」フェザリーは意外そうに尋ねた。「この結婚が?」
「形式上は」カイの声には皮肉が混じっていた。「適切な家柄、適切な年齢、適切な時期——すべてが計算されている」
「感情は計算できないのに」
その言葉が口から出ると、フェザリーは後悔した。しかし、カイはうなずいた。
「その通りだ。感情は計算できない。だからこそ、厄介なのだ」
彼はフェザリーの方へ向き直った。月明かりが彼の顔を優しく照らし、これまでに見たことのない表情を浮かべていた。
「ニーナ様、正直に言おう。私はこの結婚に複雑な思いを抱いている。義務として受け入れるべきものだとわかっているが、時々…もっと違う形があっても良かったのではないかと思う」
フェザリーの胸が痛んだ。彼女はカイの気持ちを理解していた。自分自身も同じ思いを抱えていたからだ。
「私も時々考えます」彼女は慎重に言葉を選んだ。「もし運命が違う道を用意していたら、と」
「運命か」カイは星空を見上げた。「父は運命など存在しないと言う。あるのは選択だけだと」
「では、私たちはこの選択をしたのですね」
「選択したというより、選択を許されたと言うべきか」
その言葉には、諦めに似た響きがあった。フェザリーはカイの手に触れたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。
中からイルゼ夫人の声が聞こえた。「カイ、ニーナ様、どこにいらしたのですか?」
「戻りましょう」カイが言った。「母が心配している」
バルコニーを離れる時、フェザリーはカイが彼女のためにもう一度扉を開けてくれたことに気づいた。その小さな気遣いに、彼女の胸が温かくなった。
舞踏会が終わり、客たちが去っていった。フェザリーは寝室に戻り、ドレスから解放されると、窓辺に座って一日を振り返った。
カイとの会話は、彼女に希望を与えた。彼もまた、この結婚に疑問を抱いている。ならば、やがて本当のことを打ち明けても、理解してくれるかもしれない。
しかし同時に、恐怖もあった。もし正体が明らかになれば、カイは裏切られたと感じるだろう。そして、彼の信頼を完全に失うことになる。
「どうすればいいの?」フェザリーは夜空に向かって囁いた。
星々はきらめくだけで、答えは返ってこなかった。
## 第七章 薔薇園の秘密
舞踏会から数日後、フェザリーは庭で薔薇の手入れをしていると、見知らぬ女性が近づいてくるのに気づいた。彼女は質素な服を着ており、使用人よりも客人のように見えた。
「お嬢様、お時間よろしいでしょうか?」
その声は柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。フェザリーはうなずき、女性をベンチに招いた。
「私はマルガレーテと申します。以前、この城に仕えていました」
「マルガレーテ様?」フェザリーは聞いたことがない名前だった。
「ええ。カイ様が幼い頃、彼の乳母を務めていました」
フェザリーの目が大きく見開かれた。「カイ様の?」
「はい。彼が十歳になるまで、面倒を見ていました。その後、実家の事情で城を去らなければならなかったのですが」
マルガレーテは懐かしそうに庭を見回した。「変わらないものもありますが、変わったものもありますね」
「マルガレーテ様は、なぜ今ここに?」
「近くの町に住むようになり、時々カイ様のことを思い出すのです。そして先日の舞踏会で、あなた様がここにいらっしゃると知り、お会いしたいと思いました」
フェザリーはなぜ自分に会いたがったのか疑問に思ったが、礼儀正しくうなずいた。
「カイ様はお元気ですか?」マルガレーテが心配そうに尋ねた。
「ええ、お元気です。領地の管理に熱心に取り組んでおられます」
「それは良かった」マルガレーテの目に安堵の色が浮かんだ。「あの子は小さな頃から責任感が強くて。でも、時々心配になります」
「心配?」
マルガレーテはためらいながらも話し始めた。「カイ様は優しい子でした。でも、お母様がお亡くなりになってから、すっかり変わってしまった。感情を表に出すことをやめ、すべてを内に秘めるようになった」
フェザリーはカイの冷たい態度を思い出した。それは生来の性格ではなく、喪失から生まれた防御機制なのかもしれない。
「イルゼ様が来られてからは、少し良くなりましたか?」フェザリーが尋ねた。
マルガレーテの表情が曇った。「イルゼ様は立派な方です。しかし…彼女はカイ様の本当のお母様ではありません。いくら努力されても、その溝は埋まらないでしょう」
その言葉は、フェザリーが感じていた違和感を説明していた。イルゼ夫人とカイの間には、形式的な礼儀はあっても、本当の家族の絆は感じられなかった。
「マルガレーテ様、お聞きしたいことがあります」フェザリーは勇気を出して言った。「カイ様は…絵を描くのがお好きだったのですか?」
女性の目が輝いた。「ああ、そうです!小さな頃からとても才能がありました。特に風景画がお得意で。でも、お父様が『貴族に絵など必要ない』とおっしゃってから、筆を置かざるを得ませんでした」
「それは残念です」
「ええ、本当に」マルガレーテの声には悔しさが込められていた。「カイ様が絵を描いている時が、一番生き生きとしていらっしゃったのに」
フェザリーは図書室で見たあの絵を思い出した。確かに、そこには技術以上のもの——魂が込められていた。
「もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」フェザリーはさらに踏み込んだ。「カイ様は、この結婚についてどのようにお考えなのでしょう?」
マルガレーテは深く息を吸い込んだ。「カイ様は良い子です。ご両親の期待に応えようと、いつも最善を尽くされます。この結婚も、お父様が決められたことですから、従われるでしょう」
「しかし、本心では?」
「本心では…」マルガレーテは言葉を選んだ。「カイ様はロマンティックな面をお持ちです。幼い頃、よくお話を作っては私に聞かせてくれました。騎士と姫君の物語、遠い国への冒険…」
彼女は遠くを見つめ、懐かしそうに微笑んだ。
「でも、現実はお話とは違います。カイ様もそれを理解していらっしゃる。だから、夢と現実の間で苦しんでいるのでしょう」
その言葉は、フェザリー自身の状況にも当てはまるものだった。彼女もまた、夢(自由に生きること)と現実(家族を守る義務)の間で板挟みになっていた。
「マルガレーテ様、ありがとうございます」フェザリーは心から感謝した。「貴重なお話を聞かせてくださって」
「いえいえ。ただ…一つお願いがあります」
「何でしょう?」
「カイ様を幸せにしてあげてください。あの子は、もっと笑顔になる資格があります」
フェザリーの胸が締め付けられた。彼女はニーナとしてここにいるが、カイを幸せにできるだろうか?それどころか、彼を傷つけることになるかもしれない。
マルガレーテが去った後、フェザリーは薔薇園を歩きながら考えた。彼女はますますカイに惹かれつつあった。しかし、それは偽りの自分を通してだった。もし本当の自分を知ったら、彼はどう反応するだろう?
その夜、フェザリーはカイが再び庭に立っているのを見た。彼は一輪の白薔薇の前に立ち、そっと花びらに触れていた。
フェザリーは窓をそっと開け、その姿を見守った。月光に照らされるカイの横顔には、深い哀愁が漂っていた。
「お母様…」彼の声が風に乗って聞こえてきた。「どうすればいい?」
その言葉は、フェザリーの心に深く突き刺さった。彼もまた、迷い、苦しんでいる。彼女と同じように。
彼女は窓を閉め、ベッドに戻った。しかし、眠れなかった。カイの孤独な姿が脳裏から離れなかった。
「私も嘘をついている」彼女は暗闇に向かって囁いた。「でも、あなたも本当の自分を隠している」
その共感が、彼女の決意を固めた。いつか、本当のことを話そう。すべての嘘を清算し、本当の自分でカイと向き合おう。
しかし、その日が来るまで、彼女はこの仮面を脱ぐことはできない。家族を守るため、そして——彼女は認めたくなかったが——カイを傷つけないためにも。
## 第八章 嵐の前夜
夏の終わりが近づき、結婚式の日取りが正式に決まった。二ヶ月後、秋の初めに挙式が行われることになった。フェザリーには、時間が迫っているという焦りと、すべてが終わるという安堵が入り混じっていた。
ある午後、彼女はイルゼ夫人から呼び出しを受けた。夫人の私室は、これまでに入ったことのない場所だった。質素だが上品な家具が置かれ、窓からは薔薇園が一望できた。
「お座りください、ニーナ様」
フェザリーは指示に従い、夫人の向かいの椅子に腰を下ろした。夫人の表情はいつも以上に厳しかった。
「結婚式の準備が本格化します。これからは、より多くの時間を一緒に過ごすことになるでしょう」
「はい、夫人」
「それに伴い、あなたにはいくつかのことを理解していただく必要があります」
イルゼ夫人は机の上の書類を整えながら、ゆっくりと話し始めた。
「マイヤー家は長い歴史を持つ家柄です。その名声と責任は、単なる形式以上のものです。あなたがカイの妻となれば、単なる個人ではなく、家の代表となります」
「そのことは承知しています」
「承知しているとおっしゃるが、本当に理解していますか?」夫人の声に鋭さが増した。「これは遊びではありません。一度この家に入れば、二度と外に出ることは許されない」
フェザリーはその言葉の重みを感じた。夫人自身も、この家に入り、二度と自由を失ったのだろうか?
「夫人は…後悔されていますか?」彼女は思わず尋ねてしまった。
イルゼ夫人の目がわずかに見開かれた。彼女は長く沈黙し、窓の外を見つめた。
「後悔など、許されない贅沢です」彼女の声は低く、力なかった。「私はエルハルトの妻として、カイの継母としての義務を果たします。それだけです」
「でも、幸せは?」
「幸せ?」夫人はフェザリーをじっと見つめた。「あなたは若すぎる。幸せとは与えられるものではなく、見出すものだということを学ぶ必要があります」
その言葉には、長年の諦めと、わずかな希望が込められていた。フェザリーは夫人がこれまでにどれだけの犠牲を払ってきたかを想像した。
「ニーナ様、私はあなたに警告します」夫人の声が再び厳しくなった。「この家では、個人の感情は二の次です。義務が第一です。それを忘れないでください」
「はい、夫人」
「もう一つ。カイについてです」
フェザリーの心臓が高鳴った。「カイ様がどうかされましたか?」
「彼は複雑な過去を背負っています。本当の母親を幼くして失い、父親の期待に応えようと必死に努力してきました。彼の冷たい態度は、傷つかないための防御に過ぎません」
「それは存じております」
「では、彼を深く傷つけるようなことはしないでください」夫人の目には本物の心配が浮かんでいた。「彼は脆いガラスのように見えて、実は強い。しかし、一度壊れたら二度と元には戻れません」
その言葉は、フェザリーにとっての警告だった。彼女の嘘が明るみに出れば、カイは確実に傷つく。そして、その傷は癒えないかもしれない。
夫人との会話を終え、フェザリーは庭へと向かった。彼女は薔薇園のベンチに座り、考え込んだ。
時間が経つにつれ、彼女はこの家に馴染みつつあった。リーズとは信頼関係を築き、使用人たちからも認められ始めていた。カイとの関係も、ゆっくりではあるが、前進しているように感じた。
しかし、すべては偽りの上に成り立っていた。彼女はニーナではない。そして、その事実がいつか必ず明るみに出る。
「どうすればいい?」彼女は薔薇に問いかけた。「本当のことを話すべき?それとも、このまま嘘をつき続けるべき?」
もちろん、薔薇は答えなかった。ただ、風に揺れるだけだ。
その時、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、カイが立っていた。
「一人でいると思ったら、あなただった」
「カイ様…」
カイは彼女の隣に座った。二人はしばらく沈黙したまま、庭の景色を眺めた。
「父が結婚式の日取りを決めた」カイが静かに言った。
「ええ、聞きました」
「どう思う?」
その直接的な質問に、フェザリーは戸惑った。「それは…」
「正直に言ってほしい」カイは彼女を見つめた。「この結婚について、本当はどう思っている?」
フェザリーの口が乾いた。彼女は本当の気持ちを話したい——この結婚が偽りであること、彼女がニーナではないこと、すべてを告白したい。しかし、言葉は喉で詰まった。
「私は…複雑です」彼女はできるだけ真実に近い言葉を選んだ。「この結婚が正しいことなのか、時々疑問に思います」
カイの目が細くなった。「なぜ?」
「だって…私たちはほとんどお互いを知りません。家同士の約束だけで、一生を共にすることになるなんて」
「それでも、あなたはここに来た」
「義務だからです」フェザリーの声には本物の苦悩が込められていた。「家族を守るためには、それしか選択肢がありませんでした」
カイは深くうなずいた。「私も同じだ。領地を守り、家名を継ぐ——それが私の義務だ」
「でも、それだけですか?」フェザリーは勇気を出して尋ねた。「カイ様には、ご自身の望みはないのですか?」
長い沈黙が訪れた。カイは遠くを見つめ、何かを思い出しているようだった。
「子供の頃、画家になりたかった」彼は突然告白した。「母が認めてくれた唯一の夢だ」
「なぜ諦めたのですか?」
「父が許さなかった。『マイヤー家の息子が画家になるわけにはいかない』と」
その言葉には、深い諦めと、わずかな未練が感じられた。フェザリーは胸が痛んだ。
「今でも描きたいですか?」
カイは彼女を見て、驚いたような表情を浮かべた。「なぜそんなことを?」
「図書室であの絵を見ました。とても素敵でした。そこには…魂が込められていました」
カイの目に一瞬の光が灯った。しかし、すぐに消えた。
「過去の話だ。今は領主になることが私の運命だ」
「運命は変えられないのですか?」
「変えようとすれば、多くの人を傷つける」カイの声には重みがあった。「父、領民、そして…あなたも」
その言葉は、フェザリーにとっての答えでもあった。彼女もまた、真実を話せば多くの人を傷つける。家族、カイ、そして自分自身も。
「時々」フェザリーは囁くように言った。「すべてを捨てて逃げ出したいと思います」
カイは鋭く彼女を見た。「あなたもか?」
「ええ。すべてが重すぎて」
二人は再び沈黙した。しかし、今回はこれまでとは違う、共感に満ちた沈黙だった。お互いが同じ苦しみを抱えていることを理解し合っているようだった。
「ニーナ」カイが彼女の名前を呼んだ。それは初めて、形式的ではない呼び方だった。
「はい?」
「結婚式まで、もっと時間を一緒に過ごそう。お互いをもっと知るために」
フェザリーの胸が熱くなった。それは彼女が望んでいたことだった。しかし同時に、危険でもあった。彼女を深く知れば知るほど、カイは嘘を見破るかもしれない。
「喜んで」彼女はそう答えるしかなかった。
カイは立ち上がり、手を差し出した。「では、今から始めようか?領地の西側に、美しい湖がある。見に行かないか?」
フェザリーはその手を取り、立ち上がった。彼女の手はカイの手の中で小さく震えていた。しかし、カイはそれに気づかないふりをした。
二人は並んで歩き始めた。フェザリーはこの瞬間が永遠に続けばと思った。偽りでも、この温もりだけは本物だった。
しかし、心のどこかで、彼女は知っていた。この平穏は長くは続かない。嵐が来る前に、彼女は決断を下さなければならない。
すべてを告白するか、あるいは嘘をつき通すか。
どちらを選んでも、誰かを傷つける。彼女はただ、その傷が最小限で済むことを願うしかなかった。







