# 本音パニック!~俺の口が勝手に暴走する日~
Synopsis
本音が止まらいな
Chapter1
# 本音パニック!~俺の口が勝手に暴走する日~
## 第一章 8:00 通勤路の地獄
朝8時ちょうど、俺、安芸義雄はいつも通り駅から職場までの10分間の道を歩いていた。曇り空がなんとなく重苦しい。今日は大事なプレゼンの日なのに、なんだか落ち着かない。
「あれ、前を歩いてる人…スーツの襟がめっちゃ曲がってる」
と思った瞬間、口が勝手に動いた。
「おいおい、そのスーツの襟、寝癖ついたみたいにグシャっとしてるぞ。ちゃんとアイロンかけた?」
前方のサラリーマンが振り返った。40代前半くらいかな。目が点になっている。
「えっ?」と男が声を出した。
「いや、すまん、そういうつもりじゃ…」
また口が動く。
「それにネクタイの結び目もゆるゆるだし。今日は大事な商談とかないの?」
男の顔が一気に真っ赤になった。「お、お前…誰に向かってそんなこと言ってるんだ!」
周囲の通行人たちが足を止めた。まずい、まずいぞこれは。謝らないと。
「ごめんなさい、つい…」
「ついって何だ!お前みたいな青二才に服装のことを言われる覚えはない!」
男が怒鳴り返したその時、別の声が響いた。
「あんたも人のこと言えないじゃない。その靴、擦り切れてヒールが減りきってるよ」
振り返ると、30代くらいの女性が、さっきのサラリーマンに向かって言っていた。彼女の口元がぷるぷると震えている。どうやら彼女も「本音」を抑えきれていないようだ。
「な、なんだと!」サラリーマンが女性を睨みつける。
「だって事実でしょ!それに髪の毛も薄くなってきてるのに、無理に横から梳かしてるでしょ、あからさますぎて見てられないわ!」
「お前こそその化粧、厚塗りすぎだ!ファンデーションの境目が顎ではっきり分かるぞ!」
通りがかった高校生風の少年が突然叫んだ。「うわっ!おばさん、それマジで気持ち悪い!」
「な、なによあんたは!そのジャージ、三日は洗ってなさそうな臭いがするわよ!」
「えっ?まじで?昨日洗ったばかりなんだけど…」
「嘘つけ!その黄ばみ、漂白剤でも使わないと落ちないレベルだわ!」
## 第二章 8:15 大混乱
あっという間に通勤路が戦場と化した。
「あんたのその鞄、三年前から同じの使ってるでしょ!流行遅れすぎ!」
「お前のその歩き方、内股すぎて気持ち悪い!」
「そのメガネ、顔に対して小さすぎ!カエルみたい!」
「あなたのその口ひげ、無精ひげと区別つかないわ!」
次から次へと本音が飛び交う。みんな口を押さえたり、頬を押さえたりしているが、どうしても言葉が溢れ出てしまうようだ。
俺も必死に口を押さえた。喋っちゃダメだ。絶対に喋っちゃ…
「あっちのオジサン、完全にスキンヘッドなのに、側頭部の毛三本だけで必死に梳かしてる!諦めたら?」
口がまた動いた。視線の先には、がっちりした体格の50代くらいの男性がいた。作業服を着ているが、その風貌からしてかなり厳つい。
男の顔が一瞬で険悪になった。周囲の喧騒が一瞬で止んだ。
「…なんだと?」
低い、危険な声だ。まずい、本当にまずい。
「い、いえ、なんでも…」
「お前、今なんて言った?」
男がゆっくりと近づいてくる。身長は180cmはあるだろう。腕は俺の腿くらい太い。
「あの…その…」
「聞こえてるんだよ。スキンヘッドのオジサンってな」
「すみません!つい、口が滑って…」
「口が滑った?」
男の拳が光った。次の瞬間、左頬に衝撃が走った。
「がぶっ!」
視界が白く揺れる。地面に倒れそうになるのを必死で堪える。頬が熱く、脈打つように痛む。
「若造のくせに調子に乗りやがって」
男が睨みつける。周囲の通行人たちは、一瞬静かになったが…
「暴力はよくないわよ!それにあなたも人のこと言えないじゃない!その作業服、油汚れがこびりついて洗濯しても落ちなさそう!」
別の女性が叫んだ。
「うるさい!」
男が怒鳴り返すが、もう彼の暴力に誰も注目していない。再び本音の応酬が始まっていた。
俺は這うようにその場を離れた。左頬が腫れ上がっているのを手で押さえながら、職場へと急ぐ。時計を見ると8時25分。遅刻しそうだ。
## 第三章 8:30 職場の本音バトルロイヤル
8時30分、頬を赤く腫らしたまま、なんとか会社のオフィスに滑り込んだ。
中に入ると、そこはもう地獄絵図だった。
「藤田さん、その資料のまとめ方、毎回わかりにくすぎるんだよ!図表一つ入れたらどうなの?」
「山下君こそ、プレゼンの声小さすぎて聞こえない!もっと腹から声出して!」
「課長のそのネクタイ、今日も奇抜すぎる!どこでそんなの買うの?」
「お前ら静かにしろ!この騒ぎの中じゃ集中できねえ!」
デスクの間を行き来しながら、同僚たちが互いに本音をぶつけ合っている。みんな必死に口を押さえているが、どうしても言葉が漏れてしまうようだ。
「あ、義雄君!遅刻じゃないの!」
受付の鈴木さんが俺に気づいた。40代のベテラン事務員だ。
「すみません、途中でちょっと…」
「それよりその頬どうしたの?すごく腫れてるわよ!」
鈴木さんの目が心配そうに細まった。その優しさに、つい…
「鈴木さん、今日のそのブラウス、若作りすぎじゃないですか?50過ぎたらもう少し地味な色がいいと思います」
口が勝手に動いた。ああ、またやってしまった。
鈴木さんの表情が凍りついた。
「…な、なんですって?」
「いえ、つまり…そのピンクがお顔のシワをより強調してしまって…」
「あらあら、義雄君こそそのスーツ、安っぽいポリエステル100%でしょ?擦れる音がカサカサって、聞いてるだけで肌が痒くなるわ」
鈴木さんの口元がぷるぷる震えている。本音を抑えきれないようだ。
「それにその髪型、10年前から変わってないじゃない。もう少し現代風にしたら?」
「す、すみません…」
「義雄君って、いつも昼食の時にくちゃくちゃ音立てて食べるよね。あれ、本当に不快なんだけど」
隣のデスクの佐藤先輩が割り込んできた。30代後半の営業マンだ。
「えっ?くちゃくちゃ?」
「うん。まるで豚みたいだよ。それにカレーの時は特にひどい。スプーンの音もあんまり立てないでほしい」
ショックだ。自分では全く気づいていなかった。
「そ、そうでしたか…気をつけます」
「でもな」と佐藤先輩が続けた。「義雄君はいつも残業を率先してやってくれるよな。あの姿勢は見習いたいと思う」
「え?」
「本当だよ」と鈴木さんも加わった。「義雄君はどんな細かい仕事も手を抜かない。先月の請求書処理、ミス一つなかったわよね。あれには感心した」
照れくさい。こんなこと言われるなんて…
「ありがとうございます。でもそれは当たり前のことですから…」
「いや、当たり前じゃないよ」と別の声がした。システム部の田中さんだ。「みんな面倒な仕事は押し付け合うのに、義雄君だけはちゃんと引き受けてくれる。それに、あの丁寧な報告書の書き方、見ていて気持ちがいいよ」
「私もそう思う」と経理の高橋さん。「義雄君の経費精算の明細、いつもきちんと揃っていて確認が楽なの。他の人のはレシートぐしゃぐしゃだったりするのに」
次々と称賛の言葉が飛んでくる。なんだか胸が熱くなってきた。
「皆さん…ありがとうございます。そんな風に思ってくれていたなんて…」
「でもやっぱり食べる音は直してね」と佐藤先輩が笑った。
「はい!必ず直します!」
## 第四章 9:00 沈黙の時間
時計の針が9時を指した瞬間、オフィス中の喧騒がピタリと止んだ。
「…あれ?」
誰もが口を押さえ、周囲を見渡す。さっきまで溢れ出ていた本音が、突然堰き止められたようだ。
「…喋れる?」
小さな声で誰かが呟いた。
「…喋れるみたい」
別の声が返った。
でも、誰もそれ以上話そうとしない。みんな恐怖で固まっている。もしまた本音が漏れ出したら…もう収拾がつかなくなるかもしれない。
課長が咳払いをした。
「…とりあえず、仕事を始めよう」
誰も反対しない。みんな黙ってデスクに戻り、パソコンを立ち上げる。
オフィスにはキーボードを叩く音と、時折響く咳払いだけが聞こえる。電話が鳴っても、必要最小限の言葉しか交わさない。
「はい、○○株式会社でございます」
「…承知しました」
「…ではよろしくお願いいたします」
いつもなら雑談が飛び交うランチタイムも、今日は異様に静かだ。みんな黙々と弁当を食べ、視線を合わせない。
俺もカレー弁当を食べるのを控え、サンドイッチを選んだ。一口噛むごとに周囲を伺う。誰もこっちを見ていないが、それでも緊張で喉が詰まりそうだ。
午後の会議も異様だった。プレゼンをする営業部の山下君は、資料を指さしながら淡々と説明するだけ。質疑応答の時間には誰も手を挙げない。
「…質問はありませんか?」
課長が尋ねる。全員が首を振る。
「では…次に移ります」
こんな会議は初めてだ。いつもなら「ここはもっと詳しく」「この数字は本当か?」と活発な議論が交わされるのに。
## 第五章 18:00 退社後の重い空気
午後6時、定時になると、みんな息を殺すように退社していく。いつもなら「飲みに行こうぜ」「明日またな」という声が飛び交うのに、今日は無言で会釈するだけ。
俺も鞄を持ち、オフィスを後にする。頬の腫れは少し引いたが、まだ痛みが残っている。
今日は彼女の麻衣とデートの日だ。付き合って三ヶ月。そろそろ関係を進展させたいと思っていた。いいレストランを予約し、プレゼントも用意した。
待ち合わせ場所のカフェに着くと、麻衣がもう来ていた。白いワンピースがよく似合う。
「麻衣、ごめん待った?」
「ううん、私も今来たところ」
いつもなら自然に笑い合えるのに、今日はなぜかぎこちない。
店内に入り、席に着く。メニューを渡されても、なかなか注文が決まらない。
「えっと…義雄さんは何にする?」
「そうだな…麻衣は?」
「んー…」
沈黙が流れる。店員が近づいてくる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「あ、えっと…」
「私は…パスタにします」
「じゃあ僕もパスタで」
店員が去り、再び沈黙。いつもなら仕事の話や趣味の話で盛り上がるのに、今日はなぜか言葉が出てこない。
「その…今日、会社でちょっと変なことがあってさ」
口を開いたものの、続きが思いつかない。本音を全部喋ってしまったらどうしよう。麻衣の何気ない欠点まで口に出してしまったら…
「私も今日、職場で大変だったの」
麻衣も言い淀む。どうやら彼女も同じ現象を経験したようだ。
「もしかして…本音が勝手に出ちゃうやつ?」
「えっ?義雄さんも?」
二人の目が合った。
「うん。朝からずっと。大変だったよ」
「私も…同僚に言ってはいけないこと言っちゃって」
麻衣の目がうるんでいる。きっと辛かったんだろう。
「大丈夫?誰かに何か言われた?」
「ううん…でも、私が言ったことで傷ついた人がいるかもしれない」
俺は頬の腫れを隠すように手を当てた。
「僕も…結構ひどい目に遭った」
「え?どうしたの?」
「いや、なんでもない」
本当は話したい。でも、もしまた本音が暴走したら…麻衣に「その話し方、時々うるさい」とか「その服、似合ってない」とか言ってしまったら…
料理が運ばれてきても、会話はぎこちないまま。美味しいと言いながらも、どこか表面だけの会話に終始する。
「デザートはどうする?」
「私はいいや」
「僕も」
いつもなら「シェアしよう」となるのに、今日はそれすら提案できない。
## 第六章 22:00 帰路の省察
デートを終え、麻衣を家まで送り、一人帰路につく。街灯に照らされた道を歩きながら、今日一日を振り返る。
あの本音の洪水…なぜ起きたんだろう。超常現象?集団催眠?それとも何かの実験?
でも、それ以上に気になるのは、あの現象が露わにした人間関係の現実だ。
俺は今日、多くの人を傷つけた。でも同時に、多くの人から称賛もされた。普段は絶対に口に出さないようなこと、隠していること、それが一気に表面化した。
「本音と建前か…」
呟くと、口から自然に出た。もう暴走はしていないようだ。
世の中は本音だけでは回らない。かといって建前だけでも息苦しい。そのバランスの中で、人は生きている。今日はそのバランスが完全に崩れた日だった。
鈴木さんに「若作りすぎ」と言ってしまったこと、後悔している。でも、彼女が俺の仕事ぶりを評価してくれていたことは、素直に嬉しかった。
佐藤先輩に食べる音を指摘されたのはショックだったが、直すきっかけをもらえた。それに、残業を評価してくれたことも心に残る。
一番怖かったのは、自分ではコントロールできない何かが、自分の口を動かしていたことだ。あの厳ついおじさんに殴られた時、自分では止めたかったのに、体が言うことを聞かなかった。
「偏見も、勝手に出てくるんだな」
駅までの坂道を上りながら思う。あのスキンヘッドのおじさんを見た時、頭に浮かんだのは「怖そう」という先入観だった。それが口に出て、暴力を招いた。
自分の中にそんな偏見があったこと、恥ずかしい。でも、それも自分なんだ。
## 第七章 23:00 自宅での葛藤
自宅に戻り、シャワーを浴びる。湯船に浸かりながら、今日のことをもう一度整理する。
スマホを見ると、麻衣からメッセージが来ていた。
「今日はありがとう。ちょっとぎこちなかったけど、また今度ゆっくり話そうね」
返信を考える。何と書けばいい?本音で「今日のデート、少し物足りなかった」?それとも建前で「とても楽しかった」?
結局、こう返した。
「うん、また今度。今日はお互い大変だったね。ゆっくり休んで」
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、返信が来た。
「そうだね。お互い今日はゆっくりしよう。おやすみ」
「おやすみ」
スマホを置き、天井を見上げる。今日一日で、人間関係がどれだけ脆いものか思い知らされた。たった一日で、築いてきたものが崩れかけた。
でも同時に、見えなかったものが見えた日でもあった。鈴木さんや佐藤先輩、田中さんたちの本心。あの称賛は、きっと本物だった。
「自分では止められない心の声か…」
また呟いてしまう。今日はもう大丈夫そうだ。現象は収まったようだが、その影響は残る。
明日、会社に行ったらどうなるだろう?みんな今日のことを覚えているだろうか?それとも何もなかったように振舞うだろうか?
麻衣との関係も、このままぎこちないままなのか?それとも、今日の経験をきっかけに、もっと深い話ができるようになるのか?
分からないことだらけだ。でも一つだけ分かったことがある。
人間は本音と建前の狭間で生きている。時にはそれが苦しくても、それがないと社会は成り立たない。今日はそのバランスの大切さを、身をもって学んだ日だった。
「明日からは…もっと気をつけよう」
湯船から上がり、鏡に向かう。左頬にはまだ少しあざが残っている。あの痛みを忘れないために、このあざが消えるまで覚えていよう。
自分の中の偏見にも、向き合わなければ。無意識に人を傷つける言葉を持っていることに、今日気づけた。それはある意味、成長の機会かもしれない。
ベッドに入り、天井を見つめる。今日は長い一日だった。疲れているのに、なかなか眠れない。
窓の外から都会の明かりが漏れている。あの光の一つ一つに、本音と建前のバランスを取って生きる人々がいる。
俺もその一人だ。明日からまた、そのバランスを取りながら生きていく。でも今日学んだことを忘れずに。
「おやすみ」
自分に言い聞かせるように呟くと、ようやく眠りについた。
(完)







