Synopsis
拳で全てを語ってきた女の子、社弥生。拭えぬ過去を背負いながら、目指すことになったのは、新人アイドル!?
Chapter1
社弥生の人生は、高校の卒業証書を受け取った、あの春の日に終わった。すべてが。
円満とは言い難かったが、それでも三人家族だった。酒を飲めば手がつけられなくなる父。その隣で、いつも気弱に微笑んでいた母。若い頃の父の、荒削りなところに母は惚れたのだという。けれど、アルコールに溶けていく父の背中を見ていると、そんな過去の面影はどこにも見つけられなかった。父は小さな会社を経営していた。一時は時代の波に乗り、羽振りのいい時期もあったらしい。だが、弥生が高校へ上がる頃には事業は坂を転げ落ち、父は無職同然の男になった。そこからは早かった。貯金を食い潰し、昼間から酒を浴びるだけの置物と化した。それでも母は、そんな父を献身的に支え、壊れかけた家庭を守ろうとしていた。思えばあの頃から、母の笑顔にはいつも、薄い影が差していた。
弥生の学業成績は褒められたものではなかったが、小学生から叩き込まれた空手だけは違った。拳を握っている時間だけは、息ができた。精神が不安定な父親への、ささやかな反抗。そして何より、〈健全な精神は健全な肉体に宿る〉という、澄み切った教えが好きだった。突きや蹴りの一つ一つが、心の中の澱を洗い流していくようだった。やがて弥生の拳は全国の舞台に届き、大学からの特待生推薦も決まった。その冬、父は相変わらず酒に溺れ、褒めの言葉ひとつくれなかったが、母は自分のことのように喜んでくれた。
「弥生は、お母さんのアイドルよ」
食卓でそう言って微笑む母の言葉に、弥生は耳まで熱くなるのを感じた。アイドル。そんな柄ではない。髪は短く、体つきも男のよう。物心ついた時から道場の男連中とばかりつるんできたせいで、言葉遣いもひどく乱暴だ。自分でも、笑うより睨む方が得意だとわかっている。
「ちょっと、母さん!やめろって!」
照れ隠しに声を荒らげる弥生に、母は楽しそうに笑うだけだった。大学の学費の心配はない。空手の合間に少しでもアルバイトをして、この人を楽させてやりたい。弥生は本気でそう思っていた。
だが、その翌日。母は、二度と帰らぬ人となった。長年の心労が引き金となった、突発性の心臓発作だった。
葬儀で喪主を務めたのは弥生だった。父は、その間も部屋にこもって酒を呷り続けていた。骨を拾いながら、弥生は決意した。高校を卒業したら、この家を出よう。母の遺影だけを抱えて。
三月。卒業式の日。あと数日で、あの地獄のような家から、あの父親から解放される。最後の荷造りを終え、アパートへ送る段ボールを玄関に積み上げた時だった。
「あ、母さんの写真」
仏壇から遺影を持っていこうと和室へ向かった弥生は、その光景に息を呑んだ。父が、仏壇をめちゃくちゃに荒らしていた。
「金ぇ……!金はどこだぁ!?酒代がたりねぇんだよ!!」
経机をひっくり返し、位牌を払い除け、そして――母の遺影が、ぞんざいに床へ放り投げられた。ガラスのフレームが、嫌な音を立てて割れる。
その瞬間、弥生の頭の中で、何かが音を立てて切れた。
「てめぇっ!!!」
気づいた時には、叫んでいた。そして、空手で教え込まれた〈健全な拳〉を、決して使ってはならないことに使っていた。
「あっ?」
酔いで反応が鈍った父は、弥生の突きをまともに食らってよろめき、受け身も取れずに倒れ込んだ。後頭部が、仏壇の硬い角に叩きつけられる鈍い音がした。
三月生まれだから、弥生。父親がつけた安易な名前。そのお陰で、事件を起こした時、弥生はまだ十八歳の誕生日を迎えていなかった。それが、唯一の救いだった。当たり所が悪かった父は、そのまま死んだ。弥生は家庭裁判所に送られ、殺人ではなく傷害致死と判断され、女子少年院へ収容されることになった。大学への推薦は、当然のように消滅した。
不思議と、後悔はなかった。あの男は死んで当然だと思った。そしてこれは、聖なるはずの拳を汚した自分への罰なのだと、そう言い聞かせた。
一年後。
「さて、どーっすかな」
少年院の門をくぐり、弥生は大きく伸びをした。肩まで伸びた髪が少し鬱陶しい。出所後の身元引受先は、一応ある。母親の妹の、そのまた夫の親戚の家、とかいう……もはや血縁があるのかないのかもわからない、田舎の一軒家。そこまで行けば、当座の寝床は確保できるはずだった。
指定された電車に乗り込み、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。揺れに身を任せ、最寄り駅に着いた。ホームに降り立つと、生温い風が頬を撫でる。時刻表が貼られた掲示板を見上げ、乗り換え先の駅名と時間を指で追いながら確認していた、その時だった。
不意に、腰にぬるりとした感触があった。
(白昼堂々、痴漢かよ!)
思考より先に、体が動いた。振り返りざま、その感触の主の腹部めがけて、最短距離で右の正拳を叩き込む。
「ぐふっ!!!」
情けない悲鳴と共に、ワイシャツにネクタイ姿の、ひょろりとした若い男がその場に崩れ落ちた。胃の内容物を逆流させ、カエルが潰れたような声で呻いている。
「……っけ、相手を間違えたな。痴漢野郎」
苦悶する男を一瞥し、弥生が背を向けて立ち去ろうとした、その瞬間。手首を、か細い力でぐいっと掴まれた。
「ち、違うよぉぉ。腕を掴もうとしただけだよぉぉぉ……」
耳障りなほど情けない、しゃくり上げるような声。見れば、いい大人の男が、地面に蹲ったままぼろぼろと涙を流している。
「はあ?なんだよお前!」
周囲の乗降客たちが、何事かとこちらを窺っている。その視線が痛い。乱暴な女が、か弱いサラリーマンに因縁をつけている。そんな風に見えているに違いない。出所早々、これ以上面倒事はごめんだった。
「どうしましたか?」
最悪のタイミングで、自転車に乗った警察官が声をかけてきた。制服の男がこちらへ向かってくる。
(まずい……!)
弥生が舌打ちした、その瞬間だった。
「だ、大丈夫です!さ!行こう!!」
ひょろひょろの男が、なぜか突如として立ち上がると、掴んだ弥生の手を引いて猛然と走り出した。
「ちょ、おいっ!!」
何が何だかわからない。訝しむ警官の声を背に、弥生は見知らぬ男に手を引かれ、駅前を全力疾走する羽目になった。
「……三ツ葉プロ?」
息を切らしながら連れてこられたのは、駅前の雑居ビルの三階だった。古びた壁に、そこだけ不釣り合いに真新しい「三ツ葉プロ」と書かれたプラスチックのプレートが掲げられている。
入口の前で、さっきのひょろひょろ男――青山と名乗った――が、土下座せんばかりの勢いで頭を下げてきた。
「頼むぅぅぅっ!一人でも連れて来ないと、僕の明日がないんだよぉぉぉ!」
またしても号泣している。一体何にそこまで追い詰められているのか。その時、ガチャリと音を立てて目の前のドアが開いた。
「こらっ!青山!!うるさいわよ!って……まさか、その子、スカウトしたの?」
現れたのは、栗色のウェーブヘアが印象的な女性だった。年齢は四十代か、あるいは三十代か。磨き上げられた肌と隙のない美貌は、美魔女、という言葉を連想させた。青山は、その女性を見ると蛇に睨まれた蛙のように縮み上がる。
「ひぃぃぃっ!栗原社長!そ、そうです!」
社長、と呼ばれた女性は、弥生の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするようにじろじろと見つめた。
「……なんか、随分ボーイッシュな子ね。ま、いいわ。入りなさい」
有無を言わさぬ口調だった。弥生は、訳も分からないまま、オフィスの中へと通される。
「は?」
部屋の中は、がらんとしていた。いるのは、ひょろひょろの青山と、美魔女の栗原社長。そして、もう一人。部屋の隅のパイプ椅子に、黒髪の少女がちょこんと座っていた。弥生と同じくらいの歳だろうか。極度に怯えた様子で、チラチラとこちらを見ている。
栗原は、そんな室内を見渡し、満足げに頷いた。
「ま、心許ないけど、まずはここからね」
状況が全く飲み込めない。一体自分はどこに連れてこられたんだ。
「じゃ、まずはレッスン。あとはオーディションだけど、二人とも素人発掘系のじゃないと無理ね。土台がそろった子達と戦っても、今のあんた達じゃ相手にならないから」
レッスン?オーディション?
隣で、青山が気まずそうに顔を逸らしている。弥生は、我慢の限界だった。
「あの、」
栗原に声をかける。
「ああ、自己紹介がまだだったわね。ごめんなさい、私は栗原鈴。で、そこのひょろいのが青山針男で……」
「そうじゃなくて」
弥生は、鈴の言葉を遮った。苛立ちを隠さずに、単刀直入に問いかける。
「一体、ここはなんなんですか?」
鈴は、きょとんと目を丸くした。青山は、「あちゃーっ」とでも言うように、手で顔を覆っている。
鈴は、心底意外だという顔で、当たり前のことを言うように口を開いた。
「何って。アイドル事務所よ?――三ツ葉プロに、ようこそ」
「は?」
弥生の思考は、完全に停止した。
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「デビューシングルの題名が決まったわよ!」
三ツ葉プロの、がらんとした事務所に栗原の弾んだ声が響き渡る。その一言は、部屋の空気を一瞬で沸騰させた。
「みんな〜!ありがとう!」
眩いスポットライトが、全身を焦がすように熱い。無数のサイリウムが作り出す光の海が、どこまでも果てしなく広がっている。歓声が、地鳴りの







