Synopsis
2つに割れた日本。割れた日本は東西に分かれて日本人でありながら文化や思想の違いで緊張状態が続いていた。脈々と受け継がれてきた隠密一家「弓寺家」、その姿は現代に合わせて少しずつ変わり国家スパイとして活動するようになった。
弓寺アカリ。弓寺家の長女にして魅惑のスパイ。東西の統一を夢みる彼女の長い長い戦いが始まろうとしていた。
Chapter1
「アカリ姉!そこの通路を右!」
インカムから響く妹の声に、思考よりも先に体が反応する。コンクリートの床を特殊素材のブーツがほとんど音もなく蹴り、アカリは指示された方向へと身を翻した。冷たく、油の匂いが混じる空気が頬を撫でる。背後からは、重い軍靴の音と、警備ドローン特有の甲高い飛行音が複数、執拗に追いすがってくる。
迷路のような電子工場の通路を、漆黒のスパイスーツが影のように疾走する。弓寺アカリは、己の心拍音だけを頼りに、闇の中を突き進んでいた。妹、メイのナビゲーションは常に完璧だ。そのはずだった。
「メイ…行き止まりですよ…!?」
アカリの目の前に現れたのは、無慈悲なコンクリートの壁。左右を見渡しても、逃げ道はない。インカムの向こうで、メイが息を呑む気配がした。
「いたぞ!西側の女スパイだ!」
角を曲がってきた警備員たちの怒声が、閉ざされた空間に反響する。ライトが網膜に焼き付き、数人の人影がこちらへ向かってくるのが見えた。アカリはじり、と後退る。ポーチに忍ばせた短刀の、冷たい柄を無意識に握りしめていた。絶体絶命。その四文字が脳裏をよぎる。しかし、インカムから聞こえてきたメイの声は、不思議なほど明るかった。
「大丈夫!あ、それと、あんまり壁に近づきすぎないでね!アカリ姉!」
その言葉が何を意味するのか、アカリが理解するよりも早く。
ドガガガン!!!
耳をつんざく轟音と共に、目の前の壁が内側から弾け飛んだ。熱風と砂埃がアカリの全身を叩く。咄嗟に腕で顔を庇い、咳き込む彼女の前に、煙の中から一つの人影が姿を現した。
「アカリ、待たせたね。目的のモノは?」
舞い散る瓦礫の中、その男は優しく微笑んでいた。アカリとよく似た、涼やかな目元。手には、まだ硝煙をくゆらせる小型の爆弾が握られている。
「セイ兄さん…!」
アカリは安堵の息を漏らし、きつく握りしめていた左手をわずかに開いてみせた。指先に挟まれた小さなメモリーチップが、非常灯の赤い光を鈍く反射する。
「大丈夫です。全てこの中に…!」
セイと呼ばれた青年は力強く頷くと、アカリの肩を軽く叩き、振り返った。爆煙の向こうで混乱する警備員たちに向かって、残りの爆弾を軽やかなフォームで投げつける。
「ウ、ウァァァッ!!」
悲鳴と怒号が入り混じる。警備員の一人が、盾にするように警備ドローンを前面に押し出し、慌てて踵を返した。その一瞬の混乱が、二人にとっては十分すぎる時間だった。セイはアカリの手を引き、爆破で空いた壁の向こうへと駆け抜ける。そこに隠されていたのは、流線形の黒いバイク。セイが慣れた手つきでエンジンを始動させ、アカリは素早くその後ろに飛び乗った。爆音を轟かせ、バイクは夜の闇へと溶けるように走り去っていった。
***
数日後。
唸りを上げるエンジン音が、静かな地下空間に響き渡る。アカリたち、弓寺家の一部の者しか知らない秘密の地下道。その終着点である自宅の地下駐車場にバイクが滑り込むと、一つの影が二人を出迎えた。
「おかえりなさい。アカリ、セイ」
柔らかなウェーブのかかった栗色の髪の女性。電動車椅子に乗り、静かに微笑んでいる。少しだけ垂れた優しい目元は、アカリやセイと驚くほどよく似ていた。しかし、その瞳は固く閉じられている。
「ただいま、お母さん」
アカリはバイクから降りると、強張っていた全身の力を抜き、母親の車椅子に駆け寄った。任務中の緊張が、この人の声を聞くと嘘のように和らいでいく。
「あら……、頬に傷が…だめよ女の子なんだから、顔のお肌は大切にしないと」
母親――アンは、アカリの顔に触れることなく、その微細な傷の存在を言い当てた。そして、まるで傷の位置が見えているかのように、その白い指先をアカリの頬へと伸ばし、そっと撫でる。盲目のはずの母。だが、その感覚は、世界の理を静かに見通しているかのように、どこまでも鋭く澄み渡っていた。
「母さん、父さんは?」
バイクのキーを抜きながら、セイが尋ねる。アンは少しだけ表情を曇らせ、息子のほうへ顔を向けた。
「さっきまであなた達を待っていたの。でも、西日本政府の会議に呼ばれて向かったわ。セイ、休みなしで悪いのだけれど、ライトさんを追いかけて。きっと、東側から持ち帰ったそのデータチップが役に立つはずよ」
「わかった」
セイは短く応じると、アカリが彼に渡したチップを懐にしまい、駐車場の奥にある地下エレベーターへと向かった。おそらく地上階の自室で着替えを済ませ、父であるライトが参加する会議へと向かうのだろう。分断された二つの日本。その対立構造を少しでも和らげるために。
その歴史は、一つの厄災から始まった。
太平洋戦争末期。敗戦濃厚の日本に、決定的な終止符を打つための原子爆弾が投下されようとしていた、その最中。それは起こった。
――富士山大噴火。
未曾有の大噴火は、日本列島そのものを揺るがすほどの大規模な地殻変動を誘発した。そして、日本の象徴であった富士山を中心に、国土は物理的に真っ二つに引き裂かれた。後に「東京海峡」と呼ばれる広大な海が、そこに誕生したのである。
戦争で疲弊しきった日本に追い打ちをかけたその天変地異は、国の運命を決定的に変えた。海峡によって分かたれた東日本はロシア(当時はソビエト連邦)の、西日本はアメリカの占領下に置かれた。後に、統治権はそれぞれ日本へと返還されたが、支配背景と思想の違いは、同じ民族の間に深い溝を残した。東日本と西日本は、同じ言語と文化を共有しながらも、全く別の国家として歩み始め、以来、経済的、そして時には武力的な対立を繰り返す、終わりの見えない緊張状態が続いていた。
弓寺家。その名は戦国時代にまで遡る、忍びの一族。彼らは時代の影に生き、歴史の転換点を裏から支えることを宿命としてきた。そして現代。忍びという存在が過去の遺物となった今も、彼らはその姿と役割を変え、影としてスパイとして生き続けている。
現在は当主である弓寺ライトを中心に、西日本政府の非公式諜報機関として活動している。元伝説のスパイである父・ライト。予知にも似た力を持つ母・アン。長男のセイ。長女のアカリ。そして、天才ハッカーである次女のメイ。五人の家族が、この分断された国で、影の任務にその身を投じていた。
これは、そんな時代に生きる一人のくノ一、現代のスパイ、弓寺アカリの物語である。
Latest Chapters
「死のう」
潮風が頬を叩き、髪を乱す。眼下に広がる東京海溝の深い闇が、アカリを誘うように口を開けていた。もう、これしかなかった。家族は、みんないなくなった。父ラ
「そもそもライトさんがあの状態から生きているなんて有り得ないわね。アカリ、昔より嘘が上手くなったわね」
陽光が差し込む、穏やかなはずの部屋。その空気を切り裂いた
意識が、ゆっくりと浮上する。重い瞼を押し上げると、見慣れた自室の天井がぼんやりと滲んでいた。アカリは、ベッドの上に横たわっていた。最後に見送ったはずの独房の冷たいコンクリートではなく、肌触りの良
「メイさんの姉としてアカリさんに聞きます。メイさんが母親の行方を調べない可能性は?」
冷たい尋問室のような空気の中、ショウの言葉は鋭い刃のようにアカリの鼓膜を突







