Synopsis
入社一年目、私は最悪の職場で溺れかけていた。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのは——完璧な上司、神代部長。
嫌がらせをする先輩は異動になり、
漏水した部屋の代わりに素敵な物件を紹介してくれ、
ストーカーからも守ってくれた。
彼は私のヒーロー。私の運命の人。
……でも、ねえ。
どうして彼は、いつも「ちょうどいいタイミング」で現れるの?
甘い蜜月の裏に隠された、恐ろしい真実。
逃げ出した先に待つのは、自由か、それとも——
Chapter1
四月の風がビルの谷間を抜けていく。桜の花びらが一枚、川島彩芽の肩に落ちて、すぐに地面に吸い込まれた。
彼女は大手商社の本社ビルの前で立ち尽くしていた。新調の紺色のスーツが少し大きすぎて、肩のラインがぼやけている。左手に提げたビジネスバッグは、就活で使っていた黒のナイロン製で、新しさと安さがにじみ出ていた。
「今日から社会人だ」胸の奥で誰かが呟く。でもその声は、すぐに別の声にかき消される。「本当にここで働けるのかな。私なんかが」
エントランスをくぐる社員たちは、皆、同じような足取りで歩いていた。朝の光に慣れた顔、決まったリズムの靴音。彩芽はそれらを見つめながら、自分の呼吸が少しずつ浅くなっていくのを感じた。
入社式の会場は三階の大ホール。百名近い新入社員が並び、名前を呼ばれるたびに立ち上がる。彩芽の番が来た時、彼女の膝は小さく震えていた。名前を告げる声は、自分のものとは思えなかった。
「川島彩芽です。よろしくお願いします」
挨拶を終えて腰を下ろす瞬間、周囲の視線が一瞬自分に注がれたような気がして、彼女は俯いた。実際には、誰も彼女を見ていなかった。でもそのとき、彼女は確かに「失敗した」という感覚を胸に刻み込んだ。
配属先は貿易第二部。廊下を歩きながら、先輩社員に案内される。オフィスは窓際に並ぶデスクの列で、それぞれに名札が立っている。彩芽のデスクは、一番奥の隅だった。
「ここが君の席だよ」
案内してくれた男性は、そう言って去っていった。彩芽は椅子に腰掛け、まわりを見回した。誰も彼女を見ていない。キーボードを打つ音、電話のベル、低い会話の断片。それだけが、空気の中に浮かんでいた。
「あなた、新人?」
振り返ると、三十代後半の女性が立っていた。細身のスーツに、整った顔立ち。でも目元に、疲労の影が濃かった。
「はい。川島彩芽です」
「山田香織よ。よろしく」
山田はそう言って、すぐに自分のデスクに戻っていった。彩芽は彼女の背中を見送りながら、まずは挨拶回りをしなければ、と思った。でも誰に声をかければいいのか、見当もつかなかった。
一週間経った頃、彩芽は自分の立場が少しずつ理解され始めていた。山田は、自分の配下に入った新人を「鍛える」ことが役目だと思っているらしい。朝一番で呼び出し、難しい仕事を渡す。でも、やり方を教えてはくれない。
「これ、今日中に仕上げてちょうだい」
山田はそう言って、山のような書類を彩芽のデスクに置いた。内容は輸入契約書のチェックだった。専門用語が並び、数字の羅列が続く。彩芽はパソコンを開き、辞書サイトを立ち上げた。でも、時間だけが過ぎていく。
午後の会議室で、山田は彩芽のミスを指摘した。
「ここ、税率の計算間違ってるじゃない。新人だからって、こんな基本的なこともできないの?」
他の社員の視線が集まる。彩芽は顔が熱くなるのを感じた。謝りたい言葉が喉の奥でつかえ、出てこない。
「すみません。直します」
やっと絞り出した声は、自分でもひどく弱々しいものに聞こえた。山田は小さく鼻を鳴らして、資料を閉じた。
帰宅時間は夜の九時を過ぎていた。彩芽は電車の窓に顔を映しながら、今日もダメだった、と思った。同期の誰かがラインを送ってくる。飲み会の写真だった。皆、楽しそうに笑っている。彩芽はその写真を見つめながら、自分だけが置いてきぼりにされている気がした。
二週目に入って、山田の対応はさらに厳しくなった。彩芽が作った資料は、何度もやり直しを命じられた。細かい指摘が続き、最後には最初の状態に戻されることもあった。
「もう一度、やりなおして。これじゃ、使えないわ」
彩芽は黙って頭を下げた。でも、本当は叫び出したかった。何が間違っているのか、教えてほしかった。でも山田は、答えを教えてはくれなかった。
その日の夜、彩芽はオフィスで一人、残業をしていた。モニターの光だけが、彼女の顔を照らしている。目の下に、くまができ始めていた。でも、鏡を見る勇気はなかった。
「もう、無理かもしれない」
誰に言うともなく、呟いた。でも、その言葉が口をついて出た瞬間、胸の奥にあったものが、音を立てて崩れていくのがわかった。それは、期待だった。自分でもできるはずだ、という淡い期待。でも、それはもう、形を留めていなかった。
三週目の金曜日、彩芽は会議で大きなミスをしてしまった。得意先の名前を間違え、資料を作り直す羽目になった。山田は、全員の前で彩芽を叱った。
「この程度のこともできないんだったら、正直、うちの会社は無理じゃないかな」
会議室が静まり返る。彩芽は、自分の心臓の音だけが、耳の奥で響いているのを感じた。誰かが助けてくれるはずもなかった。皆、自分のデスクに戻り、仕事を再開した。まるな、何事もなかったかのように。
その夜、彩芽は一人で残業をしていた。オフィスは静まり返り、蛍光灯の音だけが響いている。彼女はキーボードを打ちながら、涙が頬を伝うのを感じた。でも、手を止めることはできなかった。止めたら、本当に終わりにしてしまいそうで、怖かった。
時計の針が九時を回った頃、彩芽は席を立った。コーヒーを淹れに、給湯室へ向かった。そこは、廊下の奥にあり、誰もいないはずだった。でも、ドアを開けた瞬間、誰かの気配を感じた。
「あら、誰かと思えば」
山田だった。彼女はコーヒーカップを持ち、窓の外を見ていた。彩芽は、立ちすくんだ。逃げ出したい、と思った。でも、足が動かなかった。
「あなた、まだ残業?」
山田は振り向かずに言った。彩芽は小さく頷いた。でも、山田はそれを見ていない。
「私も、昔は新人だったわよ。でも、あんなミスはしなかったな」
その言葉は、彩芽の胸に深く突き刺さった。でも、何も言い返すことはできなかった。山田は、ゆっくりと振り返った。
「頑張りなさいよ。期待してるから」
山田はそう言って、去っていった。彩芽は、一人で給湯室に残された。でも、泣くこともできなかった。ただ、胸の奥に、熱いものがこみ上げてくるのを感じただけだった。
月曜日、彩芽は朝の会議で、またしてもミスをしてしまった。今度は、輸送費の計算を間違えた。山田は、ため息をついた。
「もう、いい加減にしてちょうだい。皆の迷惑になるだけじゃない」
彩芽は、自分の手が震えているのを感じた。でも、誰もそれを見ていない。皆、自分の仕事に集中している。彩芽は、自分がまるで透明人間になったような気がした。
昼休み、彩芽は一人で屋上へ上がった。そこは、誰も来ない場所だった。風が強く、髪が顔に張り付く。彼女は、フェンスに手を掛けながら、下を見下ろした。でも、飛び降りる勇気なんて、なかった。ただ、何もかもが嫌になった。仕事も、自分も、そして、この世界さえも。
午後の仕事が終わり、オフィスが空になるのを待って、彩芽は給湯室に向かった。そこは、誰もいないはずだった。でも、ドアを開けた瞬間、誰かが立っているのが見えた。男性だった。背が高く、スーツがよく似合っている。彼は、ティッシュペケットを差し出していた。
「新人さんだね。最初は、誰もが大変なんだ」
彩芽は、顔を上げた。涙で視界が滲んでいる。でも、その声は優しかった。彩芽は、ティッシュを受け取った。指先が、小さく震えている。
「私、神代といいます。部長をやってる」
神代蓮だった。彩芽は、名前を聞いたことがあった。若くして部長になった、有能な人だと聞いている。でも、実際に会うのは初めてだった。
「報告書、読ませてもらいましたよ。とても良く書けている」
彩芽は、驚いた。自分の書いた報告書なんて、誰も読んでいないと思っていた。でも、神代は微笑んでいた。
「諦めないで。君には、才能がある」
その言葉は、彩芽の胸に深く届いた。でも、信じることはできなかった。自分なんかに、才能があるはずがない。でも、神代は、そんな彩芽の気持ちを見透かしたように、続けた。
「私は、君のことを期待している」
彩芽は、初めて誰かに認められた気がした。山田に苛まれ、同期に置いていかれ、自分自身を責め続けた日々。でも、それでも、誰かが自分を見ていてくれた。そんな気がして、彩芽の胸の奥に、小さな火が灯った。
神代は、彩芽の肩に軽く手を置いた。でも、すぐに離した。
「また、話しましょう。頑張って」
神代は、去っていった。彩芽は、一人で給湯室に残された。でも、もう泣いていなかった。ただ、胸の奥に、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは、希望だった。自分でも、まだ何かができるかもしれない、という小さな希望。
翌日から、彩芽の日常は少しずつ変わり始めた。朝、デスクについてみると、コーヒーカップが置かれている。誰が、と思ったが、すぐにわかった。神代だった。彼は、彩芽が来る前に、オフィスに来ているらしい。
昼休み、彩芽が一人で昼食をとっていると、神代が声をかけてくるようになった。
「川島さん、ちょっといいかな」
神代は、彩芽を会議室に連れていき、仕事のコツを教えてくれた。細かい点まで、丁寧に。彩芽は、メモを取りながら、神代の言葉を聞いた。それは、山田の教え方とは、まるで違っていた。責めるのではなく、褒める。否定するのではなく、肯定する。
「君は、細かいところに目が届く。それは、とても大切なことだ」
彩芽は、初めて自分の長所を認められた気がした。神代は、彩芽の目を見て、微笑んだ。
「私は、君のことが好きだよ」
その言葉は、彩芽の胸に深く突き刺さった。でも、恋愛感情ではない、とすぐにわかった。神代の「好き」は、もっと大きなものだった。人間として、認めてくれている。そんな気がして、彩芽の胸は熱くなった。
山田の対応も、少しずつ変わり始めた。急に、彩芽の仕事を褒めるようになった。会議でも、彩芽の意見を取り上げるようになった。彩芽は、驚いた。でも、すぐに理由がわかった。神代が、山田に何かを言ったのだ、と。
「川島さん、最近、成長したね」
山田は、笑顔でそう言った。でも、その笑顔の奥に、何かが潜んでいるのを、彩芽は感じた。でも、それを確かめることはできなかった。ただ、もう、以前のような嫌がらせはされなくなった。
帰宅時間も、少しずつ早くなっていった。神代は、彩芽に無理な残業はさせなかった。でも、その代わり、朝早く来るようになった。彩芽は、神代との時間を、少しずつ楽しみにするようになっていた。
「おはよう、川島さん」
朝の挨拶が、彩芽の日課になった。神代は、いつも優しく、彩芽のことを見守っている。彩芽は、初めて、誰かに必要とされている気がした。でも、その感覚が、いつしか、もっと大きなものに変わっていくことに、彩芽はまだ、気づいていなかった。
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神代蓮が独房で自ら命を絶ってから、正確に三百六十五日が経過した。
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冷たい夜気を切り裂きながら走る黒いセダンの助手席で、私は膝の上に乗せた黒いボストンバッグの感触だけを唯一の現実として認識していた。
震える指先はまだ完全に硬直を解いて
午後二時四十五分。リビングのソファで膝を抱えていた川島彩芽のスマートフォンが、短い振動音を立てた。
画面に表示されたのは、暗号化されたメッセージアプリの通知だった。差







