恶の水
Synopsis
1938 年の年末、アメリカのジャーナリストであるジョージ・ウィーカースは単身で民国を訪れ、ここで発生した一つの凶悪な惨事の調査を始めた —— 政府は日本の侵略者が花園口に爆弾を投下したことで黄河が氾濫し、民衆は家を失い、生きていく術をなくしたと公表した。だが、調査を進めるうちにジョージは徐々に不審な点に気づき、やがて隠された真実に近づいていくのだった……
Chapter1
1938年、冬。漢口。
長江から這い上がる湿気は、まるで目に見えない粘液のように都市全体を覆っていた。それは人々の肺に染み込み、呼吸を重くし、路地裏の影をより濃密なものに変えていた。ジョージ・ヴィカスが汽船のタラップを降りたとき、最初に感じたのはその「窒息感」だった。
「戦時首都」と呼ばれるこの場所は、崩壊寸前の蟻塚のような活気を呈していた。通りには避難民の群れが泥のような色をした川となって流れ、荷車と軍のトラックが互いの車輪を軋ませながら道を争っている。クラクションの不協和音、売り子の枯れた叫び声、そして遠くから聞こえる空襲警報の残響。それら全てが、湿った空気の中で歪み、不安を掻き立てる低周波となって鼓膜を震わせた。
『ワールド・フロンティア』誌のスター記者。その肩書きは、この混沌とした極東の地において、ある種の「外交特権」のように機能した。税関の検査は形式的な敬礼だけで済み、国民政府新聞処が手配した黒塗りのセダンが、泥濘(ぬかるみ)の道をするりと抜け出し、彼を迎え入れた。
車窓の外を流れる風景は、色彩を失ったモノクローム映画のようだった。ジョージは手帳を開き、万年筆のキャップを外したが、文字を書くのをためらった。彼がここに来た目的は明確だ。「黄河決壊」。日本の侵略軍が犯したとされる、現代史上稀に見る蛮行。だが、彼のジャーナリストとしての触角は、この湿った空気の中に漂う微かな違和感——焦げ臭いような、あるいは嘘の腐敗臭のようなもの——を捉えていた。
「地獄へようこそ、ミスター・ヴィカス」と、彼は誰に聞かせるでもなく英語で呟き、窓ガラスに映る自分の疲れた顔を見つめた。
案内されたのは、軍事委員会の一室だった。外の喧騒が嘘のように遮断された空間。磨き上げられたマホガニーのテーブルの上には、一枚の巨大な地図が広げられている。
「遠路はるばる、よくお越しくださいました」
その男、戴(タイ)氏は、完璧なオックスフォード英語を話した。仕立ての良い軍服には一切の皺がなく、指先はピアニストのように繊細だった。彼は軍の参謀というよりは、チェスの愛好家のように見えた。
「状況は明白です」戴氏は銀の指示棒を取り出し、地図上の一点を優雅に指し示した。「花園口(ホワユァンコウ)。ここが爆撃地点です」
彼の説明は、あまりにも論理的だった。日本軍の爆撃機の軌道、投下された爆弾の推定トン数、堤防の構造的脆弱性に対する打撃の角度。彼が提示する数枚の航空写真は、黒い噴煙が上がる瞬間を捉えたものだった。
「我々にとって、黄河は母なる川です」戴氏の声は、悲痛さを湛えながらも、決して感情的に乱れることはなかった。「彼らはその母の腹を裂き、何十万もの無辜の民を濁流に沈めた。これは戦争行為ではない。虐殺です」
ジョージはペンを走らせながら、戴氏の瞳を観察した。そこには揺らぎがない。あまりにも澄んでいる。それは真実を語る者の目か、それとも鏡のように何も映さない虚無か。
「戴さん」ジョージは手を止め、顔を上げた。「爆撃による決壊だとしたら、堤防の破壊痕は漏斗状になるはずです。しかし、一部の報告では、切れ目が不自然に平坦だという話もありますが?」
戴氏の眉が、ミリ単位で動いた。だが、彼の微笑みは崩れなかった。
「戦場は混乱しています、ミスター・ヴィカス。恐怖に駆られた避難民の目は、しばしば幻覚を見ます。それに、濁流が全てを削り取った後では、傷口の形状など無意味でしょう」
彼は地図の上の赤い印を、まるで不快な染みでも拭い取るかのように、白い手袋をはめた指で撫でた。
「あなたは歴史を記録しに来たはずだ。瑣末な矛盾に足を取られ、本質を見失わないことを願いますよ」
その言葉は忠告のように聞こえたが、ジョージの耳には、絹で包んだナイフのような警告として響いた。
午後の記者会見場は、フラッシュの閃光と熱気で満たされていた。
演台の中央には、一人の農民が座らされていた。粗末な木綿の服、日に焼けた皮膚、そして枯れ木のような手。彼は「生存者」というラベルを貼られた展示品のようだった。
「飛行機が……黒い鳥のように飛んできて……」
男は震える声で語った。家族が流されたこと、家畜が溺れたこと、そして空から降ってきた「火の雨」のこと。通訳がドラマチックな抑揚をつけてそれを英語に変換し、外国人記者たちが一斉にタイプライターを叩く。
ジョージは最前列に座り、男の顔をカメラのファインダー越しに覗き込んだ。悲しみ? いや、何かが違う。
「質問があります」
ジョージが手を挙げると、会場が一瞬静まり返った。
「爆弾が落ちたとき、あなたはどこにいましたか? 音は先でしたか、それとも光が先でしたか?」
通訳がその質問を伝えると、男の口籠(くちごも)った。彼の目が泳いだ。視線はジョージではなく、演台の袖、暗がりに立っている制服姿の男たちへと吸い寄せられた。
ほんの一瞬。瞬きするほどの短い時間。
だが、ジョージは見逃さなかった。その目に宿っていたのは、家族を失った悲嘆ではなかった。それは、鞭を恐れる家畜のような、純粋で原初的な「恐怖」だった。
「……ドカンと、大きな音がして……それから水が……」
男は台本を思い出したかのように言葉を継いたが、ジョージはもうペンを動かしていなかった。彼はカメラを下ろし、台の袖にいる男たちを見た。彼らは石像のように無表情だったが、その冷たい視線は確かに、演台の上の男の背中に突き刺さっていた。
ここでは、悲劇さえも演出されている。
夜、ホテルの部屋に戻ったジョージは、シャツのボタンを外し、ウィスキーのボトルを開けた。
窓の外では雨が降り始めていた。漢口の雨はしつこく、窓ガラスを叩く音は誰かが助けを求めてノックしているかのように聞こえる。
彼は机の上に一枚の写真を立てかけた。スペイン、マドリードの廃墟を背に笑う若い男。彼の兄だ。
「見ろよ、兄貴。ここも同じだ」
ジョージはグラスを傾けた。兄はスペイン内戦の取材中に消息を絶った。「流れ弾に当たった」というのが公式発表だったが、遺体は見つかっていない。あの時も、当局の説明はあまりにも辻褄が合っていた。あまりにも美しく、英雄的だった。
今日の戴氏の説明、あの農民の視線。既視感(デジャヴ)が喉の奥で苦い味となって広がる。
ノックの音。
ジョージはグラスを置き、警戒しながらドアに近づいた。「誰だ?」
返事はなかった。ドアを開けると、廊下は無人だった。湿ったカーペットの匂いだけが残っている。足元を見ると、ドアの隙間から滑り込ませたような、小さく折り畳まれた紙片が落ちていた。
彼はそれを拾い上げ、部屋の薄暗い灯りの下で開いた。
それは教会の診療所で使われる処方箋の裏紙だった。走り書きされた英語。筆圧が強く、書いた者の焦燥が伝わってくる。
『数千の遺体を検視した。爆弾の破片による傷(shrapnel wounds)は一つもない。全員、溺死(drowning)だ。水が来る前に爆発音はなかった』
署名はない。だが、ジョージの心臓が早鐘を打ち始めた。
爆撃ではない。
もし爆撃で堤防が壊れたのなら、爆発による死傷者が必ず出る。だが、全員が溺死ならば——水は、爆発の前から、あるいは爆発とは無関係に、彼らを飲み込んだことになる。
ジョージは紙片を握りしめた。手の中で紙がくしゃりと音を立てる。その音は、戴氏が広げた完璧な地図に、決定的な亀裂が入る音のように聞こえた。
「……やっと、本当の仕事の始まりか」
彼は兄の写真に向かって呟き、紙片をライターの火で燃やした。灰が床に落ちる前に、彼の目はすでに、見えない真実の輪郭を捉えようと、闇の奥を睨みつけていた。
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車輪がレールを叩く音。ガタン、ゴトン。その規則的なリズムは、まるで巨大な獣が獲物を咀嚼する音のように、李淑珍(リ・シュウジェン)の耳元で響き続けていた。
彼女は
が、未だかつてない金切り声を上げて武漢の空を引き裂いていた。それは都市の悲鳴であり、これから訪れる破壊への序曲でもあった。
安全屋(セーフハウス)の重い鉄扉がわ
ジョージの視線は、もはや銃口を向ける男を通り越していた。彼の意識は、嵐の海を漂う小舟のように、過去と現在を行き来する。
隣に立つ李淑珍(リー・シュウジェン)を見
銃声は響かなかった。
予想していた暴力的な幕切れの代わりに、部屋を支配したのは、奇妙なほど静謐(せいひつ)な沈黙だった。戴(タイ)氏は、まるで午後の茶会のホスト







