Synopsis
人生最高の晴れ舞台であるはずの結婚式で、愛した婚約者に全てを裏切られた“氷の令嬢”が、二十年越しの愛を貫く幼馴染の御曹司と手を組み、偽りの花嫁が立つはずだった祭壇を、自らの真実の愛を証明する最高の舞台へと変える、最も華麗で痛快な逆襲の物語。
Chapter1
銀座の午後の陽光は、真珠の粉を溶かし込んだ蜂蜜のように、甘く、そしてどこか重々しく降り注いでいた。最高級ブティックが軒を連ねるこの街並みの中でも、ひときわ静謐な空気を纏う白亜の建物が、天海穂乃香の目的地だった。世界中のセレブリティがその門を叩く、オーダーメイド専門のウェディングサロン「Écrin de Rêve」。夢の宝石箱、という名にふさわしい場所だ。
天海ネットワークス副社長、天海穂乃香。IT業界の巨人である父の血と、怜悧な頭脳を受け継いだ彼女は、社内で「氷の女王」と密かに呼ばれることもあった。しかし今、鏡の前に立つ彼女の表情には、その氷を融かす微かな熱が宿っている。彼女が身に纏っているのは、この世にただ一着しか存在しないウェディングドレス。イタリアの伝説的デザイナーが、引退前に最後のインスピレーションを注ぎ込んだという逸品だ。
シルクオーガンジーが幾重にも重なったスカートは、まるで夜明けの雲海を切り取ってきたかのように軽やかで、光を受けるたびに繊細な陰影を生み出す。胸元には、職人が一粒一粒手作業で縫い付けた数百個の小ぶりの真珠が、控えめながらも確かな輝きを放っていた。それは単なる衣装ではなく、芸術品であり、そして穂乃香にとっては、間近に迫った高坂圭吾との結婚という、人生の大きな事業を象徴するものであった。この政略結婚が、互いの会社にとって最善の選択であることは、彼女の明晰な頭脳がとうに計算済みだった。そこに個人の幸福という変数を加えるつもりはなかったが、このドレスを前にした時、計算外の感情が胸の奥で静かに芽生えるのを感じていた。
「素晴らしいですわ、穂乃香様。まるでこのドレスが、最初から穂乃香様のために生まれてきたかのようです」
ベテランのコーディネーターが、心からの感嘆を込めて溜息をついた。穂乃香は鏡の中の自分を見つめる。完璧なシルエット、非の打ち所のないデザイン。すべてが彼女の求める「完璧」という基準を満たしていた。この結婚も、このように完璧に進むはずだ。
その時、サロンのドアベルが澄んだ音を立てた。高坂圭吾が、自身のタキシードの試着のために訪れたのだ。穂乃香の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「少し、隠れています。彼を驚かせたいの」
コーディネーターにそっと告げると、穂乃香は純白の雲のようなドレスの裾を揺らしながら、広々としたフィッティングルームのカーテンの奥へと身を隠した。重厚なベルベットのカーテンが、彼女の世界と外の世界を隔てる。これから起こる甘いサプライズを想像し、彼女の心は静かに弾んでいた。圭吾がこのドレス姿の自分を見た時、どんな顔をするだろうか。いつも冷静な彼が、今日ばかりは感嘆の表情を隠せないかもしれない。そんな他愛ない期待が、カーテンの隙間から漏れる光のように、彼女の心を温めていた。
「圭吾さん、お待ちしておりました」
コーディネーターの恭しい声。続いて、聞き慣れた、愛しいはずの婚約者の声が響く。
「すまない、待たせたね。穂乃香さんはもう?」
「ええ、ただいまお着替えの最中でして……」
完璧なタイミング。穂乃香は息を潜め、カーテンを引くその瞬間を計っていた。だが、その計画は、予期せぬ第三者の声によって無慈悲に砕かれることになる。
「圭吾先輩……!」
甲高く、そして涙に濡れたその声が、サロンの静寂を切り裂いた。穂乃香はその声を知っていた。白石遥。圭吾の大学時代の後輩で、事あるごとに圭吾を「先輩」と慕ってついて回っていた女だ。なぜ彼女が、ここに?
「遥……どうしてここにいるんだ?それに、その顔……何かあったのか?」
圭吾の声には、穂乃香が決して聞いたことのない種類の動揺が含まれていた。それはビジネス上の冷静な判断を下す時の声ではなく、もっと個人的で、感情的な響きを持っていた。
「ごめんなさい、先輩の邪魔をするつもりじゃなかったの……でも、もう、私、どうしていいか分からなくて……」
堰を切ったような嗚咽。カーテンの向こう側で繰り広げられる光景が、穂乃香の脳裏に不吉な映像を結ぶ。遥の震える肩を、圭吾が支えているのだろうか。
「落ち着いて。何があったか話してくれ」圭吾の声は、慈愛に満ちた聖職者のように優しかった。
やがて、遥が途切れ途切れに語り始めた言葉は、穂乃香の幸福な期待を根底から破壊する爆弾となった。会社の既婚者の上司と関係を持ち、妊娠し、そして捨てられた。ありふれた、しかし当人にとっては悲劇的な物語。穂乃香は眉をひそめた。同情はするが、それをなぜ圭吾に、しかもこの場所で話す必要があるのか。
「なんてことだ……」圭吾が絶句している。穂乃香は、彼の正義感が刺激されたのだろうと冷ややかに思った。面倒見の良い彼は、後輩の窮状を放ってはおけないのだろう。だが、次に圭吾の口から紡がれた言葉は、穂乃香の思考そのものを、全身の血を、一瞬にして凍りつかせた。
「遥、大丈夫だ。俺がいる」
静かな、しかし確信に満ちた声だった。
「でも、どうするっていうの……?お腹の子は……私はもう、世間から後ろ指をさされて生きていくしかないのよ……!」
「そんなことはさせない。……なあ、遥。一つだけ、方法がある」
圭吾の声が、悪魔の囁きのように甘く、そして恐ろしく響いた。穂乃香は、自分の耳がおかしくなったのではないかと疑った。心臓が氷の塊になったかのように動きを止め、指先から急速に熱が失われていく。
「結婚式で、穂乃香さんの代わりに、遥がウェディングドレスを着るんだ」
静寂。時が止まった。フィッティングルームの中の豪奢なドレスも、壁にかけられたアンティークの鏡も、窓から差し込む陽光さえも、すべてが意味を失った。何を、言っている?この男は。
「え……?」遥の間の抜けた声が、かろうじて穂乃香の鼓膜を震わせた。「そんなこと……できるわけ……」
「できる。いや、やるんだ。これは一時的な偽装だ。君の名誉を守るための。結婚式さえ乗り切れば、君は『高坂圭吾の妻』として世間に認知される。その後、ほとぼりが冷めた頃に離婚すればいい。そうすれば、誰も君が未婚で子供を産んだなんて思わない。すべては、君とお腹の子のためだ」
正気の沙汰ではない。穂乃香の頭の中で、何かが音を立てて砕け散った。それはプライドか、信頼か、あるいは彼女自身が気づいていなかったささやかな愛情だったのかもしれない。この男は、自分の結婚式を、自分の人生の重要な儀式を、他の女を救うための舞台装置として使おうとしている。自分という存在を完全に消し去り、身代わりを立てようとしている。それは裏切りという言葉では生ぬるい、存在そのものへの冒涜だった。
「でも、穂乃香さんは……?天海さんは、なんて……」
「穂乃香さんは……話せば分かってくれるはずだ。彼女は物分りのいい女性だから。これは人助けなんだと説明すれば、きっと協力してくれる」
物分りのいい女。その言葉が、最後の引き金を引いた。全身の凍りついていた血が、今度は沸騰を始める。怒りではない。もっと冷たく、もっと破壊的な感情。殺意に近い無感情。穂乃香はゆっくりと、ドレスのポケットを探り、スマートフォンを取り出した。震え一つない指で、録音ボタンを押す。赤い録音中のマークが、まるで彼女の心に灯った復讐の炎のように、静かに点灯した。
カーテンの向こうでは、圭吾の愚かな聖母劇と、遥の計算高い悲劇のヒロイン劇が続いている。男の自己満足に満ちた救済案と、女の涙に隠された狡猾な安堵。すべてが、クリアな音質でデジタルデータに変換されていく。
やがて、二人の足音が遠ざかり、サロンに再び偽りの静寂が戻った。穂乃香は、しばらくの間、身じろぎもせずに立ち尽くしていた。鏡に映る自分は、完璧な花嫁の姿をしている。しかし、その瞳に宿る光は、先ほどまでとは全く異質のものに変わっていた。そこにはもう、幸福への期待など微塵もない。あるのは、硬質なダイヤモンドのように冷たく、そして決して砕けることのない決意だけだ。
彼女は静かにカーテンを開けた。驚いた顔で駆け寄ってくるコーディネーターに、穂乃香は穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「このドレス、いただくわ。支払いはカードで一括でお願い。それから、大変申し訳ないのだけれど、結婚式当日まで、ここで預かっていただけるかしら」
「もちろんでございます!しかし……よろしいのですか?」
コーディネーターは、先ほどの訪問者たちの存在に気づいていたのだろう。その声には、戸惑いと気遣いが滲んでいた。穂乃香は、まるで凍てついた湖面のように静かな微笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。最高の結婚式にするために、必要なことだから」
彼女の視線は、鏡の中の自分——純白のドレスを纏いながら、その瞳の奥に底知れない暗い炎を燃やす女——に、真っ直ぐに注がれていた。
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