简介
雨が降っていた。
王都外縁。
城壁の向こうから漏れてくる街灯の明かりが、ぬかるんだ路地をぼんやりと照らしている。
だが、ここまで光は届かない。
建物はどれも古く、壁は剥がれ、屋根には穴が空いている。
通りを歩く者も少ない。
歩いていたとしても、顔を合わせたくない連中ばかりだ。
泥水を踏みながら、ゲンゾウは走っていた。
章節1
雨が降っていた。
王都外縁。
城壁の向こうから漏れてくる街灯の明かりが、ぬかるんだ路地をぼんやりと照らしている。
だが、ここまで光は届かない。
建物はどれも古く、壁は剥がれ、屋根には穴が空いている。
通りを歩く者も少ない。
歩いていたとしても、顔を合わせたくない連中ばかりだ。
泥水を踏みながら、ゲンゾウは走っていた。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
四十二歳。
中年。
腹だけが妙に出ている。
髭は伸び放題。
髪も雨でぺしゃんこ。
そして服は。
ボロボロだった。
正確には、もともとそこそこ上等な旅装だったのだが、今となってはその面影もほとんどない。
「くそっ……!」
後ろを振り返る。
暗い路地の向こう。
誰かが怒鳴っていた。
「いたぞ!」
「そのクソ商人を逃がすな!」
「借金踏み倒しやがって!」
ゲンゾウの顔が引きつる。
「踏み倒したんやない!」
走りながら叫ぶ。
「払えんかっただけや!」
「同じだ!」
「違うわ!」
「どこがだ!」
「気持ちが違う!」
「知らん!」
追手の足音が近づいてくる。
ゲンゾウは舌打ちした。
「くそったれ……!」
角を曲がる。
さらに細い路地へ。
そこでようやく、目の前に大きなゴミ捨て場が見えた。
王都の外縁部。
人々が出したゴミが、一か所に山積みされている。
腐った野菜。
魚の骨。
破れた布。
割れた木箱。
使い古しの瓶。
雨に濡れた紙屑。
そして。
人間。
とはいえ、ゴミとして捨てられているわけではない。
ゲンゾウ自身が、今そこへ飛び込もうとしていた。
「……よし」
ゲンゾウは左右を見回す。
追手の足音。
もうすぐそこだ。
「背に腹は代えられん」
鼻をつまみ。
目を閉じ。
「ぬおおおおおっ!」
ゴミ山へ突っ込んだ。
べしゃっ。
「ぐえっ」
腐ったトマトのようなものが頬に当たった。
「くっさ!」
思わず叫ぶ。
それでもゲンゾウは這うように奥へ進んだ。
そして大きな木箱と、黒ずんだ生ゴミ袋の隙間へ身体をねじ込む。
「……ここや」
身体を縮める。
息を殺す。
「……」
「…………」
「………………」
やがて。
追手の足音が通り過ぎていった。
「この辺にいるはずだ!」
「もっと奥を探せ!」
「絶対に見つけろ!」
ゲンゾウは身じろぎひとつしなかった。
やがて声が遠ざかる。
「……」
「…………」
「………………」
静かになった。
ゲンゾウはゆっくり息を吐いた。
「……助かった」
そして。
「ふぅ……」
盛大なため息。
「……ワシ、何やっとんねん」
自分で言って悲しくなる。
四十二歳。
元商人。
一時期は、それなりに儲けていた。
商売の目もあった。
仕入れもできた。
人脈だってあった。
金もあった。
全部。
なくなった。
きっかけは。
勇者だった。
いや。
正確には。
勇者が魔王を倒すという、至極もっともらしい未来予測だった。
魔物が活発化している。
魔王復活の噂がある。
ならば勇者も現れる。
勇者が現れれば、武器が必要になる。
聖なる武器。
聖剣。
「……」
ゲンゾウは雨空を見上げる。
「聖剣……」
その言葉だけで頭痛がした。
「あのアホ……」
思い出す。
数年前。
勇者がいつ現れてもいいように。
聖剣を仕入れた。
一本。
二本。
三本。
十本。
二十本。
五十本。
百本。
気がつけば。
「二百三十七本……」
倉庫が聖剣で埋まっていた。
「何が『勇者需要やから絶対売れる』や……!」
ゲンゾウは頭を抱えた。
「誰や、そんなこと言うたん!」
自分だった。
「ワシや!」
思わず地面を殴る。
「くそっ!」
勇者が来ない。
来ない。
来ない。
待っても来ない。
なのに。
倉庫代はかかる。
人件費もかかる。
借金の利息も膨らむ。
やがて。
聖剣を一振り売るために、一振り分の金以上の金が必要になった。
そして。
ある朝。
ゲンゾウは決断した。
夜逃げ。
大量の聖剣を荷車に積み込んで。
自分の店から全部持ち出して。
王都を出た。
だが。
「売れんかった……」
誰も買わなかった。
勇者が来なければ聖剣なんてただの高価な鉄の棒だ。
しかも。
ゲンゾウが抱えていたのは「高性能聖剣」ばかり。
高い。
重い。
需要がない。
最終的に。
二百三十七本の聖剣を積んだ荷車を。
わざわざ遠方まで運んだにもかかわらず。
一本も売れなかった。
いや。
一振りだけ。
どうしても困っていた農夫に。
鍬代わりとして買われた。
「……あれは思い出したくない」
ゲンゾウは目を閉じた。
「聖剣で畑耕しとったもんな、あの爺さん……」
そして。
その後。
ゲンゾウは完全に破産した。
残ったのは。
着の身着のままの生活。
借金。
追手。
そして。
「……呪ってやる」
ゲンゾウは低く呟く。
「勇者のクソ野郎……」
雨が顔に当たる。
「もっと遅く来いや……!」
怒りの方向が変だった。
「いや、来るならもっと早う来いや!」
自分でも何を言っているのか分からない。
「そもそも魔王!」
ゲンゾウは天を睨んだ。
「お前も悪い!」
もちろん魔王には何の罪もない。
だが。
「復活するなら復活するで、ちゃんと商売に貢献せぇ!」
それも無茶な話だった。
「魔物出すなら武器買わせろ!」
ゴミ捨て場に虚しく声が響く。
「ダンジョン増やせ!」
「宝箱ばら撒け!」
「勇者呼べ!」
「ワシに金を回せぇぇぇ!」
最後の叫びには魂がこもっていた。
「……はぁ」
ゲンゾウは肩を落とした。
「アホらし……」
腹が鳴る。
「……」
腹が鳴る。
「…………」
もう一度鳴る。
「腹減ったな」
ゲンゾウは現実に戻った。
「そういや昨日からなんも食っとらん」
追手に追われ。
寝る場所もなく。
金もない。
となれば。
やることは一つだった。
「……探すか」
ゲンゾウはゴミ袋を見る。
「何か食えるもん」
四十二歳の元商人。
かつては高級宿で食事をし、酒場で部下に説教し、売上を数えながら眠った男。
今は。
ゴミを漁る。
「……人生って、何やろな」
とりあえずジャガイモの皮を発見した。
「お」
拾う。
「まだ食えそうやな」
泥を払う。
「……洗えばいける」
次。
魚の骨。
「これは……」
匂いを嗅ぐ。
「……ちょっと危険やな」
置く。
次。
パンの耳。
「!」
ゲンゾウの目が輝いた。
「パン!」
拾い上げる。
雨水でふやけている。
ところどころカビている。
「……」
数秒考える。
「削ればいける」
商人の目利きが、こんなところで発揮された。
ゲンゾウはパンを懐に入れた。
「よし」
さらにゴミ袋を漁る。
すると。
「……ん?」
何かが見えた。
生ゴミ袋の影。
段ボール箱。
雨でふやけている。
その中から。
「……?」
白いものが見えた。
毛。
ふわふわした毛。
小さな塊。
「なんやこれ」
ゲンゾウは手を伸ばした。
白い毛玉。
その正体は。
小動物だった。
四本足。
小さな耳。
丸い鼻。
ふわふわの長い毛。
濡れているせいで、さらに丸い。
「……犬?」
いや。
「ポメラニアン……?」
少なくともゲンゾウには、それくらいにしか見えなかった。
白い。
ふわふわ。
ちっこい。
そして。
「震えとるやんけ」
小動物は。
ぶるぶると震えていた。
ゲンゾウは少しだけ迷った。
「……」
数秒。
「……かわええな」
思わず呟いた。
だが。
次の瞬間。
商人の目に戻る。
「……」
じーっと小動物を見る。
「これ」
頭の中で計算する。
「珍しい種類の犬やったら……」
さらに見る。
「毛並みもええ」
「……」
「小さい」
「……」
「飼う需要もありそうや」
そして。
「売り飛ばせば、数銅貨くらいにはなるか」
ゲンゾウは手を伸ばした。
その瞬間。
ガブリッ!
「いだぁぁぁぁぁっ!」
手に噛みつかれた。
「何すんねん!」
ゲンゾウが反射的に手を振る。
白い毛玉が飛んだ。
べしゃっ。
地面に落ちる。
しかし。
「……」
毛玉は。
ふらつきながら立ち上がった。
そして。
小さな身体をぷるぷる震わせながら。
「ワシを誰やと思っとる!」
怒鳴った。
「…………」
ゲンゾウが固まる。
「………………」
雨音だけが響く。
「……は?」
白い毛玉が胸を張る。
正確には胸らしき場所を。
「ワシを誰やと思っとるんや!」
再び叫ぶ。
「崇めよ、人間!」
ゲンゾウは。
目の前の生物を。
もう一度見た。
白い毛玉。
濡れた毛。
小さな耳。
丸い鼻。
短い足。
そして。
ちょこんとした尻尾。
「……犬やん」
「犬ちゃうわ!」
「ポメラニアンやろ」
「ポメラニアンちゃう!」
「ほな何やねん」
白い毛玉は堂々と答えた。
「邪竜魔王や!」
「…………」
「…………」
「…………」
ゲンゾウは無言で立ち上がった。
そして。
毛玉の入っていた段ボールを覗き。
もう一度。
毛玉を見た。
「……お前」
「なんや」
「それ、本気で言うとるんか」
「本気も本気や!」
毛玉は威厳を出そうとしている。
だが。
濡れている。
震えている。
泥がついている。
何より。
小さい。
「……」
ゲンゾウはしゃがみ込む。
「証拠は?」
「魔力や」
「出してみ」
「…………」
「魔王なんやろ?」
「出せるわ!」
毛玉が目を閉じた。
「ふんっ!」
ぶるぶる。
「ぬぬぬぬ……!」
毛が逆立つ。
一瞬だけ。
空気が震えた。
「……お?」
ゲンゾウが目を見開く。
確かに。
ほんのわずかだが。
異様な魔力の気配がした。
だが。
「……」
ゲンゾウは毛玉をつついた。
ぽよん。
「弱ない?」
「うるさい!」
ヤマタは怒鳴った。
「元はなぁ!」
毛玉が叫ぶ。
「ワシは! この大陸を震撼させた邪竜魔王やったんや!」
「ほう」
「空を飛び!」
「へぇ」
「山を壊し!」
「ふーん」
「城を焼き!」
「はいはい」
「人間どもに恐怖を植え付け!」
「それが」
ゲンゾウは毛玉を持ち上げた。
「こうなったんか」
白い毛玉が宙ぶらりんになる。
「やめぇ! 持ち方!」
「首ないから襟ないな」
「ワシを荷物扱いすんな!」
「軽いな、お前」
「軽くされたんや!」
ヤマタは怒り狂った。
「勇者や!」
「勇者?」
「そうや!」
牙を剥く。
「勇者にやられた!」
「倒されたんか」
「倒されただけちゃう!」
「何された?」
「魔力を吸われた!」
「……」
ゲンゾウの顔が曇った。
「魔力を?」
「そうや!」
ヤマタは自分の毛むくじゃらな身体を見下ろした。
「ワシはな、元々はもっとデカかった!」
「どれくらい?」
「山より大きい」
「盛ってへん?」
「盛っとらん!」
「ほんまに?」
「ほんまや!」
「まあええわ」
「よくないわ!」
ヤマタは叫ぶ。
「勇者の持ってた聖剣が、ワシの魔力を吸う特殊な剣やったんや!」
「……聖剣」
その言葉に。
ゲンゾウの顔が引きつった。
「聖剣……?」
「なんや」
「いや」
ゲンゾウは遠い目をした。
「ちょっと嫌な思い出が……」
「知らん」
「ワシ、二百三十七本……」
「は?」
「いや、なんでもない」
ヤマタは続ける。
「その聖剣で魔力を根こそぎ吸われた」
「ほう」
「身体は縮む」
「今の?」
「そうや!」
「毛玉に?」
「毛玉言うな!」
「毛玉やん」
「元は竜や!」
「今は?」
「……」
「今は?」
「……毛玉や」
認めた。
「それだけやない!」
ヤマタがさらに叫ぶ。
「翼も消えた!」
「ほう」
「角も消えた!」
「へぇ」
「牙も小さくなった!」
「なるほど」
「火も吐けん!」
「大変やな」
「爪も弱い!」
「だから噛みついたんか」
「ワシの怒りを表現しただけや!」
「めっちゃ痛かったぞ」
「知らんわ!」
「病気持ってへんやろな」
「ワシを野良犬扱いするな!」
雨はまだ降っている。
ヤマタの身体は冷え切っていた。
ゲンゾウはふと。
気づく。
「……お前」
「なんや」
「腹減ってる?」
「…………」
「図星か」
ヤマタが顔を逸らした。
「別に」
「さっきから震えとるやん」
「寒いだけや」
「飯食ってへん?」
「……」
「食ってないんか」
「……三日」
「三日!?」
ゲンゾウは目を丸くする。
「三日も何も食ってないんか」
「うむ」
「魔王やったら自力で何とかせぇや」
「今のワシに何ができると思うとる」
ヤマタは吐き捨てる。
「この身体で獲物を追えると思うか?」
「無理やろな」
「せやろ」
「じゃあ何が食いたい?」
ヤマタは即答した。
「タチウオの刺身」
「……」
「大根のツマを添えて」
「……」
「醤油は濃口」
「……」
「できれば鮮度のええやつ」
「なんでグルメなんや、お前」
「元魔王やからな」
「意味分からん」
「ワシは昔、毎晩タチウオの刺身を食べていた」
「贅沢やな」
「魔王やぞ」
「まあええわ」
ゲンゾウは自分の腹をさする。
「ただな」
「なんや」
「ワシも腹減っとる」
「知るか」
「お前に言われたくないわ!」
ゲンゾウは懐から、さっき拾ったパンの耳を取り出した。
「これならある」
ヤマタが見る。
鼻を動かす。
「……」
「食うか?」
「……」
「毒はない」
「腐っとるやろ」
「ちょっとだけな」
「いらん」
「じゃあワシが食うぞ」
「待て」
「なんや」
「その半分」
ヤマタが小声で言った。
「……くれ」
「ふっ」
ゲンゾウは思わず笑った。
「なんやねん」
「いや」
ゲンゾウはパンの耳を二つに割った。
「魔王でも腹減るんやな」
「そら減るわ」
「しかもタチウオの刺身希望」
「悪いか」
「いや」
ゲンゾウは半分を差し出す。
「人間みたいで安心したわ」
ヤマタはしばらくパンを見つめた。
そして。
「……いただく」
小さな口で。
かじる。
もぐ。
もぐ。
「…………」
「どうや?」
「…………」
「うまい?」
「……」
「?」
「ワシ」
ヤマタが真顔で言った。
「もうちょっとマシなもん食いたい」
「贅沢言うなや!」
ゴミ捨て場に。
二人分の怒鳴り声が響いた。
雨はまだ止まない。
王都では。
誰も知らない。
破産した元商人と。
すべての力を失った元邪竜魔王が。
この日。
ゴミ捨て場で出会ったことを。
そして。
この出会いが。
後に。
王都中の冒険者から金を巻き上げる、とんでもないダンジョン経営の始まりになることを。
最新章節
ダンジョンが消滅してから、数日後。
街道から外れた山道を、四人はひたすら歩いていた。
空は薄曇り。
道は険しい。
荷物は
翌朝。
そこにダンジョンはなかった。
正確には。
昨日まで存在していた地下四階建ての巨大ダンジョンは。
地上から見る限り
地下四階。
最深部。
そこは、ダンジョンの中でも特に広い空間だった。
巨大な石柱。
赤黒く脈動する魔力炉。
地下への階段を、勇者は一人で下りていた。
聖剣を肩に担ぎ、顔には一切の迷いがない。
「……ここか」
薄暗い地下空間。
壁に







