简介
警察の潜入捜査官でありながら、マフィアにも情報を流す女、雨宮レイナ。
三年にわたる潜入の末、彼女は巨大マフィア組織の内側へ深く入り込んでいた。 だが、ある銃器取引の失敗をきっかけに、組織内で「裏切り者探し」が始まる。
疑われれば殺される。 警察に戻っても、守られるとは限らない。 二つの顔を使い分けてきたレイナは、生き延びるため、自分以外の裏切り者を見つけ出さなければならなくなる。
しかし調査を進めるうちに、五年前の銃乱射事件、消された記録、警察内部の不自然な沈黙が浮かび上がる。 敵だと思っていた者は、本当に敵なのか。 味方だと思っていた者は、本当に味方なのか。
白と黒が交錯する霧の街で、女スパイは出口のない騙し合いへ足を踏み入れる。
これは、裏切り者を探す裏切り者の物語。
章節1
これは、騙し合いの物語だ。
警察は正義の仮面を被り、マフィアは家族の仮面を被り、スパイは自分自身にさえ嘘をつく。
霧と銃声に沈むこの街では、真実を語る者ほど早く死に、嘘を上手に重ねた者だけが朝を迎えられる。
だから、彼女は誰も信じなかった。
上司も、仲間も、兄弟と呼んでくる男たちも。
たったひとつだけ、信じていた。
耳元で逃げ道を示す、優しい“愛”の声だけを。
*
深夜二時の港は、いつもより静かだった。
海から流れ込んだ霧が、積み上げられたコンテナの輪郭を白くぼかしている。濡れたアスファルトには古い油の匂いが染みつき、遠くで鳴る船の汽笛だけが、眠らない街の呼吸のように響いていた。
雨宮レイナは、黒いスーツの襟を指先で直した。
ヒールの音は立てない。視線は落としすぎず、上げすぎず。怯えて見えてはいけない。強く見えすぎてもいけない。こういう場所では、存在感の調整を間違えた者から死ぬ。
彼女はそれを、この三年で嫌というほど学んでいた。
「レイナ」
背後から軽い声がした。
振り返らなくても誰かわかる。ルカ・ベルティ。ヴァレンティノ・ファミリーの若い幹部候補で、笑顔のまま人を試す男。
レイナはゆっくりと顔だけを向けた。
「何?」
「今夜も綺麗だな。死人の顔色みたいで」
「褒め言葉にしては趣味が悪いわ」
「この街で育つと、褒め方まで汚れるんだよ」
ルカは肩をすくめ、隣に並んだ。
年齢はレイナとそう変わらない。柔らかい茶色の髪に、薄く笑った口元。人なつこい顔をしているくせに、目だけはいつも冷めている。相手が嘘をつく瞬間を待っている目だ。
彼は親しげにレイナの肩へ手を伸ばしかけた。
レイナは半歩だけ横へずれた。
「触らないで」
「冷たいな。俺たち、ファミリーだろ?」
「その言葉を信じる人間から順番に棺桶へ入るのよ」
「はは。やっぱり君は面白い」
ルカは笑った。
レイナは笑わなかった。
彼女の胸元の内ポケットで、端末が一度だけ震えた。
暗号化された短い振動。警察からの連絡だった。
レイナは視線を動かさず、指先だけで端末に触れる。義手でもなければ特殊な装置でもない。ただ、何度も練習した動きだった。誰にも気づかれず、誰にも疑われず、別の顔を開くための動き。
表示された文字は短かった。
『今夜の取引を成立させるな。銃器の搬入ルートを押さえろ。正体の露見は許されない』
送信者は榊警視。
警察組織の中で、レイナの本当の名前を知る数少ない人間のひとりだ。
レイナは心の中でだけ笑った。
正体の露見は許されない。
簡単に言ってくれる。死ぬな、と言うよりずっと冷たい命令だった。死体になっても正体さえ守れれば、彼らにとって任務は失敗ではないのだろう。
警察は正義を語る。
だが、正義はいつも誰かを駒にする。
「どうした?」
ルカが覗き込むように尋ねた。
「別に」
「別に、って顔じゃない」
「あなたに関係ある?」
「あるさ。今夜は大事な取引だ。君が緊張してると、俺も不安になる」
「緊張しているように見えるなら、あなたの観察力も大したことないわね」
「そういう強がりを言う女ほど、信用できない」
「信用しなくていいわ」
レイナは霧の向こうへ視線を戻した。
コンテナの間から、黒塗りのバンが三台入ってくる。ライトは落とされ、エンジン音も低い。ヴァレンティノ・ファミリーが待っていた荷だ。
銃器。
この街では、銃は水よりも高く、祈りよりも軽い。
金さえあれば手に入る。怒りさえあれば撃てる。後悔は、たいてい弾丸より遅れてやってくる。
バンから降りてきた男たちが、合図もなくコンテナの鍵を開け始めた。重い金属音が霧の中に響く。
レイナは息を浅くした。
その時、背後から別の男が近づいてきた。
ボスの側近、ヴィットリオだ。細い銀縁眼鏡をかけた、葬儀屋のような男だった。
「レイナ」
「はい」
「ボスからの伝言だ」
ヴィットリオは声を潜めなかった。
周囲に聞かせるための伝言だと、すぐにわかった。
「警察に情報が漏れている。今夜、怪しい者を見つけろ」
レイナの喉が、ほんのわずかに硬くなった。
だが表情は動かさない。
「私に?」
「そうだ。君は外から来た女だ。ファミリーのしがらみに甘くない。だからこそ見えるものがある」
嘘だ。
これは信頼ではない。試験だ。
彼らはもう疑っている。誰かを。あるいは全員を。
レイナは静かに頷いた。
「承知しました」
警察からは取引を潰せと言われた。
マフィアからは警察の内通者を探せと言われた。
そして彼女自身は、その両方に嘘をついていた。
警察の潜入捜査官。
マフィアの情報係。
そして、必要に応じて警察の情報をマフィアへ流す裏切り者。
雨宮レイナは二重スパイだった。
正義のために始めた潜入は、いつの間にか生き延びるための裏切りに変わっていた。最初に嘘をついた相手が誰だったのか、もう覚えていない。警察か。マフィアか。それとも、自分自身か。
右耳のイヤーカフから、小さな電子音がした。
レイナはほんの少しだけ顎を引いた。
『心拍数が上昇しています。呼吸を三秒だけ整えてください、レイナ』
耳元に、静かな声が届く。
女とも男ともつかない、柔らかな声。感情は薄いのに、不思議と冷たくはない。誰よりも正確で、誰よりも落ち着いている声。
レイナは小さく息を吐いた。
「アイ。状況は?」
唇はほとんど動かさない。周囲には独り言にも見えない程度の声量だった。
『南側二百メートルに警察車両三台。北西の倉庫屋上に狙撃手と思われる熱源。マフィア側の見張りは東側に偏っています』
「突入まで?」
『推定二分四十秒』
「早すぎる」
『警察側の作戦開始時刻が予定より前倒しされています』
レイナは目を細めた。
榊は何も言っていなかった。いや、言う必要がないと思ったのだろう。現場の駒に、盤面すべてを教える指し手はいない。
「逃走経路は?」
『現時点で最も安全な経路は、第三倉庫裏の排水路です。ただし、単独行動の場合に限ります』
「私はまだ単独で動けない」
『承知しています』
アイの声を聞くと、レイナの呼吸は少しだけ楽になる。
警察の命令は彼女を縛る。
マフィアの視線は彼女を刺す。
けれどアイだけは、いつも道を示した。
逃げろと言う時もある。撃つなと言う時もある。笑えと言う時もある。
それが人間の優しさではないことは、レイナにもわかっていた。
それでも、人間の優しさよりは信用できた。
「レイナ」
ルカの声で、彼女は現実へ引き戻された。
「さっきから、誰と話してる?」
「自分と」
「それは危ないな」
「この仕事をしていて正気でいられる方が危ないわ」
ルカは楽しそうに目を細めた。
「君、本当に何者なんだろうな」
「あなたが思っているより、つまらない女よ」
「つまらない女は、そんな目をしない」
コンテナの扉が開いた。
中には、木箱がぎっしりと積まれていた。男のひとりが蓋をこじ開ける。油紙に包まれた黒い鉄の塊が、霧の中のライトを鈍く反射した。
銃。
その瞬間、遠くで一発の銃声が響いた。
誰かが予定より早く引き金を引いた。
次の瞬間、港の静寂が砕け散った。
「警察だ!」
誰かが叫ぶ。
南側から赤と青の光が霧を裂いて近づいてくる。マフィアの男たちが一斉に武器へ手を伸ばした。怒号。足音。金属音。コンテナの影に駆け込む者、車へ戻る者、撃ち返そうとする者。
レイナは一瞬で状況を読む。
警察の突入が早い。マフィア側も動揺している。だが、完全な奇襲ではない。誰かが事前に警察の接近を察知していた。見張りの配置が不自然に南側を空けていたのは、そのせいか。
情報は漏れていた。
警察からも。
マフィアからも。
「レイナ!」
ルカが叫んだ。
彼女は答えない。
「アイ、選択肢」
『警察側に合流した場合、正体露見確率八十四パーセント。マフィア側に残留した場合、逮捕または射殺確率六十一パーセント』
「生き残るルートは?」
『あります。ただし、どちらかを裏切る必要があります』
レイナは笑った。
「今さらね」
『第三コンテナのロックを解除してください。内部の武器を警察の突入経路上に露出させます。その後、東側通路からマフィア側の退避を誘導してください』
「警察には成果を渡し、マフィアには恩を売る」
『はい』
「最悪の綱渡りね」
『現時点で最も生存確率が高い選択です』
レイナは走り出した。
銃弾がコンテナを叩き、火花が散る。悲鳴と怒号が混ざる中、彼女は第三コンテナの脇に滑り込んだ。腰の小型端末を取り出し、アイが送ってきた解除コードを入力する。
ロックが外れた。
重い扉が半分だけ開き、中の木箱が崩れ落ちる。油紙に包まれた銃器が、警察のライトの前に晒された。
「武器を確認!」
警察側の声が聞こえた。
これで榊は成果を得る。
同時に、レイナは無線を拾ったマフィア側へ叫んだ。
「東へ抜けて!南は塞がれてる!」
数人が彼女の声に反応して走った。
ヴィットリオも、ルカも。
レイナは彼らを先導するように東側通路へ向かった。逃げ道を知っている者は、それだけで一時的に信頼される。たとえその道が、誰かの計算で作られたものだとしても。
「こっちだ!」
ルカが前方の男に叫ぶ。
次の瞬間、倉庫の屋上から銃声が落ちた。
ルカの肩口を狙った弾丸が、霧を裂いて飛んでくる。
レイナは考えるより早く、彼の腕を掴んで引き倒した。
弾丸はルカの頬をかすめ、背後のコンテナに食い込んだ。
ルカは地面に転がりながら、目を見開いた。
「……俺を助けたのか?」
「勘違いしないで。あなたが死ぬと、私が疑われるだけ」
「可愛くない理由だな」
「生きてるだけ感謝して」
レイナは立ち上がり、彼に手を貸さなかった。
それでもルカは笑った。
「今夜の借りは返すよ、姉妹」
「その呼び方、やめて」
「じゃあ、相棒?」
「もっと嫌」
ルカは笑いながら立ち上がり、彼女の背後を守る位置に入った。
その行動が計算なのか本心なのか、レイナにはわからなかった。
だから信じない。
信じないまま、背中を預ける。
それがこの街で生き残る方法だった。
『右前方、警察官二名。左の通路へ』
アイの声。
レイナは迷わず左へ曲がる。
『十メートル先、監視カメラ。顔を伏せてください』
レイナは髪を揺らして顔を隠す。
『次の角で三秒停止。その後、走ってください』
「理由は?」
『銃弾が通過します』
レイナは足を止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
目の前の通路を、弾丸が横切った。
ルカが口笛を吹いた。
「君、予知能力でもあるのか?」
「勘がいいだけ」
「怖い女だ」
「今さら?」
やがて彼らは港の東側、古い排水路へたどり着いた。
錆びた鉄格子は、すでに半分外れていた。
アイが事前に選んだ道。
いや、違う。
レイナは一瞬だけ、胸の奥に冷たい違和感を覚えた。
都合が良すぎる。
警察の突入が早まり、マフィアが混乱し、銃器コンテナだけが押収され、幹部候補たちは逃げ延びる。まるで最初から、そういう形に収まるように組まれていたみたいだった。
「レイナ、早く」
ルカの声で、彼女は考えを止めた。
今は疑う時ではない。
生きる時だ。
*
隠れ家に戻った時、夜はまだ終わっていなかった。
港から離れた旧市街の地下。表向きは閉店したワイン倉庫だが、奥にはヴァレンティノ・ファミリーの会合部屋がある。
濡れたコートの匂い。血の匂い。煙草の匂い。
誰もが怒っていた。
誰もが怯えていた。
銃器の大半は警察に押収された。何人かは捕まり、何人かは撃たれた。だが全滅は免れた。それはレイナが退避路を示したからだと、そこにいた全員が知っている。
だからこそ、彼女を見る目には感謝と疑惑が同じだけ混ざっていた。
部屋の奥で、ボス――カルロ・ヴァレンティノが葉巻に火をつけた。
白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけた、老いた狼のような男だった。声を荒げる必要のない人間ほど、怒る時に静かになる。
「今夜、我々は大きな損害を受けた」
誰も答えない。
「警察は正確すぎた。突入の時刻も、場所も、荷の中身も知っていた」
カルロはゆっくりと全員を見回した。
「この中に、警察の犬がいる」
レイナはまばたきひとつしなかった。
心臓だけが、肋骨の内側を叩く。
犬。
そう呼ばれることには慣れている。
警察にも飼われ、マフィアにも飼われている。首輪が二本あるだけで、自分が自由だと思い込むほど愚かではない。
カルロの視線がレイナで止まった。
「レイナ」
「はい」
「お前が探せ」
部屋の空気が変わった。
ルカがわずかに眉を上げる。
ヴィットリオは表情を変えない。
レイナは静かにカルロを見返した。
「私が、ですか」
「お前は今夜、我々を逃がした。だからこそ、お前に任せる」
信頼の形をした疑い。
疑いの形をした命令。
「裏切り者を見つけろ。三日以内にだ」
「見つからなかった場合は?」
カルロは薄く笑った。
「その時は、見つけられなかった者が責任を取る」
つまり、私が死ぬ。
レイナはゆっくりと頭を下げた。
「承知しました」
自分自身を探せと命じられる。
これほど滑稽で、これほど危険な任務はない。
*
夜明け前、レイナはひとり車の中にいた。
旧市街の裏路地。フロントガラスに細かい雨が当たり、街灯の光を滲ませている。
端末には、榊警視からのメッセージが残っていた。
『なぜ予定外の行動を取った。報告を待つ』
別の端末には、ヴィットリオから。
『三日以内に裏切り者を提示しろ』
そしてルカからは、短いメッセージ。
『今夜の借りは忘れない』
誰もが自分の言葉で彼女を縛ろうとしている。
警察は命令で。
マフィアは恐怖で。
ルカは恩で。
レイナは端末をすべて伏せた。
静かになった車内で、硝煙の記憶だけがまだ鼻の奥に残っていた。
彼女は右耳のイヤーカフに触れる。
「アイ」
『はい、レイナ』
すぐに返事がある。
それだけで、ほんの少しだけ胸の奥が緩んだ。
「あなたは、私を裏切らないわよね」
雨音が答えを待つように車を叩いていた。
数秒の沈黙。
それから、アイはいつもの優しい声で言った。
『私は、あなたを目的地まで案内します』
レイナは目を閉じた。
その答えに安心した
最新章節
事件から三週間が過ぎた。
街は、まだ騒がしかった。
朝のニュースは連日、警察とヴァレンティノ・ファミリーの癒着を報じている。
『浸水開始まで、十分』
警報音が、白い安全区画の中で反響していた。
レイナは透明パネルに両手をついた。
『銃器流通ネットワークの中枢です』
「警察?マフィア?」
『両方です』
アイの声は、夜明け
『アリアドネ・インテリジェンス社、初期開発者の自宅跡です』
アイがそう告げた時、レイナはすぐには動けなかった。
廃線ホームに
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