简介
右大臣・九条貴文の政変により、中宮・藤原茜は自焚を装い逃亡を図るも捕らわれる。愛した皇帝に刺され、唯一の希望だった息子には「九条の慰み者になれ」と命じられ、絶望の中で死を迎えた。
目覚めたのは、田舎貴族・花村家の次女「瑠璃」としての新たな人生。十年以上放置され、村長一家に搾取される日々。だが、前世の宮廷で培った知識を武器に、彼女は薬草採集から始め、わずか数年で全国屈指の化粧品店「瑠璃光院」と、影の情報組織「時雨堂」を築き上げる
章节1
日輪が西の山稜に沈み、燃えるような緋色が平安京の空を染め上げる頃、朱雀大路を支配していたのは死人のような静寂だった。家々は固く扉を閉ざし、犬の吠え声一つ聞こえない。ただ、規則正しく、そして無慈悲に響き渡る金属音だけが、都大路を蹂躙していた。整然と隊列を組んだ兵士たちの鎧が擦れ合う音、馬蹄が敷石を打つ乾いた響き、それら全てが、これから始まる血腥い祝宴の序曲であった。
隊列の先頭、漆黒の戦馬に跨る男の姿は、まるで黄昏そのものが凝って形を成したかのようだった。右大臣、九条貴文。その顔には何の感情も浮かんでいない。ただ、彫刻のように冷たく整った相貌で、朱に染まる大内裏の甍を見据えている。彼の視線は、既に獲物を捉えた猛禽のそれであった。禁裏の門が内側から開かれ、禁衛の将が蒼白な顔で駆け寄ってひれ伏す。その姿は、抵抗の終焉を雄弁に物語っていた。
「右大臣殿、宮中の制圧、完了いたしました。」
貴文は馬上から男を一瞥しただけで、視線を再び宮城へと戻した。「そうか」とだけ短く応える。その声は、晩秋の風のように冷え冷えとしていた。彼の隣に控える痩身の男、謀士の菅原顕が馬上で軽く身を乗り出し、低い声で囁いた。
「九条様、これで駒は揃いました。帝と中宮、どちらも我らの掌中に。ですが、お忘れなきよう。我らが掲げた大義は、あくまで『朝廷の刷新』。民心を失っては、築き上げたものも砂上の楼閣となりましょう。」
「分かっている、顕。俺は破壊者ではない、創造者だ」貴文はゆっくりと馬を進めながら、唇の端に微かな、しかし氷のような笑みを浮かべた。「だが、新しい世を創るには、まず古い世を徹底的に破壊せねばならん。美しく、そして跡形もなく、な。」その言葉は、これから始まる粛清の嵐を明確に予告していた。
同じ頃、宮城の最も奥深く、弘徽殿の華美な御簾の内側では、全く別の種類の嵐が吹き荒れていた。
「嘘よ……そんなはずがない……!」
中宮藤原茜は、血の気の引いた顔でわななく唇を震わせた。彼女の前にひれ伏す侍女の芸竹は、恐怖で言葉も途切れ途切れだった。
「み、御所に火が……北の陣からも……左近衛の方々は、もう……」
芸竹の報告は、断片的でありながらも絶望的な事実を茜に突きつけた。父である関白、藤原道隆が築き上げた盤石のはずだった権力は、あまりにも脆く崩れ去った。九条貴文の謀反。それは、これまで幾度となく噂されてきた悪夢が、ついに現実となった瞬間だった。部屋の隅に置かれた火鉢の炭火が、ぱちりと小さな音を立ててはぜる。その微かな音さえ、今の茜には死の足音のように聞こえた。
「帝は?帝はご無事なの!?」
茜は最後の望みを託すように叫んだ。芸竹はか細い声で答える。
「紫宸殿におわしますが、既に九条様の兵に囲まれて……手出しはできぬかと……」
その言葉が、茜の中に燻っていた最後の希望の火を吹き消した。帝は優しいが、気弱な人だ。武力の前では、あまりにも無力。自分は、そして腹の中にいるかもしれない新しい命は、ただ九条貴文の掌の上で弄ばれる駒となるだけだろう。父や兄たちが失脚した今、自分に政治的な価値は残っていない。美貌だけが取り柄の中宮など、新しい支配者にとっては慰みものか、あるいは邪魔な存在でしかない。殺されるか、辱められるか。どちらにせよ待っているのは地獄だ。
「……そう」
絶望の淵で、茜の声は奇妙なほど穏やかになった。彼女はゆっくりと立ち上がる。その動きには、先程までの恐慌の色はなかった。まるで憑き物が落ちたかのように、その瞳には冷徹な光が宿っていた。
「芸竹、秋詞を呼んできて。他の者たちには、今すぐここを立ち去り、実家へ帰るように伝えなさい。『中宮様からの最後の情けだ』と。何も聞かず、何も見ずに、ただ逃げよと。」
「中宮様……!?」芸竹が戸惑いの声を上げるが、茜は取り合わなかった。「早く!」その一喝は、紛れもなく国母としての威厳に満ちていた。
やがて、腹心の侍女である秋詞だけが残った弘徽殿で、茜は慣れた手つきで豪奢な十二単を脱ぎ捨てていった。一枚、また一枚と絹の衣が剥がされていくたびに、「中宮藤原茜」という虚像もまた剥がれ落ちていく。代わりに現れたのは、生成りの小袖をまとった、どこにでもいる町娘のような姿だった。彼女は鏡の前に座ると、結い上げた髪を解き、無造作に後ろで一つに束ねた。
「秋詞、これを」茜は文箱の底板を外し、中から現れた油紙の包みを差し出した。ずしりと重い。中には、彼女が密かに蓄えていた金銀や宝石が詰まっている。これで当分は、どこででも生きていけるだろう。「お前は北の御門から逃げなさい。誰にも見つからぬように」
「嫌です!茜様をお一人にはできません!」秋詞が涙ながらに訴えるが、茜は静かに首を横に振った。
「これは命令よ。私は、ここで死ななければならないの。『中宮藤原茜』は、この弘徽殿と共に燃え尽きる。そうでなければ、本当の私は生きられない」
茜は立ち上がると、灯台の火を手に取った。その炎が、彼女の冷静な横顔を妖しく照らし出す。彼女は躊躇うことなく、最も高価な生地で設えられた几帳へと火を移した。炎は飢えた獣のように瞬く間に燃え広がり、美しい刺繍を舐め尽くしていく。
「さあ、行きなさい!」
茜は煙が立ち上り始めた部屋で、背を向けたまま命じた。秋詞は泣き崩れながらも、主人の最後の命令に従い、部屋を飛び出していった。一人残された茜は、燃え盛る炎を見つめていた。熱風が肌を焦がす。しかし、不思議と恐怖はなかった。むしろ、全てを焼き尽くすこの炎が、しがらみだらけだった己の過去を浄化してくれるような、倒錯した快感さえ覚えていた。
「さようなら、私の籠」
彼女は小さく呟くと、炎に背を向け、長年使ってきた鏡台の前に立った。芸竹が震えながらそばに控えている。茜は鏡台の縁にある、精巧な螺鈿細工の蝶にそっと指をかけた。特定の順序でそれを押し込むと、ごとり、と鈍い音がして、鏡台の足元、畳の一部が静かに沈み込んだ。現れたのは、漆黒の闇へと続く階段だった。
「行くわよ、芸竹。ここからが、私たちの本当の人生よ」
茜は怯える侍女の手を強く握ると、躊躇なく暗闇の中へと足を踏み入れた。背後で、弘徽殿の屋根が轟音と共に崩れ落ちる音が響いた。
同じ瞬間、紫宸殿では、別の種類の崩壊が起きていた。
「何だと……?中宮が……自ら火を……?」
玉座に座る朱雀帝は、伝令の兵がもたらした報告に顔面を蒼白にさせた。愛する妻が、炎の中で死んだ。その事実が、彼の脆弱な精神を粉々に打ち砕いた。視界が急速に黒く染まっていく。
「茜……あかね……っ!」
悲痛な叫びは、途中で意味をなさぬ呻きに変わった。帝は胸を押さえ、そのまま玉座から崩れ落ちる。周囲の公卿たちが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、その前に立ちはだかったのは、冷然と佇む九条貴文だった。
「帝はご心痛のあまり、お倒れになられた」貴文は昏倒した帝を見下ろし、抑揚のない声で言い放った。「これより、帝のご容態が快癒されるまで、この九条貴文が政務の一切を預かる。異論のある者は、前に出よ。」
静まり返った紫宸殿で、彼の言葉に逆らう者など一人もいなかった。燃え盛る弘徽殿の赤い光が、貴文の満足げに歪んだ口元を不気味に照らし出していた。彼の足元では、帝国の古い秩序が、一人の男の気絶と共に静かに息を引き取った。
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