Sinopse
山間に隠れた古村「御月村」。そこでは山に棲む狼を「お犬様」と崇めながらも、その血に感染した者を「穢れ」として処分する不気味な因習が引き継がれていた。
ある夜、裏山で異形に襲われ左腕に不可解な傷を負った高校生の蓮は、日が経つにつれて五感が異様に研ぎ澄まされ、日常の匂いや音が「狂気」へと変わっていく恐怖に怯える。
満月まであと三日。人間としての感覚が侵食されるなか、神社の娘である幼馴染の葵から突きつけられたのは、「最初の満月の夜に正気を失えば、狩人に処分される」という村の恐ろしい掟だった。
理性を呑み込もうとする獣の衝動と、忍び寄る狩人たちの影。完全に変貌を遂げる前に、蓮が選んだ「自分であり続けるための道」とは――。
Capítulo1
第一章 月の匂い
最初に気づいたのは、匂いだった。
昼休み、蓮が弁当箱の蓋を開けた瞬間、胃の底から熱いものが逆流してきた。
母が詰めてくれた鶏の唐揚げ。醤油と生姜の香り。いつもなら、教室の喧騒の中でも真っ先に目が行くはずのものだった。
それが、腐っているように思えた。
いや――腐ってはいない。隣の席の男子が箸でつまみ、何の疑いもなく口に入れている。衣の油の照りも、揚げたての香ばしさも、どこもおかしくない。
それでも蓮の鼻腔には、粘土と生ゴミ、そして雨上がりの獣の死骸を混ぜたような匂いが押し込まれてきた。
「おい、蓮。食わねーの?」
隣から声がした。
蓮は弁当箱に視線を落としたまま、喉の奥で唾を飲み込んだ。
「……食欲なくて」
「熱でもあるんじゃね? 顔、白いぞ」
白い、ではない。蓮は知っていた。
自分の顔は、月の光を反射した紙のように白い。
三日前、裏山で襲われた夜から。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
嘘だった。
眠れていない。まぶたを閉じるたび、黒い毛並みの塊が目の端を横切る。湿った獣臭。左腕に食い込んだ牙の熱。そして、傷口から染み出す黒い血。
「ほら、保健室行けって。お前、最近ずっと変だし」
変だ。
その言葉が、蓮の耳の中で反響した。
――変だ。変だ。変だ。
教室の空気が急に重くなる。誰かが椅子の脚を引きずる音が、鉄を擦るように鋭く響いた。黒板消しを叩く音。窓の外で雀が枝を踏む音。隣の席の男子が弁当を噛む、湿った音。
すべてが、必要以上に近い。
蓮は両手で耳を塞ぎたくなった。けれどそれをすれば、自分がおかしくなっていることを認めることになる。
「……後で行く」
蓮は弁当箱を閉じた。
蓋が合わさる金属音が、頭蓋の中で爆ぜた。
*
午後の授業が始まっても、蓮の身体は落ち着かなかった。
数学の教師が黒板に数式を書く。チョークが板を走る音が、ガリガリ、ガリガリと、耳の奥の膜を削る。
指先が震えた。
蓮は机の下で左手を握る。包帯の下、左腕の内側には噛み傷がある。病院では「動物に噛まれたんだろう。狂犬病の予防接種はしたか」と言われた。母は心配して、村の診療所にも連れて行った。
けれど医師は、傷を見た瞬間だけ顔色を変えた。
そして何も言わず、鎮痛剤と抗生物質だけを処方した。
「三日経っても膿むようなら、また来なさい」
そう言って、医師は蓮の左腕から目を逸らした。
今、包帯の下は熱い。
熱というより、脈打っている。心臓とは別の、遅い拍動。ドクン、ドクンと、腕の奥で何かが育っている。
蓮は袖口から指を差し入れ、包帯の端を少しだけ緩めた。
黒い。
傷口の周囲の皮膚が、墨を薄めたような灰色に変色している。浮き上がった血管は一本ごとに黒ずみ、皮膚の下を植物の根のように這っていた。
指で触れる。
熱い。そして、動いた。
「――っ」
蓮は息を呑み、慌てて袖を下ろした。
「蓮。問題、解いてみろ」
教卓の方から、教師の声が響く。
立ち上がる。膝が笑った。
黒板までの数メートルが、異様に長い。教室中の視線が背中に刺さる。誰かが小さく笑った気がした。いや、笑ってなどいない。ただ椅子が軋んだだけだ。
それでも、蓮の耳には笑い声に聞こえた。
黒板に向かう。
数式が、読めない。
白い粉の文字が、月光を浴びた雪原のように眩しい。目を細めると文字の縁がにじみ、黒板の緑が不自然な灰へと褪せていく。
教室の色が、消えていく。
蓮の視界から、赤だけが浮かび上がった。
教師の首筋。生徒たちの手首。窓際に座る女子の耳たぶ。皮膚の下を流れる血液が、薄い肉の膜越しに、赤黒い川のように見えた。
ドクン。
蓮の左腕が脈打つ。
ドクン。
教室中の心臓の音が、一斉に聞こえた。
「……蓮?」
教師の声が、水の中のように遠い。
喉が渇いた。いや、渇きではない。
飢えている。
蓮は自分の手を見た。爪の根元が、ほんのわずかに盛り上がっている。皮膚の下で、何か硬いものが押し上げようとしていた。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、蓮は教室を飛び出した。
*
廊下を出て、最初の角を曲がったところで、蓮は壁に手をついた。
吐き気がする。けれど何も出ない。胃の中は空なのに、喉の奥からは鉄の味がした。
「蓮?」
声がした。
振り返ると、葵が立っていた。
神社の娘らしい、黒い髪を一つにまとめた姿。制服の上に、薄い羽織を羽織っている。夕方の斜陽が廊下の窓から差し込み、彼女の輪郭を金色に縁取っていた。
その光が、痛い。
蓮は目を細めた。
「どうしたの。顔、ひどいよ」
葵が近づいてくる。
一歩。
蓮の鼻腔に、匂いが流れ込んだ。
シャンプー。石鹸。そして――血。
生きている人間の、温かい血の匂い。
甘い。果実のように甘い。喉の奥が勝手に動き、唾液が溢れた。
蓮は壁から手を離し、後ずさった。
「来ないで」
「え?」
「来ないでくれ……!」
声が掠れた。自分の声じゃないみたいだった。
葵が立ち止まる。その瞳が、蓮の左腕を見た。
袖の下、包帯から黒い染みが滲んでいた。
葵の顔から、血の気が引いていく。
「……噛まれたの」
問いではなかった。
蓮は何も言えなかった。
葵は一歩、また一歩と近づく。今度は、蓮は逃げられなかった。膝が折れ、壁を背にして座り込む。
葵が屈み込み、震える手で蓮の袖をめくった。
包帯を解く。
黒い傷口が現れた。
傷は、塞がっていた。
塞がっているのに、治っていない。肉が盛り上がり、黒い毛のようなものが皮膚の下に透けている。傷口の縁は唇のように薄く開き、わずかに動いていた。
葵は息を飲んだ。
「……初月夜だ」
「なに……?」
「満月まで、あと三日」
葵の声は震えていた。それでも、蓮の目をまっすぐ見た。
「蓮。あなた、村の掟を知らないの?」
「掟……?」
「噛まれた者は、最初の満月の夜に社へ連れて行かれる」
葵の手が、蓮の傷口から離れた。
「そして――人間に戻れなければ、殺される」
廊下の向こうで、下校のチャイムが鳴った。
その音さえ、蓮の耳には獣の遠吠えのように聞こえた。
Últimos capítulos
第五章 月下の誓い
乾いた銃声が、夜の山を切り裂いた。
蓮は目を閉じた。
衝撃を待つ。
だが、痛みは来なかった。
代わりに
第四章 狩人の角笛
夜明け前の静けさが、蔵の土壁をすり抜けて充満していた。
蓮の左手は、歪んだ獣の爪のまま動かない。肘から先を覆う皮膚は灰黒く硬化し、人間のしなやか
第三章 蔵の夜
重い閂が落ちる音がした。
ごとり、と。
蔵の外で葵がかけた音だ。その響きが分厚い土壁に吸い込まれ、あとはしんと静まり返る。
第二章 お犬様の影
下校を告げるチャイムの余韻が消えても、蓮は立ち上がることができなかった。
葵は自分の羽織を脱ぐと、蓮の左腕に巻きつけ、黒い傷口を覆い隠した。布越







