大学へ入学。新学期、まだ何者でもない自分に出会う旅へ
Sinopse
「友達100人、できるかな」――小学一年生のあの歌は、蓮見葵にとって呪いだった。岐阜の大学に入学した葵は、新入生名簿の中で自分が「何番目か」を気にし、学生寮の4人部屋で息を詰まらせる。だが、無口な三宅との五平餅の半分こ、古本市の雨の日の裏方仕事、ユゲ楽器店の木のコースター、小牧との金神社の会話。小さな「個人のつながり」を重ねるうちに、葵は気づく。100人集める必要なんてない。帰れる場所が1つあれば、世界は広がる。やがて秋、駅前で立ちすくむ新入生に、葵はそっと声をかける。まだ何者でもない僕たちの、まっさらな旅の物語。
Capítulo1
【プロローグ】友達100人、できるかな
小学一年生の、四月の朝。
蓮見葵は、ランドセルを背負い、母に手を引かれながら、校門をくぐった。
「葵、今日から小学生だよ。友達、100人できるかな?」
母が、楽しそうに言った。葵も、つられて笑った。
その頃は、100人がどれほど多いのかも知らなかった。
校庭には、同じようにランドセルを背負った子供たちが、何百人もいた。桜の花びらが、風に乗って舞っている。
「友達100人、できるかな♪」
誰かが、あの歌を口ずさんでいた。葵も、一緒に歌った。
でも、実際には、友達はなかなかできなかった。
給食の時間、隣の子に「これ、いらない?」と野菜を渡そうとして、断られた。休み時間、誰かの輪に入ろうとして、視線を逸らされた。
「友達100人」は、呪いだった。
【第1章 シーン1】受付の長い列と、402号室の沈黙
岐阜駅の改札を出た瞬間、コンクリートから照り返す春の乾いた空気が、思ったよりも冷たくて、蓮見葵は思わずスーツケースの持ち手を握りしめた。
「……着いた、のか」
周りを見渡せば、大きな荷物を抱えた同世代の若者たちが、それぞれに不安そうな、あるいは浮かれた顔で歩いている。誰もがどこかへ向かっているのに、自分だけが取り残されているような、変な感じがあった。
大学のガイダンス会場へと続く長い列の最後尾に並び、葵は手元の案内の紙に目を落とした。
受付の長蛇の列が進むにつれ、新入生名簿が手渡されていく。ページをめくると、そこに自分の名前があった。
蓮見葵。
その文字を、三度目くらいで、ようやく自分のものだと認識した。ふと、自分の名前の前後に、何人の名前が並んでいるのか、気になった。100人?200人?その中の、自分はどこにいるんだろう。
冷たい春風が、葵のコートの裾を揺らした。
大学から指定された学生寮は、駅から少し離れた、古びた四階建ての建物だった。
寮へ向かう道は、大きな通りから一本、路地に入ったところにあった。
プラスチックの植木鉢が、軒下に並んでいる。二階のベランダには、洗濯物が、風で揺れていた。路地をゆっくり通り過ぎる、買い物籠付きの自転車。
葵は、スーツケースの車輪を、慎重に転がした。
「402号室」のドアを開けると、すでに三人の男たちがそれぞれの荷物を広げていた。
「あ、どうも。俺、河合凛(かわい・りん)。岐阜の恵那から来た」
一番手前にいた、茶髪の明るそうな男子が、慣れた調子で声をかけてきた。初対面なのに、まるで昔からの知り合いのような軽やかさがある。
奥のベッドでは、大柄な体躯をした三宅蒼(みやけ・そう)が無言でうなずき、その隣の机では、小牧楓(こまき・かえで)がきっちりと整えられた教科書の山をさらに並べ替えていた。
「……蓮見、です。県外から来ました」
自己紹介の声を出すと、一瞬、シーンとなった。
誰からともなく会話が途切れ、それぞれの空間に閉じこもる。聞こえるのは、段ボールを開けるガムテープの音と、外を走る車のエンジン音だけだ。
最悪のスタートだった。これからこの四人で、プライベートもない部屋で暮らすのかと思うと、胸の奥が重く沈んだ。
葵は、自分のベッドに、スーツケースを置いた。
窓の外には、路地の向こうに、長良川の水面が、銀色に光って見えた。
【第1章 シーン2】長良川の堤防と、半分こ
夕方、息が詰まるような402号室を抜け出し、葵は足の向くままに歩いた。
アスファルトの坂道を登りきると、コンクリートの堤防に出た。
「……うわ」
思わず声が漏れた。目の前には、春の夕暮れを映して鈍く濁った長良川が、ゆったりと、しかし圧倒的な質量を持って流れていた。
川幅は広く、対岸の建物や木々が遠くに見える。水面を渡る風が、コートの隙間から入り込んで、思わず身震いした。
都会の雑踏とも、故郷の狭い川とも違う。知人柄の誰もいない、大きな水音だけが世界を支配しているような場所だった。
堤防のコンクリートブロックに腰掛け、葵は膝を抱えた。スマホを取り出しても、通知画面は何もない。河合はどこかのサークルの新歓に行っているだろうし、小牧はすでに机に向かっているはずだ。
自分だけが、この街の地図から外れてしまったような気がした。
「おい、お前もか」
不意に声をかけられ、葵は肩をびくっとさせた。振り返ると、昼間に寮で一言も話さなかった三宅蒼が立っていた。
ジャージのポケットに両手を突っ込み、少し猫背気味でこちらを見下ろしている。無言で葵の隣に座ると、三宅は持っていた茶色い包みを取り出した。
駅前の商店街で買ったらしい、平べったい五平餅だった。
「……腹、減ってるだろ」
三宅はそれを真ん中から無造作に割り、片方を黙って葵に差し出した。甘辛い味噌の香りが、春の冷たい川風に乗って鼻腔をかすめる。
「いいのかよ」
「……多すぎて、食いきれねえから」
不器用な言い訳だった。葵は渋るように手を伸ばし、差し出された半分を受け取った。まだほんのりと温かい。
一口かじると、香ばしい胡桃と味噌の甘さが口いっぱいに広がった。冷えかけた指先に、じわりと熱が戻ってくる気がした。
「うめえ」
「だろ」
三宅はそれだけ言うと、もう半分を口に放り込み、黙々と川面を見つめた。他愛のない会話はそこで途切れたけれど、不思議と気まずさはなかった。
ただ、二人の間に流れる川の音が、さっきよりも少しだけ近くに聞こえた。
たったこれだけのやり取りなのに、葵はなぜか、胸の奥でずっと張っていた糸が、ぷつりと緩むのを感じた。
五平餅をもう一口かじった。ポケットのスマホは静かなままだった。それでも、不思議と気にならなかった。
「……寒っ」
三宅がぼそっと呟き、立ち上がった。
「もう戻るぞ。夜は冷える」
「ああ」
葵も立ち上がり、三宅の背中を追って堤防の坂道を下り始めた。川の向こうで、夕日が金華山の向こう側に沈みかけている。空の境界線が、橙色からゆっくりと藍色へと染まっていく。
寮へと戻る途中、駅前の広場には、昨日と同じように、大きな荷物を抱えた新入生の姿が溢れていた。
その中で、一人、スーツケースのハンドルを握りしめて、立ちすくんでいる女子学生がいた。葵は一瞬、足を止めかけた。
あの時の自分と、同じ顔をしている。
声をかけようか。そう思って口を開きかけ、しかし、葵はそのまま足を動かした。
まだ、自分を支えることで精一杯だ。
でも、昨日とは何かが違っていた。
ポケットの中で、五平餅の包み紙がカサリと音を立てた。
僕たちはまだ、この大きな街の、たった一歩目を踏み出したばかりなのだから。
【第2章 シーン3】大教室の余白
翌週から本格的な講義が始まった。
全学共通の基礎科目が開講される大講堂は、高校時代の教室とは比べものにならないほど広かった。階段状に傾斜した座席には、数百人分の背中がずらりと並んでいる。
どこに座るべきか迷った葵は、人の流れの最後尾について、一番後ろの、さらに一番隅の席に滑り込んだ。
教壇ははるか下に見え、教授の声はマイクを通しても天井の高い空間で反響してくぐもる。
配られたシラバスの端を、葵は爪の先でカリカリと引っかいていた。隣の席は空席のままで、自分の周囲だけが妙な余白として切り取られている気がした。
「――以上で、今日のガイダンスを終わります」
教授の事務的な声とともに、一斉に周囲がざわめき出す。
前方の席のグループが「ねえ、次の空きコマどこ行く?」「学食混む前に並ぼうぜ」と声を掛け合っていた。その何気ない輪の広がりを、葵は教科書を鞄にしまいながら、横目で見ることしかできない。
自分には、その輪に入るための言葉も、きっかけも持ち合わせっていなかった。
講義室を出て、人の波に流されるように廊下に出ると、聞き慣れた声が背後から飛んできた。
「お、蓮見じゃん。お疲れ!」
振り返ると、河合凛が片手に色とりどりのチラシの束を持って立っていた。
入学して間もないというのに、すでに学内のあちこちに顔を出し、いくつかの学生団体やボランティアサークルの連絡先をスマホに溜め込んでいる「友達製造機」だ。相変わらず、その周囲には数人の顔見知りが集まっている。
「河合、お疲れ……相変わらず忙しそうだな」
「まあな! 面白い先輩がさ、今度、長良川のイベント手伝わないかって誘ってくれてさ。人手足りないらしいから、蓮見も来るか?」
「いや、俺は……ちょっと、履修の課題もあるし」
「そっか。まあ、また暇なときいつでも連絡してくれ!」
河合は軽い笑みを残すと、別のグループの男子に呼ばれて、ひらりと手を振って去っていった。
その背中は、入学したばかりのときよりもずっと大きく、眩しく見えた。
取り残された葵の手元には、スマホと、白紙のスケジュール帳だけがあった。
* * *
夜の学生寮。402号室。
ガチャ、と音がしてドアが開いた。
三宅蒼が汗だくのジャージ姿で戻ってきた。体育会の部活動に正式に入部した彼は、毎日ヘトヘトになるまで走り込んでいるらしい。無言のまま冷蔵庫から麦茶を取り出し、一気に喉に流し込む。
その隣の机では、小牧楓がデスクライトの光を頼りに、分厚い教育学の専門書に蛍光ペンを引いていた。すでに教職課程の履修計画を完璧に立て終え、一歩先を歩いている。
河合は外の世界で新しい仲間を増やし、
三宅は部活という縦社会で居場所を作り、
小牧は自分の将来に向かって一直線に走っている。
――じゃあ、自分は?
葵は自分の机の引き出しを開けた。
そこには、ただ白紙のノートと、どこかで購入したままのボールペンが転がっているだけだった。
引き出しを閉める。金属のラッチがカチリと鳴り、ボールペンが中で小さく転がった。
「……風呂、行ってくる」
葵はバスタオルを掴むと、誰にも声をかけずに部屋を出た。
夜の廊下は妙に静かで、自分の足音だけがコンクリートの床に乾いた音を響かせていた。外に出ると、初夏の気配を含んだ夜風が、火照った頬をなでていく。
遠くで、夜の岐阜の街の灯りが、ぼんやりと揺れていた。
【第2章 シーン4】並木道の仮面
翌日の昼休み。
学食へ向かうため、葵はキャンパスの中央を貫くイチョウ並木を歩いていた。
道の両脇には、折りたたみの長机がずらりと並んでいる。パイプ椅子、強風でバタバタと煽られるブルーシート、段ボールの裏にマジックで書かれた手作りの看板。
「フットサルサークル、週末に新歓コンパやります!」
「インカレのテニスです! 初心者大歓迎!」
メガホンの声と、どこからか聞こえるアコースティックギターの弾き語りが混ざり合い、無秩序なノイズとなって鼓膜を叩く。
葵は、なるべく視線を下げ、自分のスニーカーのつま先だけを見ながら歩いた。
目の前で、新入生らしき三人組が、サークルの先輩たちに囲まれていた。
「出身どこ?」「とりあえずLINE交換しようよ!」。
スマホの画面が次々と差し出される。新入生たちは愛想よく笑い、QRコードを読み込んでいた。
けれど、先輩が別のターゲットを見つけて背を向けた瞬間、そのうちの一人の男子が、ふっと顔の筋肉を緩め、ひどく疲れたようなため息をつくのが見えた。
――無理をしてるんだ。
葵は、立ち止まりそうになる足を必死に動かした。
友達を作るために、居場所を見つけるために、みんな無理をして笑っている。明るくて、ノリが良くて、誰とでもうまくやれる「新入生」という仮面を被って、100人の群れの中に飛び込もうとしている。
「そこの君! 君だよ、黒いリュックの!」
突然、目の前に蛍光ピンクのチラシが突き出された。
金髪に近い茶髪の先輩が、満面の笑みで立っている。
「イベントサークルなんだけど、今週の日曜、長良川の河川敷でBBQやるから来ない? 他大の女子もめっちゃ来るから、絶対友達増えるよ!」
「あ、いや……」
「とりあえずLINEだけでも繋いどこうよ!」
強引に距離を詰められ、葵は思わず後ずさりした。漂ってくる強めの香水の匂いに、息が詰まる。
「すいません、ちょっと、急いでるんで」
チラシだけを受け取り、逃げるようにその場を駆け抜けた。背後から「えー、マジかー」という声が聞こえたが、振り返らなかった。
並木道を抜け、キャンパスの端にある古いベンチに座り込む。
額にうっすらと汗をかいていた。
手の中に握りしめていた蛍光ピンクのチラシを広げる。
『一生の思い出を、100人の最高の仲間と作ろう!』
極太のゴシック体で書かれた文字の横には、数十人が肩を組み、ピースサインをしている集合写真が印刷されていた。
葵は、そのチラシを半分に折り、さらにもう半分に折った。
自分には、あの並木道で仮面を被り続けるだけの体力がなかった。かといって、仮面を被らなければ、一生この大きな大学の片隅で、白紙のノートを見つめるだけの時間が待っているのだろうか。
小さく四角くなったチラシを、ベンチの横のゴミ箱に捨てた。
カラッ、と軽い音がした。
見上げると、イチョウの枝の隙間から、初夏の眩しい光がアスファルトに影を落としていた。
【プロローグB】まっさらなチケット
中学三年生の、卒業式の日。
蓮見葵は、自分の名前が呼ばれるのを、ただ待っていた。
卒業アルバムには、クラスメイトの名前が、40人分、整然と並んでいた。その中の、自分はどこにいるんだろう。
これからの三年間で、その何百人、何千人という群れの中で、自分は「何者」になれるのだろうか。
名前だけの存在から、形のある何かへ変われるのだろうか。
高校の入学式の日、葵は、またあの歌を思い出していた。
「友達100人、できるかな」
でも、今度は、少しだけ、違う風に聞こえた。
100人集めなきゃ、って焦ることが、本当に必要なんだろうか。
冷たい春風が、葵のコートの裾を揺らした。
まだ何者でもない僕たちは、この大きな街の、たった一歩目を踏み出したばかりなのだから。
快速列車の窓から、見知らぬ街の屋根が流れていった。
蓮見葵は、シートに深く腰を下ろし、ポケットの中の片道切符を、指でなぞった。
「高校に入ったら、友達100人作るんだ」
中学三年生の、卒業式の日。葵は、自分の名前が呼ばれるのを、ただ待っていた。
卒業アルバムには、クラスメイトの名前が、40人分、整然と並んでいた。その中の、自分はどこにいるんだろう。
これからの三年間で、その何百人、何千人という群れの中で、自分は「何者」になれるのだろうか。
名前だけの存在から、形のある何かへ変われるのだろうか。
窓の外では、小さな駅のホームに、一人の老人が立っていた。手には、ビニール傘。雨は降っていないのに、なぜか、傘を手放せないようだった。
列車が通り過ぎると、老人の姿は、すぐに視界から消えた。
「友達100人、できるかな」
小学一年生の、四月の朝。母が、楽しそうに言った言葉が、ふと、蘇った。
でも、実際には、友達はなかなかできなかった。
給食の時間、隣の子に「これ、いらない?」と野菜を渡そうとして、断られた。休み時間、誰かの輪に入ろうとして、視線を逸らされた。
「友達100人」は、呪いだった。
列車の座席の前のテーブルには、誰かが置き忘れたらしい、しおれたチューリップが一輪、転がっていた。茎の先から、少しだけ、水が滲んでいる。
葵は、そのチューリップを、指でそっと押した。
花びらは、すでに茶色く変色していた。
でも、なぜか、捨てられずに、そこに置かれたままだった。
「……僕も、そうなんかな」
葵は、呟いた。
まだ何者でもない自分が、新しい街で「生まれ変わる」ための、まっさらなチケット。
でも、それは、裏返せば、「何者でもない自分」を、誰かに認めてもらうための、必死のあがきでもあった。
快速列車は、ゆっくりと、岐阜駅のホームに滑り込んだ。
葵は、スーツケースを持ち、立ち上がった。
ポケットの中の切符が、少しだけ、温かかった。
【第3章 シーン5】雨の逃げ道
六月半ば、岐阜の街に本格的な梅雨がやってきた。
重たい鉛色の雲が金華山の頂を隠し、朝からしとしとと細い雨が降り続いている。アスファルトは濡れて黒く光り、傘を打つ雨音だけがキャンパスのあちこちに響いていた。
葵は、図書館の入り口の庇(ひさし)の下で、濡れた折りたたみ傘をパタパタと畳んでいた。
スケジュール帳は、相変わらずほとんど白かった。
周囲の学生たちは、スマホで天気予報を確認しながら「午後の講義、サボって駅前のカフェ行かない?」と楽しそうに連れ立って歩いていく。その輪に入れず、かといって寮の402号室に戻る気にもなれず、葵はただ、冷たい空気の漂う庇の下に立ち尽くしていた。
「――おい」
低い声とともに、濡れたジャージの裾が視界に入った。
顔を上げると、タオルで頭をゴシゴシと拭きながら、三宅蒼が立っていた。部活の練習が終わったのか、その肩や腕にはうっすらと泥が跳ねている。
「……三宅か」
「なんだよ、そんなゾンビみたいな顔して」
「別になんでもない。……雨、すごいな」
三宅は視線を雨の降る中庭に向け、それからぶっきらぼうに言った。
「これから駅前の商店街で、古本市の荷物運びを手伝うんだ。人手不足で、河合から頼まれてさ」
「河合から?」
「ああ。あいつ、あちこちのサークルや自治会の仕事を引き受けすぎて、いよいよ首が回らなくなったらしい。『誰か力持ちを連れてきてくれ』って泣き言を言われた」
三宅はそう言って、肩をすくめた。
行くべきか、断るべきか。
いつもの葵なら「面倒だな」と言い訳を探して、そのまま図書館の自習室へ引き返していたはずだ。けれど、白紙のスケジュール帳を開くだけの毎日に、少しだけ息が詰まっていたのも事実だった。
「……分かった。俺も手伝うよ」
葵がそう答えると、三宅は少しだけ目を丸くし、それから「おう」と短くうなずいた。
* * *
駅前へと続く古びた商店街のアーケードの下は、雨を避けた人々でざわめいていた。
「おお! 蓮見、来てくれたのか! マジで助かるぜ!」
テントの下で段ボールの仕分けをしていた河合が、びしょ濡れのパーカーのまま飛び出してきた。相変わらずの笑顔だ。その周囲には、他学部の学生や、地元の商店街の老人たちが集まり、濡れた手でガムテープをちぎりながら雑談している。
葵は渡された軍手をはめると、目の前にある古本の詰まった重い段ボールを持ち上げた。
ずっしとした紙の重みが、手のひらに食い込む。
「そこ、右のテントの下にお願いね」
通りすがりの見知らぬ女子学生に声をかけられ、葵は「あ、はい」と短くうなずいて箱を運んだ。
誰かが自分を頼り、自分もそれに応える。
ただそれだけのやり取りなのに、寮のベッドで天井を見つめていたときのような、あの息苦しさがなかった。
雨粒がアーケードのトタン屋根を激しく叩く音がしているが、その下では、年齢も学部も違う人間が、同じ目的に向かって手を動かしている。
作業の合間、ふと顔を上げると、アーケードの隙間から、雨に煙る長良川の方角の空が見えた。
湿った風が、汗ばんだシャツの背中を冷やしていく。
「お疲れ、蓮見!」
ひと段落ついたところで、河合が濡れた手で冷えたペットボトルを放り寄こした。
「お前、手際いいな。意外とこういう裏方、向いてるんじゃないか?」
「そうかよ」
葵はボトルを開け、冷たい水を喉に流し込んだ。
冷たさが食道を通っていく感覚が、妙に鮮烈だった。
【第3章 シーン6】ユゲ楽器店の角
古本市の片付けを終えた翌日の夕方、葵は三宅に頼まれた買い物のついでに、商店街のずれ込んだ一角を歩いていた。
雨はすっかり上がっていたが、アスファルトの隅にはまだ水たまりが残り、夕暮れの茜色を重たく反射させている。
シャッターの閉まった店が目立つ古い一角に、その店はあった。
『ユゲ楽器店』と擦り切れた看板がかかった、間口の狭い店だ。店頭のウインドウには、埃をかぶった古いアコースティックギターや、型落ちのトランペットが並んでいる。
「あ、君、昨日の古本市の子だよね」
不意に声をかけられ、葵は足を止めた。
店先から出てきたのは、白髪混じりの髪を後ろで束ねた、エプロン姿の老紳士だった。古本市の会場で、ずっと古い絵本を整理していた店主らしかった。
「あ……はい。昨日はどうも」
「おや、そんなに緊張しなくていいさ。これ、昨日手伝ってくれたお礼だ」
老人はそう言って、店の横に積んであった段ボールの中から、不揃いな形をした木の板を取り出した。ギターの端材で作ったという小さなコースターだった。
「よかったら持って行ってくれ。若い子が手伝ってくれると、この辺りも少し活気が出るよ」
「……ありがとうございます」
受け取った木片は、まだほんの少し木の香りがした。
「この街はね、最初はただの古いコンクリートの集まりに見えるかもしれないがね」
老人は西の空、金華山のシルエットに沈みゆく太陽を眺めながら、ぽつりと言った。
「よーく見ると、あちこちに小さな『通り道』があるんだよ。君みたいな外から来た子が、自分の足で一歩を踏み出すと、景色の方が勝手に広がるようになってる」
老人はそれだけ言うと、「じゃあね」と店の中へ戻ってい Đi。
葵は手に持った木のコースターを見つめた。
大学のキャンパスで「100人の友達」を作ろうと焦っていたときは、周囲の人間がすべて「自分を評価する巨大なシステム」のように見えていた。けれど、この古い商店街の路地裏では、誰も自分を何者かなんて測ろうとしない。
ただそこにいて、荷物を運び、言葉を交わしたという事実だけが、静かに残っている。
「……景色が、広がる、か」
葵はつぶやいた。
スマホを取り出し、スケジュール帳のアプリを開く。相変わらず、今日の予定の欄には何も入っていない。
だけど、昨日までの白紙とは、何かが違っていた。そこにはもう、ただの空白ではなく、自分で歩いて手に入れた小さな手触りが確かにある。
寮へと戻る道すがら、葵はふと足を止め、スマホのカメラで路地裏の夕暮れを一枚だけ写真に収めた。
画面の中には、古い電柱と、濡れたアスファルトと、遠くに見える小さな山が写っていた。
それは誰に見せるためでもない、自分だけの景色だった。
【第3章 シーン7】フルールの花と神社
六月の終わり、湿った空気が少しずつ軽くなり始めた頃、葵は大学からの帰り道に少しだけ遠回りをしていた。
ユゲ楽器店の店主から聞いた「小さな通り道」という言葉が、どこか頭の片隅に残っていたからだ。
古いアーケードを抜けた先の住宅街に、ひっそりと佇む小さな花屋があった。店の名前は『フルール』。軒先には、名前も知らない色とりどりの野花や、季節の鉢植えが並んでいる。
店頭では、小牧楓が真剣な表情で、店員と何かを話していた。
「あ……蓮見くん?」
店から出てきた小牧が、驚いたようにメガネのフレームに手をかけた。その手には、包み紙にくるまれた小さな多肉植物の鉢が握られている。
寮の402号室ではいつも教科書に向かい、自分の将来のレールだけを正確に走っているように見えた彼女の、意外な一面だった。
「小牧か。お前も、こういうとこ来るんだな」
「……まあ。部屋に少しだけ、緑が欲しかったから」
小牧は少し照れくさそうに笑い、それから店の脇にある細い石段へと視線を向けた。
「この上にある金神社、知ってる? 静かで、勉強の合間に息抜きするのにちょうどいいんだよ。行く?」
誘われるまま、葵は小牧の後に続いて石段を登った。
鬱蒼とした木々に囲まれた境内は、街の喧騒が嘘のように静まり返っている。鳥居をくぐると、湿った土と緑の匂いが鼻腔を満たした。
「私ね」
石段の途中で、小牧がぽつりと言った。
「高校の頃から、決められた道を外れないように必死だったの。教職を取って、ちゃんとした進路を選んで、そうしないと自分がダメになる気がして」
小牧は持っていた小さな鉢植えを両手で包み込むように持ち、じっと見つめた。
「でも、ここで色んな人を見てさ。河合くんみたいに自由に動く人もいれば、三宅くんみたいに自分の軸で生きている人もいる。……蓮見くんが最近、なんだか変わってきたのも、見てて分かったよ」
葵は少し驚いた。寮ではほとんど喋らない彼女が、そんな風に周りを見ているとは思わなかったからだ。
「変わった、かよ」
「うん。最初はただ怯えてるみたいだったのに、今は……なんていうか、自分の足で立ってる感じがする」
境内の隅で、風に揺れる葉の音がサラサラと響いていた。
100人の友達を作る必要なんてない。誰かと同じレールを走る必要もない。
小牧が彼女自身の選択でこの鉢植えを選んだように、自分もまた、この街で自分の足場を一つずつ選んで掴み取ってきたのだ。
「……ありがと、小牧」
「え? 何が?」
「いや、なんとなく」
葵が笑うと、小牧は少しきょとんとした後、ふっと柔らかく微笑んだ。
境内の隙間から、夕方の薄光が二人の足元を優しく照らし出していた。
ポケットの中で、あの古いボールペンが指先に触れた。
もう、白紙のノートを怖がる必要はない。
【第4章 シーン8】美咲荘のベランダの朝
秋風が長良川の水面を渡り、岐阜の街に大学祭の季節を告げていた。
十月の朝。
葵は学生寮「美咲荘」の二階、402号室のベランダに立っていた。
手には、お気に入りのマグカップから立ち上る白湯。ひんやりとした朝の空気が、眠気の残る頬を心地よく引き締めてくれる。
「おい、蓮見。朝飯食うぞ」
部屋の中から、ジャージ姿の三宅が顔を覗かせた。相変わらず無愛想だが、その声には以前のような重たさはない。
奥の机では、小牧が几帳面に教科書を広げ、その横で河合が「やべ、今日の1限レポート終わってねえ!」と派手に慌てふためいている。
ガチャガチャとした、賑やかで、しかしどこか落ち着いた日常。
春にあれほど息苦しかったこの402号室は、いつの間にか、それぞれの場所へ向かう人間が一時的に肩を休める、確かな基点になっていた。
葵はマグカップを置き、自分の机の引き出しを開けた。
そこには、かつて転がっていた「ただの白紙のノートとボールペン」ではなく、ボランティアのシフト表や、商店街の人たちと交わしたメモ、そしてあのユゲ楽器店でもらった木片のコースターが収まっている。
誰かに強いられたわけでも、100人の群れに合わせようとしたわけでもない。
自分の手で選び、自分の足で歩いた軌跡が、そこには確かにあった。
「なぁ、今日の大学祭の準備、お前らはどうすんの?」
河合がネクタイを半ば引っ掛けながら訊いてきた。
「インフォメーションのテント番だよ。地域イベントの延長で頼まれてさ」
葵が答えると、河合は「マジかよ、働き者だな!」と大げさに笑った。
「じゃあ、あとで差し入れ持って行ってやるよ」
三宅もうなずき、小牧も資料を片手に「私も手伝いに行く予定です」と言った。
それぞれが別の道を歩きながら、どこかで緩やかに繋がっている。
その事実が、今の葵の胸を静かに満たしていた。
ベランダの手すりに身を預け、見上げると、秋の澄み切った青空の向こうに、金華山と岐阜城のシルエットがくっきりと浮かんでいた。
あの山の向こうへ、今日も新しい一歩を踏み出そう。
葵は深く息を吸い込み、部屋の中へと振り返った。
【第4章 シーン9】駅前の新しい春の足音
大学祭の熱気が過ぎ去り、岐阜の街に本格的な秋の気配が満ちた頃。
講義の帰りに、葵はふと岐阜駅の北口ペデストリアンデッキに足を向けていた。
駅前広場には、相変わらず大きな荷物を抱えた人々が行き交い、それぞれの目的地へ急いでいる。
その喧騒の中で、葵は足を止めた。
ペデストリアンデッキの隅、冷たいタイルの上に、一つの大きなスーツケースが置かれていた。
その傍らに立つ女子学生は、スマホの画面と見知らぬ案内板を交互に見上げながら、どこか途方に暮れたように小さく肩を縮こまらせている。
春の日の、あの場所での自分とまったく同じ姿だった。
(声を、かけるか?)
心の中で、一瞬だけ迷いがよぎった。
自分だって、まだ完璧にこの街のすべてを知っているわけじゃない。何者かになれたわけでもない。自信満々に案内できるほどの余裕があるわけでもなかった。
けれど――。
ポケットの中で、あの時握りしめた古ぼけたボールペンの感触が、ふと蘇った。
あの春、三宅が半分こしてくれた五平餅の温もり。
古本市の雨の中で交わした、見知らぬ人との短い言葉。
ユゲ楽器店の店主が教えてくれた「小さな通り道」。
小牧や河合と過ごした、あの402号室のざわめき。
誰もが「100人の友達」や「何者か」という大きな呪縛に怯えながら、それでも自分の足で一歩ずつ世界を広げてきた。
自分はもう、あの日の「ただ立ちすくむだけの存在」ではない。
葵はスッと息を吸い込むと、迷うことなくその女の子のほうへまっすぐ歩み寄った。
「あの、もしかして……道、迷いました?」
声をかけられた女子学生が、はっと驚いたように顔を上げる。その瞳には、かつての自分と同じ心細さが揺れていた。
「あ……はい。あの、大学のガイダンスの会場に行きたいんですけど……」
「ああ、それなら、あそこの大通りを真っ直ぐ抜けて、次の角を左に曲がったところだよ。一緒に行こうか?」
少女の顔に、ふっと緊張が解けたような、安堵の笑顔が広がった。
「ほんですか? ありがとうございます……!」
「うん、行こう」
葵は軽くうなずき、女子学生のスーツケースの持ち手を少しだけ手伝うようにして歩き出した。
並んで歩くアスファルトの上には、秋の澄み切った夕日が、二つの影を長く伸ばしている。
まだ名前のない明日へ向かう誰かのために、今日、自分は最初の景色になる。
振り返らない。
長良川の向こうへと沈む夕日が、新しい季節の始まりを、どこまでも鮮やかに照らし出していた。
【エピローグ】白紙のページの、最初の一行
四月から始まった季節は、巡って、また春の匂いを運び始めていた。
葵は机の前に座り、白紙のノートを広げる。
ペンの先が、紙の繊維にゆっくりと沈み込む。
「まだ何者でもない僕たちの旅は、ここから始まる」
一文字、一文字、丁寧に。
窓の外では、長良川の風が、新しい桜の枝を揺らしている。







