Sinopse
浅野たかね(50)
若い頃は色々と苦労(元夫の借金や離婚など)があり、流れ着くように始めたのがこの仕事。「高所で黙々と体を動かしてガラスを磨く時間だけが、唯一余計なことを考えんで済む時間だった」
家では一人暮らしで、ウーパールーパーみたいな「あんまり動かない静かな生き物」を飼っている。仕事で人間のドロドロを見過ぎる反動で、家では極限まで静寂を好む。
Capítulo1
「ガコン!」
鉄の塊が喉を鳴らすような不吉な衝撃とともに、足場が数センチ沈み込む。
「ひぃっ、いぃっ……!」
城戸蓮は、肺にある空気をすべて絞り出すような情けない悲鳴を上げた。
全身の毛穴が逆立ち、背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走る。命綱を握りしめる指関節は白く浮き上がり、安物の作業手袋がじっとりと脂汗で湿っていく。視界の端で、地上五十メートルの風景が歪んで見えた。アスファルトを這う車はトミカより小さく、歩行者はただの動く点に過ぎない。
一歩間違えれば、あの硬い地面に叩きつけられて、自分もただの「点」になる。
「……なぁ城戸くん。そんなに力入れとったら、昼休みまでに肩外れるで」
隣から、拍子抜けするほどのんびりした声が降ってきた。
浅野たかね。この道十五年のベテランは、揺れるゴンドラの上で平然と腰を下ろし、バケツに洗剤を溶かしている。彼女にとって、この地上数十メートルの不安定な足場は、居間のソファとさして変わらないらしい。
「無理です、浅野さん……。なんで、なんで僕、こんな仕事選んじゃったんだろ……」
「知らんがな。自分、面接の時は『高いところは大丈夫です、黙々とやる仕事がしたいです』って、えらい殊勝なこと言うとったやん」
「それは……人間関係に疲れてて、とにかく人と話さない仕事ならどこでもいいって……! まさか採用初日にゴンドラに乗せられるなんて思わなかったんですよ!」
「ははっ、高所恐怖症ってわかったん、採用されてからやったもんなぁ。ほんま、人生何があるか分からんわ。おもろいなぁ」
浅野は他人事のようにケラケラと笑いながら、厚手のゴム手袋をはめた手でスクイジー——窓拭き用のワイパー——を握り直した。彼女の顔には、この状況を恐怖と感じる回路がそもそも備わっていないかのようだ。
「ほら、仕事や。水流すで」
浅野が勢いよくバケツの泡水をガラスにぶちまける。
真っ白な泡が「トワイライトタワー」七階の外壁を覆い、一瞬だけ、中の様子を遮断する。城戸はゴンドラの柵を掴んだまま、震える足でかろうじて立っていた。ポケットの中にある、ストレス解消用のスクイーズを握りつぶす。グニュ、という不気味な感触だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の味方だった。
シュッ、と小気味よい音がした。
浅野がスクイジーを一閃させる。
一筋の透明な道が、泡の壁を切り開くように現れた。その向こう側から、空調の効いた、清潔で、静謐なオフィスの風景がぬるりと剥き出しになる。
窓一枚。厚さ数センチの強化ガラス。
こちら側は、風が吹き荒れ、死の恐怖と隣り合わせの剥き出しの外界。
あちら側は、コーヒーの香りと適温の空気に守られた、文明の温室。
浅野は手際よくワイパーを動かしながら、目を細めた。彼女の目は、単に汚れを探しているのではない。ガラスの反射、中の照明の具合、それらを計算して「一番よく見える」角度を即座に見抜く。
「……なぁ城戸くん、見てみ。あの給湯室の角」
「見たくないです……。下も見たくないし、中も見たくない。僕はただ、この鉄板と結婚したつもりで、一歩も動かずにいたいんです」
「ええから見ろって。あのお姉ちゃん、えらい気合入ってるで」
浅野の「野次馬センサー」は、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い。彼女に促され、城戸は恐る恐る、首を数ミリだけオフィスの方へ向けた。
給湯室。
ベージュのカーディガンを羽織った、清楚な印象の女性社員が一人。彼女は周囲を執拗に警戒しながら、ウォーターサーバーの死角に身を隠していた。
彼女の手には、マイボトル……ではなく、派手な銀色のアルミ缶握られている。
青地に大きな「9%」の文字。
女性は迷うことなく、それを一気に煽った。喉を大きく鳴らし、半分以上を一気飲みする。その動作には、喉を潤すというより、神経を麻痺させるための切迫感があった。
「……うわ、午前中からストロング行ってる」
城戸は思わず呟いた。
「せやろ? アレは仕事の合間にちょっと一杯っていう顔やない。戦場に行く前の兵士の顔や。見てみ、飲み終わった缶を紙コップの中に隠して、すぐフリスク口に入れたわ。手慣れたもんやな」
浅野は感心したように頷きながら、別の区画へスクイジーを滑らせる。
「……あのお姉ちゃん、たぶん営業部のエースやな。あんなに飲まなやってられんくらい、上から詰められとるんやろ。世の中、地獄は高いところだけやないで」
浅野の言葉には、妙な説得力があった。
ガラス一枚を隔てて展開される「人生」の断片。自分たちが地上五十メートルで命を懸けている間に、あちら側の人々は、社会という名の底なし沼の中で、別の死線を潜り抜けている。
ゴンドラが再び、ガクンと微動した。城戸の心臓が跳ね上がる。
「ひっ、あああ……!」
「騒ぎな。次はあっちの会議室や」
浅野は城戸のパニックを無視して、さらにゴンドラを数メートル横へスライドさせた。
そこは、少し広めの会議室だった。奥のデスクには大量の書類が積まれ、一人の女性社員が黙々と整理に追われている。
だが、その光景には、決定的な異常があった。
彼女の座っている「椅子」だ。
黒いオフィスチェアではない。彼女の下にあるのは、四つん這いになり、歯を食いしばって彼女の体重を支えている、スーツ姿の中年男性社員だった。
女性は、その男性の背中の上に当然のような顔で腰掛け、左手で優雅にマグカップを持ち、コーヒーを啜っている。
「なっ、ななな……何ですか、あれ!?」
城戸は恐怖を忘れ、指を差して叫んだ。
「人間椅子や。リアルで見んのは久しぶりやなぁ」
浅野は、まるで珍しい鳥でも見つけたかのような口調で言った。
「人間椅子!? いや、おかしいでしょ! パワハラとか、そういう次元を超えてますよ! 何やってるんですか、あの部署!」
「案外、本人が望んでやってるんかもしれんで。ほら、見てみ。あの下の男、なんかちょっと嬉しそうやん。口角、微妙に上がっとるわ」
「嘘だ……! そんなわけないじゃないですか! 浅野さん、これ通報した方がいいんじゃ……あ、でも、ここからじゃスマホも出せないし……」
「アホ。やめとき」
浅野の声が、急に冷徹な響きを帯びた。
「なんでですか、あんなの絶対におかしいですよ!」
「城戸くん、よう聞き。うちらの仕事は、このガラスをピカピカにすることや。中の奴らがどんなドロドロした生活送ってようが、変態プレイに興じてようが、うちらには指一重関係ないねん。中の世界に手を突っ込んだら、こっち側の世界が濁る」
浅野は、一気にスクイジーを引き下ろした。
透明な軌跡が、会議室の光景を鮮やかに切り取る。
その瞬間、人間椅子の女性が、不意に顔を上げた。
目が合う。
城戸は心臓が止まるかと思った。
だが、女性の視線は城戸を通り越し、虚空を見つめているようだった。太陽の光がガラスに反射し、彼女の瞳には、青い空と、得体の知れない作業服の影しか映っていないはずだ。
こちらからは見えるが、あちらからは見えない。
この地上五十メートルのゴンドラは、下界の喧騒から隔絶された、神の視点にも似た「安全な観測席」なのだ。
浅野は再び、ゴンドラを下降させるレバーを引いた。
キィィィ、という金属音が響き、視界が一段階下へ沈む。
「さ、次は六階や。どんな変態がおるか楽しみやな。城戸くん、ハッカ飴食うか?」
浅野がポケットから、くしゃくしゃになった包み紙の飴を差し出した。
「……いただきます」
城戸は震える手でそれを受け取り、口に放り込む。
暴力的なまでのミントの刺激が鼻を突き抜け、涙が出そうになった。だが、その強烈な辛みのおかげで、さっきまで自分を支配していた「死の恐怖」が、少しだけ遠のいていることに気づく。
人間関係に疲れて、逃げるように辿り着いた、窓拭きの仕事。
足元は相変わらず不安定で、命綱一本に全てを預けている状態には変わりない。
それでも。
ガラスの向こう側で蠢く、自分よりずっと「異常」で「しょうもない」人間たちの姿を見ていると、自分の抱えていた悩みさえも、なんだか馬鹿馬鹿しいものに思えてくるから不思議だ。
「……浅野さん、六階も、変な人いますかね」
「おるおる。下に行けば行くほど、人間の業は深くなるもんやで」
浅野は楽しそうに目を細め、再びバケツの泡をガラスに投げつけた。
空はどこまでも青く、タワーの下では、何食わぬ顔をした「点」たちが、今日もそれぞれの地獄へ向かって歩いている。
城戸はスクイーズをポケットの奥へ押し込み、代わりに、汚れたスクイジーをぎこちなく握りしめた。
Últimos capítulos
「……生きてる。僕、生きてる。地面が、地面が硬い」
トワイライトタワーの通用口前。アスファルトを踏みしめる感触が、これほどまでに愛おしく感じられたことはなかった。城戸蓮は
「トワイライトタワー」での作業も、今日が最終日となる。
地上付近に近づくにつれ、ビルを吹き抜ける風の質が変わった。上層階の、肌を切り裂くような鋭い冷たさは消え、アスファル
「地上六階。……昨日よりは、まだマシ、かもしれない」
城戸蓮は、ゴンドラの冷たい手摺りを掴みながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
作業開始から数日。トワイライ
「ガコン!」
鉄の塊が喉を鳴らすような不吉な衝撃とともに、足場が数センチ沈み込む。
「ひぃっ、いぃっ……!」
城戸蓮は、肺にある空気をすべて絞り出すような情







