お客様は神様です。
Sinopse
お客様は神様です。
その言葉は、ただの接客心得ではなかった。
東京の片隅にあるキャバクラ、MIDNIGHT DRESS。 新人キャストのHIBIKIは、閉店間際に訪れた一人の老人をきっかけに、この店にだけ流れる奇妙な夜を知ることになる。
嫌われ続けたお客様。 恋を知らないお客様。 咳をするお客様。
彼らが持ち込むのは、願いではなく、誰にも言えなかった孤独や後悔。 HIBIKIたちは今夜も、笑顔とグラスでその声に耳を澄ませる。
Capítulo1
雨の日の夜は、客足が重くなる。
そんなことを、HIBIKIが覚えたのは、MIDNIGHT DRESSで働き始めて三日目のことだった。
東京の片隅。大通りから一本裏へ入ったところに、その店はある。黒い扉。金色の取っ手。入り口の横には、深夜の月みたいに白く光る小さな看板。
MIDNIGHT DRESS
店内は、外の雨音が嘘のように静かだった。濃紺の絨毯、深い赤のソファ、磨かれたグラス、古いシャンデリア。高級感はあるのに、どこか古い洋館のような匂いがする。
HIBIKIは、その雰囲気にまだ慣れなかった。
キャバクラという場所は、もっと騒がしくて、もっと派手で、もっと軽いものだと思っていた。けれどこの店には、笑い声の奥に沈黙がある。照明の明るさの奥に、暗がりがある。
そして、壁には古びた額縁が掛けられていた。
そこには、墨でこう書かれている。
お客様は神様です。
HIBIKIは、グラスを拭きながら小さく笑った。
「いまどき、こんな言葉を本気で飾ってる店、あるんだ……」
思わず漏れた独り言に、隣で伝票を整理していたKIRAが顔を上げた。
「HIBIKIちゃん、それ店で一番大事なやつだからね」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。多分。REINAさんがいつも見てるし」
KIRAは軽くウインクして、冗談なのか本気なのかわからない顔で笑った。彼女はこの店の中で一番華やかだ。明るい髪、きらめくピアス、客の前では太陽みたいに笑う。けれど閉店間際の今は、その笑顔も少しだけ眠そうだった。
カウンターの奥では、LUNAが静かにグラスを並べ直している。彼女はいつも無駄なことを言わない。細い指先でグラスの縁を確認し、わずかな曇りも許さない。
SHIONは奥の席で、誰も座っていないソファに丁寧におしぼりを置いていた。もう閉店間際なのに、まるでこれから誰かを迎える準備をしているみたいだった。
そしてREINAは、入り口の方を見ていた。
MIDNIGHT DRESSのNo.1。
ただ立っているだけで、店内の空気が彼女のために整うような人。
HIBIKIは不思議になって声をかけた。
「REINAさん。まだ、誰か来るんですか?」
REINAはゆっくりと振り返った。
「夜は、最後の最後までわからないものよ」
「閉店まで、あと十分ですよ?」
「だからこそ、来る人もいるの」
その言い方が妙に引っかかった。
そのときだった。
カラン、と入り口のベルが鳴った。
店内の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
黒服が扉の方へ向かう。HIBIKIも反射的に視線を向けた。
入ってきたのは、老人だった。
ボロボロの着物。濡れた白髪。曲がった背中。足元は古びた草履で、片方の鼻緒が切れかかっている。
どう見ても、この店に来るような客ではなかった。
HIBIKIは思わず息を止めた。KIRAも小さく目を見開く。黒服は一瞬だけ困った顔をした。
けれどREINAだけは違った。
彼女は迷うことなく老人の前へ歩み寄り、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。MIDNIGHT DRESSへようこそ」
老人は濡れた袖から顔を上げた。
「まだ、入れるかね」
「もちろんです」
REINAは微笑んだ。
「お客様ですから」
HIBIKIは、壁の額縁を見た。
お客様は神様です。
さっきまで古くさい標語に見えていたその文字が、なぜか少しだけ重く見えた。
老人は、いちばん奥の席に案内された。指名はしなかったが、REINAが隣につき、HIBIKIがヘルプとして呼ばれた。
近くで見ると、老人は本当にみすぼらしかった。着物の裾は泥で汚れ、手の甲には深い皺が刻まれている。けれど、その目だけは妙に澄んでいた。
HIBIKIは緊張しながら水割りを作った。
「どうぞ」
老人はグラスを受け取ったが、口をつけずに氷を眺めていた。
「冷たいものは、変わらんな」
「冷たいもの、ですか?」
「人の目も、氷も」
HIBIKIは返事に困った。
老人は、かすれた声で続けた。
「わしはな、どこへ行っても嫌われる」
REINAは何も言わず、老人の言葉を待った。
「家に入れば追い出される。店に入れば嫌な顔をされる。名前を呼ばれる時は、たいてい悪口だ」
HIBIKIは、老人の横顔を見た。
酔っているわけではなさそうだった。愚痴というより、ずっと昔から同じ話を繰り返してきた人の声だった。
「おじいさん、家族の方とは……」
「家族?」
老人は笑った。
「わしに家などない。帰る場所も、待つ者もない。ただ、人の暮らしの隙間に座るだけだ」
その笑い方が、妙に寂しかった。
少し離れたカウンターで、LUNAが手を止めていた。彼女は老人の足元を見ている。
HIBIKIもつられて見た。
おかしかった。
老人は雨に濡れて入ってきたはずなのに、床には一滴も水が落ちていない。
それどころか、老人の影が、照明とは逆の方向に伸びているように見えた。
見間違いだと思った。
HIBIKIは瞬きをした。影は普通に戻っていた。
「金のない客にも、笑えるか」
突然、老人が言った。
HIBIKIは顔を上げた。
「え?」
「汚れた着物の客にも、酒を出せるか。役に立たぬ者に、席を用意できるか」
その声は、さっきより少しだけ意地悪だった。
KIRAが近くを通りかかり、表情を曇らせる。
「お客様、そういう言い方は……」
REINAが片手でKIRAを制した。
そして老人をまっすぐ見る。
「この店では、お客様の価値を財布の厚さでは決めません」
老人は鼻で笑った。
「綺麗事だな」
「ええ」
REINAは静かに頷いた。
「けれど、夜の店に綺麗事がひとつもなかったら、誰も朝まで笑えませんから」
老人は初めて、REINAをじっと見た。
その目は、人間を試すようでもあり、何かを懐かしむようでもあった。
「面白い娘だ」
「よく言われます」
「嘘をつけ」
「それも、よく言われます」
KIRAが小さく吹き出した。HIBIKIも少しだけ肩の力が抜けた。
けれど老人の周りだけ、空気が重い。
テーブルの上の花が、ほんの少し萎れていた。さっきまで瑞々しかった白い花弁が、端から茶色くなっている。
HIBIKIはそれを見て、胸がざわついた。
老人はグラスを置いた。
「この店も、じきに傾くぞ」
誰も笑わなかった。
「客足は減り、酒は余り、人も去る。灯りは消え、看板は外される。わしが座った席は、たいていそうなる」
「そんなこと、言わないでください」
HIBIKIは思わず口を挟んでいた。
老人がこちらを見る。
「嫌か」
「嫌です」
「ほらな」
老人は寂しそうに笑った。
「やはり嫌だろう。わしのような客は」
その言葉で、HIBIKIは気づいた。
この人は、自分から嫌われにいっている。
嫌われる前に、嫌われる理由を差し出している。追い出される前に、追い出される覚悟をしている。
HIBIKIは少しだけ唇を噛んだ。
「嫌っていうより……悲しいです」
老人の表情が止まった。
「そんなふうに言われたら、誰だって笑えなくなります」
店内が静かになった。
雨音が遠くなっていた。時計の秒針も聞こえない。
HIBIKIが壁の時計を見ると、針は閉店時間の一分前で止まっていた。
壊れたのだろうか。
そう思った時、SHIONが静かに歩いてきて、老人の前に新しいおしぼりを置いた。
「冷えているでしょう。よろしければ」
老人は、そのおしぼりをじっと見た。
「わしに触れたものは、よくないことを呼ぶぞ」
SHIONは穏やかに答えた。
「それでも、濡れた手のままでは落ち着きませんから」
老人は長い沈黙のあと、おしぼりに手を伸ばした。
その指先が少し震えていた。
HIBIKIは、なぜか泣きそうになった。
老人はおしぼりで手を拭き、ゆっくりと立ち上がった。
「もうよい。久しぶりに、人間の店で酒の匂いを嗅いだ」
「お帰りですか?」
REINAが尋ねる。
「ああ。長居をすると、迷惑になる」
老人は懐を探った。
出てきたのは、古びた一枚の銅貨だった。現代の硬貨ではない。いつの時代のものかわからないほど黒ずんでいる。
KIRAが戸惑う。HIBIKIも、どうしたらいいのかわからなかった。
けれどREINAは、その銅貨を両手で受け取った。
「確かに頂戴いたしました」
老人は少しだけ目を見開いた。
「それで足りると言うのか」
「今夜のお代としては、十分です」
「酔狂な店だ」
「よく言われます」
老人は、ほんのわずかに笑った。
それは笑顔と呼ぶには小さすぎたけれど、HIBIKIには確かに見えた。
老人が出口へ向かう。
その背中は、来た時よりもずっと小さく見えた。
ドアの前で、老人は一度も振り返らなかった。
このまま雨の中へ消えて、もう二度と会えないような気がした。
HIBIKIは、気づいたら声を上げていた。
「あの!」
老人が止まる。
HIBIKIの胸は、変なほど高鳴っていた。
「また来てください」
店内が完全に静まり返った。
KIRAが息を呑んだ。LUNAが顔を上げる。SHIONは黙ってHIBIKIを見ていた。
老人が、ゆっくり振り返る。
「わしに、また来いと言うのか」
その声は低かった。
怒っているのか、驚いているのかわからない。
HIBIKIは手を握りしめた。
「だって……」
言葉を探した。
上手な接客の言葉なんて、出てこなかった。
気の利いた慰めも、優しい嘘も、まだ知らなかった。
だから、思ったままを言った。
「まだ、ちゃんと笑ってないじゃないですか」
次の瞬間。
店内の照明が、ふっと消えた。
悲鳴を上げる間もなかった。
一秒か、二秒か。真っ暗な中で、雨音だけが聞こえた。
そして再び灯りが戻った時、老人の姿が変わっていた。
ボロボロだった着物は、古びた神衣のように見えた。背後には痩せた大きな影が揺らめいている。足元には、米粒と小さな銅貨がいくつも散らばっていた。
HIBIKIは声を失った。
老人は、HIBIKIを見ていた。
「変わった娘だ」
その顔に、さっきとは違う笑みが浮かんでいた。
「わしに“また”などと言う人間は、久しぶりだ」
老人はテーブルの上に、一枚の名刺を置いた。
白い紙ではない。古い札のような、少し黄ばんだ紙。
そこには、墨でたった三文字だけ書かれていた。
貧乏神
HIBIKIの喉が鳴った。
「びん……ぼう……がみ……?」
老人はREINAを見る。
「この店は、まだ潰れん」
REINAは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「貧しさを追い払わず、席を用意したからな」
老人はそう言って、雨の向こうへ歩き出した。
ドアベルが鳴る。
その音と同時に、止まっていた時計の秒針が動き出した。
チッ、チッ、チッ。
さっき萎れていたテーブルの白い花が、一輪だけ、元の形に戻っていた。
HIBIKIはしばらく動けなかった。
店内には、誰も言葉を発しない時間が流れた。
やがてKIRAが、ふうっと息を吐いた。
「今回、ちょっと怖かったね」
「ちょっと……ですか?」
HIBIKIは震える声で返した。
LUNAは何事もなかったようにグラスを片づけていたが、その横顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
SHIONは、貧乏神が座っていた席に新しいおしぼりを置いた。
まるで、次に来る時のために。
HIBIKIはREINAを見た。
「今の人……本当に、神様だったんですか?」
REINAはすぐには答えなかった。
カウンターの奥へ行き、古い棚から一冊の帳簿を取り出す。
黒い革表紙。角は擦り切れ、金具はくすんでいる。けれど大切に扱われてきたものだとすぐにわかった。
REINAがそれを開く。
HIBIKIは、おそるおそる覗き込んだ。
そこには、来店記録が並んでいた。
縁結びの神。
疫病神。
勝利の神。
弁財天。
名もなき土地神。
忘れられた海神。
そして今日の日付の欄に、まだ乾いていない墨でこう記されている。
貧乏神。
HIBIKIは言葉を失った。
「この店って……何なんですか?」
LUNAがグラスを拭きながら、淡々と言った。
「表向きは、ただのキャバクラ」
KIRAが小さく笑う。
「でも、夜が深くなると少しだけ変わるの」
SHIONが、貧乏神の席に置いたおしぼりをそっと整えた。
「ここは、人間に忘れられた神様が、最後に誰かと話をしに来る場所」
HIBIKIは、壁の額縁を見た。
お客様は神様です。
朝礼で聞くような接客心得だと思っていた。
古くさい標語だと思っていた。
でも今、その文字はまるで別の意味を持って光っている。
REINAがHIBIKIの隣に立った。
「HIBIKI」
「はい……」
「怖い?」
HIBIKIは少し迷った。
怖い。
もちろん怖い。
でも、それだけではなかった。
あの老人の寂しそうな声。
震えていた指先。
“また来てください”と言った時の、あの信じられないものを見るような顔。
HIBIKIは首を横に振った。
「怖いです。でも……それ以上に、寂しそうでした」
REINAは満足そうに微笑んだ。
「なら、あなたはこの店に向いているわ」
「私が、ですか?」
「ええ」
REINAは壁の額縁を見上げた。
HIBIKIも同じように見上げる。
その言葉は、もうただの飾りではなかった。
REINAは静かに言った。
「だから言ったでしょう。
お客様は、神様です。」
その夜、閉店後のMIDNIGHT DRESSには、しばらく雨音だけが残っていた。
カウンターの上では、古い帳簿が開かれたままだった。
そして次の白いページの端に、いつの間にか薄紅色の糸が一本、しおりのように挟まっていた。
Últimos capítulos
灰は、帳簿の白いページの上に、ひとひらだけ落ちていた。
熱はない。
指先を近づけても、火傷をしそうな気配はない。
透明な雫は、朝になっても帳簿の上に残っていた。
水のようで、涙のようでもある。
けれど紙には染み込まない。白いページの上に丸い珠のまま浮かび、店内
金色の欠片は、帳簿の白いページの上で、朝になっても輝きを失っていなかった。
それは月桂冠の葉のようにも、割れたメダルの一部のようにも見えた。
指先
帳簿の黒い染みは、翌日になっても消えなかった。
MIDNIGHT DRESSの営業前。
まだ客のいない店内で、HIBIKIはカウンター奥の古い帳簿
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