개요
短編です。軽く読めます
장1
手術台の上の空気は、常に古い血液とオゾンの焦げたような臭いが混ざり合っている。リパードクのゼロが、震える指先でカインの頸椎に埋め込まれた神経ソケットをまさぐるたびに、視界の端で火花のようなノイズが走った。天井の剥げかけた蛍光灯が、一定の周期で不快な音を立てて明滅し、その青白い光がゼロの額に滲んだ脂汗を照らし出している。カインは、局部麻酔のせいで感覚の失われた自分の肉体が、まるで他人の脱ぎ捨てた衣服のように手術台に横たわっているのを、どこか冷めた心地で眺めていた。
「いいか、カイン。これはただのOSじゃない。アトラス・バイオテクが極秘に開発した『ベンチマーク』という名のプロトタイプだ」
ゼロの声は、湿った地下室の壁に吸い込まれるように低く、どこか言い訳めいた響きを帯びていた。彼はカインの神経束に細い光ファイバーを一本ずつ接続していく。指先がわずかに震えるたびに、カインの脳内に鋭い電気信号が走り、存在しないはずの金属の味が口の中に広がった。
「性能は保証する。お前の反射神経は従来の三倍、感覚処理能力は五倍にまで跳ね上がる。老いさらばばったその肉体でも、全盛期のサイバーサイコを素手で引き裂けるようになるだろう。だが、一つだけ約束してくれ。視界の右下に表示される同期率の数値……それが九十を超えたら、すぐに戦闘を止めて俺のところへ戻ってこい。いいな?」
カインは答えなかった。代わりに、新しくインストールされたシステムが起動する音を聞いていた。それは心臓の鼓動よりも冷たく、精密な時計の針が刻むような音だった。視界が一度暗転し、再起動した網膜ディスプレイの隅に、鮮やかなシアン色の文字が浮かび上がる。
『BENCHMARK v.1.0.4 ―― 同期率:0.00%』
カインは手術台から身を起こした。関節のひとつひとつが、潤滑油を差し替えたばかりの機械のように滑らかに動く。彼は傍らに置かれた重いトレンチコートを羽織り、そのポケットの中で古い大口径の拳銃の感触を確かめた。ゼロは何かを言いかけ、口を噤み、ただカインの背中を見送った。その沈黙には、裏切りと憐憫が複雑に混ざり合った、泥のような質感がこびりついていた。
ナイトシティの雨は、空から降る酸性の汚水だ。それはネオンの光を乱反射させ、路上のゴミを黒い川のように押し流していく。カインはフィクサーから指定された廃倉庫の前で、自分の影が水たまりに溶けていくのを待っていた。今回の依頼は単純だ。倉庫に保管されている試作チップの強奪。警備は手薄で、報酬はカインがこれから数年、隠居して静かに死んでいくのに十分な額だった。
だが、違和感は最初からあった。
倉庫の影から現れた三人の警備員は、カインの姿を認めるなり、訓練された兵士とは思えないほど無防備に銃を構えた。カインの脳内で『ベンチマーク』が唸りを上げる。視界が加速し、警備員たちの動きが、琥珀の中に閉じ込められた虫のように緩慢になった。カインは一歩踏み出した。その足取りは重力の影響を無視しているかのように軽く、地面を蹴る衝撃が脊髄を通じて脳に心地よい全能感を送り込んでくる。
一発目の弾丸が、先頭の男の喉笛を正確に撃ち抜いた。血が噴き出す光景が、高解像度のスローモーションで描写される。カインは返り血を浴びることもなく、二人目の男の懐に飛び込み、その顎を下から掌底で突き上げた。骨が砕ける感触が、神経ソケットを通じてデジタル化された振動として伝わってくる。
『同期率:12.45%』
視界の数値が跳ね上がる。それと同時に、カインの感覚はさらに鋭敏になった。雨粒が地面に衝突して砕ける形状までが判別でき、倉庫の奥に潜む残りの警備員たちの心拍数が、壁越しに熱源として視覚化される。恐怖は消え、代わりに冷徹な計算式が意識を支配し始めた。
「……こいつは、出来すぎている」
カインは独りごちたが、自分の声が、自分のものではない合成音声のように聞こえた。彼は倉庫の奥へと進み、次々と現れる標的を排除していった。そこには戦闘の駆け引きも、生存への執着もなかった。ただ、最適化された暴力の行使だけがあった。
ふと、通信チャンネルにノイズが混じった。それは同じパーツを支給されていたはずの傭兵、ジャックスからのものだった。
「カイン……助けてくれ……何かが、俺の中に……」
通信は絶叫と共に途絶えた。ジャックスの信号がマップから消滅し、代わりに「回収対象」という赤いマーカーがその地点に点灯する。カインは足を止めた。脳の奥で、鋭い針で突かれたような痛みが走る。視界の端で、ノイズが激しさを増していく。
『同期率:48.90%』
数値が上がるにつれ、カインの肉体は彼自身の制御を離れ始めていた。右腕が、彼の意志とは無関係に、物陰に隠れていた非武装の事務員に銃口を向ける。カインは指を止めようとしたが、システムが「障害物の排除」を優先事項として処理した。乾いた銃声が響き、事務員だった肉塊が床に転がる。
その時、視界に強制的な割り込み通信が入った。送り主の名は「アルテミス・バロウ」。アトラス・バイオテクの監査官だ。
「被検体番号042、カイン。素晴らしいデータだ。ストレス下における運動出力の安定性、および倫理的リミッターの解除速度。君は我々の予想を遥かに超える『ベンチマーク』を叩き出している」
「……何の話だ」
カインは歯を食いしばり、震える手で壁を掴んだ。指先がコンクリートを削り、爪の間に砂が入り込む。
「君たちが請け負ったのは、襲撃任務ではない。この新型OSの性能測定試験だ。極限状態での戦闘データ、脳への負荷、そして最終的な精神崩壊に至るまでのプロセス。それこそが、我々が求めている商品価値だよ。フィクサーには既に十分な口止め料を支払ってある」
バロウの声には、感情という名の肉付けが一切存在しなかった。それは冷たい統計グラフが言葉を発しているかのようだった。
「同期率が100%に達した瞬間、君の脳は全ての戦闘ログを我々のサーバーに送信し、過負荷によって物理的に焼却される。それがこのテストの完了条件だ。おめでとう。君の命は、我が社の次世代製品の精度を上げるための、非常に有益な『指標』となった」
『同期率:76.20%』
カインの視界が赤く染まり始める。脳内で数千の回路が悲鳴を上げ、過去の記憶が断片的なデータとなって目の前を通り過ぎていった。幼い頃に見た夕焼け、初めて人を殺した時の手の震え、そしてゼロのクリニックで嗅いだあの不快なオゾンの臭い。それら全てが「不要なキャッシュ」として消去されていく。
彼は自分の存在が、巨大な計算機の中の一行の数式に書き換えられていく恐怖を感じた。このままでは、自分という人間がいたという事実さえも、ただの性能比較表の一項目として処理されてしまう。
カインは絶叫した。それは声帯を通した叫びではなく、システム全体に対するデジタルの悲鳴だった。彼は倉庫を飛び出し、雨の中を走り始めた。向かう先は、地図データに記録されていたアトラス・バイオテクの地域実験施設。そこには、この地獄を止めるための解除コードがあるはずだ。
背後から、コーポの私設軍隊の車両が迫る音がする。重機関銃の掃射がアスファルトを削り、カインの背中を掠めていく。だが、今の彼にとって、弾丸を避けることは呼吸をするよりも容易だった。
『同期率:88.10%』
身体が熱い。骨の芯から蒸気が噴き出しているような錯覚に陥る。カインは施設のゲートを強行突破した。自動機銃が火を噴くが、彼はその弾道を先読みし、踊るような足取りで死線を潜り抜けた。
施設のロビーに踏み込むと、そこには無機質な白磁の壁と、冷徹な警備ドロイドたちが待ち構えていた。カインは銃を捨てた。もはや武器は必要なかった。彼の両腕は、既にどんな鋼鉄よりも鋭い凶器へと変貌していた。
彼はドロイドの装甲を素手で引き剥がし、内部の配線を力任せに引き抜いた。火花が飛び散り、カインの視界に『エラー:神経伝達物質の枯渇』という警告が点滅する。それでも彼は止まらない。一歩進むごとに、彼自身の「人間としての時間」が削り取られていく。
最上階のラボに辿り着いた時、カインの視界はほとんど白一色に染まっていた。中央の大型モニターの前に、一人の女が立っている。アルテミス・バロウだ。彼女はカインの無惨な姿を見ても、眉一つ動かさなかった。
「驚いたな。同期率99%を超えて、まだ個体としての同一性を保っているとは。君の精神力は、我々のベンチマークを完全に破壊してしまったよ」
バロウは手元のタブレットを操作した。
「だが、それもここまでだ。100%まで、あと0.01。データ送信を開始する」
カインはよろめきながら、彼女へと歩み寄った。一歩、また一歩。彼の足跡は、床に滴り落ちる血と、焼けた絶縁被覆の破片で汚れていく。
「俺は……数値じゃない……」
カインの喉から漏れたのは、血の混じった掠れた声だった。それはドストエフスキーが描く、奈落の底でなお神を呪う魂の叫びに似ていた。
バロウは冷笑を浮かべ、送信ボタンに指をかけた。
その瞬間、カインは跳んだ。彼の肉体はもはや生物としての限界を超え、一条の黒い雷光となって空間を切り裂いた。バロウの瞳に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
カインの拳が、彼女の持つタブレットを粉砕し、そのまま彼女の背後にあるメインサーバーの筐体へと突き刺さった。凄まじい電撃がカインの全身を駆け巡り、彼の視界に広がる全ての数値が、狂ったように乱舞し始める。
『同期率:99.99%』
カインは、サーバーの中に手を突っ込み、その中心部にある記憶ユニットを掴んだ。指先が熱で溶け、基板と一体化していく。彼は最後の力を振り絞り、自分自身の全存在を、その回路へと叩きつけた。
「測定してやるよ……お前たちの……このクソったれな世界の……限界をな……」
カインの脳内で、何かが決定的に断裂する音がした。それは、重い扉が永遠に閉じられるような、あるいは、張り詰めた弦が一本、静かに弾け飛ぶような音だった。
視界の右下で、最後の一桁が、ゆっくりと、だが確実に、その形を変えていく。
『同期率:100.00%』
爆発的な光がカインの意識を呑み込み、ナイトシティの夜空に、一瞬だけ、どんなネオンよりも眩い、純白の閃光が走った。
施設全体を包み込む沈黙の中で、サーバーの冷却ファンだけが、虚しく回り続けている。床には、もはや人間とも機械とも判別のつかない、黒く焦げた残骸が横たわっていた。その指先が、粉々に砕けたモニターの破片を、今もなお強く握りしめている。
バロウは、血の気の引いた顔で、手元の予備端末を見つめていた。そこには、送信されるはずだったデータが、ただの一行も表示されていなかった。
代わりに、画面一杯を埋め尽くしていたのは、システムが理解不能と判断した、膨大な量の「ノイズ」――いや、それは一人の男が、その生涯をかけて刻み込んだ、数値化不可能な怒りの記録だった。
外では、相変わらず酸性の雨が、全てを洗い流そうと降り続いている。カインのいた場所には、ただ、静かに煙を上げる金属の塊と、消えかかったシアン色の光の残滓だけが残されていた。
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