Ringkasan
「深海ってのはな、人間の入っていい場所じゃねえんだよ」
「雅司のばあさんが言ってた人魚の国ってのは、子供を寝かしつけるための伽話(おとぎばなし)じゃねえ。海の下には、触れちゃならねえ領域があるってことだ。あの黒い鉄の塊で引っかき回したら、海の主がへそを曲げるぞ」
ナビゲーター企画 #31:深海の遺城、失われた文明における探検と危機
Bab1
引き戸の隙間から滑り込んでくる風には、いつも錆びた鉄と乾いた昆布の匂いが混ざっている。
日が落ちると同時に、港町の路地は急速に暗闇に呑まれていく。軒先に吊るされた丸い提灯だけが、波打ち際で蠢く夜光虫のように弱々しい光を放っていた。その提灯の表面には、丸っこい頭に魚の尾ひれをつけた稚拙な人魚のイラストが描かれている。雨風に晒されて、青い鱗のプリントはところどころ剥げかかっていた。
この町では、どこを向いてもあの顔に出くわす。土産物屋の暖簾、干物の包装紙、果ては錆びついた公衆電話のボックスにまで、笑う人魚のシールが貼られている。
「おい、源さん。もう一杯いくかい」
煤けた店内の奥から、割烹着の袖をまくり上げたサチが声をかけてきた。手にした一升瓶の首には、やはり人魚をあしらったピンク色のラベルが貼ってある。地元の造り酒屋が仕込んでいる安酒だ。
「おう、頼む。冷やでいい」
源三は分厚いガラスのコップを突き出した。カウンターの傷だらけの木目に、コップの底が鈍い音を立ててぶつかる。注がれる無色の液体を眺めながら、節くれ立った指で白髪交じりの顎髭をさすった。隣では、若い衆の鉄がすでに真っ赤な顔をして、小皿のイカの塩辛をつついている。
頭上の梁に取り付けられた古い液晶テレビが、低い音量でニュース番組を流していた。画面の中では、アナウンサーがいつもより少し張りのある声で、マイクに向かって喋っている。
『――長年、開発が進められてきた新型潜水艦「わだつみ」の処女航海が、いよいよ明日に迫りました。今回は、その開発責任者であるこの町出身の技術者、宮原氏に……』
その名前が聞こえた瞬間、店内の空気がわずかに跳ねた。奥の小上がりで座布団を枕に横になっていた康夫が、のそりと身を起こす。
「おい、雅司じゃないか。テレビに出てるぞ」
「本当だ。おい、サチさん、テレビの音を大きくしてくれ!」
鉄が醤油のついた手でリモコンを探し、ボリュームのボタンを何度も押し込んだ。スピーカーから雑音混じりの音声が流れ出し、居酒屋の湿った壁に反響する。
画面に映し出されたのは、真新しいドックの前に立つスーツ姿の男だった。ヘルメットを小脇に抱え、潮風に髪を乱されながらも、カメラに向かって真面目くさった顔をしている。鼻の頭のそばかすと、少し内側に曲がった前歯は、子供の頃の面影を残したままだった。
『……私はこの町で生まれ育ちました。毎日、あの海を見て暮らしていたんです。ばあちゃんから、海の下には人魚の国があるんだと聞かされて育ちました。本気で信じていましたよ。いつか自分の手で潜水艦を作って、その目で確かめてやるんだと。それが、この道の始まりでしたね』
宮原雅司は少し照れくさそうに笑い、後ろに控える巨大な黒い影を振り返った。
ドックの水面に浮かぶ潜水艦は、まるで巨大なクジラの死骸のようにも見えた。艶のない黒塗りの船体が、波の上下に合わせて静かに揺れている。その側面には、オレンジ色のペンキで大きく「わだつみ」と書かれていた。余計な凹凸を極限まで削ぎ落としたその姿は、海の底の静寂に溶け込むために設計された鉄の塊だった。
「たいしたもんだなあ、雅司の奴」
鉄がコップを掲げ、画面の男に向かって乾杯の仕草をした。
「子供の頃は、よく突堤から海に落ちて溺れかけてた癖によ。あの鼻垂れ坊主が、国の予算でこんなでかい船を作っちまうんだから、世の中わからんもんだ」
「あの頃から機械いじりだけは得意だったな」
康夫が冷奴に箸を突き立てながら応じる。
「学校のストーブが壊れた時も、先生が呼ぶ前に雅司が直しちまった。あの時も、ばあちゃんの人魚の話を信じて、海の下に行く機械を作るんだって言ってたっけ」
「夢を叶えたってわけだ。地元の誇りだよな、実際」
店内にいる他の客たちも、テレビを見上げては嬉しそうに頷いている。過疎化が進む一方の港町にとって、国営の潜水艦プロジェクトの責任者がこの町から出たということは、久しぶりの明るいニュースだった。明日の処女航海に合わせて、港ではちょっとした式典も開かれる予定だ。人魚を模したマスコットの着ぐるみも総出で、観光客を呼び込む手筈になっている。
「でもよ」
それまで黙って酒をすすっていた源三が、低く濁った声を出した。コップをテーブルに置く。トントン、と指先で木目を叩く音が、テレビの音声の裏で規則正しく響いた。
「少し潜りすぎるんじゃないか、あれは」
隣の鉄が、不思議そうに首を傾げた。
「何がだよ、源さん。潜水艦なんだから、深く潜るのが仕事だろ。深海調査も兼ねてるって、さっき雅司が言ってたじゃないか」
「深海ってのはな、人間の入っていい場所じゃねえんだよ」
源三の視線は、テレビ画面ではなく、その横の壁に貼られた大漁旗に向いていた。色褪せた赤と青の染料で描かれた波頭の絵。その波の狭間には、この町に伝わる人魚の古い姿が描かれている。今の可愛いマスコットとは違い、鋭い爪と蛇のような目を持った、恐ろしい海の神としての姿だ。
「雅司のばあさんが言ってた人魚の国ってのは、子供を寝かしつけるための伽話(おとぎばなし)じゃねえ。海の下には、触れちゃならねえ領域があるってことだ。あの黒い鉄の塊で引っかき回したら、海の主がへそを曲げるぞ」
しんと静まり返った店内に、源三の声だけが重く沈殿する。
漁師たちは皆、海の怖さを知っている。どれほどレーダーが発達し、魚群探知機が精密になろうとも、ある日突然、網が何かに引っかかって引きちぎられたり、何もない穏やかな海面から突然突風が吹き荒れて船を転覆させたりする。科学では説明のつかない「力」が、あの青い水膜の下に潜んでいることを、彼らは身体で理解していた。
サチが割烹着のポケットから乾いた布を取り出し、カウンターの濡れた跡を丁寧に拭き始めた。
「源さん、また始まった。雅司くんはね、真面目に仕事をしてるのよ。お化け退治に行くんじゃないんだから」
「そうだよ、源さん。今は令和だぜ? 人魚なんて、観光客を騙して干物を売りつけるための飾りみたいなもんだろ」
鉄が笑いながら、源三の肩を軽く叩いた。
「もし本当に人魚がいたら、雅司の潜水艦の窓をコツコツ叩いて、歓迎してくれるさ。ほら、綺麗なお姉さんの姿をしてさ」
「馬鹿野郎」
源三は鉄の手を払い除けたが、その表情は少しだけ和らいでいた。
「人魚が綺麗なお姉さんなわけねえだろうが。鱗だらけで、生臭くて、声だってクジラの鳴き声みたいに耳の奥が痛くなるような音だ。俺の親父が昔、霧の深い日に網にかかったやつを見たって言ってた。三日三晩、熱が下がらなかったそうだ」
「それ、ただの風邪だろ」
「風邪で髪の毛が全部抜けるかよ!」
源三の怒声に、店内にどっと笑い声が湧き起こった。
張り詰めていた空気が一気に弛緩し、酒の匂いが再び濃くなる。テレビの中の宮原雅司は、インタビューの最後に「町の皆さん、応援よろしくお願いします」と頭を下げ、画面は別のニュースへと移り変わっていった。
「まあ、何にせよだ」
康夫がジョッキを持ち上げた。
「雅司が無事に役目を終えて、帰ってきたらここで大宴会だな。あいつの奢りで、一番高い酒を開けさせよう」
「賛成! サチさん、その時は一番高いやつ仕入れておいてくれよ」
「はいはい、雅司くんがツケを払ってくれるならね」
サチが笑いながら、冷えたビール瓶の栓を小気味よい音を立てて抜いた。
コップとジョッキがぶつかり合い、小皿の上の焼き魚の香ばしい匂いが漂う。漁師たちの顔は赤く染まり、笑い声は夜の港町へと流れ出していった。
源三は、再び満たされたコップを口に運んだ。
喉を焼く安酒の熱さを感じながら、ふと店の外に目をやる。
すりガラスの向こう、暗い港のドックの方角。そこには、明日の朝を待つ潜水艦が静かに佇んでいるはずだ。波の音だけが、遠くで規則正しく、何かを諭すように繰り返されていた。
海はいつも通り、暗く、何も語らない。
ただ、引き潮の風が、いつもより少しだけ冷たく感じられた。
「……人魚ねえ」
源三は小さく呟き、残りの酒を一口で飲み干した。
外では、剥げかけたマスコットキャラクターの看板が、潮風に揺れてギイギイと小さな音を立てていた。
Bab Terbaru
冷たい水の底は、ウチらにとっては最高のたまり場だ。
水深千八百メートル。人間たちが「暗黒の深海」とか呼んで怖がっているらしいこの場所は、一年中温度が変わらないし、変な雑
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