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VR故郷(ショートショート集)

VR故郷(ショートショート集)

Dernière mise à jour: 2026-06-17 01:43:20
Langue:  日本語12+
4.6
7 Notation
47
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Synopsis

VR技術がもたらす温かい奇跡。 日本の都道府県を舞台にした、全47篇のショートショート。


この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。


Chapitre1

 大阪の北区、築三十年を超えるマンションの一室は、撮影用の照明機材と色とりどりのクロス、そして用途ごとに細分化されたカトラリーによって、生活感というよりは機能的な実験室のような趣を呈していた。ナオコは、ピンセットで慎重にベビーリーフの角度を調整しながら、冷めきったコンソメスープの表面に浮かぶ油の粒をスポイトで吸い取る。フードスタイリストという職業は、食べ物を「食べるもの」から「見せるもの」へと解体する作業だ。彼女の手元にあるのは、完璧な色彩を放ちながらも、誰の胃袋も満たすことのない、静止した記号としての食事だった。


 美瑛を離れて十五年が経つ。窓の外には、淀川へと続く無機質な高架道路と、絶え間なく流れるテールランプの赤い河が見える。故郷の記憶は、年を追うごとに整理され、彼女の頭の中で「雄大な自然」や「厳しい冬」といった、パンフレットに書かれたような記号へと摩耗していった。帰省しない理由はいくらでも捏造できた。撮影スケジュールの過密、フリーランスゆえの不安定な立場、あるいは単に、あの圧倒的な白一色の世界に飲み込まれることへの、無意識の忌避感。


 そんな彼女の元に、実家の母から不釣り合いな大きさの段ボールが届いたのは、春の気配がようやくコンクリートの隙間に滲み始めた頃だった。箱を開けると、緩衝材に包まれた簡易型のVRゴーグルと、厳重に保冷された数パックの肉が現れた。ビニール越しに見るそれは、実家特製のタレに漬け込まれた、どす黒いほどに濃い褐色のジンギスカンだった。同封された手紙には、母の丸っこい文字で「これで一緒にお祝いしましょう」とだけ記されていた。四十二歳の誕生日を、画面越しではなく、このプラスチックの筐体越しに祝おうというのだ。


 ナオコは指示通りに、カセットコンロと古い鋳鉄のジンギスカン鍋を引っ張り出した。仕事で使う洗練されたル・クルーゼやストウブではなく、実家から送りつけられたまま仕舞い込んでいた、中央が山なりになった武骨な鉄の塊だ。強火で熱せられた鉄板から、微かな煙が立ち上り始める。解凍された肉を箸で持ち上げると、生姜とニンニク、そして、すり下ろしたリンゴが混ざり合った、あの暴力的なまでに食欲をそそる香りが、都会の清潔な空気を一瞬で塗り替えていった。


 ジュッ、という、湿った熱が爆発するような音が室内に響く。ナオコは、その音を合図にするように、頭を締め付けるプラスチックの装置を顔に装着した。


 視界が暗転し、次の瞬間、網膜に飛び込んできたのは、暴力的なまでの白だった。


 そこは、美瑛の丘だった。見渡す限りの雪原が、夕暮れ時の淡い紫色の光を吸い込んで、真珠のような光沢を放っている。風の音までが再現されているのか、耳元でヒュウという乾いた音が鳴り、ナオコは思わず自分の肩を抱いた。視線を落とすと、そこには見慣れた実家のダイニングテーブルが置かれている。木の節の形、かつて自分が彫刻刀で傷つけた跡までが、デジタルデータとして冷徹に、しかし執拗なまでの愛着を持って再現されていた。


「お、来たか。ナオコ、誕生日おめでとう」


 目の前に、二つの人影が浮かび上がった。アバターの動きはどこかぎこちなく、関節の曲がり方にデジタル特有の違和感がある。それでも、少し背中が丸くなった父と、エプロンの紐をきつく結び直す母の癖は、そのポリゴンの塊の中に確かに息づいていた。父の顔には、十五年前よりも深い皺が刻まれている。それがVRのテクスチャなのか、それとも現実の老化を反映したものなのか、ナオコには判別がつかなかった。


「お父さん、お母さん……これ、どうしたの? すごいね」


「農協の若い衆に教わったんだわ。お前、全然帰ってこないから、こっちから行くしかないべって」


 父が笑うと、その口元から白い息が漏れるような錯覚を覚えた。ナオコは手探りで、現実の世界にある箸を握った。VR内のテーブルの上にも、山盛りのジンギスカンが置かれている。彼女は、鉄板の上で程よく焦げ目のついた肉を一枚、口へと運んだ。


 その瞬間、感覚の同期が起きた。


 鼻腔を突き抜けるタレの香ばしさと、羊肉特有の野性味のある脂の甘み。舌の上で踊る熱い肉の感触が、目の前の雪景色と、父の笑い声と、完璧に融解し合った。彼女が今噛み締めているのは、単なるタンパク質の塊ではない。それは、厳しい冬を越えるために、かつて家族全員でストーブを囲み、顔を火照らせながら貪った「生命の熱」そのものだった。


「美瑛の冬は厳しいけどよ」


 父が、自分の皿に肉を移しながら、静かに語り始めた。


「この雪の下では、次の春のための準備がずっと続いてるんだ。雪に閉じ込められるのは、休むためじゃない。力を溜めるためなんだわ。人間関係も、仕事も、同じだべ。動けない時は、ただ熱いもん食って、じっとしてればいい。春は勝手にやってくるからよ」


 ナオコの胸の奥に、澱のように溜まっていた大阪での数々が、その言葉によって静かに解けていくのを感じた。クライアントからの理不尽な修正依頼、SNSで流れてくる同業者の華やかな活躍、夜中に一人で食べるコンビニのサラダ。そうしたものが、この圧倒的な白の世界と、熱い肉の味の前では、ひどく矮小なものに思えた。彼女は無言で、次から次へと肉を口にした。タレが滴り、唇が脂で光る。撮影現場では決して見せることのない、剥き出しの食欲。


「美味しいね」


 ナオコの声が震えた。それはVRの通信ラグのせいではなく、彼女の喉の奥が熱く込み上げていたからだ。


「そうかい。そりゃよかった。母さんのタレ、今年はリンゴ多めにしたからな」


 母が嬉しそうに目を細める。デジタルなはずのその視線に、ナオコは射抜かれたような感覚を覚えた。離れていても、十五年という歳月が横たわっていても、この人たちは自分の血肉を作った張本人なのだという事実に、今更ながらに打ちのめされる。


 宴は一時間ほど続いた。やがてプログラムの終了を告げるように、美瑛の丘に夜の帳が下り始める。星空が、現実ではあり得ないほどの密度で天を埋め尽くした。


「じゃあな、ナオコ。あんまり無理すんなよ」


 父の姿が、砂嵐のように少しずつ透き通っていく。


「またね。今度は、本当に行くから」


 ナオコがそう言い切る前に、視界は唐突に暗転し、静寂が戻ってきた。


 ゴーグルを外すと、そこには見慣れた大阪の、狭くて機能的な部屋があった。レンズの縁に当たっていた目の周りが、少しだけ熱を帯びている。部屋の空気は、ジンギスカンの強烈な香りで満たされていた。それは、つい数分前まで自分が北の大地にいたことを証明する、唯一の、そして強烈な物理的な残滓だった。


 ナオコは、脂の付いた箸を置き、シンクに溜まった洗い物を見た。仕事用の、誰にも食べられない偽物のスープがそこにある。彼女は迷うことなく、スマートフォンの連絡先を開いた。


 呼び出し音は二回で途切れた。


「もしもし、お母さん? うん、今終わったところ。……美味しかった。本当に、美味しかったよ」


 ナオコは、窓の外のテールランプの河を見つめながら、自分でも驚くほど穏やかな声で、そう告げた。部屋の中に残るジンギスカンの香りが、まるで誰かの手のひらのように、彼女の背中を暖かく押し続けていた。


 鉄板の上で、最後の一切れの肉が、小さく音を立てて弾けた。


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