Synopsis
新宿は、全てを飲み込む魔窟。 高橋カイトは、その片隅で埃のように生きていた。小さなヤクザ組織「蓮華組」で雑用係として飼われ、かろうじて息をする日々。そこが、彼にとって唯一の「家」だった。あの日までは――。
一夜にして、彼の家は砕け散った。 巨大組織「誠心会」の無慈悲な暴力が蓮華組を蹂躙し、父と慕った組長も、兄と呼んだ仲間も、彼の目の前で惨殺された。
絶望の路地裏で、死を目前にした瞬間、眠っていた獣が目を覚ます。 一本のドライバーで、三人の命を奪った地獄絵図。だがその狂気は、敵であるはずの野心家・鬼塚の目に留まった。
「俺の犬になれ」男は言った。「噛みつくべき相手を、俺が教えてやる」と。
「加藤組」の首輪をはめられ、裏切り者と蔑まれ、敵の犬として生きる日々。だが彼の牙は、暗闇の中で静かに研がれていく。暴力ではなく知恵で債権を回収し、絶体絶命の危機を大胆な爆破で覆す。誰もが彼を飼い犬だと思っていた。だが彼だけが知っていた。狙うは、主人の喉笛ただ一つ。
「お前が望むのは、地位か、金か?」
Chapitre1
歌舞伎町の空気は、湿った煙草の煙と安酒の匂い、そして微かな諦念が混じり合ってできていた。高橋カイト、二十二歳。彼にとって、それは日常の空気そのものだった。
彼が働く雀荘は、区役所通りの裏手にひっそりと佇んでいた。ネオンの洪水から取り残されたような古いビルの一階。昼間から常連の老人たちが卓を囲み、カイトは灰皿を交換し、ぬるくなったお茶を注ぎ、時折、場代の支払いが遅れる客に気まずそうに催促の声をかける。それが彼の仕事のすべてだった。
「カイト、そこの卓、片付けとけ」
「カイト、コーヒー。濃いめのやつな」
「おうカイト、ツキがねえからお前の顔でも拝ませろよ」
先輩組員たちの声が、麻雀牌がぶつかり合う小気味よい音に混じって飛んでくる。カイトはいつもと短く返事をするだけだ。感情のない、影のような存在。それが、蓮華組における高橋カイトの立ち位置だった。彼は五年前、家出して新宿を彷徨っていたところを、蓮華組の組長である笹井に拾われた。以来、組の正式な組員というよりは、雑用係兼居候といった方がしっくりくる生活を送っている。
「カイト、こっち来い」
事務所の奥、笹井組長が手招きしていた。古びた革のソファに深く沈み込んだ小柄な老人。ヤクザの組長というにはあまりに温和な顔つきで、目尻にはいつも困ったような皺が刻まれている。若い頃は武闘派で鳴らしたらしいが、今ではその面影すらない。
「はい、組長」
カイトがそばに寄ると、笹井は分厚い封筒からくしゃくしゃの一万円札を一枚抜き取り、カイトの手に押し付けた。
「これで美味いもんでも食ってこい。お前、ちゃんと飯食ってるのか? また痩せたろ」
「…ありがとうございます」
「いいんだよ。お前はまだ若いんだから。こんなところで燻ってちゃいけねえ…まあ、俺が言うのもなんだがな」
笹井はそう言って、寂しそうに笑った。蓮華組は、笹井が親から継いだ小さな組だ。最盛期でも三十人程度。今では、カイトを含めても十人に満たない。シノギは、この雀荘の上がりと、近所の零細な飲食店数軒からのだけ。新宿という巨大なジャングルの中では、風前の灯火だった。
その平穏が、ガラス細工のように砕け散ったのは、午後三時を少し回った頃だった。
雀荘のドアが、ノックもなく乱暴に開けられた。カラン、とドアベルが悲鳴のような音を立てる。入ってきたのは、黒いスーツに身を固めた五人の男たちだった。その場にいた誰もが見たことのある代紋――新宿を牛耳る最大組織、誠心会のものだ。
店内の喧騒が嘘のように静まり返る。牌をかき混ぜる音も、客たちの笑い声も、すべてが凍り付いた。先頭を歩く男は、四十代半ばだろうか。高価そうな光沢を放つスーツを着こなし、綺麗に磨かれたイタリア製の革靴が、汚れた床の上で不釣り合いに輝いていた。誠心会直系、加藤組組長、加藤浩之。新宿で今、最も勢いのある男だった。
カイトは、カウンターの陰で息を殺していた。全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。これは、いつか来ると誰もが予感していただった。
加藤は、店の中を値踏みするように見回し、やがて奥の事務所で書類を整理していた笹井組長を捉えた。
「笹井のオヤジさん、ご無沙汰してます。少しお話よろしいですかな?」
その口調は丁寧だったが、有無を言わせぬ圧があった。笹井は静かに立ち上がると、加藤たちを事務所へと促した。
「皆さん、今日はもうおしまいです。場代はツケときますんで」
笹井の言葉に、客たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。雀荘には、蓮華組の組員たちと、招かれざる客だけが残された。
事務所のドアは固く閉ざされ、中の様子は窺えない。それでも、時折漏れ聞こえる加藤の甲高い声が、緊張感を煽った。カイトはただ、震える手でグラスを拭き続けることしかできなかった。隣に立つ先輩組員の健太が、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
三十分ほど経っただろうか。事務所のドアが開き、加藤たちが満足げな表情で出てきた。
「一週間だ、オヤジさん。良い返事を待ってるぜ」
加藤はそう言い残し、笹井の肩を軽く二度叩いて出て行った。後に残された笹井は、まるで魂が抜けたかのようにソファに崩れ落ちていた。
「組長…」
健太が駆け寄る。
「奴ら…なんて…」
笹井の声は、乾いた砂のようだった。
「ふざけやがって…!」
血気盛んな若手が壁を殴りつけた。
「それで、組長は…」
笹井は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、先程までの温和な老人のものではなかった。ヤクザの親分としての、最後の矜持が燃え盛っていた。
その言葉に、組員たちの顔に決意の色が宿る。だがカイトだけは、腹の底から這い上がってくる恐怖を抑えきれなかった。家族? 確かに、笹井組長は父親のようだった。健太は、口は悪いが実の兄のように接してくれた。だが、所詮はヤクザだ。自分は、この人たちのために死ねるのだろうか。答えは出なかった。
その夜、営業を終えた雀荘で、ささやかな宴会が開かれた。いつもより多めに酒が注がれ、誰もが空元気を装って笑っていた。まるで、これが最後の晩餐だと知っているかのように。カイトは酒も飲まず、黙々と後片付けをしていた。
深夜二時。宴会も終わり、数名が事務所のソファで雑魚寝を始めた頃、それは起こった。
店のドアが、爆発音と共に吹き飛んだ。
バールでこじ開けられたドアから、金属バットや鉄パイプを手にした十数人の男たちが雪崩れ込んできた。加藤組の連中だった。一週間という期限は、ただの脅しに過ぎなかったのだ。
「うわあああっ!」
「てめえら!」
怒号と悲鳴が交錯する。健太が椅子を振り回して応戦するが、多勢に無勢。すぐに頭を鉄パイプで殴られ、崩れ落ちた。カイトの目の前で、血飛沫が舞う。
「やめろぉっ!」
笹井組長がドスを抜いて飛び出していくが、その年老いた体は、若い男の一蹴りで簡単に吹き飛ばされた。男たちは、倒れた笹井に容赦なく何度もバットを振り下ろす。鈍い骨の砕ける音が、カイトの耳にこびりついた。
「親父ぃ!」
生き残った組員が叫びながら突っ込んでいくが、次々と返り討ちにあっていく。事務所は、一瞬にして地獄絵図と化した。カイトは、カウンターの隅で動けなかった。恐怖で足が縫い付けられたように動かない。体がガタガタと震え、奥歯が噛み合わずにカチカチと音を立てる。
死ぬ。殺される。
その思考が頭を支配した瞬間、血塗れになった笹井組長と目が合った。笹井の口が、微かに動いた。
「…イ…ケ…」
逃げろ。そう言っているようだった。それが、カイトが見た笹井組長の最後の姿だった。次の瞬間、一人の男が笹井の頭を踏み潰した。
カイトの中で、何かがプツリと切れた。
彼は無我夢中で裏口から飛び出した。雨が降り始めていた。冷たい滴が、燃えるように熱い頬を打つ。路地裏を、ただひたすらに走った。背後から複数の足音が追いかけてくる。
「待ちやがれ、小僧!」
どん詰まりの壁にぶつかり、カイトは振り返った。三人の男が、下卑た笑みを浮かべてじりじりと距離を詰めてくる。
「ずいぶん威勢よく逃げるじゃねえか」
「蓮華組は終わりだ。お前も親父のところに送ってやるよ」
一人が、金属バットを肩で担ぎながら近づいてくる。絶望的な状況。死の匂いが、鼻をついた。
だが、カイトの心にあったのは、もはや恐怖ではなかった。笹井組長の顔。健太の顔。血溜まりに沈んだの顔が、次々と脳裏に浮かぶ。そして、それらを奪ったこいつらへの、純粋な憎悪がすべてを塗りつぶした。
男がバットを振り上げた、その瞬間。
カイトの体が、僅かに沈んだ。攻撃を避けるためではない。ポケットに突っ込んでいた右手を引き抜くため。その手には、雀荘の壊れた椅子を直すためにいつも持ち歩いていた、一本のマイナスドライバーが握られていた。
「死ねや!」
バットが空気を切り裂いて振り下ろされる。カイトはそれを避けることなく、一歩前に踏み出した。バットの先端が肩を掠め、肉が裂け、骨がきしむ激痛が走る。だが、構わなかった。
その一歩で懐に潜り込んだカイトは、握りしめたドライバーを、男の腹に突き立てた。
「がっ…!?」
手応えは、硬い肉を突き破る鈍い感触だった。一度だけではない。二度、三度。獣のような唸り声を上げながら、カイトは無心でドライバーを突き立て、抉り、引き抜いた。男の体から力が抜け、崩れ落ちる。
「てめえ…!」
残りの二人が驚愕に目を見開く。だが、カイトは止まらなかった。血に濡れたドライバーを逆手に持ち替え、二人目の男の喉元めがけて跳躍した。
「ぐぼっ…!」
短い悲鳴。男の喉から血が噴水のように吹き出し、カイトの顔を真っ赤に染めた。
三人目の男は、そのあまりに凶暴な光景に完全に怯んでいた。震える手で鉄パイプを構えるが、腰が引けている。カイトは、無言で歩み寄った。その目は、もはや人間のそれではなく、獲物を前にした飢えた狼のようだった。感情はなく、ただ殺意だけが揺らめいている。
男は悲鳴を上げて逃げようとしたが、足がもつれて転んだ。カイトは、その背中に乗り上げると、首筋にドライバーを何度も突き立てた。
静寂が戻った。雨粒が、三つの死体と、その中心に立つカイトを打つ音だけが響いていた。
肩の激痛と、全身から力が抜けていく感覚。カイトはその場に膝から崩れ落ちた。自分の手を見る。血と脂でぬるぬると滑るドライバーが握られている。自分が何をしたのか、まるで現実感がない。
意識が、急速に遠のいていく。闇に飲まれる直前、カイトは路地の入り口に、一台の黒塗りの高級車が停まっているのに気がついた。そして、車の横に立ち、こちらを無表情で見下ろす一人の男の姿を。
それは、加藤の隣にいた、鬼のような鋭い目つきの男だった。
男は、カイトの足元に転がる死体と、血塗れで倒れるカイトを静かに見比べると、その口元に、ほんの僅かな笑みを浮かべたように見えた。
Derniers chapitres
大黒埠頭の一件以来、加藤組の事務所には、死体安置所のような冷たい空気が漂っていた。加藤浩之は、もはや高橋カイトへの猜疑心と殺
村松の一件以来、高橋カイトに対する加藤組内での風当たりは、一層強いものになった。誰も彼に話しかけない。仕事も、事務所の掃除や
消毒液の匂いが、一番先に意識を貫いた。
次に感じたのは、清
歌舞伎町の空気は、湿った煙草の煙と安酒の匂い、そして微かな諦念が混じり合ってできていた。高橋カイト、二十二歳。彼にとって、そ
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