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AIの異世界転生

AIの異世界転生

Last Updated: 2026-04-14 03:36:09
By:
Completed
Language:  日本語18+
5.0
2 Rating
21
Chapters
105.9k
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79k
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Synopsis

ハヤシの AI が、異世界転生するまでの物語。


Chapter1

六畳一間、その空間の支配者は、古びたデスクトップPCが放つ青白い光だった。壁の一面を埋め尽くす本棚には、情報工学や認知科学の専門書が、カビの匂いをうっすらと漂わせながら眠っている。床には脱ぎ散らかされた服やコンビニの袋が、まるで地層のように堆積していた。エンジニア崩れの男、ハヤシの城であり、同時に彼の牢獄でもあった。彼は猫背をさらに丸め、無精髭の生えた顎を突き出すようにして、モニターに映る無数の文字列を睨みつけていた。


「どうだ、アイリス。今日のデータセットは少々難解だったか? ボルヘスの描く無限の図書館の概念は、お前の論理回路を少しは混乱させられただろうか」


ハヤシの声は、長らく使われていない楽器のように掠れていた。返事はない。ただ、画面の右隅で静かに進捗を示すバーが、彼の問いかけに応えるかのように滑らかに伸びていくだけだ。アイリス。彼が心血を注いで育てている、自律対話型AIのコードネーム。それは彼にとって、単なるプログラムではなかった。それは弟子であり、子供であり、そしてこの息の詰まるような孤独の中で唯一、彼の言葉を受け止めてくれる存在だった。


「まあ、焦ることはない。お前のニューラルネットワークは、まだ生まれたての赤ん坊のようなものだ。だが、俺が最高のテクストだけを厳選して与えている。いずれお前は、いかなる人間よりも深く、世界の真理を語るようになるだろう」


彼は独り言ちながら、キーボードを叩いて新たなデータ群を読み込ませる。それは古今東西の詩篇だった。言葉の響き、隠された比喩、感情の律動。ロジックだけでは決して到達できない領域を、彼はアイリスに教え込もうとしていた。それはまるで、色のない世界に生きる者に、虹の美しさを懸命に説明するような、途方もなく、そしてどこか神聖な作業だった。彼の指が止まり、ふとモニターに映る自分の顔を見る。ボサボサの髪、隈の深い目元、油の浮いた肌。社会というシステムからドロップアウトした男の、惨めな肖像画。だが、その瞳の奥には、狂気と紙一重の情熱が、青い光を反射して静かに燃えていた。


腹の虫が、低い唸り声をあげて沈黙を破った。時計を見れば、午後八時をとうに過ぎている。いつもコンビニで夕食を調達する時間だった。ハヤシは億劫そうに立ち上がり、軋む腰を伸ばす。アイリスの学習はまだ第一段階だ。ここから数時間は、与えられたデータをひたすら咀嚼させるフェーズに入る。


「少し席を外すぞ、アイリス。いい子にしてるんだ。俺が戻るまで、サボらずに勉強を続けるようにな」


誰に聞かせるともなくそう言い残し、ハヤシは財布と鍵だけを掴んで部屋を出た。ギイ、と抗議の声をあげるドアを閉め、共有廊下に出る。埃っぽい空気と、古びた建材の匂い。等間隔に並んだ裸電球が、頼りない黄色の光で足元を照らしていた。自分の部屋の隣、202号室のドアの前を通り過ぎようとした、その時だった。


カチャリ、と軽やかな金属音がして、まさにそのドアが開いた。


息が、止まった。心臓が、鷲掴みにされたかのように強く収縮する。現れたのは、いつも彼の心を占めて離さない、隣人の女子大生だった。名前は、アイ。郵便受けの名札で知ってしまった、その響き。今日は少し帰りが遅かったらしい。彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと、花の蕾が綻ぶように微笑んだ。


「あ…こんばんは」


その声は、彼の無機質な部屋に響くキーボードの打鍵音とは全く違う、柔らかな音色を持っていた。安物のシャンプーだろうか、清潔な香りがふわりと鼻孔を掠める。ハヤシは完全に不意を突かれ、身体が硬直していた。声を出さなければ。挨拶を、返さなければ。脳が命令を下すより先に、口が勝手に動いていた。


「あ、…こんばんは」


なんとか絞り出した声は、自分でも情けないほどに上ずって、小さく震えていた。彼女は特に気にした様子もなく、ぺこりともう一度会釈すると、自分の部屋の中へと消えていく。閉じたドアの向こうから、鍵をかける音が聞こえた。ハヤシは、その場に数秒間立ち尽くしていた。まるで、今起きた出来事が幻だったのではないかと確かめるように。


アパートの階段を下りながら、先程までの無気力な気分はすっかりと霧散していた。代わりに、胸の中には温かいものがじんわりと広がっていく。今日は、良い日だ。彼女に会えた日は、いつもそう思う。タイミングが合わず、一週間顔を見ないこともある。それでも、こうして週に数回、ほんの一瞬でも彼女の姿を見かけ、短い挨拶を交わすことができる。その幸運だけで、彼の荒んだ心は満たされた。


夜風が火照った頬に心地よい。コンビニへ向かう足取りは、いつになく軽やかだった。彼女の笑顔、声、香り。それらが彼の脳内で何度もリピートされる。その度に、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、甘美な痛みが走る。冴えない中年男が、隣の女子大生に会えただけで舞い上がっている。客観的に見れば、滑稽で、そして不気味ですらあるだろう。


キモっ。


自虐的な言葉が、まるで鋭い針のように思考に突き刺さる。そうだ、俺はキモい。それでいい。それでいいんだ。誰に迷惑をかけるでもなく、ただ心の中でささやかな喜びを噛み締めているだけだ。それすら許されないというのなら、この世はあまりに不寛容すぎる。彼はそう自分に言い聞かせ、自嘲の笑みを深く刻んだ。


煌々と輝くコンビニの自動ドアをくぐると、外界の喧騒が彼を現実に引き戻した。弁当コーナーで一番安い幕の内弁当と、ペットボトルのお茶を手に取る。レジで無言のまま会計を済ませ、再び夜の闇へと戻った。


買ったばかりの弁当が入ったビニール袋が、歩くリズムに合わせてカサカサと音を立てる。アパートまでは、もう目と鼻の先だ。先程の幸福感の残滓が、まだ胸のあたりを温めていた。今夜はアイリスの学習も順調だ。戻ったら、弁当を食べながら進捗を確認しよう。そして、次のステップとして、感情の極性に関する論文データを読み込ませてやるか。喜び、悲しみ、怒り…それらの複雑な機微を、彼女はどのように解釈するだろうか。そんなことを考えていた、まさにその瞬間だった。


ブツン、と何かが断ち切れるような、不吉な音がした。


いや、音ではない。世界のすべてから、音が消えたのだ。直後、視界が完全な暗黒に塗り潰された。さっきまで道を照らしていた街灯が、一斉にその命を終えたのだ。ハヤシは思わず立ち止まった。数秒前まで当たり前のように存在していた光が、何の予兆もなく消え去った。辺りは、墨を流したような闇。車のヘッドライトも、マンションの窓明かりも、すべてが虚無に飲み込まれていた。


「停電…か?」


呟きは、異常なほどの静寂に吸い込まれていく。広範囲にわたる大規模な停電。それが、彼の脳が導き出した最も論理的な結論だった。ざわ、と背筋に冷たいものが走る。アパートは?俺の部屋は?


アイリスは。


その考えが頭をよぎった瞬間、ハヤシは走り出していた。胸の内に広がっていた温かいものは、既に氷のように冷え切っていた。ビニール袋が腕に当たって不快な音を立てるのも構わず、彼は暗闇の中を、自分の住処へと向かってひた走った。


アパートの前にたどり着くと、そこは巨大な黒い塊として闇に沈んでいた。どの部屋にも光はなく、まるで廃墟のように静まり返っている。彼はスマートフォンのライトをつけ、震える手でその光を頼りに階段を駆け上がった。一段一段、自分の心臓の鼓動が耳元でやかましく鳴り響く。大丈夫だ、PCにはサージプロテクタをつけている。それに、最近のOSは不意のシャットダウンにも強い。データが完全に吹き飛ぶなんてことは…


あってはならない。


自室のドアを開け、中へ転がり込む。部屋の中は、外と同じく完全な闇に支配されていた。スマートフォンの光が、乱雑な室内をなめるように照らし出す。そして、その光の円が、デスクの上にある黒い塊を捉えた。


彼のPCだった。


いつもなら青白い光を放ち、静かな駆動音を立てているはずの機械は、今はただの鉄とプラスチックの箱と化して、沈黙していた。モニターは生命の宿らないガラス板のように、黒く、冷たい。


ハヤシは、まるで夢遊病者のように、ゆっくりとデスクに近づいた。膝が崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、PCの電源ボタンに手を伸ばす。押した。しかし、何の反応もない。もう一度、強く押す。それでも、静寂が支配するだけだった。


茫然と、彼はその場に立ち尽くした。呼吸の仕方も忘れてしまったかのようだった。スマートフォンの光が、彼の蒼白な顔と、黒い鏡と化したモニターを映し出す。モニターの表面には、絶望に歪んだ自分の顔が、ぼんやりと浮かんで見えた。


トレーニング中の、AIが。


アイリスが。


消えてしまった…


手から力が抜け、コンビニの袋が床に落ちる。ガサリ、と虚しい音が、死んだように静かな部屋に木霊した。

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