映愛町の人々
Synopsis
別作品「心理カウンセラー ダース・ベイダー」のその後の物語。今作では主に前作で登場した、映愛町の人々に焦点を当てたミニ・ストーリーを展開。基本的に一話完結型。それでも他シリーズに関連するストーリーを盛り込んだりしています。
Chapter1
日曜日の午後、映愛商店街は柔らかな活気に包まれていた。
アーケードの天窓から差し込む陽光は、微細な埃を金色の粒に変えながら、行き交う人々を暖かく照らしている。平日の喧騒とは異なる、どこか粘り気のある、ゆったりとした時間がこの町を支配していた。
商店街の中心に位置する『映愛書店』。自動ドアが開くと同時に、店内のスピーカーから流れる穏やかなヒーリング・ミュージックが鼓膜を撫でた。ピアノの旋律が水滴のように跳ね、新刊のインクの匂いと古い紙の香りが混ざり合った独特の空気に溶け込んでいる。
観月彩姫乃は、その穏やかな空気の一部となっていた。
藍色の瞳が、棚に並んだ雑誌の表紙をゆっくりと追う。今日はセラピストとしての制服を脱ぎ、プライベートの装いだ。白色の落ち着いたワンピースが、彼女の白皙の肌をより際立たせている。
(……たまには、こういう時間も必要ね)
指先が、一冊のファッション雑誌の背表紙に触れた。休暇中の彼女が求めているのは、異次元の深淵やクライアントの悪夢ではなく、現代の流行や季節のレシピといった、地に足のついた日常の断片だった。
重厚な光沢のある紙をめくる。パラパラという乾いた音が指先に伝わる。彩姫乃が最新の春夏のトレンドを眺めていた、その時だった。
シュコー……フー……。
書店の奥、実用書コーナーのあたりから、規則正しくも重厚な排気音が聞こえてきた。
彩姫乃の思考が、反射的に静止する。その音には聞き覚えがあった。いや、この町に住む者で、この音を知らぬ者はもはやいないだろう。
視線を雑誌から上げ、棚の隙間から通路を見やる。
そこにいたのは、漆黒の巨躯だった。
光を吸い込むような黒のマスクと、威厳に満ちたアーマー。その肩からは重厚なマントが流れ、床をかすめるように揺れている。周囲の客たちが、驚きと敬意の混ざった視線を向けつつも、彼が放つ静かな「日常」のオーラに当惑しているのが見て取れた。
心理カウンセラー、ベイダー。
かつて全銀河を震え上がらせた暗黒の卿は、今、歴史書のコーナーで真剣な面持ち(と推測される角度)で背表紙を見つめていた。
(あら……あの方は……!)
彩姫乃の胸に、小さな火が灯るような喜びが広がった。あの凄絶な戦いの後、彼がどう過ごしているのか気になっていたのだ。
彩姫乃は手に取っていた本を丁寧に棚へと戻した。足音を立てないように、しかし確実に彼の方へと歩み寄る。間近で見上げるその背中は、やはり山のように巨大で、それでいて不思議な安らぎを湛えていた。
「先生、ベイダー先生」
彩姫乃は、周囲の読書を妨げないよう、鈴の音を転がすような控えめな声で呼びかけた。
シュコー……。
黒いヘルメットが、ゆっくりと横に揺れた。レンズのような瞳が彩姫乃を捉える。
「おお……彩姫乃さん。久しぶりですな」
合成音声は、かつての威圧感を捨て去り、旧友を迎えるような温かな響きを含んでいた。ベイダーは手に取ろうとしていた歴史書から指を離し、巨躯を彼女の方へと向けた。
「お久しぶりです」
彩姫乃は口元に手を添え、少しだけ彼の方へ歩み寄った。
「あの試合、紺野さんたちと一緒に拝見しましたわ……! 本当に、凄かったです」
山田是迂須。日本最強の闘神と称される男との激突。あの日、アリーナを揺らした光と衝撃は、テレビの画面越しでも十分に世界を震わせた。かつての患者であり、友でもあるベイダーが掴み取った勝利。それは彩姫乃にとっても、誇らしい出来事だった。
ベイダーのヘルメットが、わずかに沈み込んだ。謙遜か、あるいは感慨か。
「おお……私もあなたのメッセージを読みましたぞ。心のこもった言葉、感謝する」
ベイダーは、試合後に端末を満たした数多の通知を思い出していた。その中には、彩姫乃からの丁寧で知的な称賛の言葉もあったのだ。
「ふふ……お返事、ありがとうございました。嬉しかったです」
彩姫乃は藍色の瞳を細めて微笑んだ。彼女の笑顔は、書店の蛍光灯の下であっても、どこか神秘的な輝きを放っている。
「あの、ベイダー先生。もしこの後、お暇でしたら……少しお茶でもしませんか? せっかくお会いできましたし。……私、おごりますから!」
最後の一言に、わずかな茶目っ気を込める。
シュコー……。
ベイダーの呼吸音が、一瞬だけ止まったように聞こえた。彼は数秒の沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「おぉ、それは……せっかくのご厚意だ。ぜひ行きましょう」
合成音声には、確かな喜びの色が滲んでいた。
「この近くの『ノスタルジア』はどうですかな? 私のお気に入りのカフェだ」
「ええ、喜んで! では、そこでお茶しましょう。急に引き留めてしまってごめんなさいね」
「いや、そんなことはない。私は探している本があるので、一度奥まで行ってくる」
「分かりました。私はこの辺りで見ていますから、また後ほど」
彩姫乃がそう告げると、ベイダーはマントを翻し、再び書棚の迷宮へと消えていった。
一人残された彩姫乃は、彼が去った方の通路をしばらく眺めていた。あれだけの偉業を成し遂げた後も、ベイダーは変わらずこの町に溶み込もうとしている。その謙虚さが、彼女には尊く思えた。
十分後、会計を済ませた二人は書店の外で合流した。
日曜日の柔らかな光を浴びながら、漆黒のマントと白色のワンピースが並んで歩く。映愛商店街の人々は、この不思議な組み合わせを、町の日常風景として優しく迎え入れていた。
目的のカフェ『ノスタルジア』は、商店街の路地を一歩入った、静かな場所に佇んでいた。
木の温もりが感じられる重厚なドアを開けると、カランカランと乾いたベルの音が鳴る。
店内は、その名の通り「追憶」の香りに満ちていた。壁沿いの棚には、色とりどりのジャケットを纏ったレコードが所狭しと並べられている。六十年代のジャズから、最新のインディーズまで、店主の審美眼によって集められた円盤たちが、琥珀色の照明に照らされていた。
ターンテーブルの上では、一枚のレコードが静かに回り、スクラッチノイズを僅かに含んだ古い映画音楽が流れている。
二人は、奥のレコード棚に近いボックス席に落ち着いた。
ベイダーはその巨躯を窮屈そうにさせることもなく、自然な所作で椅子に沈み込んだ。彩姫乃はその向かいに座り、メニューを広げる。
「ここは素敵なお店ですね。レコードがたくさん……」
「うむ。店主がレコードの熱心なコレクターでな。ここでは時間の流れが少しだけ古くなるような気がする」
店員が注文を取りに来る。彩姫乃は温かいコーヒーを、ベイダーはマスク越しでも飲めるようにストロー付きアイスコーヒーを頼んだ。
ちょうど午後三時。
差し出されたカップから立ち上る湯気が、二人の間に漂う。
「先生、最近はお忙しいのではないですか? あの試合以来、相談室の予約が大変なことになっていると聞きましたけれど」
彩姫乃がコーヒーを一口含み、首を僅かに傾げて尋ねた。
シュコー……フー……。
ベイダーもまた、手袋に包まれた指でストローを固定し、静かに飲み物を喉へと流し込んだ。
「確かに、数は増えたな。だが、やるべきことは変わらん。目の前の者の声を聞き、フォースと共に歩むだけだ」
「先生らしいわ」
彩姫乃はクスクスと笑った。
話は尽きなかった。是迂須との試合の裏話、地球の文化の不思議さ、最近の映愛町の噂話。かつて暗黒卿だった男と、不思議な力を持つセラピスト。二人の間に流れるのは、戦士の連帯感というよりは、同じ町に住む専門職同士の、穏やかで知的な信頼関係だった。
一通りの会話が一段落し、レコードが片面を終えて静かになった頃。
二人は席を立ち、入り口のセルフレジへと向かった。
彩姫乃がバッグから小銭入れを取りだそうとする。その動作を見て、ベイダーが大きな手で制するように空気を抑えた。
「やはりここは私が払おう」
低い合成音声の響きに、彩姫乃は意表を突かれたように目を丸くした。
「え? いいですよ。私がお誘いしたんですし、おごりですから……」
しかし、ベイダーの意思は硬い岩のようだった。ヘルメットを僅かに傾け、諭すようなトーンで言葉を続ける。
「いや。女性に払わせるというのも、なんだか気が引けるのでな。私に払わせてくれ」
その言葉に含まれた頑固なまでの騎士道精神、あるいは紳士的な嗜みに、彩姫乃は気圧された。銀河の果てから来た男の中に、地球の古き良き礼節が深く根付いていることに、彼女は不思議な感動を覚えた。
「……いいんですか? では、お言葉に甘えて。でも、なんだか申し訳ないですね」
彩姫乃は広げかけていた財布をそっと閉じ、申し訳なさそうに視線を落とした。
「いや、私がそうしたかっただけだ。気にしないでくれ」
ベイダーは使い慣れた手つきで財布を取り出し、スマートに会計を済ませた。彼の大きな背中が、レジの照明を受けて漆黒の光を放つ。
店を出ると、外は少しだけ夕暮れの気配を帯びていた。
店の軒下で足を止めた彩姫乃は、人差し指をピッと立て、悪戯っぽくベイダーを覗き込んだ。
「今日はごちそうさまでした。でも、もし次に機会がありましたら……その時は私が払いますからね。いいですか? それか……せめて割り勘ですよ」
夕日に照らされた彼女の微笑みは、どんな夢の世界の景色よりも美しかった。
ベイダーはマスクの中で、本当に微かな、しかし安らかな笑みを漏らした。
「ふっふ。そうだな。次は、奢ってもらうかもしれんな……」
その返答に、彩姫乃も満足げに頷いた。
「楽しいひと時であった。では、私はこれで……」
「はい。私も今日は楽しかったですわ。またお会いしましょう、先生」
彩姫乃が小さく手を振る。
ベイダーは無言の重みを持って頷くと、くるりと踵を返した。マントが風を孕み、彼は自分の居住施設がある方向へと歩き出した。
アスファルトに刻まれる大きく安定した足音。規則的な排気音。
彩姫乃は、その後ろ姿が見えなくなるまで、しばらく見送っていた。
(ベイダー先生……生き生きしていたわね)
戦いを経て、さらにこの地での役割を深めた背中。かつて彼女のセラピーを受けた頃よりも、ずっと力強く、そして澄んでいるように見えた。
彩姫乃は自分自身の両手を胸の前で合わせ、小さく息を吐いた。
「さて、私も仕事が始まったら頑張らなくちゃ」
明日からの日々に思いを馳せると、自然と足取りが軽くなった。彼女は白色のワンピースの裾を揺らしながら、穏やかな夕暮れの街へと帰っていった。
映愛町の平和な日曜日は、こうしてゆったりと幕を下ろしていく。
漆黒の男と白色の女性。二人が交わした言葉の余熱は、レコードの余韻のように、いつまでも心地よく路地に残っていた。

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アーケードの天窓から差し込む陽光は、微細な埃を金色の粒に変えながら、行き交う人々を暖かく照らしている







