Synopsis
追放されても仕方ない。
Chapter1
アンリ王国の空気は、酒と鉄錆、そして微かな硝煙の香りに満ちている。
国境付近での防衛戦を終え、冒険者ギルドの喧騒へと戻ってきた面々の顔には、一様の疲弊と、それ以上に深い「飽和」の色が浮かんでいた。戦いそのものの疲れではない。彼らを疲弊させていたのは、もっと精神的な、耳の奥にこびりついて離れない執拗な「毒」だった。
ギルドに併設された酒場『黄金の麦穂亭』。その一角に、異様な集団が座を占めている。
テーブルの上には、山のような空皿。
その中心で、一人の男が天を仰ぎ、指先で器の縁をなぞりながら悦に入った声を響かせていた。
「……嘆かわしい。このスープの濁り、これは単なる下処理の怠慢ではない。料理人の『魂』が、このアンリの泥濘に沈んでいる証拠だ。川山くん、君はどう思う?」
「ええ、その通りですよ、ラメン先生」
眼鏡を指で押し上げ、もう一人の男――川山米太が、冷徹な響きを含んだ声で応じる。
「塩分濃度がコンマ数パーセント高い。これは労働者の味覚に阿(おもね)った、安易な大衆化の象徴です。麦の質を語る以前の問題。我々がここで行っているのは食事ではない。火明星の食文化の墓標を前にした、弔いのようなものだ」
彼らの周囲には、真空の地帯が出来ている。
給仕の少女は涙目で立ち尽くし、奥の厨房からは店主の呻き声が聞こえてくる。せっかくの勝利の宴だというのに、酒場全体が冷え切った法廷のような静寂に包まれていた。
そのテーブルの端で、黒い翼を少しだけ苛立たしげに震わせている女がいた。
ブラックヴァルキリー・カーラ。
彼女の目の前には、空になった大盛りカレーの皿が二十枚、完璧な塔を形成して積み上がっている。
「……おい」
カーラが、低く、ドスの利いた声を漏らした。
「さっきから聞いていれば、ガタガタとうるさいぞ。味の良し悪しなど、腹に入れば同じこと。それよりも、この二十一皿目の提供が遅れていることの方が、銀河の法理に照らして重大な問題だとは思わないか? 耳栓忘れた。くぅ~」
ラメン=ハンが、憐れむような視線を彼女に向けた。
「これだから『ただの食い手』は困る。カーラさん、あなたは強大な力を持っているのかもしれないが、胃袋の権利を安売りしすぎている。この店の経営論理からすれば、あなたの食費はギルドの予算を食いつぶす害悪でしかない。……というより、先ほどパーティーリーダーの冒険者から連絡があったよ。君は『追放』だそうだ」
「ほう?」
カーラが眉を上げる。その横で、水鏡冬華が溜息をつきながらセーラー服の襟を整えた。
「あら、カーラ。ついに言われちゃったのね。『お前のような大食漢はいらない』って? それとも、『食費でパーティーが破産する』って?」
「追放テンプレというやつか」
カーラが鼻で笑う。
「なるほど、私が実は伝説の神獣の恩恵を持っていたり、実は魔力を供給していたりして、後で後悔するパターンだな。フッ、面白い。この私が抜けた後で、食卓の寂しさに泣いても知らんぞ」
だが、ギルドの掲示板近くでやり取りを聞いていた冒険者たちは、後悔どころか、目に見えてホッとした表情を浮かべていた。
「いや……後悔もしないし、寂しくもないと思うぞ……」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが、苦笑を浮かべながら口を開いた。
彼は酒杯を傾け、琥珀色の液体越しに、その場の混沌を眺めている。
「カーラ。君を追放した彼らの正当性は、この惨状を見れば火を見るより明らかだ。二十皿もの大盛り料理を平らげ、その上でまだ足りないと宣うヴァルキリー。……君の食費は、ドラゴンを一部隊雇うより高くつく」
「ミハエル、貴様まで! 私の戦功を忘れたか!」
「戦功と胃袋の収支は別問題なんだよ」
ミハエルは肩をすくめると、視線を少し回した。そこには、彼の「嫁」たちがそれぞれの反応を見せている。
銀髪のホワイトライガー、サリサ=アドレット=ティーガーは、猫のようなしなやかな動きでミハエルの背後に回り込むと、彼の耳元でクスクスと笑った。
「ははっ、カーラ、ついにクビ? でも大丈夫。ミハエル公爵の家なら、どれだけ食べても破産はしないもんね。……それよりミハエル、あっちの『説教臭い二人』もどうにかしてほしいな。さっきのコロッケの揚げ方について、30分も講釈垂れられて、わたしの耳が溶けちゃいそう」
サリサが指差す先では、ラメンと川山が今度は厨房の換気システムの不備について熱弁を振るっていた。
「……確かに」
ミハエルは目を細める。
彼の中にある『エスの解法』が、この場の不協和音の源泉を的確に抽出していた。
「カーラの追放は、単なる経済的理由だ。だが……あの二人の存在は、この場の『生命の肯定』を阻害している」
その時だった。
酒場の主人が、震える手で二人に勘定書きを叩きつけた。
「頼むから、もう出て行ってくれ! 金はいらねえ! あんたらの顔を見るだけで、俺は包丁を握る手が震えるんだ! 料理は楽しんで食うもんだろ! 粗探しをするための試験用紙じゃねえんだ!」
ラーメンフサフサこと、ラメンが侮蔑の笑みを浮かべる。
「ふん、素人の情緒論か。川山くん、行こう。この店に、我々の高度な分析を受ける資格はない」
「そうですね、ラメン先生。ここは『餌』を出す場所であって、『料理』を出す場所ではない」
二人が椅子を蹴るようにして立ち上がり、悠然と酒場を出て行こうとしたその背中に。
「あ、君たち」
ミハエルの静かな、だが通る声が響いた。
二人が足を止める。
「君たちの分析は、論理的には正しいのかもしれない。情報の処理能力としても、一見卓越しているように見える。だが、忘れていることが一つある」
「なんだね、公爵」
「……食事は、情報ではない。体温の交換だ」
ミハエルは、隣に座る空夢風音の手を優しく取った。風音は少し赤くなりながらも、穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「あの……ラメンさん。冷めた料理を分析するより、温かいうちに『美味しい』と言って食べる方が、ずっと健康にいいと思いますよ?」
「……勝手にしたまえ。知性の欠如した食事ほど、虚しいものはない」
捨て台詞を残し、ラメンと川山は去っていった。
次の瞬間。
酒場全体に、目に見えるほどの「緩和」が広がった。まるで嵐が去った後の草原のように、淀んでいた空気が一気に澄み渡っていく。
「…………行ったか?」
誰かが呟いた。
それを皮切りに、あちこちで「ふぅ……」という深い安堵の溜息が漏れる。
「自由だ……!」
隣のテーブルの冒険者が、震える手で冷えたビールを煽った。
「やっと、料理の味じゃなくて、今日生き残ったことを喜べる……!」
「あのアホみたいに高い評論を聞かなくて済むんだな……!」
酒場に、本物の笑顔と喧騒が戻ってきた。給仕の少女は涙を拭い、厨房からは力強い炒め物の音が響き始める。
その光景を見て、追い出されたはずのカーラが、腕を組んで唸った。
「……ミハエル。これが『正当なる追放』の景色か?」
「そうだね」
ミハエルは、新しい皿に盛られた質素なパンをちぎって口に運ぶ。
「追放テンプレの多くは、追放された側の『不当な扱い』に焦点を当てる。だが、現実の社会……特に火明星のような過酷な世界では、一人の有害な特性が、集団全体の士気や生存率を著しく下げることがある」
「私は有害か?」
ブラックヴァルキリー・カーラが不服そうに問う。
「経済的にはね。だが、精神的には君のようなアホな食べっぷりは、見ていて清々しいものがある。……だが、あの批評家の二人は違う」
ミハエルは言葉を切った。
そこには、エレナ=オブ=メノーシェやキャンディス、エレノアといった他の仲間たちも集まってきている。
「かげむちゃちゃーん! あの人たち、いなくなってせいせいしたわ!」
エレナが、金髪を揺らしながら耳をピクピクと動かす。
「エルフの聴力は鋭いのよ! あのネチネチした声、頭の中に毒キノコが生えるかと思ったわ!」
「全くだぜ」
アンリ国の魔法騎士、エレノア=ダグラス=フェネルも、腰の剣帯を緩めて椅子に深く腰掛けた。
「任務から戻って、一番したいのはリラックスなんだ。食事の欠点を一時間も講釈垂れられてちゃ、せっかくの勝利も台無しだよ。ミハエル公爵の言う通りだ。追放万歳!」
キャンディス=ディ=ディディエも、ムチムチとした太ももをさすりながら、幸せそうに小さなタルトを頬張っている。
「ふふ、私も……実は少し怖かったんです。あの評論家の方々に、私の手料理まで点数をつけられたらどうしようって。今夜はミハエル様のために、心を込めてお夜食を作りますね」
ラルス=ローゼンベルグが、父ミハエルの横で少し困ったような、だが納得したような顔をした。
「父さん……追放された人たちが悪いわけじゃないと思ってたけど、いなくなった後のこの場の『幸せそうな感じ』を見ると、否定できないね」
「ラルス、それが『組織』の真実だよ」
ミハエルは息子の頭に手を置いた。
「天才的な能力を持っていようと、その存在が他人の営みを否定するものであれば、それはその場所にとっての『悪』になる。追放される側に正当性があるのではなく、追放する側……即ち、この平穏を守りたいと願う人々にこそ、正当性があるんだ」
「でも、先生方は『真実』を言っていたわ」
意外なことに、高嶺綾香が少し硬い表情で反論した。
彼女の生真面目な茶色の瞳が、ラメンたちが座っていた空の椅子を見つめている。
「確かに、あのスープは少し泥臭かった。料理人の技術不足は明らかだったわ。……事実を指摘することが、なぜこれほど嫌われるの?」
ラルスが、少し苦笑いを浮かべて彼女を見た。
「高嶺さん。あの……『オットセイの真似』が上手い高嶺さんなら分かると思うけど……」
「それは今は関係ないでしょ! 絶対に掘り返さないでって言ったじゃない!」
綾香の顔が一瞬で真っ赤になる。その隙を突いて、ミハエルが言葉を継いだ。
「綾香。真実は、人を生かすためにあるべきだ。人を屈服させるためにある真実は、それはただの『暴力』に過ぎない」
綾香は黙った。彼女のプライドの高さと、真面目すぎるがゆえの葛藤が、その唇を微かに震わせている。
「……暴力、か」
「そうだ。あの二人がやっていたのは、料理の評価ではない。自分の正しさを確認するための、自慰的なデモンストレーションだったんだよ。だから、彼らが去った後に残ったのは、欠点だらけだが温かい、この酒場の『日常』だ」
その「日常」の象徴のように、黒竜フィオラ=アマオカミが、だらしなく椅子にのけぞりながらアクビをした。
「あー……やっと静かになったわねぇ。あのラメンって男、わたしのギャラリーに来たことがあったけど、『この絵の筆致は~』とか五分で飽きるような理屈を聞かされたから、追い出したのよねー」
「追放の常習犯か、あの男たち」
ブラックヴァルキリー・カーラが呆れたように言った。
「まぁいい。私はこれから、自由な身としてこの店のメニューを端から端まで制覇する。ミハエル、金は貴様が払え。追放されたヴァルキリーへの慰謝料だ」
「断る。君には君の魂があるだろう」
「ちっ、魂なら今さっき二十皿分切り取って払ったわ!」
「……どんだけ価値の高い魂なんだよ、君の食欲は」
ミハエルは笑い、皆で乾杯の準備を始めた。
追放。
それは物語の起点としては使い古されたテンプレートだ。
だが、その実態は、残された者たちの平穏を取り戻すための、切実な外科手術に近いのかもしれない。
「いいか、みんな。食え。飲め。語れ」
ミハエルが酒杯を掲げる。
「誰の評価も気にしなくていい。自分の舌が感じたことだけが、君たちにとっての真実だ。……情報の解法ではなく、生命の解法をここで行おう」
「「「乾杯!!!」」」
酒場に、これまでにないほど明るい唱和が響き渡った。
ラメン=ハンと川山米太が、今頃どこかで「この国の国民は味覚が死んでいる」と憤慨しながら、誰にも歓迎されない荒野を歩いているであろうことを思い、ミハエルは心の底から深い充足を覚えた。
追放されるべき者が、正しく追放される。
これほど健全で、美しいカタルシスは他にない。
「……自由って、最高だな」
ミハエルの呟きは、美味そうに肉を貪るカーラの咆哮にかき消されていったが、その表情は、かつてないほど穏やかだった。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
数日後。
アンリ王国のギルドには、一つの奇妙な噂が流れていた。
『究極の評論家コンビ』が去った後、ギルドの料理の質が劇的に上がったというのだ。
料理人が怯えなくなり、自由な発想で料理を作るようになった結果、以前よりずっと豊かな味が生まれたのだという。
また、ブラックヴァルキリー・カーラを追放した冒険者パーティーは、食費の支出が百分の一に減ったことで、瞬く間に資産を築き、豪華な装備を揃えて前線へと復帰したとも聞く。
逆に、ラメンと川山を受け入れた隣国の傭兵団は、毎朝の配給の度に「保存食の水分のパーセンテージが道徳的に許容できない」と三時間の説教を受けるハメになり、不眠とストレスで壊滅的な打撃を受けているという。
「……正当なる追放。これこそが世の平和の鍵かもしれないな」
ミハエルは、自宅のテラスでアリウスとおにぎりを頬張りながら、そんなことを思った。
「ミハエル、どうしたんだい? 急に真面目な顔をして」
「いや、アリウス。君に『説教臭い男』の才能がなくて本当に良かったと思ってね」
「心外だな。僕は魔法の講義なら五時間は余裕で続けられるよ?」
「それは勘弁してくれ」
青空の下、おにぎりの米粒が輝いている。
そこには何の評論も、高度な分析も介在しない。
ただ、二人の親友と、風の音と、確かな空腹と、それを満たす喜びだけがあった。
追放された彼らが、またどこかで誰かの日常を脅かしているかもしれないが、それはまた別の物語。
今のミハエルたちにとって大切なのは、この静寂を、誰にも邪魔させないことだけだったのだから。







