灰かぶりは祈らない
Synopsis
名家の事情に振り回されることに、うんざりしている高校生――藍沢茜。
彼女が望んでいるのは、ただ普通に高校を卒業して、普通の大学へ進むこと。
父と同じ道へ進むつもりもない。
特別な何かになりたいわけでもない。
そんな茜は、家の事情から私立・御影ヶ丘高校へ進学する。
そこには、「高校では普通の女の子になって恋愛したい」と、剣道や空手に追われた中学生活から抜け出してきた幼馴染・七尾光里もいた。
剣道部はない。
制服も悪くない。
放課後には寄り道して、文化祭を楽しんで、できれば恋もしたい。
光里にとっては、ようやく手に入れた「普通の高校生活」の始まり――のはずだった。
入学式の日、二人が配属されたのは1年A組・特別選抜クラス。
そこで出会ったのは、淡い金髪と青い瞳を持つ少女、Elinor Beta。
「藍沢」という名前を聞いた瞬間、Elinorはほんの一瞬だけ表情を変える。
そして放課後。
クレープを食べに行くはずだった三人は、担任から教室に残るよう告げられる。
黒板に書かれたのは――
「特別選抜オリエンテーション」
そして教師は告げる。
「ここから先に説明する内容については、外部への口外を禁止します」
普通の高校生活を望む三人が出会ったとき、
御影ヶ丘高校に隠された「もうひとつの顔」が、静かに動き始める。
Chapter1
「お姉ちゃん、高校生!」
朝から弟がうるさい。
藍沢茜は洗面台の鏡越しに、背後から顔を出した朝陽を見た。
小学一年生になったばかりの弟は、自分の入学式の時より楽しそうな顔をしている。
「見れば分かるでしょ」
「高校生!」
「二回言わなくていいって」
そう言いながらも、茜の口元は緩んでいた。
灰色の短い髪を指先で整え、カチューシャの位置を少し直す。
新品の制服はまだ身体になじまない。
白いシャツの襟元を少しだけ崩し、鏡の前で全体のバランスを見る。最後にいつものヘッドホンを首へ掛けた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「似合ってる」
「でしょ?」
即答した。
朝陽がにこっと笑う。
うん。
今日一番信用できる感想だ。
「朝陽。先にご飯食べなさい」
階下から母、美咲の声が飛んできた。
「はーい!」
朝陽がぱたぱたと走っていく。
「階段走んない!」
「はーい!」
二度目の返事はもう遠い。
茜は小さく息を吐き、もう一度鏡を見る。
高校生。
もっと楽しみにしていてもよさそうな言葉なのに。
「……めんど」
鏡の中の自分が、まったく同じ顔でそう言った。
◇
「三年間だからな」
朝食の席で父の和臣が言った。
茜は味噌汁の椀を持ったまま、露骨に眉を寄せる。
「入学式の朝からそれ言う?」
「確認だ」
「分かってるって。高校までは家の付き合い」
「そうだ」
「卒業したら普通の大学行くから」
和臣はあっさりとうなずいた。
「構わない」
そこへ美咲が口を挟む。
「その前に、高校をちゃんと卒業してください」
「分かってるって」
「大学で何をするかは決めたの?」
「まだ」
「学部は?」
「まだ」
「将来やりたい仕事」
「それもまだ」
美咲が箸を止める。
「つまり?」
茜も箸を止めた。
「……父さんと同じ道じゃなければ、今は何でもいい」
「それは進路希望とは言いません」
「美咲、初日だぞ」
「初日だから言ってるの」
和臣が苦笑する。
茜は口を尖らせながら卵焼きを食べた。
夢がないことを、それほど気にしているわけではない。
三年間もあれば、そのうち何か見つかるだろう。
少なくとも父と同じ道を歩く気はなかった。
家の付き合いだとか。
昔から続いている役目だとか。
そういうものから高校を卒業したら離れる。
今のところ、茜が決めているのはそれだけだ。
「お姉ちゃん」
隣に座った朝陽が顔をのぞき込んでくる。
「今日、早く帰ってくる?」
「入学式だけだし。たぶんね」
「ほんと?」
「たぶん」
「じゃあゲームしよう」
「宿題終わってたらね」
「えー」
「えー、じゃない」
母より姉の方が厳しい、とでも言いたそうな顔をする。
それがおかしくて、茜は笑った。
◇
「茜ー!」
家を出て少し歩いたところで、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返る。
七尾光里がこちらへ走ってきていた。
新しい制服。
普段まとめている髪も、今日はいつもより少し丁寧に整えている。
走り方だけ見れば、入学式へ向かう女子高生というより、今から試合にでも出そうなくらい無駄がない。
「朝から走る?」
「待ってって言ったじゃん!」
「待ってたし」
「三十秒で出るって送ったのに」
「光里の三十秒は三分って意味かと思った」
「茜の中の私どうなってんの」
光里が隣へ並ぶ。
そして一拍。
急に頬が緩んだ。
「高校生だよ、茜」
「それ朝陽にも言われた」
「何その反応。今日から高校生活だよ?」
「はいはい」
「放課後寄り道して、文化祭あって、友達増えて」
「うん」
「彼氏できるかもしれないし」
茜は横目で見た。
「そこ本命でしょ」
「高校っていったら恋愛でしょ」
「すごい自信」
「ねねとも昨日話したから。高校入ったら絶対なんかあるって」
「九歳児と何を相談してんの」
「恋愛漫画読んでるんだから詳しいよ?」
「実践経験ゼロが二人集まってもゼロじゃない?」
「うるさい」
肘が飛んでくる。
茜は笑いながら避けた。
この調子なら、光里にとって今日は本当に待ち望んでいた日なのだろう。
中学までの光里は、放課後になれば剣道か空手だった。
休みの日も大会。
長期休暇も合宿や遠征。
本人は文句を言いながら結果を出した。
結果を出すから、また期待される。
そしてまた勝つ。
全国大会で優勝した時ですら、帰りに光里が最初に言ったのは、
『明日休みだよね?』
だった。
「でもさ」
「ん?」
「なんで光里、御影ヶ丘にしたの?」
前から聞こうと思っていた。
進路希望を聞いた時、同じ学校の名前が出てきて驚いたのだ。
茜が御影ヶ丘への進学を嫌がっていたことを、光里は知っている。
だから、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
――あたしが嫌がってたから、一緒に来てくれた?
そんなことを考えた。
「剣道部ないから」
「…………」
「そこ超大事だから」
「それ?」
「それ」
即答だった。
茜の小さな期待は、三秒で消えた。
「いや、他にも学校あるでしょ」
「剣道部がなくて、家から通えて、制服そこそこ可愛くて、進学も悪くない。条件いいじゃん」
「めっちゃ現実的」
「お父さん、最後まで『本当に剣道やめるのか』って言ってたし。剣道部ある学校行ったら絶対『見学だけでも』とか言われるもん」
「それはありそう」
「高校では帰宅部。放課後は友達と遊ぶ。クレープ食べる。彼氏作る」
「最後だけ難易度違わない?」
「余計なお世話」
光里はぷいと前を向いた。
少ししてから、
「全国まで行ったのにもったいないって、みんな言うけどさ」
声の調子がほんの少しだけ変わった。
「うん」
「全国まで行ったから、もういいの」
茜は横を見る。
光里は笑っていた。
重たい顔ではない。
後悔している顔でもない。
ただ、もう十分だと言っている顔だった。
「高校くらい、普通にしたいじゃん」
「……そっか」
「まあ、茜もいるし」
今度は軽い調子で付け足された。
茜は一瞬だけ言葉に詰まる。
「何、その顔」
「別に」
「嬉しかった?」
「別に」
「絶対嬉しかった」
「剣道部の次じゃん」
「同率二位くらい」
「一位誰」
「恋愛」
「帰る?」
「まだ学校着いてない!」
二人の声が、春の朝の住宅街に響いた。
◇
私立御影ヶ丘高等学校。
校門前には、真新しい制服の生徒と保護者が集まっていた。
校舎は拍子抜けするほど普通だった。
パンフレットで見た通り、少し古い本館と、その隣に建つ新しい特別棟。
桜は満開を少し過ぎ、風が吹くたび花びらが舞っている。
「普通だ」
光里が言った。
「何を期待してたの」
「もっとお嬢様学校っぽい感じ」
「どこ情報?」
「名前」
「御影ヶ丘に何を感じ取ったの」
光里は昇降口近くに貼られた部活動紹介へ駆け寄った。
茜も後を追う。
サッカー。
バスケットボール。
テニス。
陸上。
軽音。
写真。
美術。
料理。
光里が上から下まで指で追っていく。
やがて満足そうにうなずいた。
「ない」
「何が」
「剣道部」
「そこ確認するんだ」
「最重要項目だから」
本当に嬉しそうだ。
茜は苦笑しながら校門をくぐる。
その瞬間。
肌の表面を、何かが薄く撫でた。
「……」
足が止まる。
風ではない。
寒いわけでもない。
透明な膜を一枚くぐり抜けたような、わずかな感触だった。
茜は振り返る。
校門の向こうでは、保護者たちが子供の写真を撮っている。
光里も気づいていない。
「どうした?」
「……なんでもない」
「忘れ物?」
「違う」
茜は校舎へ目を戻した。
こういうところだけは、ずいぶん念入りらしい。
詳しく知りたいとは思わなかった。
知ったところで、三年間ここへ通わなければならないことは変わらない。
「茜、クラス見に行こ!」
「はいはい」
何も知らない光里が手を振る。
茜は一瞬だけその背中を見てから、後を追った。
◇
「一年A組」
掲示板の前で、光里が読み上げた。
「あ、茜も」
「ほんとだ」
「一緒じゃん」
「よかったじゃん」
「もっと嬉しそうにして」
「光里がいると宿題見せてって言われそう」
「茜に見せてもらう科目ないんだけど」
「失礼すぎる」
並んだ名前を追っていく。
七尾光里。
藍沢茜。
少し離れたところに、
Elinor Beta。
見慣れない名前があった。
「エリノア……ベータ?」
「外国の人かな」
「A組って留学生いるんだ」
近くにいた男子たちの会話が耳に入った。
「A組って特別選抜だろ?」
「スポーツ推薦とか、成績いいやつとか入るやつじゃね?」
「国際枠もあるって聞いた」
光里が納得したように手を打つ。
「あー、私それか」
「どれ」
「スポーツ」
「帰宅部希望なのに?」
「過去の実績は消せないでしょ」
「まあね」
光里は何の疑問も持っていない。
茜はもう一度、掲示板の上に書かれた「一年A組」の文字を見た。
父から細かい話を聞いた覚えはない。
聞こうともしなかった。
ただ、この学校には他と少し違う仕組みがある。
その程度は知っていた。
そして、自分がA組なのはたぶん偶然ではない。
「茜?」
「ん?」
「また変な顔してる」
「光里に言われたくない」
「私いつも可愛い顔だけど」
「朝から強いな」
二人は教室へ向かった。
◇
一年A組は、思っていたより普通に騒がしかった。
三十人ほどの生徒。
友達を見つけて話している者。
一人でスマートフォンを見ている者。
見るからに運動が得意そうな生徒もいれば、いかにも勉強ができそうな雰囲気の生徒もいる。
少なくとも、一目見て何か変わったクラスには思えない。
「席、近い」
光里が嬉しそうに言った。
茜の斜め後ろが光里。
そして茜の隣には、すでに一人の少女が座っていた。
淡い金色の長い髪。
青い瞳。
新品の制服を、見本写真のようにきちんと着ている。
茜が鞄を置くと、少女が顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよ」
「おはよう!」
なぜか光里まで茜の後ろから顔を出す。
少女は少し目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「Elinor Betaです。よろしくお願いします」
「やっぱりエリノアって読むんだ」
光里が言う。
「はい」
「七尾光里。こっち茜」
「あたしいるんだから自分で名乗るって。藍沢茜。よろしく」
その瞬間。
Elinorの表情がほんのわずかに止まった。
本当に、一瞬だけだった。
「……藍沢さん、ですね」
「うん」
「どうかした?」
光里がすぐに気づいた。
「いえ」
Elinorは茜の髪を見る。
「珍しい髪色だと思いまして」
「これ? 地毛」
「そうなのですね。とても綺麗です」
「ありがと」
それだけだった。
ただ、青い瞳がほんの少し長く自分を見ていた気がした。
「エリノア、日本語すごいね」
光里が話題を変える。
「ありがとうございます。日常会話には困りません。ただ、学校の授業は少し心配です」
「え、何が苦手?」
「古文はまだ」
「分かる!」
光里が勢いよく食いついた。
「古文意味分かんないよね」
「光里は日本人じゃん」
「日本人でも分からないものは分からない」
「安心しました」
Elinorが真面目な顔で言った。
「安心しないで。たぶん参考にしちゃダメな人だから」
「茜?」
三人の間に、最初の笑いが生まれた。
◇
入学式は、入学式だった。
長い。
茜の感想はそれだけだ。
壇上では校長の久世修司が、新入生へ言葉を送っている。
少し白髪の混じった、細身の男性。
声は穏やかで、大げさな身振りもしない。
「この三年間で、皆さんが何を学び、何を選ぶのか。それは学校が代わりに決めるものではありません」
隣で光里が小さく息を吐いた。
茜は前を向いたまま囁く。
「寝た?」
「寝てない」
「今ため息ついた」
「終わったらクレープ行かない?」
「入学式中に決めること?」
「大事でしょ」
反対側を見る。
Elinorは背筋を伸ばし、真面目に校長の話を聞いていた。
温度差がすごい。
茜は小さく笑って、また壇上へ視線を戻した。
◇
「担任の篠崎真琴です」
入学式後のホームルーム。
教壇に立った女性教師は、三十代前半くらいに見えた。
動きやすそうなパンツスーツ。
化粧も髪型も派手ではないが、妙に目が鋭い。
「一年間、と言いたいところだけど、A組は三年間付き合う可能性が高いので。そのつもりでよろしく」
教室のあちこちから小さな声が上がる。
「持ち上がりなんだ」
「珍しくない?」
光里が茜へ小声で言った。
「先生、若くない?」
「聞こえてるわよ、七尾さん」
「すみません」
即座に光里が前を向く。
茜は吹き出しそうになった。
簡単な自己紹介が始まる。
全員分を聞いているうちに、茜の意識は半分ほど窓の外へ逃げた。
桜。
青空。
普通の高校。
できれば本当に、このまま普通であってほしい。
「七尾光里です」
光里の番になった。
「高校では、普通に楽しく過ごしたいです。よろしくお願いします」
拍手。
その直後、前の席の男子が振り返った。
「七尾って、もしかして中学の剣道で全国取った七尾?」
「あー……うん」
「やっぱり! すげえじゃん」
「空手もやってなかった?」
「まあ、一応」
光里は笑っていた。
でもほんの少しだけ、その笑顔が固い。
茜には分かった。
初日からもう「武道の七尾」だ。
光里が一番避けたかったやつ。
やがてElinorが丁寧に自己紹介し、茜の番になる。
「藍沢茜です」
立ち上がる。
「三年間、なるべく平和に過ごしたいです。以上」
一部から笑いが起きた。
茜も座ろうとする。
「そうなるといいわね」
篠崎が言った。
茜は止まった。
「先生、その言い方やめてもらっていいですか」
また教室に笑いが起こる。
篠崎は肩をすくめただけだった。
◇
ホームルームが終わった。
「終わったー!」
光里が両腕を伸ばした。
「クレープ」
「まだ言ってたんだ」
「今日の一大イベントだよ?」
「入学式より上なの?」
「同率」
「彼氏は?」
「それは長期目標」
Elinorが荷物をまとめながら二人を見る。
「クレープ、ですか?」
「Elinorも行く?」
「よろしいのですか?」
「もちろん」
「おー、初日から三人」
茜も鞄を持ち上げた。
悪くない。
少なくとも入学初日は、思っていたよりずっと普通だった。
その時だった。
「ああ、A組は帰らないで」
教壇から篠崎の声。
教室中の動きが止まる。
一人の男子が手を上げた。
「先生、A組って……全員A組ですけど」
「そうね」
「全員ですか?」
「全員」
篠崎は黒板に向き直った。
白いチョークが音を立てる。
そこに書かれた文字を、光里が読む。
「特別選抜……オリエンテーション?」
「場所を移動します。荷物は持って。第二講義室へ」
光里が首を傾げた。
「A組の説明かな」
「……たぶん」
「何その間」
篠崎がチョークを置いた。
それまでと変わらない調子で言う。
「なお、ここから先に説明する内容については、外部への口外を禁止します」
教室が静かになった。
「……口外禁止?」
光里が呟いた。
そして、ゆっくり茜を見る。
「茜」
「なに」
「なんか知ってる?」
茜は目を逸らした。
「……まあ、ちょっと」
「ちょっと?」
声が一段低くなる。
さっきまで、剣道部がないとあんなに喜んでいた。
制服で寄り道して。
クレープを食べて。
文化祭で恋をして。
普通の高校生活を送るのだと、朝からずっと楽しそうに話していた。
茜は心の中で、幼馴染へ小さく謝った。
――ごめん、光里。
たぶん。
あんたが思ってる高校生活じゃない。
「行くわよ、A組」
篠崎真琴が教室の扉を開いた。
光里はまだ納得していない顔で茜を睨んでいる。
その横でElinorだけが、なぜか驚いた様子もなく静かに立ち上がった。
茜はそれを横目で見てから、重たい鞄を肩へ掛ける。
「……めんど」
高校生活初日。
茜がなるべく関わらずに済ませたかったものが、向こうから迎えに来た。
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「朝陽くんに、よろしくお伝えください」
Elinorがそう言うと、茜は鞄を机に置きながら笑った。
「昨日も言ってたじゃん」
「はい。で
翌朝、茜が教室へ入ると、光里が机に突っ伏していた。
「……おはよ」
「おはよう。何その顔」
「昨日の私を殴りたい」
「物騒だな」
翌朝。
「今日は運動部だからね」
教室へ入るなり。
光里が言った。
「何が」
「昨日の続き」
「ああ」
放課後のチャイムが鳴った。
茜が教科書を鞄へ突っ込んでいると、隣から声が飛んでくる。
「今日、何する?」
「帰る」
「却下」







