Synopsis
悟りの欠点に気づいて編み出されたエスの解法の謎に迫る。
Chapter1
放課後の西日が、道場の磨き抜かれた床に長い影を落としている。
その静謐を切り裂くのは、鋭い風切り音。そして、荒い呼吸だ。
「……っ、ハァッ、ハァッ、……なんで!!」
叫びと共に放たれた木剣の横薙ぎ。高嶺綾香の踏み込みは鋭く、その一撃は教科書に載せたいほど正確で、重かった。迷いのない軌道が、標的である男の喉元を正確に捉える——はずだった。
だが、男は一歩も引いていない。
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ公爵は、本を片手に持ったまま、まるで見えない糸に引かれたかのように、わずか数センチだけ首を傾けた。
木剣は、彼の金髪をわずかに揺らして虚空を斬った。

「っ、また……! これ、手品か何かでしょう!? あなた、一度もこっちを見てない! 本に目を落としたままじゃない!」
綾香は剣を構え直すが、その指先はわずかに震えている。恐怖ではない。理解を超えた事象に対する、理性の悲鳴だった。彼女はこの放課後の稽古で、すでに百を超える一撃を放っている。そしてその全てが、今のように「空気」を斬る結果に終わっていた。
「手品ならまだ可愛いものだよ、綾香嬢」
ミハエルは視線を本から上げることなく、穏やかな声で言った。その佇まいは戦闘というより、日曜日の公園で散歩でもしているかのようだ。
「見ていない、というのは半分正解で、半分は誤りだな。わたしは君の剣を見ていないが、君の『気配の揺らぎ』は……いや、この言い方は少し抽象的すぎるかな。もっと即物的な話だよ。私自身、どうして避けているのか、その瞬間には説明がつかない。言語化が不可能だ」
「説明がつかないって……そんな無責任な!」
「それがエスの解法なんだよ、綾香嬢」
少し離れた場所で、腕を組んで二人の稽古を見守っていたラルスが、重苦しい溜息を吐いた。彼の青い瞳には、複雑な色が混じっている。
「僕がこの父さんに対して、一番コンプレックスを感じている技術。努力や理論で埋められない何かが、そこにはある。正直、見ていて腹が立つこともあるくらいだ」
「あら、ラルスも修行が足りないわね。ミハエルのこれは、もう『技術』って呼ぶのすら危ういものなのよ」
縁側に腰を下ろしていた水鏡冬華が、楽しそうに湯呑みを啜る。隣には、興味深そうに身を乗り出している空夢風音と、どこか不機嫌そうに羽を休めているブラックヴァルキリー・カーラの姿があった。
「あのね、綾香ちゃん」
冬華が柔らかく微笑む。
「この人はね、自分の脳みそを信じてないのよ。正確には、脳みそ『だけ』を演算装置だと思ってないの」
「演算装置……?」
綾香の疑問に答えるように、ミハエルはようやく本を閉じ、こちらを向いた。
「さて、一旦整理しようか。綾香嬢、君は今、私を斬ろうとしていた。その時、君の頭の中はどうなっていた? 『右肩を引いた』『腰を回した』『剣先をあの座標へ』……そんな思考が、火花のように駆け巡っていたはずだ」
綾香は唇を噛む。その通りだった。彼女は常に最善の解を導き出そうと、意識を研ぎ澄ませて戦っている。
「それが『超自我』や『自我』の領域による支配だ。だが、意識には処理速度の閾値がある。情報を得て、分析し、予測し、決断し、命令を下して身体を動かす。このプロセスを辿っている限り、君はコンマ数秒の遅滞から一生逃げられない」
ミハエルがゆっくりと歩き出す。足音一つしない。
「いいかい。エスの解法、その核心にあるのは意識に頼りすぎるのをやめるんだ」
「フン、面白いことを言うわね」
道場の入口で、先ほどから様子を伺っていた元闘技場の双子——ヤヌとスーが会話に混ざってきた。赤いドレスのヤヌが挑発的に笑い、青いドレスのスーが鋭い視線でミハエルの動きを追う。
「アタシたちのいたカイアスじゃ、予測こそが全てだったわ。予知に近いレベルまで感覚を研ぎ澄ます。それが生き残る術よ」
「……同意。予測なき戦いは、ただの自殺」
スーが淡々と付け加える。
「そうだね。予測は極めて有効な戦略だ」
ミハエルは頷く。
「だが、予測には『前提』が必要だ。そしてその前提が崩れた時、意識はフリーズする。エスの解法はそこを狙わない。相手がどう動くかを当てるのではない。相手が動いたというその『事実』そのものに、意識を通さず、身体を直結させるんだ」
ミハエルは、ひらりと自分の服の裾を指差した。
「さあ、綾香嬢。もう一度打ってきなさい。ただし、警告しておくよ。これだけ説明して避けられるのは、私としても少しばかり興醒めだ。次、剣を一回外すごとに、君のその短いスカートをめくらせてもらうことにしよう。ひらひら、とね」
「な……ッ!? 何を破廉恥なことを!!」
綾香の顔が瞬時に真っ赤に染まる。傍らで聞いていた風音が「ミ、ミハエル様……!」と顔を赤らめて絶句し、ミレーヌ=ローゼンベルグが冷静な足取りでミハエルの背後に立ち、その鉄甲に包まれた拳で彼の後頭部を軽く小突いた。
「団長、冗談も大概にしてください。高嶺様が真面目に教えを乞うているのです」
「いたたた……。分かってるよ、ミレーヌ。これはモチベーションの維持、というやつだ。人間、切羽詰まった方が『エス』は引き出しやすいからね」
ミハエルは頭を摩りながら、再び綾香と対峙した。冷笑でもなく、ただ透明な視線がそこにある。
「構えなさい。ここからが『エスの解法』の本当の講義だ」
綾香は怒りに任せて剣を振り下ろそうとしたが、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。ミハエルの立ち姿が、まるですりガラスの向こう側にあるかのように曖昧に見えたからだ。
「いいかい。心理学でいう『エス(イド)』とは、自我の下に潜む無意識的で本能的な衝動の源泉だ」
ミハエルの言葉が、綾香の耳に流れ込んでくる。
「人は成長するにつれ、この制御不能なエスの力を、法や理屈という『超自我』で抑え込むようになる。戦いにおいても同じだ。『こう動くべきだ』『この技が正しい』という知識……それは時に、身体が本来持っている反応速度を邪魔する枷になる」
綾香は誘われるように一歩踏み出し、今度は袈裟懸けに斬り上げた。
やはり、当たらない。
ミハエルはただ、呼吸を吐く瞬間にわずかに身体の重心をずらしただけだ。無駄な動作が一つもない。
「今のもそうだ。君の剣が空を切った瞬間、君の頭は『なぜ?』と考えた。その一瞬の思考のノイズが、次の追撃を遅らせる。エスの解法では、その『なぜ』という問い自体を消去するんだ」
「問いを消去する……そんなこと、できるわけが——」
「できるとも。君が赤ん坊だった頃、どうやってバランスを取って歩いていたか覚えているかい? 重心移動の数値を計算したか? 筋肉の収縮率を意識したか? 違うだろう。身体がただ、世界と調和しようとして動いただけだ。その状態へ、意識的に回帰する方法。それが私の提唱する解法だ」
「なんだか、小難しい理屈ねえ」
シルフィードが空中を浮遊しながら、退屈そうに欠伸をした。
「結局、ただの反射神経なんでしょ? 木の葉が落ちるのを避けるみたいにさあ」
「違うわよ、シル」カーラが黄金の瞳を細めて言った。「反射神経ってのは、刺激に対して決まった回路で反応すること。でも、こいつのこれには『正解の回路』なんて最初から存在しないんだわ。その場その場で、身体が勝手に新しい回路を生成してる……。見てて不気味なのはそこね」
カーラの言葉に、ミハエルは微かに満足げな笑みを浮かべた。
「さすがだね、カーラ。その通り。エスの解法は、完成された技術体系じゃない。むしろ、『最適化し続けるプロセス』そのものなんだ」
ミハエルは木剣の鋭い切っ先を、その柔らかな掌で薄紙一枚の距離まで受け流す。
「戦闘中、意識は情報の洪水に溺れやすい。音、視覚、肌で感じる温度の変化……そのすべてを『脳』で処理しようとすれば、必ずパンクする。だから、処理を分散させるんだ。脊髄に、筋肉に、皮膚のひとつひとつに、演算を委ねる」
「そんなこと……そんなことができたら、それはもう、人間じゃないわ」
綾香は膝をつきそうになる。絶望的なまでの実力差。だが、ミハエルは厳しく言い放った。
「逆だよ、綾香嬢。余計なものを捨てて捨てて、最後に残った『純粋な身体』の機能を取り戻すことこそが、最も人間らしい在り方だ。強くなろうとするな。性能を上げようとするな。ただ、君の邪魔をしている君自身の『思考』を削ぎ落とせ」
「削ぎ落とす……」
「そうだ。例えば、君が昨日の夕食を作っていた時を思い出してごらん」
唐突な話題の転換に、一同の顔に戸惑いが広がる。
「包丁で野菜を切る。その時、『この角度で刃を入れれば細胞を壊さない』なんて、いちいち考えていないだろう? 鍋の音を聞き、立ち上る湯気の匂いを嗅ぎ、手元の感触だけで火加減を調整する。あれこそが、日常生活におけるエスの解法の断片だ」
「料理ですかっ?」風音が声を上げる。「確かに……言われてみれば、集中している時は、手が勝手に動いているような感覚があります」
「そう。その感覚を、極限の死合いの場まで持っていくんだ。殺るか殺られるかの土壇場で、大根の桂剥きをしている時のような平穏を心に置く。……まあ、言うのは簡単だがね」
ミハエルはそこで言葉を切り、綾香の肩を優しく叩いた。
「君は真面目すぎるんだ、綾香嬢。毎日を百パーセントの力で生きようとする。それは尊いことだが、戦いにおいては致命的な弱点になる。エスの解法は、燃費がいい技術だとも言ったね? それは、意識が稼働していないからなんだ。余計な緊張も、余計な予測も、余計な自意識も消費しない。だから、何時間でも、何日でも戦い続けられる」
「……あなたは、いつもそうやって『知らないまま』でいるんですか?」
綾香の問いに、ミハエルは少し遠くを見るような目をした。
「人はすべてを理解し、分類し、名付けようとする。だが、この火明星の理も、生命の鼓動も、本当は言葉の届かない場所にある。私はただ、その不可解な流れの中に身を委ね、生き残るために余計なものを捨て続けているだけだよ」
「……分からない。やっぱり、わたしには……」
「それでいい。分からないままで進むんだ。理解しようとするその欲求さえ、今は隅に置いておくことだね」
ミハエルは道場の隅にある水瓶へと向かい、柄杓で水を掬った。
「エスの解法を身につけたからといって、無敵になるわけじゃない。ただ、『生き残る確率が高まる』だけだ。そして、たとえ負けたとしても、身体はその負けの経験を直接吸収し、明日には新しい反応パターンを刻んでいる。意識で反省するよりずっと速く、深くね」
「戦闘経験そのものが、身体のアップデートになる……」
ラルスが呟く。それは、絶え間ない自己更新。意識による介入なしに、進化し続ける肉体。
「そうだよ、ラルス。昨日の私と今日の私は、細胞レベルで戦い方が変わっている」
「……反面教師だと思っていたけど」ラルスの声が低くなる。「やっぱり、あんたはとんでもない化け物だよ、父さん」
「ひどい言い草だね。私はただの、料理が得意な公爵だよ」
ミハエルは柄杓を置き、再び中央に戻ってきた。
「さて、講義は終わりだ。綾香嬢、まだやるかい? 私の手は、いつでも君のスカートを翻す準備ができているけれど」
「……っ、やります! 次は絶対に、その余裕な面を剥いで見せますから!!」
綾香の瞳に、先ほどまでの困惑に代わって、静かな熱が灯った。それはまだ「理屈」で追いかけている者の熱ではあったが、少なくとも彼女の中の「自我」という分厚い氷に、小さな亀裂が入った音をミハエルは聞き逃さなかった。
冬華が「あらあら、また始まるわね」と二杯目のお茶を注ぐ。
ミレーヌは諦めたように溜息をつき、カーラは退屈そうに翼で顔を覆った。
ヤヌとスーは、お互いの顔を見合わせ、同時に入り乱れるように言った。
「面白いじゃない。アタシたちも混ざってあげようか?」
「……データ収集。エスの解法、解読の必要あり」
夕闇が迫る道場に、再び木剣の空を切る音が響き渡る。
ミハエルはただ、ゆらりと、柳のように身をかわした。
(——そうだよ、それでいい)
彼の脳裏には、思考の代わりに、冷徹なまでの最適解が結晶となっては砕けていく。
彼にとって、世界はもはや分析すべき対象ではなく、ただ触れ、感じ、調和すべき巨大な「律動」そのものだった。
彼が「エス」と呼ぶその深淵は、彼を決して裏切らない。
意識という脆い光が消えても、身体という原初からの記録装置が、彼を「生」へと繋ぎ止めるからだ。
「さあ、来なさい。君の『身体』の声を聞かせてもらうよ」
ミハエルの金髪が、綾香の理性を、そして彼女自身も自覚していない本能の一撃を誘うように、夕風に揺れた。
その夜、ミハエルの家で振る舞われた夕食の餃子は、格別な味がしたという。
綾香は結局、一度として彼のスカートめくりを防げなかったが(正確には、避けるのに必死でめくられたことに気づくのが数秒遅れたのだが)、彼女が包丁を握る時、その手元は以前よりもわずかに、迷いが消えていた。
「……ミハエルさん」
「ん?」
「餃子、包丁で切った時の感触……なんとなく、さっきの避け方と似ていた気がします」
「おや」
ミハエルは満足げに餃子を頬張った。
「それはいい傾向だね。……あ、今ので11回目」
「何がですか?」
「スカートをめくるはずだった回数。夕食が美味しかったから、帳消しにしてあげよう」
「死ねえええええええ!!」
皿が飛ぶ。
ミハエルはそれを、見もせずに、ごく自然な動作でキャッチした。
空夢風音がその様子を見て、「今日も平和です……」と、幸せそうに一句詠んでいた。
「夕焼けの 道場に散る 声高し 剣の音より 夕餉の香り」
ラルスは隣で「平和かなぁ……」と独り言をこぼしたが、その表情は、どこか吹っ切れたような明るさを取り戻していた。
「エスの解法」は、まだ誰にも完全には解明されていない。
だが、ヴァーレンスの空の下、今日も彼らは、分からないままに進み続け、分からないままに食卓を囲んでいた。
それで十分なのだと、ミハエルの背中が語っているようだった。
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綾香は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「神様に体内爆破されても死なずに一回休みで済みました」という実績。
それは凄まじい奇跡であると同時に、あまりに不毛な勝利の形だった。
夕闇が王都の輪郭をぼかし始め、窓外の風が微かに秋の気配を運んでくる。ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒの居間には、沈黙が澱のように溜まっていた。琥珀色の霊波動が見せたかつての惨状――
窓の外、残紅の夕闇がヴァーレンス王国の街並みを静かに飲み込んでいく。公爵邸の広間には、沈香の高雅な香りと、淹れ立ての紅茶から立ち上る微かな蒸気が漂っていた。
ミハエル=シュピー
「……なるほど」
彼女は、初めて素直な肯定を漏らした。
「ただし」
「?」
ミハエルが、意地悪な子供のような顔をして付け加えた。







