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都市の嘘 都市調律局

都市の嘘 都市調律局

Last Updated: 2026-09-14 01:58:52
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Synopsis

都市の心臓部で待ち受ける感情吸引コアと最後の封印。それは15年前から仕組まれた黒幕の罠だった。しかし、令嬢の黄金比波形、慎吾の恐怖値ゼロのバール、黒鉄の意図層安定、そして断理の旧名に隠された記憶が重なり合うとき、偽りに満ちた都市の光は「新しい色」へと変わる。都市最大の嘘を打ち破り、断理が失われた温度を取り戻すまでの、第6章・完結の物語。


Chapter1

◆ Scene01:黒い封筒(差出人不明)

書斎の静寂は、一枚の封筒によって引き裂かれた。

朝の光を受けてきらめいていた紅茶の波紋が、まるで外敵の侵入を告げるかのように波立ち、カップの淵で細かい飛沫を上げる。

「……さて」

悪役令嬢探偵――美しき容姿の裏で無数の思考回路を並列駆動させる彼女は、冷めかけたアッサムの香りを鼻腔の奥で転がしながら、足元に落ちた漆黒の物体を見下ろした。


触れずとも伝わる異質さがあった。

一般的なパルプの匂いではなく、どこか冷えた鉱物と、長期間密閉された書庫の空気を混ぜ合わせたような匂い。

表面をなぞる指先に、微細な凹凸が伝わる。

「この手触りは……高密度圧縮セルロース、しかも特殊な樹脂コーティングが施されていますわね」

独り言を遮るように、脳内の回線が一斉に切り替わった。


『ねえねえ、見て見て! この黒さ、絶対ヤバい奴だよ! お化け屋敷の招待状とか!?』

左翼(直感少女)が歓声を上げ、視神経の端でぴょんぴょん飛び跳ねる。

『バカ野郎、お化け屋敷で済むかよ! 罠だ、完全に罠だぜ! 開けた瞬間に毒ガスか、あるいは自爆装置が起動する仕掛けに違いねぇ! 今すぐバールで叩き潰せ!』

右翼(破天荒道化師)が血走った目で拳を振り回し、書斎の壁を殴りつけるような幻影を見せる。

『……思考の暴走を抑制してください。右翼の過激な仮説の採択確率は0.3%未満です。ただし、紙の製造元を特定します。この微量の赤外線吸収顔料は、都市中央管理局の第4研究棟、すなわち『調律局』の特殊プリンタでしか生成できません』

奥(博識家)が冷静にデータを取り出し、視界の隅に青白いウィンドウを並べる。

主人格はこめかみを強く押さえ、頭痛を逃がすように深呼吸をした。

「……あなたたちねえ、もう少し私の精神衛生に配慮しなさいよ。朝の優雅なティータイムが台無しですわ」


文句を言いつつも、令嬢の手は正確に封筒を拾い上げていた。

光にかざすと、漆黒の表面がわずかに虹色の油膜のように揺らぐ。

それは物質的な色変化ではない。都市の深層でうごめく「強い感情の残響(エコー)」が、高感度の特殊インクに反応して引き起こしている現象だった。

「断理の言っていた通りですわね……。この都市のどこかで、激しい感情の澱みが圧縮されている」


封緘の樹脂をヘラで丁寧に剥がす。

パリッという乾いた音が、静まり返った書斎に響いた。

中から滑り出たのは、名刺サイズの薄いホログラムカード一枚。

指先に乗せた瞬間、微弱な電流のようなピリッとした刺激が走る。

カードの表面に、青白い光の文字が浮かび上がった。


《7日以内に、この都市最大の嘘を暴け》


文字が定着した直後、ホログラムは微粒子のように霧散し、代わりに奇妙な電子音が耳の奥で鳴り響いた。

再び、脳内会議が沸騰する。

『うわっ、消えた!? え、これって呪い? 私たち消されちゃうの!?』

『ふざけやがって……! 誰の仕業だ、表に出ろ! ぶっ飛ばしてやる!』

『解析完了。このホログラムの発信源は単一ではありません。都市の四大エリアから同時に中継されています。無視した場合、都市ネットワーク上の我們的生存確率が急速に低下します』

「ちょっと、静かにって言ってるでしょう!」


令嬢は声を荒らげ、カップに残っていた紅茶を飲み干した。

苦みと渋みが、脳内で暴れる人格たちのノイズを強制的に鎮静化させる。

黒い封筒――それはただの脅迫状ではない。

この都市の深層に眠る「隠蔽された構造的悪意」を暴くために、意図的にばらまかれた招待状。

慎吾の持つ物理的な破壊衝動も、断理の脳内OSが抱える秘密も、黒鉄が追い求める過去の未解決事件も、すべてはこの一枚の紙から引き寄せられていく。


「……面白い」


紅い唇の端が、美しく、そしてどこか冷やかに持ち上がった。

扇子をパチンと音を立てて開き、令嬢は窓の外の摩天楼を見据える。

「わたくしたちを試すつもりなら、その期待以上の絶望と真実を叩き返して差し上げますわ。さあ、ゲームの始まりです」



◆ Scene02:封筒の紙質(断理の分析)

令嬢が黒い封筒を指先で持ち上げた瞬間、紙の表面がまるで吸い込まれるように光を曇らせた。

艶のない漆黒――だが、それは単なる黒の顔料が生み出す深みではない。触れた指先に伝わるのは、紙というよりもむしろ、硬質なセラミックや薄い金属板を思わせるひんやりとした“密度”だった。

「……この紙、普通ではありませんわね」

呟いた声の主に向かって、背後の暗がりから静かな足音が滑り込む。

「高級紙です。都市調律局の内部でしか使われない特殊素材」

断理だった。

彼は一歩も近寄らず、デスクの縁に手をかけたまま、ただ光の反射角度だけを冷徹に見据えて判断を下す。

「紙繊維の配列が均一すぎます。一般流通するパルプ紙には必ず微細なランダム性や乱れが生じるものですが、これは分子レベルで均一化された“完全整列セルロース”。さらに、インクの滲み方が不自然です。通常のカーボンインクではなく、特定の周波数を帯びた感情残響を吸着・定着させる“調律インク”が使われている」


専門的な解説が落ちた瞬間、令嬢の脳内会議が一斉にトリガーを引かれた。

『えっ、そんな超ハイテクな紙あるの!? 都市調律局ってなにそれ、なんだかお役所っぽくて怖いんだけど!』

左翼(直感少女)が脳内で目を丸くし、視界の端でバタバタと両手を振る。

『お役所だろうが何だろうが関係ねぇ! つまり仕掛けたのは敵だろ!? 今すぐこの紙を丸めて窓から投げ捨て、あわよくばバールで壁ごとぶっ壊すしかねぇ!』

右翼(破天荒道化師)が血走った目で腕まくりをし、暴力的な解決策を力説して譲らない。

『……相変わらず脳筋ですね。ですが、断理の分析は正しい。紙質の均一性、インクの揮発残留値、そして無印の封緘刻印から逆算すると、この招待状の差出人は都市調律局の高位の調律官、もしくはそれに準ずる特権階級である確率が92.4%です』

奥(博識家)が淡々と冷徹な確率を叩き出し、視界のあちこちに青白いデータウィンドウを浮かび上がらせる。

「……あなたたち、ねえ。もう少し私の精神の平穏に配慮しなさいよ」

主人格はこめかみを強く抑え、頭痛の波をやり過ごすように小さく息をついた。


「断理、今の話の続きを聞かせてちょうだい」

令嬢が視線を戻すと、断理は細い指先で自身のこめかみを軽く押さえた。彼の脳内に埋め込まれたOS『NEURAL ECHO』が、微かに青い光の残像を引いている。

「この紙はね……『感情を吸う』んです」

「感情を、吸う……?」

「ええ。持ち主が触れたときの体温、心拍数の変動、そして思考の揺らぎに伴う微弱な生体電流や精神波を、調律インクが吸収する。つまり、この封筒そのものが、あなたの一挙手一投足を記録する“感情ログデバイス”として機能している」


その言葉を聞いた瞬間、令嬢の手元で奇妙な現象が起きた。

カップの中で穏やかに揺れていたアッサムティーの波紋が、封筒に近づければ近づけるほど、急速にその勢いを失い、不気味なほど平滑に沈み込んでいく。まるで、紅茶に含まれるわずかな熱やエネルギーすらも、その黒い紙が周囲から貪欲に奪い去っているかのようだった。

「つまり……この封筒は、ただのメッセージキャリアではなく、わたくしのすべての反応をリアルタイムで“観測し、記録している”のですわね?」

断理は無機質な瞳のまま、小さく頷いた。

「ええ。差出人は、あなたの知性だけでなく、恐怖や動揺、あるいは歓喜といった“感情のパラメータ”を測りたかった。この招待状は、単なる挑発でも、謎解きの始まりでもない」

冷徹な声が、書斎の空気をさらに一段階冷やし込む。

「……あれは、被験者を選別するための“踏み絵”です」


黒い封筒――それはただの紙切れではなく、都市調律局の冷徹な影が、すでに令嬢のプライベートな聖域へと静かに忍び込んでいる動かぬ証拠だった。

しかし、令嬢はその警告を恐れるどころか、むしろ挑発的なまでの優雅さを取り戻す。

紅茶のカップをそっとソーサーに戻し、澄んだ硬質な音を立てさせると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「私の感情を測りたいと言うなら、その期待通りの最高潮(ピーク)を味あわせてあげましょう。……ますます、面白くなってきましたわね」



◆ Scene03:ホログラムの挑戦状

封筒の中から滑り落ちた薄いカードは、紙でも金属でもない、指先に吸い付くような奇妙な有機的質感を持っていた。

令嬢がその中央を指先でそっと触れた瞬間、カードの表面に淡いルミネッセンスの光が灯り、ふわりと重力を失ったように空中へと浮き上がる。

光の粒子は空中で複雑な軌跡を描きながらゆっくりと形を結び、やがて一枚の立体ホログラムが静かに展開した。

そこに映し出されたのは、彼女が暮らす巨大都市の俯瞰図――しかし、そこには一切の色彩が失われていた。

摩天楼の鋭いシルエットも、旧市街の入り組んだ路地も、市民たちが営む生活圏のざわめきすらも、すべてが冷徹なモノクロームの線画だけで構築されている。都市の血管のように張り巡らせた区画のただ一点、その中央にだけ、血のようにおどろおどろしい赤色の文字がぽつんと浮かび上がっていた。

《7日以内に、この都市最大の嘘を暴け》

その瞬間、書斎の空間を包む空気がわずかに冷たく震え、重力を増した。

カップの中で凪いでいた紅茶の波紋が深く底へと沈み込み、静寂を切り裂くように脳内会議が即座に発火する。

『えっ、えっ、えっ!? なにこれ、映画のワンシーン!? ていうか「都市最大」って、いったい何の嘘のことなのよ!』

左翼(直感少女)が慌てふためき、視界の隅で両手を激しく上下させる。

『ふん、挑戦状だってよ。上等じゃねえか。そんな回りくどい真似する暇があるなら、その黒幕のツラを直接ぶん殴ってやろうぜ!』

右翼(破天荒道化師)が血走った目で拳を固め、書斎の重厚な机を蹴り飛ばそうとする幻影を見せる。

『……相変わらず短絡的ですね。ですが、表示された文字のフォント、光の波長、空間投影のプロトコルを解析した結果、このホログラムは都市調律局の最高機密である内部専用端末でしか生成不可能な代物です』

奥(博識家)が冷静にデータを並べ立て、分析結果を視界にポップアップさせる。

主人格は片手で額を強く押さえ、頭痛の波を必死にやり過ごしながら大きく息をついた。

「……あなたたち、ねえ。もう少し私の精神の平穏を考えて、順番に話しなさいよ!」

怒声を飲み込むように令嬢が眉間を抑えると、目の前で浮かぶホログラムの文字が、まるで生き物のようにゆらりと揺らいだ。

まるで、彼女の今の動揺や怒りの感情をセンサーで正確に読み取り、そのデータに応じてわずかに形を変えているかのように。

その異変を冷静に見据えながら、断理が一歩前へ足を踏み出した。

「この挑戦状は、ただの指示や脅迫ではありません」

低く抑えた声で、彼はホログラムのモノクローム地図を指し示す。

「あなたの心拍数の変化や感情の揺らぎを測定し、都市調律局がこのゲームに参加するに値するかどうかを測るための『選別試験』です」

「選別、ですって……?」

「ええ。この腐敗した都市の深層に眠る嘘を本当に暴ける知性と胆力があるか、あなたの脳内会議の反応そのものを、彼らはリアルタイムで観測している」

断理の言葉に呼応するように、ホログラムの地図がふっと色を変えた。

モノクロの世界で、旧市街の廃ビルが密集する一角だけが、青白い不穏な光に染め上げられる。

《最初の地点:旧市街 廃ビル群》

その冷たい表示を目の当たりにし、令嬢は静かに息を吸い込むと、手元のカップをソーサーにそっと置いた。カチャリと響く高い音が、書斎の緊迫した空気を引き締める。

「……なるほど。私を試すつもりなのですわね、あの隠蔽癖の塊のような調律官たちは」

ホログラムは最後に、あざ笑うかのような一行を付け足すと、霧散するようにゆっくりと消えていった。

《逃げるなら、今のうちだ》

その文字が消えた瞬間、脳内会議が再び最高潮で爆発した。

『逃げるわけないじゃない! 絶対に行って、あの生意気なホログラムの鼻を明かしてやるんだから!』

『逃げる? 冗談じゃねえ! 罠だろうが何だろうが、突っ込んでいって暴れ回る絶好のチャンスだぜ!』

『逃走の選択肢は論理的に非合理です。システムの中枢へ踏み込み、情報の優位性を確保すべきです』

「――もう、誰も逃げると言っていませんわ!」

令嬢は声を張り上げ、脳内で騒ぎ立てる人格たちを強引に黙らせた。

黒い封筒――それはただの招待状などではなく、この都市の最大の嘘へと続く、引き返せない最初の扉だった。

彼女は椅子からゆっくりと立ち上がり、ステンドグラスを透過して差し込む朝の光の向こう、巨大な摩天楼がそびえる街並みへと視線を据えた。

「――行きますわ。この都市が隠し続ける欺瞞のすべてを、私の手で暴き出して差し上げます」



◆ Scene04:紅茶の波紋(都市の揺らぎ)

書斎を包む冷徹な静寂の中で、令嬢はソーサーに載ったままのティーカップにそっと手を伸ばし、慎重に持ち上げた。

淹れたてのアッサムティーが放つ芳醇な香りが鼻腔をくすぐるはずの空間で、彼女の視線はただ一点、琥珀色の液面に釘付けになっていた。

いつもならば、ステンドグラスを透過する朝の光を浴びて、静穏な水面のように穏やかな光を返すはずの液面――しかし、今日のそれは明確に異なっていた。

波紋が、規則正しく、かつ細かく揺れている。

それは窓から吹き込む微風によるものでもなければ、彼女自身が抱えた緊張による手の震えなどでもなかった。

都市の奥底でうごめく“感情濃度”が臨界点を超えたときだけに現れる特異現象――かつて断理が「感情残響」と名付けた、微細で不気味な物理振動だった。

令嬢は切れ長の目を細め、琥珀色の微動を凝視した。

「……どうやら、この都市自体がざわついていますわね」

その呟きを合図にしたかのように、静まり返っていた脳内会議が一斉に、しかも最高音量で再発火した。

『えっ、ちょっ、待って! 紅茶の波紋がなんか変な形になってるよ! これ、絶対になんかヤバいのが来る前触れだって! 絶対来るよ、ほら見て!』

左翼(直感少女)が恐怖と興奮が入り混じった声を上げ、脳内の視界の隅でパニックを起こしたようにバタバタと跳ね回る。

『都市がざわつくだと? つまり、俺たちを狙う敵がもう近くまでうろついてるってことだろ! うずうずするぜ、今すぐ外へ飛び出してそいつらの鼻を明かしてやろうぜ!』

右翼(破天荒道化師)が興奮気味に腕を鳴らし、文字通り書斎の壁をぶち抜くような荒唐無稽な突撃プランを全開で展開する。

『……感情残響の波形データを解析します。波紋の振動周期が平時の1.3倍に達しています。これは都市全体に広がる群集心理の密度が急激に上昇している動かぬ証拠です』

奥(博識家)が冷静沈着に数字を叩き出し、視界いっぱいに青白い数式や波形グラフを並べ立てて論理的優位を主張する。

「……あなたたちねえ、本当に少しは静かにしなさいよ! 頭痛が加速するでしょう!」

主人格が片手でこめかみを強く押さえ、脳内で勝手に暴走する人格たちを強制的に鎮静化させる。


しかし、紅茶の波紋はそんな喧騒を嘲笑うかのように、まるで生き物のような呼吸を繰り返しながら震え続けていた。

液面の中心から外縁へと広がる波の輪が、ほんの一瞬、奇妙な“色”に変色する。

それは鮮やかな赤ではなく、深く冷徹な淡い青色――旧市街の区画において、住民たちの抑圧された感情濃度が危険域に達したときにだけ特異的に観測される色だった。

令嬢は小さく息をつき、これ以上揺れが激しくなる前にと、カップをソーサーの上へそっと戻した。

カチャリ、と上品な陶器同士が触れ合う硬質な音が響いた瞬間、カップの中の波紋は激しく波立ち、さらに深く、暗い底へと沈み込んでいく。

「旧市街……先ほどのホログラムが指し示していた、あの廃ビル群ですわね」

デスクの脇で腕を組んでいた断理が、静かに、そして深く頷いた。

「ええ。ホログラムの指示地点と、この感情残響の発生源が見事に一致しています。都市調律局が隠蔽しようとしている『何か』が、まさにその場所で歪みを生んでいる」

その言葉の直後、カップの中の紅茶が突如として大きくふたつに割れ、波紋が不気味に乱れた。

まるで、都市そのものが遠く離れた旧市街から、彼女たちに向けて何かを必死に「呼びかけている」かのような錯覚さえ覚える。

その光景に当てられたように、脳内会議が再び制御不能の暴走状態へ突入する。

『行こうよ行こうよ! こんなの絶対、何か面白い謎が隠されてるって!』

『ああ、そうこしちゃいられねぇ! 罠だろうが何だろうが、ぶっ壊して真相を引っぺがしてやろうぜ!』

『旧市街の感情濃度はすでに危険域を突破しています。不測の事態に備え、武装とデータリンクを強化して慎重に行動すべきです』

「――って、もう誰も私の意見を聞いてくれませんわね!」

令嬢は半ばやけくそ気味に声を張り上げると、椅子から勢いよく立ち上がった。

ロングスカートの裾がふわりと揺れ、ステンドグラスを透過した色鮮やかな朝の光が、彼女の誇り高い横顔を美しく彩る。

窓の外に広がる巨大な摩天楼の群れを見つめると、紅茶の波紋は未だに細かく、しかし力強く震え続けていた。

隠された都市の嘘、調律局の陰謀、そして脳内で騒ぎ立てる五月蝿い仲間たち――そのすべての発信源が、いま彼女を呼んでいる。

令嬢は扇子をパチンと鮮やかに閉じると、紅い唇の端を持ち上げてふっと不敵に微笑んだ。

「――行きますわ。この紅茶の波紋が見せた揺らぎの正体を、この目でしっかりと確かめにね」

黒い封筒とホログラムに続き、カップの中で揺れる紅茶の波紋は、都市最大の嘘へと続く、まぎれもなく「第二のキーアイテム」だった。




地下鉄のひんやりとしたホームへと降り立った瞬間、令嬢の胸の奥で、わずかだが無視できない違和感が小さく跳ねた。

地下鉄特有の重苦しい熱気や、行き交う通勤客たちの慌ただしいざわめきが嘘のように消え失せている。空気が妙に軽く、そしてどこか不気味に澄み切っていた。それは都市の感情濃度が異常なまでに人為的に引き抜かれ、強制的な管理下に置かれたときだけに漂う“人工的な静けさ”だった。

轟音を立てて滑り込んできた電車のブレーキ音に紛れ、ホームの壁面を覆う巨大なデジタルサイネージの広告が、ひときわ眩しい光を放って切り替わった。


《SPRING BREEZE》


淡いミント色の、どこか気だるさを覚えるほどにスタイリッシュなロゴ。

柔らかい春のそよ風を思わせる流線型の曲線。

しかし、その洗練された美しさの裏側で、見る者の網膜の奥をじっとりと冷やすような、異質な“感情を吸い取る”冷たい輝きを放っていた。

令嬢は思わず足を止め、その巨大なスクリーンを見上げる。

「……このロゴ、最近やけにあちこちで見かけますわね。一体何の広告ですの?」

彼女の呟きを合図にしたように、静まり返っていた脳内会議が即座に、かつてないほどのボリュームで発火した。

『ねえねえ、見て見て! あの爽やかな色合い、絶対においしい炭酸水か何かだよ! これ飲んだら日々の疲れも吹っ飛んで元気になるやつに違いな――』

左翼(直感少女)が無邪気に目を輝かせ、脳内の視界の隅でパタパタと両手を叩いてはしゃぐ。

『バカ言うんじゃねぇ! あんな人工的で気味の悪いミント色、どう見たってヤバい薬品の隠れ蓑だろ! あの「爽やかです」って顔した胡散臭さこそ最大の証拠だ。今すぐそのサイネージをバールで粉々に叩き割って中身を検分してやろうぜ!』

右翼(破天荒道化師)が血走った目で拳を固め、公共の器物を盛大に破壊するシミュレーションを全開で展開する。

『……相変わらず暴力的ですね。ですが、右翼の危険察知の直感はあながち外れていません。広告スクリーンの発光波長を解析したところ、通常の1.8倍の輝度を持つ特定のストロボパターンが組み込まれています。これは無意識の視覚刺激を与えて市民の感情の起伏を“平坦化”するための設計です』

奥(博識家)が淡々と冷徹なデータ分析を叩き出し、視界いっぱいに青い解析ウィンドウを浮かび上がらせる。

「……あなたたち、ねえ。もう少し私の精神の平穏に配慮しなさいよ。どうしてこう、意見が両極端にうるさいのですか!」

主人格が片手でこめかみを激しく揉みほぐし、頭痛の波を必死に抑え込みながら大きく息をついた。


サイネージのミント色のロゴが、ふっと不気味に揺らいだ。

まるで、地下鉄構内の空気そのものが、その巨大な広告の呼吸に合わせて細かく震えているかのように。

その異変を冷徹な瞳で見据えながら、断理がすっと令嬢の真横に歩み寄り、無表情のまま口を開いた。

キャンパスの影に隠れるような低い声が、騒がしい脳内をすり抜けて耳に届く。

「この飲料ブランド『スプリング・ブリーズ』は、都市調律局の直系である特権関連企業が独占的に製造・配給しています。そして、その成分の一部には、市民の脳内ホルモンに直接作用して反逆心や興奮を麻痺させる“感情抑制物質”が極秘裏に含まれている可能性が高い」

「感情を……抑制、ですって?」

「ええ。この都市の深層で不穏な揺らぎが起きたとき、市民の感情密度を一定の低水準に均一化し、都市全体のパニックや暴動を未然に抑え込むための――いわば、為政者にとっての“調律飲料”のプロパガンダ広告さ」


断理の言葉に背筋が冷たくなるのを感じながら、令嬢は一歩前へ歩み寄り、サイネージの冷たい画面にそっと指先を近づけた。

ガラスの表面に触れた瞬間、指先からピリッとした微弱な生体反応が返ってくる。それは先ほど書斎のティーカップで見た、紅茶の波紋と同じ、微細で不気味な“揺らぎ”そのものだった。

「……この都市は、やはりどこまでも腐った嘘で塗り固められていますわね」

その呟きに呼応するかのように、ミント色のロゴが明滅し、広告の最下部に小さく、しかし鮮明な文字が浮かび上がった。


《旧市街 廃ビル群にて、新製品発表会開催》


その文字を目撃した瞬間、静まりかけた脳内会議が再び一斉に暴走を始める。

『行こうよ行こうよ! 新製品発表会だって! 絶対に変なお茶会より面白そうだし、何か隠し味の秘密がわかるよ!』

『新製品発表会だと? ふん、罠に決まってるぜ! だが好都合だ、連中の巣窟に乗り込んでそのミント色の面をグーで殴りつけてやろうぜ!』

『旧市街の感情濃度はすでに危険域を突破しています。そのような危険区域でのイベントに単身乗り込むのは非合理的――ですが、情報の隠蔽工作を暴くには絶好の機会です。慎重かつ大胆に行動すべきです』

「――って、誰も慎重になんて聞いてくれませんわね!」

令嬢は半ばやけくそ気味に声を張り上げると、脳内で勝手に盛り上がる人格たちを力ずくでねじ伏せた。

ちょうどその時、轟音を上げて次の列車がホームを激しい風を巻き上げながら通過していく。その暴風のなかで、サイネージに映し出された『スプリング・ブリーズ』のロゴが一瞬だけ、まるで死んだような真っ黒な暗色に染まった。

都市の隠された嘘が、またひとつ、彼女の目の前でその不気味な姿を現したのだ。

令嬢は静かに息を吸い込み、乱れたドレスの裾を整えると、旧市街へと通じる地下鉄の階段へ向かって優雅に歩き出した。

「――旧市街へ向かいますわ。あの廃ビル群で開かれるという、この“爽やかな嘘”の正体を、私の手で完全に暴き出して差し上げます」

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