Synopsis
「いい料亭ですな、権藤先生」
対面に座る男が、下卑た笑みを上品な懐紙で隠しながら言った。
「ワシの行きつけでね。ここは耳が良すぎる奴がいないのがいい」
権藤蔵人は、重みのある声で応えた。
政治家として八期。永田町の荒波を「清濁併せ呑む」の精神で泳ぎ切ってきた男の顔には、大衆が信頼を寄せる温和な笑みが張り付いている。しかし、その眼光だけは、獲物を値踏みする老いた獣のそれだ。
「では、これを。つまらないものですが」
差し出されたのは、格式高い老舗菓子の包み。
その重み。手に伝わる感触。中身が「山吹色のお菓子」であることを、権藤の指先は正確に感知した。
「ほう、これは素晴らしい。……実に、素晴らしい」
権藤の口角が上がる。
勝利の余韻。権益の香り。すべてが手の中にあった。
その瞬間。
心臓が、内側から巨大な万力で握りつぶされたような衝撃に襲われた。
「……っ!?」
呼吸が止まる。
視界が急激に色を失い、黄金色の照明が白く弾けた。
かきむしった胸元から、高級な仕立てのスーツが音を立ててしわ寄る。
遠のく意識の淵で、サイレンと、聞き慣れた、しかし忌々しい記者どもの怒号が聞こえた気がした。
『権藤先生! 裏金の疑惑について一言!』
『説明責任はどう果たされるおつもりですか!』
(やかましいわ、ボケ共が……。ワシが死んだら、誰がこの国の……泥を……)
それが、権藤蔵人の最期の思考だった。
Chapter1
上質な白木の香。
微かに漂う出汁の匂いと、高価な香の残り香が、静謐な空気に溶け込んでいる。
老舗料亭の一室。運ばれてきた椀物の蓋を開ける女性の所作には、一分の無駄もない。洗練された指先が、静かに酒を注ぐ。
「いい料亭ですな、権藤先生」
対面に座る男が、下卑た笑みを上品な懐紙で隠しながら言った。
「ワシの行きつけでね。ここは耳が良すぎる奴がいないのがいい」
権藤蔵人は、重みのある声で応えた。
政治家として八期。永田町の荒波を「清濁併せ呑む」の精神で泳ぎ切ってきた男の顔には、大衆が信頼を寄せる温和な笑みが張り付いている。しかし、その眼光だけは、獲物を値踏みする老いた獣のそれだ。
「では、これを。つまらないものですが」
差し出されたのは、格式高い老舗菓子の包み。
その重み。手に伝わる感触。中身が「山吹色のお菓子」であることを、権藤の指先は正確に感知した。
「ほう、これは素晴らしい。……実に、素晴らしい」
権藤の口角が上がる。
勝利の余韻。権益の香り。すべてが手の中にあった。
その瞬間。
心臓が、内側から巨大な万力で握りつぶされたような衝撃に襲われた。
「……っ!?」
呼吸が止まる。
視界が急激に色を失い、黄金色の照明が白く弾けた。
かきむしった胸元から、高級な仕立てのスーツが音を立ててしわ寄る。
遠のく意識の淵で、救急車のサイレンと、聞き慣れた、しかし忌々しい記者どもの怒号が聞こえた気がした。
『権藤先生! 裏金の疑惑について一言!』
『説明責任はどう果たされるおつもりですか!』
(やかましいわ、ボケ共が……。ワシが死んだら、誰がこの国の……泥を……)
それが、権藤蔵人の最期の思考だった。
はずだった。
「……おい。起きろ、この図体だけの能無しめ」
鼓膜を叩くのは、野卑で、ひどく耳障りな声。
権藤はまぶたを押し上げた。
まず目に飛び込んできたのは、錆びた鉄格子の縦線。
そして、鼻を突く湿った藁と獣の体臭。
「……あ?」
声を出そうとして、自分の喉から出た音の太さに驚愕した。
「無駄だ。お前は負けたんだよ。あの『光の勇者』にな」
頭の中に、もう一つの意識が同居していた。
それは、敗北の屈辱と憎悪にまみれた、獣のような男の残留思念。
『勇者に一撃で沈められた挙句、捕縛されて処刑待ちか。情けない。俺の体を乗っ取るのが、もう少し早ければな。精々、檻の中で震えて死ね……』
権藤は、瞬時に状況を理解した。
死んだ。そして、この「ゴンゾウ」とかいう、図体だけが取り柄の乱暴者の体に収まった。
思考の海に漂う政治家の魂は、内側から語りかけてくる粗暴な声を冷ややかに一蹴した。
(やかましい。黙れ、小僧)
『……何だと!?』
(ワシが誰だと思っている。法を捻じ曲げ、国を動かしてきた男だぞ。小癪な理屈でワシを揺さぶろうなど、百年早いわ)
権藤の――いや、新たな「ゴンゾウ」の精神が、内側の残留思念を圧倒する。
(死ぬ運命? 処刑? 結構なことじゃないか。逆境こそが、交渉のテーブルを最も熱くさせるスパイスだ。……消えろ。お前の低い視座では、ワシの政治手腕は理解できまい。黙って見ておれ)
圧倒的な「経験」の重圧。
永田町の闇で培われた老狸の意志が、粗野な盗賊の魂を瞬く間に侵食し、霧散させていく。
完全な沈黙。
ゴンゾウは、自分の太い腕を見つめた。
血管が浮き出た、岩のような筋肉。顔に触れれば、幾筋もの古傷が凹凸を作っている。
鏡はないが、相当な強面だろう。
だが、悪くない。
「暴力は、あくまで最後の手段。だが……隠し持っている分には、これほど心強いカードもないな」
ニヤリ、と。
かつて料亭で見せたものとは違う、肉食獣の笑みが口元に浮かんだ。
足音が聞こえてくる。
石造りの廊下を響かせる、軽やかで迷いのない足音。
牢獄の奥から現れたのは、一人の少年だった。
二十歳前後。
使い込まれているが手入れの行き届いた剣を腰に下げ、その瞳には一点の曇りもない正義の光が宿っている。
「……ゴンゾウ。目が覚めたのか」
「ひかりの、ゆうしゃ……か」
ゴンゾウは、掠れた声で呟いた。
脳内の「前オーナー」の記憶が、この少年への恐怖で震え上がる。
ヒデオ・オルブライト。
この世界の均衡を保つための「天災」そのもの。
だが、ゴンゾウの目は、少年の隙を逃さなかった。
真っ直ぐすぎる視線。
微かに震える指先。
悪党を捕らえたという達成感の裏にある、人を傷つけることへの、あるいは「悪」を理解できないことへの、無垢な戸惑い。
(なるほどな。チョロい。……あまりにもチョロすぎる)
政治家・権藤蔵人の「獲物」を定めるレーダーが、最大出力で反応した。
この少年は、人の善性を疑わない。
ならば、料理の仕方はいくらでもある。
「……殺せ。殺すがいい。勇者よ」
ゴンゾウは、重い体をずるりと床に滑らせた。
ただの倒れ方ではない。
最も「弱々しく、悲哀に満ちた、社会の犠牲者」に見える角度。
長年の謝罪会見のノウハウが、巨躯に似合わぬ繊細な動きを演出する。
「君のような光り輝く者に、ワシのような泥にまみれた男の言葉は届くまい。……くっ、ああ……っ!」
顔を覆い、肩を震わせる。
「ど、どうしたんだ。痛むのか? 傷なら、手当をするように言っておいたはずだが」
ヒデオが慌てて身を乗り出す。
「心の傷だよ、勇者どの。……ワシは、盗賊団の首領などではない。……ただの、福祉活動家だったのだ」
「……えっ?」
鉄格子の向こうで、ヒデオの目が点になる。
「あの村、覚えているか? 盗賊団が根城にしていた、あの貧しい村を。……ワシは、あそこの子供たちが餓死するのを見ていられなかっただけなのだ。彼らには、食べるものがない。国は見捨てた。ならば、ワシが、この忌々しい拳を使ってでも、彼らのパンを奪い取らねばならなかった……!」
ゴンゾウの目に、薄く涙が膜を張る。
これは演技ではない。
かつて地元選挙区の冠婚葬祭を回り、有権者の手を握りしめて「一緒にこの街を良くしましょう」と訴えてきた、本物の「情熱(という名の技術)」だ。
「ワシは、彼らに脅されていたのではない。彼らの……、いや、この世界の歪みに、ワシの正義が耐えられなかっただけなのだ。……ふふ、笑うがいい。法を犯した者は、どんな理由があろうと『悪』なのだからな」
「そんな……。君は、みんなを守るために……」
ヒデオの表情が劇的に変わる。
同情。共感。そして、自身の「正義」への疑念。
チョロい。
背筋が震えるほどに、この少年は「純粋」という名の暴力に無防備だ。
「ワシを裁け、勇者。だが、一つだけ約束してくれ。ワシが死んだ後、あの村の子供たちに……この、ワシの数少ない小遣いを……届けてやってほしい……。これで、一週間はスープが飲めるはずだ……」
ゴンゾウは、懐から「前オーナー」が剥ぎ取ったであろう、薄汚れた数枚の銅貨を取り出した。
それを震える手で差し出す。
「もういい! 言わないでくれ、ゴンゾウ!」
ヒデオが叫んだ。
その瞳には、すでに涙が溜まっている。
「君は悪人じゃない! 間違っていたのは、君を追い詰めたこの社会だ。……僕が、僕がなんとかする。君をこんな場所に置いておくわけにはいかない!」
「……いいのかね? ワシのような、薄汚れた男を」
「君は、僕が持っていない『本当の痛み』を知っている人だ。……お願いだ、ゴンゾウ。僕の力になってくれないか? 世界を救うためには、君のような、弱者の心に寄り添える軍師が必要なんだ!」
(……勝った)
ゴンゾウは心の中で、満開の桜の下で当選確実の報を聞いた時のように、高らかに万歳三唱を叫んだ。
「……勇者どのの、仰せのままに」
顔を伏せたゴンゾウの口角が、凶悪なまでに吊り上がった。
三日後。
「光の勇者」の強い要望と、一部の「適切な根回し(ヒデオの純粋さを利用した役人への圧力)」により、ゴンゾウは釈放された。
それどころか、勇者の「特別補佐官」という、実質的な参謀の地位を射止めていた。
「さて、まずは旅の資金の調達だな」
ゴンゾウは、支給された上等な外套を羽織り、街の雑踏を見渡した。
隣には、憧れの師を仰ぐような目でゴンゾウを見つめる、ヒデオがいる。
「ああ。魔王討伐の旅には、準備が必要だからね。でも、どうやって?」
「方法はいくらでもある。……ほう、あれを見ろ」
ゴンゾウの目が、街角の騒ぎを捉えた。
粗末な台の上で、一人の男が民衆に囲まれている。
「さあさあ! これが伝説の『光の勇者』ヒデオ様から、直接頂いた直筆サイン入りの魔除けのお札だ! 普段は金貨三枚だが、今日は特別に……おい、痛え! 殴るな! 離せ!」
男は、痩せ細った体に似合わぬ図々しい声を張り上げていたが、すぐに偽物だと見破られたらしい。
怒れる民衆に襟首を掴まれ、路地裏へ引きずり込まれようとしていた。
「詐欺師だ! 衛兵を呼べ!」
「待ってくれ! 俺には、病気の母ちゃんと、腹を空かせた七人の弟たちが……!」
「嘘をつけ! お前は昨日も同じことを言ってただろうが!」
ゴンゾウは、その男の様子をじっと観察した。
身のこなし、言葉の選び方、そして窮地に陥っても死んでいない、あの強欲な目。
(……使える)
「ヒデオ。あれを助けるぞ」
「えっ? でも、僕の名前を使って詐欺を……」
「いいか、ヒデオ。あれこそが『無知ゆえに道を誤った才能』だ。ワシが更生させてやろう。……おい、お前ら! そこまでにしろ」
ゴンゾウの巨体が、路地裏の空気を圧壊させる。
圧倒的な威圧感。
民衆は、本物の「怪物」が現れたことに恐怖し、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
残されたのは、泥だらけになった詐欺師の男。
「……へへ、助かったぜ。おっさん、いい体してんな」
男は、鼻血を拭いながら、ゴンゾウを見上げてヘラリと笑った。
「名は?」
「ルカ。見ての通り、明日をも知れぬフリーランスの商売人さ」
「ルカか。お前、さっきの『サイン』。あれを千枚、一晩で用意できるか?」
ルカの目が、鋭く細められる。
「……おっさん。もしかして、同業者か?」
「いや、ワシは『公職』にある者だ」
ゴンゾウは、隣にいるヒデオを指差した。
「こちらが、本物の光の勇者、ヒデオ・オルブライト卿だ」
ルカの顔が、一瞬で真っ青になる。
「ひっ……!? こ、殺さないでくれ! 悪かった、もう二度と……!」
「落ち着け、ルカ君。ワシが提案しているのは、ビジネスだ」
ゴンゾウはルカの肩に、岩のような手を置いた。
「本物の勇者が隣にいる。つまり、これから売るサインは、すべて『本物』ということになる。お前のその……いささか強欲すぎる商才と、ワシの権力、そして彼の『ブランド力』。これを掛け合わせれば、どれだけの利益が出るか、想像できるかね?」
ルカの動きが止まった。
恐怖が、急速に「計算」へと置き換わっていく。
「……本物の、サイン? 全部?」
「そうだ。利益の三割をお前の取り分にしよう。……どうだ、ワシの『手足』として、その図々しさを正しく使ってみる気はないか?」
ルカは、しばしゴンゾウの目を見つめた。
そこに宿る、清濁併せ呑む深淵。
「……へっ。面白いじゃねえか。あんたみたいな大物、滅多にお目にかかれねえ」
ルカは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「今日から、あんたを俺の『大旦那』と呼ばせてもらうぜ」
「話が早くて助かる。……さて、ヒデオ」
ゴンゾウは、困惑した表情の少年に、この上なく慈愛に満ちた笑みを向けた。
「これもすべて、世界平和のための資金集めだ。……さあ、サインを書いてもらおうか。まずは二百枚ほど」
「……うん。ゴンゾウがそう言うなら、きっと正しいことなんだよね」
夕暮れ時の街。
異世界の英雄と、永田町の亡霊と、街の詐欺師。
あり得ざる三人の影が、石畳の上に長く伸びていた。
ゴンゾウは、空を仰ぎ、かつて料亭で味わったものより、はるかに上質な「野心の香り」を、深く吸い込んだ。
「(まずは資金。次は……利権だな)」
巨漢の唇が、音もなく動いた。
その目は、すでにこの世界の「中心」を射抜いていた。
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「……で、結局そのマジックアイテムって何だったんですか?」
煙の収まりきらない砦の裏手。ツルハシが岩を穿つ甲高い音が響く中、ルカが壊れた皮袋をいじるように、
「……よし、悪くない」
裏庭に響く、鋭い風切音。
ゴンゾウは、木陰に腰を下ろし、ヒデオの剣筋を眺めていた。
一昨日の負傷が嘘のように、その動きにはキレ
風が防風林の枝を激しく叩き、甲高い鳴き声を上げ続けていた。
「……先生、ここしか空いてませんでした」
案内された宿の部屋は、壁の隙間から細い風が吹き込み、
「……なあ、お嬢ちゃん。一つ聞いていいか」
アルティナの街。火の手は収まり、代わりにあちこちから立ち昇る灰色の煙が、重く湿った空気に溶け込んでいた。
ゴンゾウ







