Synopsis
菊月明日香と、ちっちゃい明日香とちっちゃい冬華び久々に会うラルスたち!
Chapter1
陽光が石畳を白く焼きつける昼下がり。王都ヴァーレンスの裏通りは、風の止まった温室の底のような静けさに満ちていた。
ラルス=ローゼンベルグは、隣を歩くクラスメイトの歩幅に合わせて足を緩めていた。高嶺綾香。黒髪を背中で几帳面に切りそろえ、委員長特有の張りつめた空気を全身から放っている少女だ。腕には教員室から預かってきた分厚い出席簿と資料の束が抱えられている。
「……ねえ、ラルスくん」
綾香が正面を見据えたまま、硬い声を出す。茶色の瞳には、一切の隙を許さない真面目さが宿っていた。
「あなた、先刻から随分と落ち着いているのね。私と二人で歩いていて、少しも緊張していないみたい」
「そうかな」
ラルスは左目を覆う長い前髪を指先で少しだけ持ち上げ、路地の影を盗み見た。
「普通だと思うけど」
「普通じゃないわ」
綾香の靴音が、石畳を鋭く鳴らす。
「普通の男の子なら、もう少し態度に表れるものよ。視線が泳ぐとか、言葉が詰まるとか。あなたは……まるで、どこかの風景でも眺めているみたいな目をしてる」
「緊張はしてるよ」
「嘘ね」
即座に切って捨てられた。綾香の背筋が、竹のように真っ直ぐ伸びる。
「私、知っているのよ。あなたの家には……その、とてもお綺麗な女性がたくさんいらっしゃるんでしょう? 黒騎士のミレーヌ様もそうだし、水鏡様やカーラ様という方も……」
「美人と一緒にいること自体には、慣れてるだけだと思う」
ラルスは素直に事実を口にした。幼い頃から、視界を埋め尽くしていたのは規格外の美貌と、それ以上に規格外の理不尽さを抱えた大人たちだった。目の前でどれほど美しい少女が澄ました顔をしてみせようと、そこに「日常」以上の刺激を感じ取ることは難しかった。
綾香の眉が、わずかに吊り上がる。自尊心が微かに削られたような、苦々しい影が彼女の横顔を横切った。
「……そういうところが、本当に腹立つのよ」
低く呟かれた言葉は、角の果物屋から漂う甘い熟した桃の匂いに掻き消された。
そのときだった。
路地の行き止まり、積み上げられた空の木箱の影から、甲高い幼子の声が響いた。
「ちんちちんちちちーんちーん! ぽぽぽぽーん!」
「にゃにゅにゃるるるーるん! るるん!」
言葉の形を成していない、純粋な音の塊。ラルスは足をとめた。聞き覚えがありすぎる声だ。嫌な予感が胃のあたりを重く沈ませる。
綾香もまた立ち止まり、不審そうに眉をひそめた。
「何かしら、今の……子供の声?」
「高嶺さん。引き返した方がいいかもしれない」
「なぜ? 道ならここを抜けた方が学校への近道でしょう」
綾香はラルスの制止を聞かず、すいと木箱の影を覗き込んだ。そして、その姿勢のまま硬直した。
石畳の片隅。日陰になった場所に、二つの小さな影がしゃがみ込んでいた。
頭身はわずか二頭身。可愛らしい二部式の手甲と着物を身にまとった幼子たちだ。片方は橙色の髪を跳ねさせ、もう片方は艶やかな黒髪を揺らしている。
ちっちゃい明日香と、ちっちゃい冬華。
彼女たちは、道端に落ちていた乾いた木切れをそれぞれ手に握り締め、地面の真ん中に鎮座する「茶色い塊」を、一心不乱に突っついていた。
突っつくたびに、ぷすり、と小さな音が響く。干からびた犬の落とし物だ。
「……つっついた! 明日香、いま動いたぞ!」
「ほんとだー! 冬華のかーさんのより硬いー!」
「かーさんの塊はもっと黒いからのう!」
無邪気そのものの笑顔で、無慈悲に木切れを突き立てる二頭身の幼子たち。
綾香の腕から、ぽろりと資料が一枚落ちた。彼女の顔から、すべての血色が失われていく。
「な……な……なになに、あの子供たち……何をしているの……!?」
「見ない方がいい」
ラルスは深く息を吐き出し、落ちた紙を拾い上げた。
「あの子たちの趣味なんだ。道端の……そういうのを突っつくのが」
「趣味!? こんな……こんな汚いものを!? どこの子!? 親は何をしているの!?」
「僕の妹だよ。母違いの」
「はい!?」
綾香の金切り声が、路地に跳ね返った。
その声に反応して、二頭身の首が同時にくるりと回る。小さな四つの目が、ラルスと綾香を捉えた。
「あ! モハエレの子供おる!」
「モハエレの子おるねえ! おいでおいでー! これ、すっごく良い硬さだぞー!」
「行かないよ」
ラルスは即座に拒否した。
「高嶺さん、本当に行こう。あの子たちに捕まるとロクなことにならない」
「待ちなさい……!」
綾香は混乱に目を白黒させながらも、持ち前の真面目さを捨てきれず、しゃがみ込む幼子たちへ歩み寄ってしまった。
「あなたたち、そんなものを触ってはダメでしょう! 病気になったらどうするの! ほら、その棒を捨てなさい!」
風紀委員のような厳格さで怒鳴りつける綾香。しかし、ちっちゃい明日香は、きょとんとした顔で綾香を見上げると、手に持った棒を自慢気に突き出した。先端には、干からびた塊の破片がしっかりと付着している。
「これ、たいようのスイカより硬いの!」
「……え?」
「昨日、たいようでピクニックした時、スイカ食べたの! でも、この茶色いのの方が硬い!」
「た、太陽……? スイカ……?」
綾香の思考が完全に途絶えた。言葉の意味を拾い上げようとするたび、現実の輪郭がぐにゃりと歪んでいく。
「そうだぞ」
背後から、爽やかな女の声が降ってきた。
橙色の髪をポニーテールに結い上げ、背中に二本の刀を背負った女性が、ひらりと木箱の山の上から飛び降りてきた。桃色のドレスとブーツという独特の出で立ち。口元には、王都の名物である焼き立てのクレープが咥えられている。
菊月明日香。
「ボクも一緒にいたけどさあ、太陽の表面で食べる冷やしスイカは絶品だったぞ。ミハエルが飛んできた時は驚いたけどな」
「明日香さん……」
ラルスは額を押さえた。また父がろくでもない事態に巻き込まれ、そしてそれを家族全員で遊戯に変えていたのだと瞬時に理解した。
綾香は、突如現れた二刀流の美女と、その口から出た狂気じみた単語の羅列に、完全に言葉を失っていた。
「あ、あなた……誰ですか……? 太陽でピクニックって、そんな冗談……」
「冗談じゃないぞ?」
明日香はクレープを一口で平らげると、悪戯っぽく笑った。
「ボクの旦那――つまり、そこのラルスの父親がさ、エウメネスって書記官に太陽まで蹴っ飛ばされたんだよ。で、ボクらはちょうどそこでこの二人のわんぱくどもと太陽海水浴を楽しんでたわけさあ」
「はい……? 太陽で海水浴……?」
綾香の膝がガクガクと震え始める。彼女の常識という城壁が、一幕ごとに粉々に砕かれていく。
「高嶺さん」
ラルスが静かに追撃を試みた。
「諦めた方がいい。明日香さんは、こう見えて僕の父さんの嫁の一人だ。猿田彦流剣術の達人で……うちの冬華さんによると、あのサリサさん――白銀の脚を持つ獣人の足技より、ただ単純な踏み込みの速度を比べるなら、明日香さんの方が上らしい」
「……サリサ様って、あのヴァーレンス最強の武人と言われる十二支神獣族の……?」
「光縮地っていう技術を使うんだ。光の力で距離を無視して動く」
「な……」
「そして、その下にいる二人のちびっ子」
ラルスは、未だに棒で犬の糞を突き回している幼子たちを指差した。
「生まれつき、父さんや冬華さんと同じレベルの霊気を持ってる。有性生殖を超えた産霊の理で生まれた存在で……片手でこの星を丸ごと爆破できるだけの力があるんだ。今の新世代の中で、才能という言葉を当てはめるなら、間違いなくこの二人が頂点にいる」
綾香は、ゆっくりと目線を下ろした。
片手で星を破壊する力を持った、世界の頂点に立つ無敵の存在。
それが今、目の前で、嬉々として犬のフンに棒を刺している。
「……あ……あう……」
綾香の口から、情けない漏れ声が零れた。
「なぜ……なぜそんな凄い力があって……それを……そんな……う〇こを……!?」
「趣味だからね」
冷ややかな、しかしどこか諦哀に満ちた声が路地の入口から届いた。
水鏡冬華だ。
巫女装束の袖を風になびかせ、足袋の音も静かに歩いてくる。その隣には、黒い仕立ての良いコートを纏った長身の男――ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ公爵の姿があった。
「冬華さん。父さん」
ラルスが短く声をかける。
冬華は手に持った小さな紙袋から煎餅を取り出し、ポリポリと齧りながら、しゃがみ込む幼子たちを見下ろした。その美貌には、酸いも甘いも噛み分けた歴史の重みと、それ以上に深い疲弊が刻まれている。
「わたしもね、何回もしつけたのよ。神社境内でそれをするな、外で見つけても突っつくな、って。でもね、ダメ。次元を越えて宇宙を飛び回るくせに、路地のフンだけは目ざとく見つけるの。もう頭病めそう~~~~」
「ははは! 元気で良いことじゃないか」
ミハエルが豪快に笑いながら、ラルスの頭をぽんぽんと撫でた。
「ラルス、学校は終わりか? 高嶺の嬢ちゃんも一緒とは、珍しい組み合わせだな」
「あ……公爵、様……」
綾香は慌てて膝を正そうとしたが、あまりの立ちくらみに倒れそうになり、抱えていた資料を地面に撒き散らしてしまった。
「あ、あっ……すみません、私、生徒の模範となるべきなのに、こんな……!」
半泣きになりながら、地べたに這いつくばって紙を拾い集める綾香。
ミハエルは嫌な顔一つせず、自身も膝をついて散らばった紙を手際よく拾い上げた。その指先からは、微かに太陽の炎の残香――金色の光の粒子がさらさらと零れ落ち、石畳の上で消えていく。
「気にするな、高嶺の嬢ちゃん。人間、転ぶこともある。わたしだって昔、学校で泥をかぶったことがあるからな」
「え……?」
「まあ、わたしの場合は自ら泥の中に飛び込んで『わたしが漏らしましたー!』と叫んだわけだが」
「……はい?」
綾香の動きが完全に止まった。公爵の言っている意味が、一字一首理解できない。
「父さん、その話は高嶺さんには刺激が強すぎる」
ラルスが苦笑しながら手を差し伸べ、綾香の手から紙束を引き取って綺麗に揃えた。
そのとき、ちっちゃい冬華が木切れを放り出し、とてとてと綾香の足元へ寄ってきた。そして、濡れたような瞳で綾香を見上げると、ぽつりと呟いた。
「おねえちゃん、オットセイの真似できる?」
「……っ!?」
綾香の全身が、雷に打たれたように跳ね上がった。
顔面が朱に染まる。耳の先まで、火がついたように真っ赤になった。
「な、なななな何のことかしら!? オットセイ!? 私、そんなこと、誰もいない教室で一人で『オウ! オウ!』なんて叫びながら手をパタパタさせたことなんて、絶対に、一度たりともありませんわ!!」
誰一人として尋ねていない詳細を、己の口から一息に捲し立てる綾香。
場に、気まずい沈黙が流れた。
ちっちゃい明日香が、首を傾げて言った。
「誰も言ってないぞ?」
「あ……」
綾香は自分の口を手で塞いだが、時すでに遅しであった。
冬華は煎餅をかみ砕きながら、哀れみの視線を綾香に向けた。
「……若さねぇ。恥ずかしさで死にたくなるような黒歴史は、若いうちに作っておくものよ。大丈夫、誰も気にしないわ。わたしなんて幕末の頃、脱ぎ麻雀で負けて――」
「冬華、それ以上は教育上よろしくない」
ミハエルが苦笑いで冬華の肩を叩いた。
ラルスは、真っ赤になって地面にへたり込む綾香を見つめ、静かに吐き捨てた。
「高嶺さん。人生には、そういう日もあるよ」
「……あなた……知っていたのね……! やっぱり、あの日のこと、見ていたのよね……!」
綾香は血の涙を流さんばかりの瞳でラルスを睨みつけた。
「言わないよ。誰にも」
「言ってるじゃない! 今、ここで、この化物みたいな天才一家の前で暴露されたじゃない!!」
「僕じゃない、あの子が言ったんだ」
ラルスがちっちゃい冬華を指差すと、当の幼子は満足そうに「オウ! オウ!」と拍手をしてみせた。完璧なオットセイの模倣であった。
その瞬間、ちっちゃい明日香が空中でくるりと一回転した。
「やる気ないんなら帰んな!」
「えっ」
綾香が呆然と声を漏らす。
「帰ります!」
「帰ります!」
二頭身のふたりが、同時に叫んだ。
空間が歪む気配すらなく、霊気の乱れひとつ残さず、二人の姿が消え去った。神速を超えた、理そのものを無視した転移。
「あ、また逃げたわねあのわんぱくども。明日香、追いかけるわよ」
「おう! 今度は月の裏側まで行ったっぽいぞー!」
菊月明日香と水鏡冬華は、風のように路地の奥へと走り去っていった。明日香の背中の二本の刀が、陽光を受けて一瞬だけ強く煌めいた。
残されたのは、静まり返った裏通りと、地上にぽつんと残された一本の木切れ。そして、完璧な失意の底に沈む高嶺綾香。
ミハエルはコートの裾を払って立ち上がると、爽やかに微笑んだ。
「さて、わたしも黒騎士団の書類仕事に戻るとするか。ラルス、嬢ちゃんをちゃんと学校まで送っていきなさい」
「うん。わかってる」
ミハエルが去り、路地にはラルスと綾香だけが取り残された。
昼下がりの風が吹き抜け、果物屋の甘い匂いを運んでくる。
綾香は地面に座り込んだまま、消えてしまった幼子たちが残した「木切れ」を、虚ろな目で見つめていた。
「……ねえ、ラルスくん」
消え入りそうな声だった。
「私……今日から、どうやって学校で生きていけばいいのかしら」
「笑えばいいと思う」
ラルスは腕の中の資料を抱え直し、手を差し伸べた。
「高嶺さんは文武両道で、真面目で、みんなの模範だから」
綾香はその手を一瞬見つめ、悔しそうに唇を噛み締めながら、自力で立ち上がった。服についた埃を、パンパンと乱暴に払う。
「……当然よ。私は高嶺綾香だもの。こんな……こんな理不尽な一家の戯言に、いちいち惑わされたりしないわ」
凛とした姿勢を取り戻そうとする綾香。だが、その耳根はまだ赤く染まったままだ。
「ただ……一つだけ約束しなさい」
「何を?」
「今日のことは……あのオットセイのことは、一生、誰にも言わないこと」
ラルスは少しだけ首を傾げ、前髪の隙間から綾香を見つめた。
「忘れないよ。高嶺さんは文武両道で真面目なクラスメイトで……あと、オットセイの真似が上手い人だから」
「忘れなさい!!!!」
ヴァーレンスの静かな裏通りに、少女の叫び声が響き渡った。
ラルスは小さく息を吐き、突き出された棒の残骸を踏み越えて、学校への道を歩き始めた。
宇宙の破滅も、太陽のピクニックも、そして少女の小さなプライドも、この街の陽光の下ではすべて等しく、くだらなくも愛おしい日常の一コマに過ぎなかった。







