Synopsis
地下牢獄の泥水の中で、殺害された悪徳貴族ガルドの身体で覚醒したアルティスは、脳内に残るガルドの記憶と、自らの前世(英雄ルシアン)の最期の記憶が合致することに気づく。ルシアンを背後から刺したのは魔王の残党ではなく、自らが最も信頼していた聖騎士団内部の刃であり、ガルドはその罪を被せるために用意された「都合のいい容疑者」に過ぎなかった。
Chapter1
喉の奥に、鉄と腐葉土の味が粘りついていた。
咳き込むたび、あばら骨の根元が軋む。肺の空気を吐き出す拍子に、顔面が冷たい泥水へ落ちた。水面に浮いたカビ臭い藁くずが鼻孔に入り込み、激しい嘔吐感が胃を突き上げる。
視界の端に映るのは、苔の生えた濡れた石壁。手首にはめられた重い鉄輪が、皮膚を擦り切って鈍い痛みを送ってくる。
(……浅い)
呼吸が浅い。胸郭が余計な肉で重く、意図した通りの深さまで息が届かない。
自分の手を見る。泥と凝固した血にまみれたその指は、剣ダコで皮膚が硬質化した以前の記憶とはまるで異なっていた。脂じみて太く、爪の間に黒い垢が詰まっている。節々には怠惰な生活が刻んだ弛緩した肉がまとわりついている。
悪徳貴族、ガルド・ヴァルハイトの身体。
脳の奥底で、二つの記憶が渦を巻いていた。
一つは、この怠惰な肉体が直前に辿った顛末。暗い小部屋。酒の匂い。突如として項垂れる頭部。背後から首筋へ打ち込まれた短剣の冷たさ。
もう一つは、白銀の甲陣の中、吹雪のなかで絶たれた意識の断片。光の英雄と呼ばれ、魔王を討ち倒した男、ルシアンとしての最期。
ガルドの記憶が、最期の瞬間を鮮明に再生する。
ガルドを背後から刺し殺した男。そいつの袖口から漂っていたのは、聖都特有の白檀を混ぜた清廉な香油の匂いだった。刺突の角度。正確に頚動脈を外し、声を出させずに息の根を止める無駄のない所作。
それは、魔物の荒々しい殺し方ではない。
洗練された聖騎士団の暗殺術だ。
「……く、ふ……」
喉の奥から、かすれた笑い声が漏れた。
泥水をすすりながら、両手で顔を覆う。
ルシアンとしての記憶が、酷く鮮やかに合致していく。
あの戦場の果て、背後から胸を貫いてきた冷たい鋼。魔王の残党による不意打ちと処理されたはずの死。だが、あの時、自分の背後に立ち得た者は数えるほどしかいなかった。
信頼していた部下たち。共に血を流した聖騎士団の同胞。
ガルド・ヴァルハイトは、ルシアンを殺した犯人として捕らえられた。
この男は単なる強欲な貴族であり、ルシアンの遠征資金をかすめ取っていた小悪党に過ぎない。政治的なスケープゴート。英雄の死という巨悪の穴を埋めるために用意された、申し分のない「醜悪な容疑者」。
本物の刺客は、聖騎士団の内部にいる。
ルシアンを殺し、ガルドにその罪を着せ、自らは清廉な遺志を継ぐ者として光の真ん中に立ち続けているのだ。
頭上の高窓から、斜めに細い光が差し込んでいる。
光の角度と、石壁に刻まれた湿気の輪紋。外から聞こえる聖都の鐘の音。
朝の正義の鐘が一度。昼の祈りの鐘が二度。
ガルドの記憶にある裁判の日程と、この牢獄の管理周期を照らし合わせる。
鐘の鳴る回数、光の移動速度。それらが示す事実は一つ。
処刑まで、あと三日。
八方塞がりという言葉すら、生ぬるい。
「自分は殺された英雄ルシアンの生まれ変わりだ」と叫んだところで、悪徳貴族ガルドの狂気と処理され、舌を抜かれて終わりだ。
かといって、黙って裁判を待てば、予定通り首切り台の上で斧を振り下ろされる。
どちらを選んでも、待っているのは冷たい地中の闇だけだ。
「……くだらん」
冷たい石の床に額を押し付け、乾いた唇を歪める。
かつての自分。光の英雄ルシアン。
国家のために、民のために、正義という都合の良い旗のために、命を投げ出したおめでたい男。
戦場で死んでいった部下たち、名もなき兵士たちの顔と名前を全員分暗記し、その重みに押し潰されそうになりながら、最後は味方の裏切りによって泥のように捨てられた。
殉教者。実に美しい言葉だ。
死者となれば批判も言い訳も言わない。残された者たちが都合よく神格化し、自らの権力を固めるための無傷の看板として利用するには最適の素材。
あんな死に方は、一度で十分だ。
今度の自分は、泥塗れの悪徳貴族だ。
誰からも望まれず、誰からも憎まれ、殺されて当然と吐き捨てられる豚の肉体。
(二度と、誰かの書いた台本で死んでやるものか)
喉の痛みを押し殺し、身体を起こす。
弛んだ肉が重く抵抗するが、意識の糸を張り巡らせ、手足の感覚を一つずつ繋ぎ直していく。
牢獄の備品を確認する。
身に着けているのは、血と泥で汚れた破れかけた絹のシャツと、上質な仕立てのズボン。
ポケットはすでに脱獄防止のために改められているが、ガルドという男の業の深さは、看守たちの雑な捜索を上回っていた。
右足の靴底。重厚な革の間に、小さな違和感がある。
脱ぎ捨てた靴の踵を叩きつけると、薄い空洞の音が響いた。革の隙間に指を突っ込み、探り当てる。
出てきたのは、指先ほどの小さな蠟の塊。
それを体温で温め、崩していく。中から現れたのは、磨き抜かれた小さな鍵と、折りたたまれた羊皮紙の切れ端。
ガルドが万が一の保身のために隠し持っていた、聖都の暗部との取引を記したメモの破片。それと、彼が私有していた秘密金庫の鍵だ。
こんなものは、今の状況を直接打開する力にはならない。
だが、使いようによっては、敵の喉元に突きつける偽りの刃にはなる。
次に、この牢獄そのものに目を向ける。
壁の隙間に落ちている、錆びついた鉄くぎ一本。
食事用の木皿の破片。
水たまりの底に沈んでいる、粗悪な麻縄の切れ端。
手元にあるのは、ゴミと同義の小道具と、二つの人生の記憶。
そして、残り七十二時間という時間。
鉄格子の上から、足音が近づいてくる。
足取りは重く、甲冑の滑りが悪い。新兵か、あるいは酒の抜けていない泥棒上がりの看守。
アルティスは深呼吸を一つし、ガルドの身体の「声」を確かめた。
かすれ、濁り、酷く醜い声。
だが、その声に乗せる言葉の精度は、前世のどの戦略よりも鋭く研ぎ澄ませなければならない。
泥を掬い、己の顔に塗りたくる。
完璧な絶望に打ちひしがれた愚者の面を被りながら、内側の意識だけは極寒の氷のように冴え渡っていく。
生き残るための、最初の嘘を組み立てる。
死肉に群がる蝿どもを躍らせるための、毒入りの餌を。
脚の筋肉を緊張させ、牢獄の扉の前で荒い息を吐き始めた。
看守の影が、鉄格子を遮った。
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