Synopsis
食材がマフィアの危機にさらされる! そしてそれよりきつい脅威が!
Chapter1
王都ヴァーレンスの昼下がりは、いつも穏やかな熱気に満ちている。
石畳の路地に漂うのは、焼き立てのパンの匂いと、どこかの家庭で煮込まれているスープの香り。大通りから一本入った場所にある食堂『銀の匙亭』の店内は、昼食を求める人々で席が埋まりかけていた。
木製の丸テーブルを囲むのは、少々奇妙な大帯だ。
「……またこの席なのか」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ公爵は、運ばれてきた冷たい麦茶のグラスを見つめ、小さく息を吐き出した。仕立ての良い黒の外套が、大衆食堂の素朴な椅子には些か不釣り合いに見える。
彼の隣では、漆黒の翼を持つ女――ブラックヴァルキリー・カーラが、すでにそわそわと箸をいじっていた。その隣には、青いドレスの袖を整えるスーと、赤いドレスの胸元を軽くはだけさせたヤヌの双子。さらに、風の精霊シルフィードが卓上をそよ風のように舞い、アマオカミ家の次女ユエリシアが長い黒紫色の髪をかき上げている。
騎士団のクロード=ガンヴァレンとサミュエル=ローズの二人は、対面に座って妙に緊張した面持ちでメニューを眺めていた。
「サミュエル」
クロード=ガンヴァレンが声を潜める。
「今日の同行者は……あの男なんだろう?」
「ええ。残念ながら」
サミュエルはすでに、懐から小さな木箱を取り出していた。蓋を開けると、中には柔らかいシリコン製の耳栓が並んでいる。
「クロードさん、これを持って。命綱ですよ!」
「……そこまで?」
「侮ってはいけないわ。今日はあなたにリベンジする余裕はないわミハエル。精神の健康を保つための必需品よ」
ヤヌがそのやり取りを黄金の瞳で面白そうに眺め、ふっと普通の食事をあきらめた笑みを浮かべた。
「でも何よそれ。ヴァーレンスの騎士様ともあろうお方が、耳栓なんておもちゃを持ってビクついているわけ? カイアスの闘技場じゃ、鼓膜が破れるほどの歓声の中で戦い抜いたものだけど」
それでも煽るのは忘れない。
「そう。耳を塞ぐ必要などない」
スーもまた、銀の瞳を静かに細めて同意する。
ミハエルは半眼になり、カーラの様子を見た。彼女はすでに、自分の耳孔に耳栓を迷いなく押し込んでいる。こちらの視線に気づくと、黒い翼を軽くはためかせ、親指を立ててみせた。完璧な防音態勢である。
「カーラ、君は戦乙女の誇りをどこに捨ててきたんだ~」
ミハエルが呆れたように呟くが、カーラには聞こえていない。ただ、早く食い物が来ないかと卓上を見つめている。
そこへ、店員が弾んだ声と共に大きなお盆を運んできた。
「お待たせしました! 本日の特製、地鶏と冬野菜のクリームシチューです!」
湯気が一気に立ち上る。
濃厚な乳製品の香りと、鶏の出汁が混ざり合った匂いが鼻腔をくすぐった。
「うわあ、美味しそう!」
ユエリシアが目を輝かせる。
周囲の客たちも一斉にスプーンを動かし始め、あちこちから「美味い!」「コクがあるな!」といった歓声が上がった。
だが、この賑やかな空気の中に、一人だけ微動だにせず皿を見つめる男がいた。
川山米太。
30代前半の、こざっぱりとした、しかしどこか神経質そうな佇まいの料理評論家だ。
米太はスプーンを取り、シチューの表面を静かにすくった。
一度、香りを嗅ぐ。それから、ゆっくりと口に含む。
咀嚼の音が、妙に明瞭に聞こえた。米太の眉間が、わずかに寄る。彼は喉を鳴らして飲み込み、さらに二口目を運んだ。
「……なるほど」
その一言が落ちた瞬間、隣のテーブルの客が、スプーンを持つ手を止めた。嫌な予感が店内の空気を急速に冷やしていく。
「まず、牛乳の選択が悪いな」
低く、しかしよく通る声が響いた。店員が足を止め、振り返る。
「えっ……?」
「この料理、素材そのものは上質だ。ヴァーレンス特有の、霊気の豊かな土地で育った地鶏と新鮮な野菜を使っている。だが、使っている牛乳の乳脂肪分が高すぎる。そのせいで、せっかくの香味野菜の繊細な甘みが完全に覆い隠されてしまっている」
米太はスプーンを皿の縁に置き、淡々と語り続けた。
「それから、玉ねぎの処理だ。炒め方が非常に中途半端。甘味を極限まで引き出したいのか、あるいはシャキシャキとした食感を残したいのか、調理の方向性が曖昧極まりない。中途半端な加熱のせいで、スープに余計な水分とえぐみが逃げ出している」
「あ、あの……」
店員の顔が引きつり始める。
「極めつけは鶏肉だ。煮込みすぎている。肉の繊維がすっかり崩れてしまっている。世間一般ではこれを『柔らかい』と評するのかもしれないが、表現として正しくない。単に繊維が煮崩れて、旨味がスープの塩分に押し流された出涸らしだ」
静まり返る店内。周囲の客たちが、そっと自分の耳に手をやり始めた。一人、また一人。懐から取り出されたのは、見覚えのある耳栓だ。
カチャッ、と小さな音が響く。隣の席の老紳士が、慣れた手つきで耳栓を奥まで押し込んだ。
「そもそも、ヴァーレンスの豊かな土壌に甘えた料理人の怠慢が――」
米太の熱弁は止まらない。ミハエルのテーブルでは、クロードが顔を青くしてサミュエルから手渡された耳栓を装着していた。
ヤヌは最初、不愉快そうに米太を睨みつけていた。
「……? ちょっと、あんた。人が美味しく食べてる時に、そんな能書きを――」
言いかけたヤヌの口を、スーが素早く手で塞いだ。スーは無言で、サミュエルが差し出してきた予備の耳栓を受け取り、自分の耳とヤヌの耳に無理やり押し込む。
「んむ……!? んんっ!」
ヤヌが抗議の声を上げるが、スーはただ首を横に振った。
(聞くだけ無駄。長くなる)
スーの目がそう語っていた。風の精霊シルフィードもまた、耳を塞いで食べている。
ユエリシアだけが、耳栓をせずに米太の言葉をじっと聞いていた。彼女自身、料理に関しては人一倍のこだわりがある。
「ねえ、ミハエル。あの人の言ってること、結構的を射てる気がするよ」
「ああ」
ミハエルは耳栓をせず、冷めた目で米太を見つめていた。
「言うことは極めて正しい。
だが、致命的に空気が読めない。
その上、一度話し始めると長い。だから被害者が出る」
店員が涙目で、ミハエルのもとへやってきた。
「公爵様……あの、川山様が来られる日は、本当に耳栓の貸し出しが三倍になるんです。うちは食堂であって、料理教室じゃないのに……」
「災難だな。だが、彼を止めるのは呪禁道でもできんぞー! 物理的に口を塞ぐほかないが、彼はこれでも本物の技術を持っているから厄介なのだ」
その時、厨房の奥から、顔を真っ赤にした頑固そうな料理長が飛び出してきた。手に巨大な泡立て器を握りしめている。
「おい! さっきから聞いてりゃあ、好き勝手言ってくれるじゃねえか!」
料理長が米太のテーブルを叩いた。
「うちのシチューは、この王都で20年愛されてきた味だ! 文句があるんなら、自分で作ってみやがれ! 口先だけの評論家に、うちの厨房の火が扱えるか!」
「そのやってみろ理論は危ないぞー」
ミハエルはそううめく。
食堂中の客が、耳栓をしたまま「おお」と身を乗り出した。米太は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷徹な目を料理長に向けた。
「いいだろう」
短い返事だった。米太は席を立ち、上着を脱いでサミュエルの隣の椅子に掛けた。白いシャツの袖を、肘の上まで正確に折り返す。
「素材と器具をそのまま使わせてもらう。同じ条件でなければ、君の怠慢を証明できないからな」
「言ってろ! 厨房は奥だ、ついてきやがれ!」
二人が厨房へと消えていく。ユエリシアが真っ先に立ち上がった。
「わたし、見てくる!」
「おっと、私も行こう。退屈しのぎにはちょうどいい」
ミハエルも腰を浮かせた。ヤヌとスーは耳栓を外そうとしたが、サミュエルが「まだです、まだ外してはいけません。戻ってきたらまた始まります」と必死に手振りで制した。
厨房は、熱気と油の匂いに満ちていた。中央の調理台には、先ほど使われたのと同じ地鶏のモモ肉、玉ねぎ、人参、そして王都郊外の牧場から仕入れた濃厚な牛乳が置かれている。
米太は調理台の前に立つと、まず包丁を手に取った。その瞬間、彼の雰囲気が変わった。先ほどまでの理屈っぽい男の気配が消え、極限まで研ぎ澄まされた職人の塊となる。
トントン、トントン、トントン。
まな板を叩く音が、極めて規則正しいリズムで刻まれる。
玉ねぎを切る刃の角度。繊維に対して完全に並行だ。
「……早い」
後ろから覗き込んでいたユエリシアが、思わず声を漏らした。彼女も包丁さばきには自信があるが、米太のそれは無駄な動きが一切ない。まるで刃物が吸い込まれるように、均一な厚みで玉ねぎがスライスされていく。
「玉ねぎの甘味をスープに溶かし込みつつ、具材としての存在感を残す。そのためには、切る厚さを均一にしなければ火の通りに斑ができる」
米太は解説しながら、地鶏の肉に手を伸ばした。余分な黄色い脂身を素早く削ぎ落とし、一口大に切り分ける。
「地鶏の肉は水分が少なく、繊維が緻密だ。だから、強火で一気に表面を焼き固め、旨味を閉じ込める。その後は予熱で火を通す。最初からスープの中でぐつぐつと煮込むなど、肉に対する虐待だ」
フライパンに少量のバターが落とされる。
じゅわっ、と弾けるような音が響き、芳醇な香りが厨房を満たした。
米太は地鶏の皮目を下にしてフライパンに並べる。小気味よい音が響き、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上った。
料理長の顔から、次第に赤みが引いていく。米太のフライパンの動かし方、火力の調整、すべてが完璧だった。
「そして、問題の牛乳だ」
米太は鍋を取り出し、牛乳を注いだ。そこに、細かく刻んだ香味野菜の端材を入れ、ごく弱火で温め始める。
「乳脂肪分の高い牛乳は、そのまま使うと重すぎる。だから、事前に香味野菜の香りを牛乳に移し、かつ余分な水分を飛ばしてコクの質を変える。これで、スープと合わせた時に野菜の甘味と喧嘩せず、調和する」
無駄のない所作で、ホワイトソースが仕上げられていく。ダマなど一切ない、滑らかな絹のようなソースだ。
焼き上がった鶏肉と、完璧に飴色の一歩手前まで炒められた玉ねぎが、ソースと合わせられる。ほんの数分、鍋が静かに揺すられた。
「完成だ」
米太が火を止めた。皿に盛り付けられたシチューからは、先ほどのものとは明らかに異なる、澄んだ、しかし驚くほど深い香りが立ち上っていた。
料理長は吸い寄せられるように皿に近づき、スプーンを取った。震える手でシチューをすくい、口に運ぶ。
「……っ」
料理長の動きが止まった。目を見開き、信じられないというように皿を見つめる。
「なんだ、これ……。同じ材料だぞ……? なんで、こんなに野菜の甘味が引き立っているんだ。鶏肉も、弾力があるのに驚くほどジューシーだ……」
「言ったはずだ」
米太は冷たく言い放ち、エプロンを外した。
「問題は素材じゃない。扱い方だ。料理は作り手の傲慢や怠慢をそのまま映し出す鏡だ。君が『これでいい』と妥協した瞬間、料理は死ぬ」
料理長は力なくスプーンを落とし、調理台に両手をついた。その背中は、完全に敗北を認めていた。
「すごいね……」
ユエリシアがため息をつく。
「わたしも料理は得意だけど、ここまでの緻密さは真似できない。魂の格が違うみたい」
「うるささの格も違うけどな」
ミハエルは腕を組み、面白そうに顎を引いた。
「これほどの腕がありながら、普段は文句ばかり言っているのだから、やはり性格に難があると言わざるを得ないが」
一同が食堂の席に戻ると、店内の客たちはまだ耳栓をしたまま、固唾をのんで待っていた。ヤヌとスーは、戻ってきた米太の顔を見て、ようやく耳栓を外した。
「ねえ、本当に作ったの?」
ヤヌが尋ねる。
「ああ。当然だ」
米太は席に戻り、自分の分のシチューを一口食べ、小さく頷いた。
「まあ、及第点だな。器具が使い慣れていない分、わずかに熱の通りに狂いが生じたが、元の劣悪なシチューよりはましだ」
「相変わらず手厳しいな」
ミハエルが苦笑しながら、自分の分のシチューにスプーンを伸ばす。一口食べると、その目の奥に微かな驚きが走った。
「なるほど、美味い。雑味が一切消えている。これなら、魂の欠片を払う価値もあるというものだ」
カーラもまた、耳栓を外してシチューを口に運んだ。その瞬間、彼女の黄金の瞳が大きく見開かれた。
「美味い! なんだこれは、先ほどのものと全く違う! 濃厚なのに、後味が驚くほど軽い。これならいくらでも食べられるぞ! 耳栓するけどてめえうるさいから!!!!」
「正直でよろしい、カーラ。耳栓は必要だな」
「うむ。この男の講釈は、美味いものを食べる時の邪魔になる」
カーラは悪びれもせず、スプーンを高速で動かし始めた。クロードとサミュエルもまた、恐る恐るシチューを口にし、その味の劇的な変化に言葉を失っている。
「……確かに、これは凄い」
クロードが呟く。
「あの頑固な料理長が、奥で落ち込んでいる理由が分かりました」
食事を終え、会計の時間がやってきた。店員が、まだ少し引きつった笑顔で伝票を持ってきた。
「お会計、1人魂3欠片になります」
「私の分は私が払おう」
米太は言い、右手の指先を左手のひらに軽く当てた。微かな青白い光が、彼の指先から零れ落ちる。
霊波動によって、彼自身の魂の極めて微小な一部が切り離され、小さな光の結晶となって掌の上に浮かび上がった。
ふわっ、と浮遊する三つの光の欠片。
「三つだ」
米太がそれを差し出すと、店員は恭しく受け取った。
「確かに。ありがとうございます」
その光景を、ヤヌとスーが興味深そうに見つめていた。
「本当に魂で払うんだねヴァーレンスって」
ヤヌが言う。
「カイアスじゃ、金貨や奴隷の取引が当たり前だったけど。ここは本当に変わった国だわ」
「そう。合理的だけど、少し奇妙」
スーも同意する。米太は指先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……この店、料理の技術はともかく、この会計システムは実に合理的だな。無駄な中間搾取がない」
店員がピクリと眉を動かした。
「……川山様。今、『料理の技術はともかく』とおっしゃいました?」
「事実を言ったまでだ」
米太は平然と上着を羽織り、店を出ようとした。
ミハエルたちがそれに続く。食堂の客たちは、ようやく耳栓を外し、大きく息を吐き出していた。
店を出たところで、クロードがサミュエルに小声で尋ねた。
「サミュエル。さっきの『対策三点セット』というのは本当なのか?」
「ええ、クロードさん」
サミュエルは真面目な顔で頷いた。
「この王都の飲食店には、共通の『川山米太対策三点セット』があります。耳栓、メモ帳、そして味覚に自信がある人です」
「なぜメモ帳が必要なんだ?」
「彼の言う指摘は、腹が立ちますが内容自体はほぼ100パーセント正しいのです。だから、料理人たちは悔しがりながらもメモを取る。しかし、真に受けすぎて彼に質問などしようものなら、2時間は解放されません」
「……だから、耳栓が必要なのか」
「そういうことです」
二人の会話を後ろで聞いていたヤヌが、くすくすと笑った。
「変な奴。でも、ただのうるさい批評家じゃないってことは分かったわ。少しは骨があるじゃない」
「そう。技術は本物」
スーもまた、米太の背中に冷ややかながらも一定の評価を込めた視線を送った。
王都の穏やかな風が、一行の髪を揺らす。米太は一人、少し先を歩きながら、静かに呟いていた。
「……料理は、その人間の生き方そのものを映し出す」
彼の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「だから、どれだけ不味い料理に出会っても、やめられない」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、午後の光の中に溶けていった。ミハエルはその後ろ姿を見つめながら、やれやれと首を振った。
「さて、次の店ではどんな嵐が巻き起こるのやら。お供する側の身にもなってほしいものだがね」
「私は構わんぞ」
カーラが翼を広げた。
「美味いものが食えるなら、耳栓の予備はいくらでも用意する」
賑やかな声と共に、彼らは王都の人混みの中へと消えていった。
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