論理崩壊の放課後
Synopsis
「君の価値は、ほぼゼロだ」
数値ですべてが決まる私立海星学園。
価値係数0.03%――机や椅子と同じ「背景」扱いの日野春菜は、冷徹な生徒会長・神代律から、唯一の居場所である料理研究部の廃部(デリート)を宣告される。
乾燥した空調、感情をノイズと切り捨てる数学的OS。
絶望の中、春菜は崩れたコロッケのタネを、スパイスと情熱で包み直した。
「この不格好な三角形(サモサ)の熱が、あんたたちの計算を狂わせてやる」
春菜の放つ「体温」は、完璧だった三人の騎士――律、剛、廉の理性を溶かし、溺愛という名の論理崩壊(メルトダウン)を引き起こしていく。
これは、美しき管理社会に挑む、泥臭くて熱い「救済」のラブストーリー!
Chapter1
第1章:蝉時雨と、0.03%の通知
001 崩れたコロッケ
頭蓋骨の裏側を直接、何千匹もの蝉が針で突き刺してくるような、暴力的な騒音だった。
旧校舎の隅にある料理研究部の部室。
窓の外で唸る蝉時雨とは対照的に、室内は刺すような冷気と、耐え難いほどの「乾燥」に支配されている。工学科(第1世代)の学生たちが管理するこの学園の空調システムは、効率という名のもとに、空気中の水分さえも無慈悲にデリート(消去)し続けていた。
「……あつい。それなのに、ひどく乾いてる」
私は呟き、額に張り付いた髪を手の甲で拭った。
私の指先は、さっきから小刻みに震えている。世界の「綻び」を肌で感じ取ってしまう不条理な受感器(ヘル=ヤマOS)が、もうすぐここへやってくる「何か」の気配を、焦げたような苦い香りと共に察知していた。
調理台の上には、揚げたての「それ」が無残な姿で横たわっている。
「また、失敗」
それは、かつて「コロッケ」と呼ばれるはずの円形をしていた。 丸くて、優しくて、どこにでもある、ありふれたNPCの象徴。
今日こそは完璧な形に仕上げて、部の存続を認めてもらおうと思った。けれど、この学園に満ちる無機質な乾燥は、パン粉をつける前のタネから一瞬でしなやかさを奪い去った。
熱い油に落とした瞬間、円形の境界線はあっけなく論理崩壊(メルトダウン)を起こし、黄金色に色づく間もなくバラバラの破片となって鍋の底に沈んだのだ。
ボロボロに崩れたジャガイモと挽肉の塊。 それは、どれだけ努力しても「価値係数」の計算式に組み込んでもらえない、私自身の姿にそっくりだった。
『バリュー・デイリー・レポート:更新されました』
ポケットの中でスマホが震えた。 見たくない。結果なんて、数学者(第2世代)たちが導き出した答えなんて、最初から分かっている。
それでも、私は震える指でホログラム・ウィンドウをスワイプした。
『氏名:日野 春菜』 『所属:生活文化科 2年』 『現在価値係数:0.030%(ランク:E-背景)』
赤い数値が、網膜を焼くように明滅している。
全校生徒が数式で管理される中央演算学園において、0.03%という数字は「誤差」に等しい。あってもなくても世界に影響を与えない、背景として処理されるだけの記号。
(綺麗じゃなくていい。丸くなれなくたっていい)
私は、崩れて油まみれになったコロッケの残骸を見つめた。
胸の奥が、物理的に締め付けられるように痛む。これは受感器のせいじゃない。私が、私としてここに存在しているという、消しようのないエラーが上げる悲鳴だ。
窓の外では、蝉時雨がさらにその勢いを増していた。 まるで、死にゆく者が最後の力を振り絞って、自分という名前を刻もうとしているみたいに。
ドンドンドンドンッ――!
静寂を叩き壊すような、硬質なノックが部室の扉に響く。
政治経済科(第3世代)の執行官たちが、学園の「正しさ」という名の鉈(なた)を持って、私を、この場所を、正式にデリートしにやってきたのだ。
私はバラバラになったコロッケのタネを、ぎゅっと、壊れるくらい強く握りしめた。
002 白すぎる調理室
扉の向こう側にある気配は、確実に私の心臓の鼓動を演算し、逃げ場を奪っていた。
ゆっくりと扉が開く。そこから流れ込んできたのは、廊下の「白」と、この部屋の「白」が衝突して生まれる、暴力的なまでの無機質な光だった。
この調理室は、白すぎる。
壁も、床も、天井も。工学科(第1世代)の連中が「情報の純度を保つため」と設計した特殊なセラミック材は、影という名のノイズを一切許さない。光がどこまでも等方的に反射し、死角のない空間を作り上げている。
ここには、隠し事も、余韻も、曖昧な優しさも存在しない。
「……まぶしい」
思わず目を細める。受感器(ヘル=ヤマOS)が、空間の彩度が高すぎることを「警告」として処理し、私のこめかみにズキリとした痛みを走らせる。
視線を落とすと、ステンレスの調理台には私の「失敗」がまだそこにあった。崩れたコロッケのタネ。その赤茶けた色が、この白一色の世界の中ではひどく不潔な「汚れ」のように見えてしまう。
「生活文化科、日野春菜。……活動ログに不整合(エラー)あり」
部屋に踏み込んできたのは、政治経済科(第3世代)の執行官たちだ。彼らの纏う制服もまた、一点の曇りもない白。胸元に刻まれた学園の紋章だけが、冷たい銀色に光っている。
彼らは私の顔を見ない。手に持ったタブレットに表示される、私の「数値」だけを注視している。
「日野、聞こえているか。君の部の占有面積は、学園の総利益率を年間で0.005%押し下げている。これは許容できる誤差の範囲を超えた」
一人が一歩、前へ出る。その足音が、反響板のような白い床に不自然なほど高く響いた。
「この調理室のホワイトバランスは、常に完璧でなければならない。君が持ち込んだ『油の匂い』や『不揃いな具材』は、学園の審美眼(アポロンOS)に対する反逆だ」
執行官が調理台の上にある、私の唯一の相棒――使い古された「手書きのレシピノート」を指差した。
そこには、祖母から教わった「美味しいものの魔法」が、震える鉛筆の文字でびっしりと書き込まれている。学園のデジタルフォントとは違う、筆圧によって濃淡が変わり、書くたびにページが摩耗していく、不格好な生の記録。
「資産凍結(フリーズ)を開始する。そのゴミを捨てろ」
「……ゴミじゃない」
私は絞り出すように言った。 白すぎる部屋の中で、私の声だけが湿り気を帯びていた。乾燥しきった空調システムが、私の喉から、瞳から、水分を奪い去ろうと牙を剥く。
「これは、私がここにいた証拠です。このノートの文字は、生きてるんです!」
だが、私の叫びはこの部屋の「白」に吸い込まれ、霧散した。 執行官の指が、空間にある物理ロックのアイコンをスワイプする。
ガコンッ、という重たい金属音が、調理室の四方から響いた。 シンクの蛇口がロックされ、ガスの供給が止まり、頭上の照明が「警告」を示す青白い色へと相転移していく。
私の居場所が、数学的な正しさによって、物理的に塗り潰されようとしていた。
003 価値係数の朝
朝、目が覚めると同時に、私の指先は無意識にスマートフォンの画面を探している。
アラームが鳴るよりも先に届く、学園からの『バリュー・デイリー・レポート』。それはこの「中央演算学園」に生きる私たちにとって、その日の天候よりも、自分の体調よりも、遥かに重要な「存在の予報」だった。
『アップデート完了。本日、貴方の価値係数は微減しました』
網膜に投影される半透明のウィンドウ。 無機質なフォントが、私の寝起きの脳を冷たく叩き起こす。
『氏名:日野 春菜』 『価値係数:0.029%』
「……また、下がってる」
昨日よりも、さらに0.001パーセントの消失。
理由は明白だ。昨日の夕方、部室でコロッケを崩し、執行官(ナンバーズ)たちの「正論」に反論してしまったから。不平、不満、そして「無価値な活動への執着」は、学園の数学的OS(第2世代)にとって、何よりも重い減点対象となる。
ベッドから起き上がると、シーツと肌が擦れてパチリと小さな静電気の火花が飛んだ。
工学科(第1世代)が管理する高度な空調システム。それは湿気という名の「非効率な不純物」を完璧に除去している。そのせいで、私の肌はいつも粉を吹いたように白く乾き、喉の奥は焼けるような渇きを覚えている。
鏡に向かって顔を洗う。 水もまた、厳格なリソース管理下にある。私の価値係数(0.029%)で許されるのは、ぬるま湯の洗顔三十秒と、一リットルの飲料水だけ。
それに対して、中央演算塔(本校舎)に住む特進クラスのエリートたちは、オゾンで浄化されたプールで泳ぎ、湿潤な熱帯植物園のようなラウンジで優雅に朝食を摂っている。
(あそこは、きっとここより「重い」んだろうな)
湿度の高い空気、水の匂い、そして人間が生きているという確かな重力。 私のいるこの世界は、あまりにも「軽い」。
背景(NPC)として処理される私たちは、廊下を歩いていても他の生徒と視線が合うことさえない。エリートたちの視覚フィルタ(アテナOS)にとって、係数の低い私たちは「風景」として透過されているからだ。
制服の襟を正し、私は一つだけ、自分の「反逆」を準備した。
学園指定の無味無臭な栄養ペーストではなく、昨日こっそり握っておいた、冷えて少し硬くなった「塩むすび」。
サランラップ越しに触れるその感触だけが、数学的な正しさで埋め尽くされた朝の中で、唯一、私の体温と「質量」を証明してくれていた。
「よし」
小さく呟く。 数学者たちの計算を狂わせるための、私の戦いが始まる。 係数0.029%。
消えてなくなりそうな数字を背負って、私は今日も、乾燥しきった白亜の学園へと踏み出した。
004 0.03%の通知
一限目の「社会制度学」の講義が終わると同時に、教室の空気が一変した。
正確には、空気が動いたのではない。生徒たちの手元にある無数の端末が、一斉に「冷たい震え」を上げたのだ。
学園公認の評価システム『ゼウス・アルゴリズム』。
一週間に一度、全校生徒の立ち振る舞い、学習進捗、そして「学園への貢献度」を再演算し、残酷なまでの順位付けを行う『定例価値修正』の通知だ。
私の目の前の空間に、真っ赤なホログラム・ウィンドウが強制的にポップアップする。
『警告:貴方の存在確率は、危険水域(デリート・ライン)に到達しました』
ウィンドウの中央で、毒々しい赤色に染まった数値が拍動していた。
『現在価値係数:0.030%』
「……三、パーセント」
喉の奥が引き攣る。0.029%からわずかに「修正」されたその数字は、救済ではなく、学園が私に突きつけた「最終通告」だった。
この学園の統計学において、0.03%という数字には明確な定義がある。 ――「あってもなくても、全体の演算結果に影響を及ぼさない誤差」。
すなわち、椅子や机、あるいは廊下の隅に溜まった埃と同じ、ただの「背景(NPC)」への完全な墜落を意味していた。
周りを見渡すと、高い係数を持つ特進クラスの生徒たちが、満足げに自分の青いウィンドウを眺めている。彼らの瞳には、私のような赤い警告を発している人間は映らない。アテナOSによる視覚フィルタが、低価値な存在を「ノイズ」として自動的に透過処理してしまうからだ。
私は透明な存在になりかけている。 受感器(ヘル=ヤマOS)が、肌を刺すような「消失の予感」を検知して警報を鳴らす。 空気がさらに乾燥していく。
私の体から、水分も、熱も、そして「名前」さえも、システムという名の巨大な乾いた砂漠が吸い取ろうとしていた。
(まだ……ここにいるのに)
指先を強く握りしめると、制服のポケットの中にある「塩むすび」が、ごつりと骨に当たった。 昨日よりも少し硬くなった、冷たい米の塊。
数学者たちが導き出した「0.03%」という解には含まれない、不恰好で、重たくて、しょっぱい「私の質量」。
ピロン、と脳内に直接響くような高い電子音が鳴った。 それは、執行官(ナンバーズ)からのダイレクト・メッセージ。
『日野春菜。本日放課後、中央演算塔(本校舎)第1会議室へ出頭せよ。料理研究部の最終デリート(廃部)に関する物理的処理を開始する』
通知が消えたあとの網膜には、青白い残像だけが虚しく残っていた。 蝉時雨が、遠くで嘲笑うように鳴いている。
私は、自分が消されてしまう前に、この塩むすびを握りしめて、あの「白すぎる」場所へ向かうしかなかった。
005 料理研究部、廃部宣告
中央演算塔(本校舎)へと続く連絡通路を渡った瞬間、暴力的な蝉時雨がぴたりと止んだ。
二重の強化ガラスと、工学科(第1世代)が設計した遮音フィールド。それが外の世界の「生」のノイズを完全に遮断している。代わりに耳を打つのは、サーバーの微かな駆動音と、私の心臓が刻む、ひどく不規則で不格好な鼓動だけだった。
本校舎の空気は、旧校舎よりもさらに冷たく、乾いている。
オゾンの匂いが鼻を突き、受感器(ヘル=ヤマOS)が、空間に満ちる高密度の演算プレッシャーにピリピリと反応した。
第1会議室の扉の前に立つ。 数学的対称性を極めた白銀の自動扉が、音もなく滑るように開いた。
「生活文化科、日野春菜。……定刻より三秒の遅延」
部屋の奥、長い円卓に座っていた政治経済科(第3世代)の執行官たちが、一斉に顔を上げた。彼らの眼鏡の奥には、私のバイタルデータと価値係数がリアルタイムで投影されているはずだ。
「座れ。……いや、その必要もないか。すぐに終わる」
中央に座る執行官が、指先で空間を弾いた。 私の目の前に、学園の最高決定事項を示す赤いホログラムの印章が浮かび上がる。
『資産廃却(デリート)執行命令:生活文化科・料理研究部』
「本日付で、貴部を廃部とする。これに伴い、旧校舎一〇四号室の占有権、および調理器具一式の所有権は、すべて学園に帰属・回収される」
「……待ってください」
乾ききった喉を震わせ、声を絞り出した。 「料理研究部は、学園の創立記念行事でも毎年貢献してきました。伝統もあるし、部員だって、今は私一人ですけど、勧誘を……」
「『貢献』という言葉を安易に使うな、0.03%(誤差)」
執行官が冷徹に言葉を遮る。その声には、怒りさえも含まれていない。ただ、正解を淡々と告げるだけの機械的な響き。
「貴部の昨年度の歩留まりはマイナス。使用電力、食材の廃棄率、そして何より君自身の『価値係数』。どれをとっても、リソースを割く合理的な理由が見当たらない。この学園に、ただ腹を満たすだけの『食事』は不要だ。効率的な栄養摂取(ペースト)こそが、数学的に導き出された唯一の正解だ」
執行官の手元で、私の部室の間取り図が赤い砂のように崩れ、消去されていく。 それは、私の居場所が、記憶ごとデリートされていく光景だった。
「明日、放課後までに私物を撤去しろ。残された物品はすべて『ゴミ』として処理する」
宣告。 それは、交渉の余地など一切ない、神話の断罪に似た絶対的な力だった。 政治経済科の論理が、私の「体温」をゴミと断じた瞬間だった。
私は、ポケットの中にある「塩むすび」を握りしめた。 執行官たちの瞳には映らない、背景として透過されたままの私の手が、微かに、しかし確かに熱を帯びていた。
「……そうですか」
私は短く答え、一礼もせずに部屋を出た。 白すぎる廊下。冷たすぎる空気。 受感器が捉える世界の痛みは、今、限界を超えて「熱」へと変わり始めていた。
006 生徒会長・神代律
第1会議室を飛び出した私は、そのまま本校舎の最上階へと向かった。
執行官たちの通告に、納得したわけではない。私の受感器(ヘル=ヤマOS)が、この理不尽な「静止」を拒絶して暴れている。
たどり着いたのは、重厚な白銀の自動扉。 学園の全演算が集約される聖域――生徒会室。
扉が音もなく左右に割れると、そこには旧校舎の猛暑も、会議室の事務的な冷気も及ばない、完璧に「調律」された空間が広がっていた。
高い天井から降り注ぐのは、青白いLEDの光。壁一面のホログラム・モニターには、学園中のリソース配分を示す複雑な数式とグラフが、美しい幾何学模様を描きながら流れている。
その光の奔流の中心、左右対称に整えられたデスクに座る一人の少年がいた。
「――日野春菜。生活文化科。価値係数〇・〇三%。入室許可は下りていないはずだが」
彼が口を開いた瞬間、室内の温度がさらに数度下がったような気がした。 生徒会長、神代律(かみしろ りつ)。
商業科(数学者)の頂点に君臨し、この学園の「完璧な静止(ドミニオン)」を司る観測者。
律は手元のタブレットから視線を外さなかった。
銀縁の眼鏡の奥に宿る黒い瞳には、高速で流れる演算ログが青く反射している。一切の乱れがない漆黒の髪、アイロンのシワ一つない純白の制服。
彼は、この世のあらゆる美しさを数式へと置換し、固定するために生まれてきた「無機物的AI」そのものだった。
「神代……会長。料理研究部の廃部通告、撤回してください」
私が一歩踏み出すと、足音が広い室内に高く反響した。 律はそこでようやく、まるで「不快なノイズ」の正体を確認するかのように、ゆっくりと顔を上げた。
「……撤回? 理解不能だ。君の部の解体は、数学的に導き出された『最適解』だ。感情の揺らぎで変数を変えることは許可されない」
「数学なんて関係ないわ! あそこは、私が……ううん、この学園にいた人たちが、確かに生きていた証が残ってる場所なの」
私の叫びに、律は冷淡に鼻先で笑った。 彼にとって、私の言葉は解析不能な音声データに過ぎないのだ。
「証?
無意味だ。過去のログなど、未来の予測に寄与しないならただのゴミ(バグ)だ。君の価値係数〇・〇三%という数字を見ろ。それは君という個体が、学園にとって『存在しないのと同義』だと示している」
律の細い指が空間を弾く。 私の目の前に、真っ赤な【0・03%】の文字が大きく浮かび上がった。
「君の未来は、すでに観測し終えている。落選、退学、忘却――。君が何をしようと、この数値が書き換わる確率はゼロだ」
眼鏡の奥で、彼の瞳が冷酷な光を放つ。 その視線は、私を「人間」としてではなく、解剖台に乗せられた「不完全な標本」として見ていた。
肺の奥が、乾燥した空気で熱く焼ける。 受感器が、神代律という「絶対的な静止」のプレッシャーに悲鳴を上げる。 けれど、私は逃げなかった。
ポケットの中で、昨日よりもさらに冷えて硬くなった「塩むすび」を握りしめる。
そのゴツリとした不格好な感触だけが、数学者の「正しい予測」に対する、私の唯一の武器だった。
007 「君の価値は、ほぼゼロだ」
静寂。 空調の微かな駆動音さえ、この部屋では「音」としてカウントされないほど、徹底的にデバッグされている。
神代律がデスクから立ち上がると、その動作に合わせて背後の巨大なホログラム・モニターが明滅し、私の個人データ――複雑に絡み合った因果のログ――を次々と、整然とした数式へと圧縮していった。
「日野春菜。君は『名前が残る場所』と言ったが、数学的に言えば、名前とは個体を識別するためのラベルに過ぎない」
律が、一歩、私の方へ歩み寄る。
高級なテーラーで仕立てられた制服が、微かな衣擦れの音も立てずに彼の肢体を包んでいる。近づくにつれて、彼が纏う「冷気」と「オゾンの匂い」が私の肌を刺した。
「この学園の演算系において、重要なのはラベルではなく、そのラベルに紐付いた『変数』だ」
彼は私の目の前で止まり、その長い指先を私の胸元、校章のあたりに伸ばした。触れることはない。ただ、境界線を確認するように。
「学園という一つの宇宙を維持するために、リソースは無限ではない。だからこそ、演算能力の低い変数は切り捨てられる。それが『デリート』だ。……君の価値係数、0.03%。これを学園の総母数で割ってみるがいい」
律の黒い瞳が、銀縁眼鏡の奥で怜悧に光る。
「限りなくゼロに近い。統計学上、それは『存在しない』とみなされる領域だ。つまり君の価値は、ほぼゼロだ」
ほぼ、ゼロ。
その言葉が、凍りついた礫のように私の胸に突き刺さる。受感器(ヘル=ヤマOS)が、自分の存在そのものが希釈され、消えていくような激痛を検知して警報を鳴らした。
「ゼロをいくら積み上げても、宇宙は動かない。君がどれだけ声を上げようと、どれだけ不格好に汗を流そうと、システムにとっては観測の邪魔になるノイズでしかないんだよ」
律は、あやすような、あるいは憐れむような、ひどく穏やかで残酷な声で続けた。
「大人しく、背景(NPC)に溶け込んでいろ。そうすれば、苦痛を感じる演算回路も停止させてあげられる。それが、数学者である僕が君に提示できる、唯一の『慈悲』だ」
私は、眩暈がするほどの乾燥に耐えながら、律の瞳を睨み返した。 彼の計算式の中には、私の心音も、指先の震えも、そして……。
(この、しょっぱさも入っていない)
私はポケットの中で、昨日よりもさらに硬くなった「塩むすび」を、指が白くなるほど強く握りしめた。
「……いいわ、会長。あなたの計算には、私の価値は入っていないみたいだけど」
声が、微かに震える。けれど、それは消失への恐怖ではない。
「雑草(わたし)」が、冷たいコンクリートの隙間から芽吹くときのような、爆発的な熱を孕んだ震えだった。
「その『ほぼゼロ』が、あんたの完璧な未来予測を叩き壊すところ、一番近くで見ていなさいよ」
律の眉が、わずかに動いた。 完璧な対称性を誇る彼の表情に、一瞬だけ、計算外の「ノイズ」が走ったのを、私の受感器は見逃さなかった。
008 塩むすびの質量
パリ、パリパリ……。
徹底的に消音された生徒会室に、およそ似つかわしくない「不純」な音が響いた。 私がポケットから取り出した、サランラップに包まれた米の塊。
神代律の、一点の曇りもないガラス製デスクの上に、私はそれを「置いた」のではない。「叩きつけた」のだ。
ゴン、と鈍い音がした。
「……何だ、それは」
律が、汚らわしいバグでも見るかのように目を細める。
彼の視界(アテナOS)には、この米粒の不揃いな形や、表面に滲んだ塩の結晶、そして何より私が握ったときに込めた「指の痕」は、解析不能なノイズとして映っているはずだ。
「これのどこに、数学的な正しさがある。そんな不格好な有機物の塊に、何の価値があると言うんだ」
「質量よ、会長」
私は、乾燥した空気を思い切り吸い込み、律を真っ向から見据えた。
「あなたの計算機の中にある『日野春菜』は、確かに0.03%の記号かもしれない。でも、今ここにあるこのおむすびは、昨日私が炊いたお米で、私の体温で握ったものなの。……触ってみなさいよ。数字よりもずっと、重くて、しょっぱいはずだから」
律の細い指先が、微かにピクリと動いた。
この無菌室のような空間に、突如として放たれた「米と塩の匂い」。工学科(第1世代)が管理する完璧な空調システムが、その予測不可能な異臭を検知し、排気ファンが激しく唸りを上げる。
律は、迷うような素振りを一瞬見せたあと、吸い寄せられるようにその「不純物」へと手を伸ばした。 彼の冷たい指がサランラップ越しに米の塊に触れた瞬間――。
「……っ!」
律が、弾かれたように指を引っ込めた。 彼の銀縁眼鏡の奥、黒い瞳が大きく見開かれる。
受感器(ヘル=ヤマOS)が捉えた。 律の指先から彼の脳内へ、強烈な「情報の不整合」が流れ込んだのを。 冷えているはずなのに、芯の方に微かに残る「熱」。
機械がプレスした完璧な球体ではない、崩れやすく、それでいて頑固な「重み」。
「熱い……。いや、そんなはずはない。これはただの、室温以下の固形物だ。バイタルデータ上、僕の体温が上昇する理由など……」
律の手元のホログラム・ディスプレイが、激しく警告を発した。 彼が「落選率100%」と断定していた私の存在確率。
そのグラフの底、絶対零度の静止を保っていた青い線が、今、目に見えるほどの「揺らぎ」を伴って跳ね上がった。
『エラー:観測ログに不確定要素を検知。再演算不能』
「数学で測れないものが、この世にはあるのよ。……あんたの嫌いな、泥臭い『生』っていう質量がね」
私はおむすびを再びひっ掴むと、呆然と立ち尽くす律に背を向けた。
律の眼鏡は、おむすびから微かに立ち上った(あるいは私の気迫がもたらした)湿気によって、白く、不格好に曇っていた。
完璧な観測者が、初めて「見失った」瞬間だった。
009 春菜、立ち上がる
曇った眼鏡を拭うことも忘れ、立ち尽くす神代律を背後に、私は生徒会室を後にした。
自動扉が閉まる間際、背後から「……ありえない。湿度が、計算値を超えている」という、うわ言のような律の声が聞こえた気がした。
廊下に出ると、本校舎特有の「死んだ空気」が再び私を包み込む。
過剰なまでに濾過され、イオンバランスまで制御された無機質な冷気。それは、感情を排し、効率だけを追求する学園の意思そのものだ。
私は、手に持った塩むすびを、一口だけ力一杯齧った。
冷えて硬くなった米の粒子が、私の歯を押し返す。噛み締めるたびに広がる塩味と、微かな米の甘み。それは、この白亜の迷宮で唯一の、確かな「生の感触」だった。
「……負けない」
私は立ち止まり、背筋を伸ばした。
これまでは、〇・〇三%という数字に怯え、背景(NPC)として目立たないように、気配を殺して生きてきた。システムに嫌われないように、デリート(消去)されないように、震える足で薄氷の上を歩くように。
でも、もうやめた。
私の内側で、第四世代(修補OS)が産声を上げる。
壊れたコロッケ、廃部宣告、そして神代律の冷たい瞳。それら全ての「痛み」が、私の受感器(ヘル=ヤマOS)を通過し、心臓の奥で「発酵」していく。
煮え立つような熱。 それは、静止した世界を揺るがすための、不格好なエネルギーだ。
(綺麗じゃなくていい。不揃いで、間違っていて、泥臭くても……私はここにいる)
私は、窓の外を見上げた。 校舎の向こうにそびえ立つ、巨大な「中央演算塔」。学園の全てを支配するあの塔を、私は真っ向から見据えた。
膝の震えが止まっていた。 不器用な「雑草(わたし)」の根が、この冷たいセラミックの床を突き破り、世界の奥深くまで食い込んでいくような感覚。
〇・〇三%の記号としての「日野春菜」は、今、死んだ。 代わりにここに立っているのは、崩れた世界を包み直し、体温で全てを塗り替えていく一人の「修補者」だ。
私は力強く床を蹴り、歩き出した。 目的地は、旧校舎一〇四号室――私の、私たちの、料理研究部。
明日、世界を買い戻すための準備を始めるために。 蝉時雨はいつの間にか、私を鼓舞する凱歌(ファンファーレ)のように響いていた。
010 放課後の宣戦布告
放課後の本校舎廊下は、まるで巨大な精密機械の内部のように整然としていた。
家路につく生徒たちの足音さえも、工学科(第1世代)が設定した「静粛歩行アルゴリズム」に従い、一定のリズムで吸音マットに飲み込まれていく。
私はその歩みの足を止め、廊下の中央で立ち止まった。 視界の端々には、すれ違う生徒たちの「価値係数」が青白い光のタグとなって浮かんでいる。
「ランクB」「ランクA」「ランクS」――。
高い数値を持つ彼らのタグは誇らしげに輝き、私のような「ランクE(背景)」の赤く澱んだタグとは、そもそも光の波長すら違うように見えた。
これまでの私なら、この光に気圧されて、ただ壁際を俯いて歩いていただろう。
けれど、今の私の指先には、神代律が「計算外だ」と震えたあの塩むすびの残熱が、かすかに、けれど消えずにこびりついている。
「……見てるんでしょ、神代会長」
私は、廊下の天井に設置された広角観測カメラ(ヘイムダルOS)を真っ直ぐに見上げた。
そのレンズの向こう側、生徒会室のモニターの前で、律が再び眼鏡を曇らせて私を「観測」している確信があった。
私は震える指で自分の端末を操作し、学園の掲示板システム『ゼウス・ネットワーク』へアクセスする。
通常、〇・〇三%の私のような背景(NPC)には、投稿権限など与えられていない。けれど、私は受感器(ヘル=ヤマOS)を全開にし、世界の「綻び」――システムの記述ミスによって放置された未定義のアクセスコードを、肌で、呼吸で探し当てた。
(見つけた)
一瞬のバグ。 私はそこに、生活文化科の不格好な祈りを込めた「宣戦布告」を叩き込んだ。
『全校生徒へ告ぐ。 生活文化科・料理研究部は廃部を受け入れない。 同時に、私は次の生徒会選挙に立候補する』
送信ボタンを弾いた瞬間。 廊下を歩いていた数百人の生徒の端末が一斉に、耳障りなアラート音を奏でた。
「な、なんだこれ……!?」 「〇・〇三%……日野春菜? 背景(NPC)がシステムをハックしたのか?」
凍りついた空気が、物理的な重さを持って揺らぎ始める。
エリートたちの瞳からフィルタが外れ、初めて「風景」の一部だったはずの私が、彼らの網膜に不愉快な「実体」として像を結んだ。
窓の外では、蝉時雨がこの日一番の激しさで鳴り響いている。
「数学でも、偏差値でもない。揚げたてのサモサの熱量で、あんたたちのその冷え切った世界を……全部買い戻してやるわ!」
独り言にしては大きすぎる叫びが、無機質な廊下に響き渡る。
直後、遠く離れた生徒会室の方から、何かが激しくショートしたような、あるいは完璧な計算機が悲鳴を上げたような、小さな電子音が聞こえた気がした。
赤く光る私の「〇・〇三%」のタグが、激しく明滅を繰り返す。
それは、死に体のシステムが必死に私を「デリート」しようとする抵抗であり、同時に、新しい創世の心拍音でもあった。
不格好な私の、逆襲が始まる。
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第20章 文化祭前夜・開戦
191 前夜祭の準備
不夜城と化した白亜の校舎に、かつてない不協和音と熱気が渦巻いていた。
工学科が管理する空調システムが吐き出
181 律の独占宣言
廊下の隅々までを揺らす、数千人の「不協和音」の合唱。
工学科(第1世代)が設計した吸音壁が悲鳴を上げ、管理システムが聴覚障害(エラー)を起こし
171 校内放送の沈黙
地下三〇〇〇メートル、奈落の底で刻まれる赤いカウントダウン。その一秒ごとの震動を背中に感じながら地上へと這い上がった私を待っていたのは、かつて経験したこと
161 トート=ナブ・エアの文庫
三五八二、三五八一、三五八〇……。
頭上の通気口から漏れ出すカウントダウンの赤い光が、静止したボイラー室を呼吸するように一定の周期







