断頭台の悪役令嬢は、攻略対象に命を預ける
Synopsis
現代日本で三十四歳の経理主任として生きた佐伯拓海は、事故死の末、乙女ゲームによく似た王国で悪役令嬢アリシア・フォン・ローゼンベルクとして目覚める。意識を取り戻したのは、男爵令嬢ミレーヌを平手打ちする寸前。この一撃から始まる断罪と処刑を避けるため、彼は振り上げた手を止めた。
直後、王太子エドワードへ運ばれる毒杯を発見したアリシアは、近衛騎士団長ルシアンと暗殺を阻止する。しかし、過去の悪行ゆえに自作自演を疑われてしまう。さらに父ローゼンベルク公爵は、婚約解消を望む娘を暴力で支配し、事件への深入りを禁じる。
生前の会計知識で帳簿を調べたアリシアは、五年前に焼失した救貧院へ今も資金が流れている事実を突き止める。その金は王宮給仕組合、神殿、北部の運送商会へ分散し、放火された文書庫と閉鎖鉱山に隠された大量の武器へつながっていた。だが彼女の魂には、さらに古い海賊時代に女体化させられ、神経と魂へ刻まれた魔蝶の淫紋が眠っていた。呪印は恐怖と欲望を混線させ、女性となった身体を鋭敏にし、周囲の心まで魅了してしまう。
かつて虐げたミレーヌにも協力を求めるが、許しは得られない。二人は友人ではなく、互いを監視し、同意を何度でも確認する契約上の協力者となる。やがて国王毒殺、聖女の家族を人質にした神殿の策謀、北部反乱計画が一つにつながり、アリシアは「魅惑の魔女」として再び断頭台へ送られようとする。
彼女を救うのは、未来知識でも無条件の愛でもない。各地へ分散した帳簿、記録晶、証言、そして誰か一人を信じ切らない検証の仕組みだった。濡れ衣は晴れても、過去の加害は消えない。財産と特権を失ったアリシアは、責任を負いながら旧領北部の監査官となる。そこで自らの判断と淫紋の影響によって薬の到着を遅らせ、一人の聴力を永久に失わせてしまう。
呪いは最後まで消えず、許さない者も、去る者も、戻らないものも残る。それでもアリシアは、男だった過去を捨てず、今を一人の女性として生き、恋する心を自分の選択として受け入れていく。これは悪役令嬢が正しくなる物語ではない。誤りと傷を消さず、他者に止められる仕組みの中で、未完成の帳簿を書き続ける物語である。
Chapter1
冷たい簪が、脇腹から心臓へ向けて沈んだ。
『あなたは、私が黙っていたから、何も奪われていないと思ったのでしょう』
前の転生で、最後まで信じていた侍女エヴァの声。彼女が大切にしていたものを奪った夜のあとも、何も言わず仕え続けたから、理解したのだと決めつけた。
違った。男のまま相手の沈黙へ都合のよい答えをつけ、気づいた時には刃が胸へ届いていた。
また、間違えた。
次に聞こえたのは、空気を裂く風切り音だった。自分の腕から生まれていると気づくまで、永遠にも似た一瞬が過ぎた。シャンデリアの光が無数のクリスタルに砕け、視界を白く灼いている。薔薇の香水。麝香。白粉。甘く重い匂いが夜会の広間へ澱み、息を吸うたび肺の奥へまとわりついた。目の前には、小柄な令嬢がいる。
白銀の髪。恐怖に見開かれた青い瞳。逃げることさえ忘れ、肩を縮こまらせて立ち尽くす男爵令嬢ミレーヌ。私の右腕は、彼女の頬を打ち据えるため、すでに振り下ろされていた。
ごうっ、と。
脳髄の奥で、三度の転生が重なった。原初の生は、まだ名も思い出せない。最初の転生は佐伯拓海。三十四歳。中堅商社の経理部主任。月末の締め処理。積み上がる伝票。終電を逃した深夜。居眠り運転のトラック。二度目は、このアリシアとして同じ破滅を避けようとし、最後はエヴァに殺された。そして今、三度目の転生として再びアリシア・フォン・ローゼンベルク、十八歳へ戻っている。
その二つよりさらに深い場所で、知らない潮の匂いがした。下腹部を焼く黒紫の熱。後ろ手に縛られた腕。首筋へ落ちてくる刃。
『魅惑の魔女』
罵声だけを残し、海も、名前も、誰の記憶なのかも消えた。王国随一の公爵令嬢アリシアの現在だけが残った。
(この平手打ちが、破滅の始まりだ)
ここは、生前に妹が熱中していた乙女ゲームとよく似た世界だ。目の前のミレーヌは物語のヒロイン。アリシアは彼女への嫌がらせを激化させ、王太子から婚約を破棄され、最後には王家への反逆と国王毒殺の罪を着せられる。弁明を聞かれないまま処刑される。
指先が、ミレーヌの頬へ迫る。止めなければならない。だが、身体に残るアリシアの感情が逆巻いた。王太子妃になれなければ、公爵家の娘として生きる価値はない。
負ければ捨てられる。父に繰り返された言葉が、骨の内側から響く。目の前の女を排除しろ。それは怒りより、恐怖に近かった。
(阿呆か。こいつを殴れば、本当に首が飛ぶ)
肩が軋み、腕の筋肉が痙攣する。佐伯拓海として培った理性を、暴走する身体へ叩き込む。
止まれ。
指先が、ミレーヌの頬から数ミリの空中で止まった。
絹の手袋が震えている。ミレーヌの前髪が、振り下ろされた手の風で揺れた。彼女は目を閉じていた。打撃が来ないことに気づいても、すぐには目を開けなかった。
広間から音が消えている。楽団の演奏も、貴族たちの囁きも、グラスが触れ合う音も聞こえない。私はゆっくりと腕を下ろした。心臓が肋骨を内側から殴りつける。背中を冷たい汗が伝い、喉が張りついて息が入らない。
それでも、この身体は礼儀作法を覚えていた。両手でドレスの裾をつまみ、片足を後ろへ引く。膝を深く折り、首を垂れる。王室の公式行事でしか見せない、完璧なカーテシー。
「……申し訳ございません。わたくしとしたことが、頭に血が上っていたようです」
震えを押し殺した声が、広間へ落ちた。ざわめきが広がる。アリシア・フォン・ローゼンベルクが、格下の男爵令嬢へ頭を下げた。王太子へ近づく令嬢を片端から脅し、使用人を気分一つで罰し、学院では狂犬と陰口を叩かれている女が。
ミレーヌは目を開けると、私ではなく周囲を見た。取り巻きが笑っていないか。逃げ道が塞がれていないか。誰かが次の命令を待っていないか。
前の転生の私は、その沈黙を従った証拠と読んだ。今は、彼女が返事より先に逃げ道を確かめていることへ気づいた。気づいたからといって、何を考えているかまで分かったわけではない。
すべてを確かめてから、彼女は一歩下がった。
「……何の真似ですか」
声は震えているが、目には怯えより警戒が強い。
「真似ではありません。手を上げようとしたことを謝罪しています」
「どうして急に?」
「理由をお話ししても、信じていただけないでしょう」
ミレーヌの青い瞳が険しくなった。
「信じるかどうかは、私が決めます」
胸へ細い針が刺さった。以前のアリシアなら、彼女の言葉を生意気だと感じただろう。同時に、アリシアの記憶が蘇る。廊下で肩をぶつけ、教本を床へ落とさせた。
取り巻きへ命じ、食堂で一人だけ席を空けさせた。雨の日、傘を取り上げた。一度ごとは小さい。だから繰り返せた。
逃げ道を少しずつ塞ぎ、怯える姿を見ていた。
「……そうですわね」
私は視線を逸らさなかった。
「今は説明できません。謝罪を受け入れてほしいとも申しません。ただ、今しようとしたことは、わたくしの非です」
ミレーヌの唇がわずかに開いた。返事はない。彼女は頬の前へ片手を上げたまま、私との距離を保っている。許しを求める場ではなかった。
その時、記憶の奥で別の場面が繋がった。この夜会では、もう一つ事件が起きる。王太子エドワードの毒殺未遂。原作では、ミレーヌを公然と辱めていたアリシアが最初に疑われた。
毒を盛った証拠は見つからない。それでも悪評が証拠の代わりとなり、王宮と社交界の双方から孤立していく。
(いつだ。誰が運ぶ)
ゲームの細部までは覚えていない。妹が遊んでいる横で、断片的に見ただけだ。装飾のある杯。捕らえられる給仕。
実行犯は牢へ入れられたその日のうちに死ぬ。私はミレーヌから視線を外し、広間を見渡した。慌てるな。経理の仕事で不正を見つける時も、最初から答えが見えていたわけではない。
誰が、何を、どこからどこへ動かしたのか。夜会の広間を、一つの流れとして見る。貴族たちは歓談の輪を作り、給仕たちはその隙間を縫っている。金の盆を持つ者。
空いたグラスを下げる者。新しい飲み物を運ぶ者。王宮の給仕は厳しく訓練されている。互いの動線を塞がず、一定の間隔を保ち、客の背後から静かに近づく。その流れに、一か所だけ歪みがあった。
壁際を進む若い給仕。赤みがかった髪。痩せた肩。銀のトレイには、金の蔓草模様が入った杯が二つ。他の給仕より歩幅が狭い。急いでいるのではない。
慎重すぎる。人とぶつからないように歩くのではなく、誰にも近づかせないよう身体を固くしていた。視線は何度も同じ方向へ向かう。バルコニーから広間へ戻ってきたエドワード王太子。
給仕の親指がトレイの縁へ食い込み、爪の先が白い。喉仏が上下し、額には汗が浮かんでいる。別の給仕が前を横切った。普通なら互いに半歩ずつ進路を譲る場面で、赤毛の男だけが立ち止まる。トレイを胸へ引きつけ、相手が通り過ぎるまで動かない。
杯をこぼしたくないのではない。誰かの手が近づくことを恐れている。二つの杯のうち、奥側だけ取っ手が給仕の身体側へ向いていた。
(奥の杯だ)
曖昧な記憶と取っ手の向きが、一つの答えへ見えた。私は象牙の扇を床へ落とす。乾いた音に、近衛騎士団長ルシアン・ヴァンダールが振り向いた。
「ルシアン卿。壁際の赤毛の給仕を止めてください。奥側の杯に毒の疑いがあります」
「奥だけか」
「給仕が触れさせまいとしているのは、そちらです」
ルシアンは杯ではなく、男の両手と逃げ道を見た。
「疑わしいのは給仕の行動だ。毒の位置ではない。二つとも押さえる」
言われて初めて、手前が囮である可能性に気づいた。私は未来を知る者ではなく、断片から結論へ飛びつきかけた素人にすぎない。
「外していた場合は、わたくしが責任を負います」
「責任の話は後だ」
ルシアンは近くの騎士へ目配せし、二人で左右から回り込んだ。赤毛の給仕が異変に気づく。判断は一呼吸にも満たなかった。ルシアンが床を蹴り、黒い影が人々の間を抜ける。
赤毛の給仕が異変に気づき、顔を引きつらせた。トレイを傾けようとする。
「動くな!」
ルシアンが手首をねじり上げた。給仕の悲鳴。銀のトレイが跳ね、二つの杯が宙へ浮く。ルシアンは給仕を押さえながら、肩で一つを受け止めた。
もう一つは近くの騎士が外套で包む。それでも奥側の杯から数滴がこぼれ、大理石へ落ちた。じゅっ、と白い泡が立つ。床の表面が黒ずみ、鼻を刺す異臭が広がった。
広間が爆発した。
「毒だ!」
「殿下をお守りしろ!」
「ローゼンベルク令嬢が命じたぞ」
「なぜ知っていた?」
悲鳴へ、早くも疑惑の声が混じる。数分前まで、私はミレーヌを殴ろうとしていた。毒殺を防いだだけで、その光景が消えるはずもない。剣を抜く騎士。
逃げる貴族。楽器を放り出す楽団員。卓上のグラスが倒れ、赤い葡萄酒が白いクロスへ染みを広げる。ルシアンは給仕を床へ押さえつけた。
「杯へ触れるな! 二つとも封じろ!」
騎士が証拠箱を運んでくる。王宮では、百年前の内乱以降、王族へ関わる事件の証拠を法務官立ち会いで封じる決まりがある。だが、法務官が到着する前に給仕が死ぬ可能性がある。原作では、捕らえられた実行犯は証言する前に口を封じられた。
「口の中を確認して!」
声が飛び出した。ルシアンが振り返る。
「噛み砕ける毒を隠しているかもしれません」
給仕の顔から血の気が引いた。騎士が顎を押さえ、口を開かせる。奥歯の裏から、薄い蝋で包まれた黒い粒が転がり落ちた。周囲がどよめく。
「自害用か」
ルシアンが呟く。私は一歩踏み出しかけ、膝の震えに気づいた。もし見誤っていたら。もしルシアンが動かなかったら。
もし毒が誰かへかかっていたら。私が奥側だけを止めさせ、手前へ別の仕掛けがあったなら。未来を知っていたから成功したのではない。曖昧な記憶へ飛びついた私を、ルシアンの判断が修正し、偶然間に合っただけだ。
「なぜ分かった」
低い声が頭上から降ってきた。振り返る。エドワード王太子が、近衛騎士に守られて立っている。銀色の髪。
冷たい灰青の瞳。その視線に感謝はない。あるのは疑念だけだった。広間の端では、ローゼンベルク公爵――この身体の父が、土気色の顔でこちらを見ている。
怒っているのではない。毒杯が見つかったことを恐れている。あるいは、私がそれを見つけたことを。
「給仕の歩調が、周囲と合っておりませんでした。殿下へ近づくことより、杯を守ることへ意識を向けていた。二つの杯の置き方も不自然でした」
「それだけで毒だと?」
「断定はしておりません。検める価値があると判断しただけです」
「一介の給仕を、そこまで観察していたというのか」
「流れから外れるものは目立ちます」
帳簿という言葉は飲み込んだ。それでも遅い。これまでのアリシアは、給仕一人の歩調や手元を観察する女ではない。エドワードの視線がさらに鋭くなる。
「お前は、いつからそのような目を持つようになった」
「……つい先ほどです」
嘘ではない。だが、説明にもなっていない。エドワードは答えず、私の手、毒杯、拘束された給仕の順に視線を動かした。ミレーヌは人波の向こうから私を見ている。
先ほど頬を庇っていた手を、今は胸元で握りしめていた。助けられた王太子も、殴られかけた男爵令嬢も、私を信じてはいない。父だけが、こちらから目を逸らし、出口へ視線を走らせた。
「アリシア」
エドワードが一歩近づく。
「事情を聞かせてもらう」
「もちろんですわ」
口の中が乾く。
「ただし、拘束した給仕と二つの杯は、王室法務官が到着するまで同じ者だけに管理させないでください。給仕へ食事も水も与えず、口へ入るものはすべて記録を」
「なぜ、そこまで知っている」
答えれば、さらに疑われる。黙れば、原作と同じように給仕が死ぬ。
「実行犯が一人とは限りません」
広間のざわめきが低くなる。エドワードは私を見据えたまま、近くの騎士へ命じた。
「法務官を呼べ。容疑者は単独で移送せず、近衛二名と記録官をつけろ。杯は別々の箱へ封印する」
騎士が走る。
「そして、アリシアにも記録官をつける」
その声は、命を救われた者の礼ではなかった。取り調べを始める者の声だった。私は震える指をドレスの脇へ隠した。広間の向こうで、父が出口までの人数を数えていた。
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第9話 悪役令嬢断罪裁判・開廷
地下へ下りる階段は、いつまでも終わらないように思えた。松明の赤い光が鉄枷を照らし、一段進むたび鎖の音が石造りの回廊へ反響する。冷気と湿気、藁と錆びた







