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呪いの拳と2人の巫女

呪いの拳と2人の巫女

Last Updated: 2026-09-08 07:00:27
By: not
Ongoing
Language:  日本語16+
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Synopsis

両腕に幾何学模様の呪印をもつ霊術師、黒砂トウ。1人のただの人間として生きようとする彼は望む望まない関わらず、運命の巫女と出会い、呪いの歯車に巻き込まれていくのであった。


Chapter1

パイプ椅子の冷たい感触が、学ランの薄い布地を越えて背中から這い上がってくる。

 体育館特有の、埃と床ワックスが混ざったような匂い。三月半ばの空気はまだ底冷えがするのに、何百人もの人間が吐き出す二酸化炭素のおかげで、空間の上澄みだけがひどく生温かい。

 無機質なマイクのハウリング音が、鼓膜の奥で微かに反響した。壇上では、見覚えのない学年代表が紙の束を震わせながら、抑揚のない声で別れの言葉を並べ立てている。未来、希望、旅立ち。手垢のついた単語が、右の耳から左の耳へと滞りなく抜け落ちていく。

 黒砂トウは、大きく口を開けて欠伸を噛み殺した。

 顎の関節が小さく鳴る。目尻に滲んだ生理的な涙を、人差し指の腹で乱暴に拭った。

 高校卒業式。

 ほどほどの成績で、部活にも属さず、当たり障りのない友人関係を維持し続けた三年間。誰かの記憶に深く刻み込まれることもなく、かといって完全に孤立することもない、完璧に設計された「モブ」としての高校生活。それが今、この退屈な儀式をもって終了しようとしている。

 喜ばしいことだ。面倒事は少ないに越したことはない。

 トウは姿勢を崩し、パイプ椅子の背もたれに体重を預けた。視線を天井の鉄骨から、整然と並ぶパイプ椅子の列へと落とす。黒と紺の制服の海。その中で、不自然な波紋のようになっている一角があった。

 斜め前の列。

 一人の女子生徒が、小刻みに震えている。

 寒さのせいではない。彼女の肩は、内側から膨張する何かを必死に押さえ込むように、ひきつけを起こしたように跳ねていた。前のめりになった背中。膝に置かれた両手は、スカートの生地が破れるほどきつく握り込まれている。

 なにより、その横顔。

 トウの席からわずかに見えるその表情は、卒業という感傷とは無縁の、どす黒い憎悪に歪んでいた。歯を食いしばり、白目を剥き出しにして、壇上の何か――あるいは、見えない虚空の何かを睨みつけている。

 見間違いではない。彼女の輪郭が、微かにブレている。

 陽の光が届かない場所で繁殖するカビのような、粘り気のある黒い影。それが、彼女の足元からじわじわと這い上がり、制服の裾にへばりついていた。

 トウは舌打ちを一つ飲み込み、視線を逸らした。

 関わるな。

 見えなかったことにしろ。

 今日で終わりだ。明日からはもう赤の他人になる。彼女が何を抱え込み、何に食い破られようとしているのか、そんなことは自分の平穏な生活において、一ミリの価値もない情報だ。

 静かに、深く息を吐き出す。肺の底に溜まった不快な空気をすべて吐き出そうとするが、一度網膜に焼き付いた「黒い染み」は、目を閉じても裏側にこびりついて離れなかった。


     *


「トウー! これから遊びにいこーぜ!」

 春の陽光が降り注ぐ校庭。式から解放され、堰を切ったように騒ぎ出す生徒たちの声が、あちこちで弾けている。制服のボタンを引きちぎる者、花束を抱えて泣き崩れる者、スマートフォンの画面に顔を寄せ合うグループ。

 そんな喧騒に紛れ込むように、友人たちがトウの肩をバンバンと叩いてきた。

「お、いいねっ」

 トウは口角を引き上げ、淀みなく軽薄な笑みを作った。

「と言いたいとこなんだけどさ、ちょっと教えてほしいことあるんだわ」

 声のトーンはあくまで軽く。世間話の延長線上にある、無邪気な好奇心を装う。

 トウは顎の先で、人混みの向こうを指し示した。

 校門へと向かう人の流れから外れ、フラフラと校舎の裏側へ向かって歩いていく背中がある。体育館で震えていた彼女だ。足取りは鉛のように重く、うわ言のように唇を動かしているのが遠目にもわかった。親と合流する様子も、友人たちと別れを惜しむ様子もない。完全に孤立した空間を纏って、日陰へと沈んでいく。

「あの子、なんであんな顔してんだ?」

 友人の一人が、トウの視線の先を追いかけ、少し気まずそうに声を潜めた。

「ああ……あの子な。同じクラスだったけど、結構キツいんだわ。確か、合格確実って言われてた第一志望の大学、落ちたんだよ」

「ふーん。まあ、よくある話じゃん」

「親がな。絶対に浪人は許さない、現役で受からなきゃ縁を切るくらいの教育ママらしくてさ。結局、全然名前も聞かないような滑り止めの大学に進学することになったらしいぜ。式の前も、一人でウズウズしてて誰も声かけられなかったんだよ」

 友人は肩をすくめ、早くその重苦しい話題から離れたいというように、カラオケの話へと話題を強引に切り替えた。

 受験の失敗。親の過剰な期待。挫折。

 なるほど、どこにでもある陳腐な不幸のテンプレだ。世界中を見渡せば、毎日何万回と繰り返されている些細な悲劇。

 だが、その程度の理由で「あれ」が漏れ出すだろうか。

 トウは鼻腔の奥に、鉄サビと腐った泥が混ざったような悪臭を感じ取っていた。幻臭だ。彼女の周りにだけ、圧倒的な密度の無念が渦を巻いている。他者の絶望を養分にして肥大化する、泥まみれの感情の残滓。

 放置すれば、いずれ物理的な害をなす。

「なるほどね。よく分かった」

 トウは踵を返し、校門とは逆の方向へと体を向けた。

「わりぃ。先行っててくれ。ちょっと用事思い出したわ。俺も後で合流するからさ」

「はあ? なんだよそれ。早くこいよー」

「奢りなら三分で行く」

「ふざけんな、割り勘だ!」

 友人たちの呆れたような笑い声を背中に受けながら、トウは小さく手を振った。

 歩みを進めるにつれ、周囲のノイズが遠ざかっていく。陽の当たる場所から、冷たいコンクリートの陰へ。

 手の届く範囲の理不尽を見て見ぬふりをする。それが大人になるための賢い処世術だ。頭では完璧に理解している。面倒事に首を突っ込めば、過去の二の舞になる。自分の築き上げた脆い平穏など、たった一つの亀裂であっさりと崩れ去る。

 制服のポケットに突っ込んだ右手。無意識のうちに、人差し指が親指の付け根を強く引っ掻いていた。

「さてと……やりますか」

 溜め息一つ。

 歩みを止めず、トウは校舎の裏手へと続く渡り廊下の陰へと足を踏み入れた。


     *


 校舎裏の旧焼却炉跡地。

 日の光が届かないその場所は、三月だというのに真冬のような冷気で満たされていた。コンクリートの壁に群生する苔が、黒ずんだシミのように張り付いている。

 彼女はそこにいた。

 壁に爪を立て、うずくまっている。

「どうして……どうして……私、が……」

 擦れた声が、湿った空気に溶けていく。

「あんなに、やったのに。寝ないで。遊ばないで。言われた通りに」

 声のトーンがおかしい。人間の声帯が発する周波数から完全に外れた、ガラスの破片をこすり合わせるような不協和音。

「落ちたのよ……私が、落ちるわけが……親が……殺される……」

 ぶつぶつと繰り返される念仏。

 彼女の肩甲骨のあたりから、コールタールのような黒い粘液状の影がどろどろと溢れ出していた。影は彼女自身の絶望を食べて膨張し、首筋を這い上がり、顔の半分を覆い隠そうとしている。制服の白いブラウスが、真っ黒な染みで塗り潰されていく。

 感情の暴走が生み出す、世界への呪詛。『怨念』。

「うぁぁぁ……ぁぁぁぁぁっ!!」

 絶叫。

 彼女の背中から黒い影が弾け飛び、うねる触手のような形をとって虚空を薙ぎ払った。古びた焼却炉の煉瓦が、触手の一撃でパラパラと崩れ落ちる。

「はいはい。そこまで」

 コンクリートの壁に背中を預けたまま、トウは静かに口を開いた。

 声の中に一切の緊張を滲ませず、極めて事務的な、コンビニのレジ打ちのような平坦な調子で。

「楽しい卒業式を台無しにするんじゃねーよ」

 ピタリと、彼女の動きが止まった。

 振り向いたその顔は、すでに半ば人間としての輪郭を喪失していた。目は白目を剥き、口は耳元まで裂け、そこから黒い泥がとめどなく溢れている。

「ワタシハ……ワタシハァァ!!」

 彼女の喉から絞り出されたのは、怨念そのものの産声だった。

 トウは学ランのポケットからゆっくりと両手を出す。

「ありゃりゃ。よっぽど溜め込んでたみたいだな」

 面倒臭そうに首を鳴らす。

「もう完全に取り込まれてるよ」

 次の瞬間、コンクリートの地面が陥没した。

 人間には到底不可能な脚力。制服姿の少女が一足飛びで十メートルの距離を詰め、黒い触手と化した腕をトウの顔面へと叩きつける。

 風を切り裂く轟音。

 トウの身体は、そこに留まっていなかった。

 わずかな重心移動。上半身を後ろに逸らし、顔面すれすれを通過する凶器をやり過ごす。前髪が削り取られるほどの暴風が吹き抜けていく。

 遅れて響く破壊音。トウの背後にあった鉄柵が、ひしゃげてひん曲がった。

「おっと」

 着地と同時に、跳ね起きた彼女が再び獣のように四つん這いになり、トウへ向かって跳躍する。

「まだまだ実体(カラダ)に馴染んでないみたいだな」

 トウは迫り来る脅威から目を離すことなく、学ランの両袖に手をかけた。

 手首のボタンを外し、生地を乱暴に捲り上げる。

 露出した白い肌。その前腕、肘から手首に至るまでの皮膚に、刺青のような黒い幾何学模様がびっしりと刻み込まれていた。皮膚の中に沈み込んだ、何かを封じ込めるための呪具。

 トウは深く、腹の底まで空気を吸い込んだ。

 忘れるな。力を込めるな。ただ流すだけだ。自分はただの管であり、ただの蓋だ。余計な感情を乗せれば、また底が抜ける。

「霊術――」

 肺の空気をすべて言葉に乗せて吐き出す。

「解放(リリース)」

 ドクン、と。

 心臓とは別の脈動が、両腕で跳ねた。

 黒い幾何学模様が、青白い燐光を放ち始める。皮膚の裏側を這い回るような熱が指先まで駆け巡り、空気をビリビリと震わせる。

 少女が三度目の突進を仕掛けてきた。今度は単調な直線ではない。全身の影を巨大な棘のように変形させ、四方八方からトウの退路を塞ぐように迫る。

 トウの目は、そのすべての軌道を捉えていた。

 コマ送りになる世界。

 右足を踏み込む。コンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れる。

 迫り来る無数の黒い棘の隙間に身を滑り込ませた。制服の肩が少しだけ裂けるが、構わない。紙一重で致命傷をかわし、彼女の真正面、完全な死角へと入り込む。

 両手の平を、怨念の核である胸部へと真っ直ぐに向けた。

 青白い光が、夜明けの閃光のように極限まで収束する。

 全体重と、呪印の力を乗せた双掌打。

 ドンッ!!!!

 凄まじい衝撃音が校舎裏にこだました。

 直接触れたのは、ほんの一瞬。

 しかし、青白い光は弾丸のように彼女の胸を貫通し、背中から巨大な光の柱となって噴出した。

「ぐぉぉぉぉぉぉっ!!!」

 断末魔の叫びは、少女のものではない。彼女に巣食っていた怨念そのものが、青白い炎に焼かれ、蒸発していく音。

 空間にへばりついていた腐臭が、一瞬にして消え去った。

 宙に浮いた黒い影が灰のように崩れ落ち、跡形もなく大気中へと溶けていく。


 ドサッ……。


 すべての力を失った少女の身体が、糸の切れた操り人形のように地面へと崩れ落ちた。

 静寂。

 冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 トウは両腕に浮かんでいた青白い光が消え、黒い模様が再び皮膚の奥深くに沈んでいくのを確認した。

 手のひらに残る、微かな弾力。

 トウは無意識に、両手をグーパーと開閉させた。

 静かすぎる。この沈黙は良くない。自分の内側に、空っぽの穴が開きそうになる。誰かの人生の破綻、ギリギリで人間の縁を踏み越えそうになった重みが、手のひらを通して伝わってきてしまう。

 だから、ふさわしい言葉で蓋をするのだ。

「……けっこう大きかったな。役得だな〜」

 わざとらしく、声に出してへらっと笑う。

 誰も聞いていない空間に放り投げたその言葉は、最高に安っぽくて、自分のような軽薄な人間に相応しい。

 少女の胸元が、規則正しく上下しているのを確認する。ただの疲労による気絶。黒い影の気配は完全に消滅し、ただの色白な女子高生に戻っていた。

 トウは捲り上げていた袖を下ろし、手首のボタンを留め直した。

 これ以上の干渉はしない。彼女が目を覚ましたあと、受験の失敗とどう向き合うかは彼女自身の問題だ。自分の役割は、彼女が怪物になって家族を惨殺する未来を、物理的に潰したことだけ。

 足早に校舎の表へと戻る。

 渡り廊下を抜け、中庭の近く。まだ写真を撮り合っている生徒たちの群れから少し離れた場所に、担任の教師の姿を見つけた。

 トウは表情筋を緩め、少し慌てたような声を作った。

「あ、先生! あっちの裏庭のところで、誰か倒れてましたよ! たぶん貧血とかじゃないスかね!」

「えっ、本当か!? すぐ行く!」

 教師が複数人、慌てた様子で校舎裏へと走っていくのを見送りながら、トウは小さく息をついた。

 これで完璧だ。誰も黒砂トウが何をしたか知らないし、関心も持たない。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリには、友人たちから「まだかよ」「早くこい」というスタンプが連打されていた。

「さてと、カラオケ行きますか〜!」

 春風の中、トウは背筋を伸ばし、わざとらしく明るい声を上げて歩き出す。歩幅は広く、足取りは軽く。

 この日、黒砂トウは高校を卒業した。

 明日からも続く、底知れない退屈と、秘密の境界線の上に立つ新たな日々へ向かって。何も変わらない、平穏無事なモブの顔を顔面に貼り付けたまま。


     *


 外界の光を一切拒絶した、深く冷たい地下空間。

 むき出しの土と、鉋の跡も生々しい真新しい白木で組まれた柱。極端に湿度の低い空気が、研ぎ澄まされた刃物のように肌を刺す。

 天井からは一枚の岩盤が迫り、四方の壁には無数の御札が規則正しく貼られている。壁の随所に置かれた蝋燭の火だけが、この空間における唯一の光源だった。

 ゆらゆらと揺れる橙色の光の中、巨大な幾何学模様が描かれた石の陣。

 その中心に、白峰ユキノは座していた。

 美しく艶やかな黒髪に白衣に緋袴。肩からは何重にも折り重なった大仰な千早を羽織り、艶やかな黒髪は銀の髪飾りで一つに纏められている。彼女の姿は、この時代のどんな風景にも属さない、切り取られた古い絵巻物のような異質さを放っていた。

 彼女の膝の上に置かれた細い両手は、石像のようにピタリと静止している。

 氷巫女。

 世の淀んだ怨念を監視し、秩序の崩壊を防ぐための生きたシステム。

 陣の模様が、ひとたび脈打つように淡い光を帯び、そして消えた。

 蝋燭の炎が一斉に揺らぎ、見えない風がユキノの頬を撫でる。

 音もなく、祭壇の背後から黒衣の神職が音もなく姿を現した。彼は深く頭を下げたまま、一切の感情を排した声で報告を紡ぐ。

「……極東のB地区にて、観測されていた澱みの反応が消失しました。対象の魂魄の変質、並びに怨霊化を待たずしての外的要因による『消滅』。我々の管轄外の力によるものと推測されます」

 ユキノは目を閉じたまま、微動だにしない。

 澱み。人間の負の感情が集積し、臨界点を超える瞬間。それを規定の通りに刈り取り、被害を最小限に抑えつつ世界という巨大な水槽の濁りを濾過する。それが彼女たち組織の役割であり、絶対の正義。

 個人の勝手な介入など、この精緻なシステムにおいては「不純物」でしかない。

 許されないこと。

 許してはならないこと。

 深く、冷たい息を吸い込む。肺臓が凍りつくような冷気で満たされるのを感じながら、ユキノはゆっくりと目を開いた。

 黒真珠のように深い瞳に、蝋燭の炎が反射して冷たく光る。

「……わかっています」

 口からこぼれ落ちた声は、鈴の音のように澄み切っていた。

 そこに怒りはない。焦燥もない。

 あるのはただ、果てしなく広がる氷原のような、悲壮なまでの決意だけ。

 一個人の気まぐれな優しさなど、世界の均衡を崩す羽ばたきでしかない。どれほど残酷であろうとも、全体の秩序を守るために、異物は排除されなければならない。自らの内にある無意識の安堵や、名前も知らない誰かが救われたかもしれないという僅かな温もりなど、決して認めてはならない。

「私が、断ちます」

 氷巫女はそう呟き、ただ前だけを見据えていた。

 冷たい地下室に、蝋燭の火がパチリと爆ぜた。

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