Synopsis
夏休み。とある兄妹のいつもとほんの少しだけ違う出来事
Chapter1
カーテンの隙間から差し込む光が、床のフローリングを白く焼き焦がすように照らしている。
窓の外では、陽炎がアスファルトの熱を吸い上げて揺らめいていた。網戸越しに聞こえる蝉の声は、もはや音というよりは、耳の奥を圧迫する物理的な振動に近い。室外機の唸るような低い金属音が、部屋全体の空気を微かに震わせている。
「いかに夏休みといえど、この猛暑には勝てない」
純弥は、ガラス窓に額を押し当てるようにして外を眺めた。冷たいガラスの感触も、すぐに自分の体温でぬるくなっていく。
「クーラーという名の、文明が生んだ悪魔の機械。こいつは人類から、偶然の出会いという美しい瞬間を奪っているのではないだろうか」
「……なにバカなこと言ってんのよ、兄ちゃん」
背後から、低く抑えられた声が返ってきた。
振り返ると、ベッドの上に寝そべった妹の理沙がいた。薄手のTシャツとショートパンツという、およそ緊張感のない格好で、液晶画面の光を目元に浴びながらスマートフォンをいじっている。シーツの上でだらしなく投げ出された白い足が、冷房の風を受けて時折ぴくりと動く。
純弥は首筋の汗を手の甲で拭い、大きく息を吐き出した。
「なんでお前が俺の部屋にいるんだよ。自分の部屋に帰れ」
「あたしの部屋のエアコン、昨日から変な音して冷たい風が出ないの。あんな部屋にいたら熱中症で死んじゃう。だからしょうがないでしょ」
理沙は画面から目を離さないまま、親指の先で画面をスクロールさせる。
「むしろ、兄ちゃんが気を利かせてリビングかどこかに行けばいいじゃない。ここはあたしが一時的に占領させてもらいます」
「なんで俺が自分の部屋から追い出されなきゃいけないんだよ。それに、俺だって一歩も出たくない。今日の最高気温、三十八度だぞ。外に出たら溶ける」
「大丈夫、大丈夫」
理沙はスマホを持ったまま、もう片方の手でひらひらと適当に手を振った。
「兄ちゃんは頑丈だから。四十五度くらいまでは平気で耐えられるよ」
「ねえ、理沙ちゃん」
純弥は半目で妹を見下ろした。
「お兄ちゃん、体格はまあ、ゴリラっぽいって言われるけどね。中身は繊細な人間だからね。普通に熱中症で倒れるからね」
「ええ?」
理沙はようやく顔を上げ、わざとらしく目を見開いて見せた。
「兄ちゃん、人間だったんだ。新種の霊長類かと思ってた」
「うわあ、殴りてえ」
純弥は拳を軽く握りしめ、天井を見上げて深いため息をついた。ここで本当に暴力を振るうわけにはいかないのが、長男という生き物の悲しい習性だった。
窓の外に広がる青空は、どこまでも残酷に澄み切っている。積乱雲が遠くで白く輝いており、いかにも夏休みらしい光景だった。
「ああ……本当なら、今頃は可愛い彼女ができて、市民プールとかで浮き輪に乗ってぷかぷか浮かびながらデートしてるはずだったのに」
「は? プールでデート?」
理沙が怪訝そうな声を出す。
「動物園の間違いじゃないの? 檻の中から外を見てる感じで」
「だからゴリラじゃねえって言ってんだろ!」
「だいたいさ」
理沙は再びスマホに視線を戻し、呆れたように鼻を鳴らした。
「兄ちゃん、今まで一度も彼女できたことないじゃん。高校三年生、最後の夏休み。友達もみんな最後の夏を楽しんでるのに、一人きりで部屋にこもって……ああ、かわいそうに」
「お前だって彼氏なんかいたことないだろ」
純弥の反論に、理沙の指がぴたりと止まった。
ゆっくりとスマートフォンの画面が伏せられ、理沙の唇の両端が吊り上がる。挑発的な、何かを勝ち誇ったかのような笑みだった。
純弥の背中に、嫌な汗が流れた。
「ま、まさか……いるのか?」
「……さあね」
「お前、まだ高校一年生だぞ。入学してから数ヶ月しか経ってないだろ。早すぎる!」
「はぁ? 兄ちゃん、いつの時代の人? 昭和からタイムスリップしてきたの? 今どき高校生にもなって恋人の一人もいないなんて、悲しすぎるでしょ」
理沙はふんと鼻で笑い、再び画面に指を走らせ始めた。
純弥は奥歯を噛み締めた。胸の奥で、何とも言えない焦燥感と敗北感が渦巻く。しかし、ふと妹のここ数日の行動を思い返してみる。
夏休みに入ってから、すでに一週間が経過している。
「なあ」
「なに?」
「この一週間、お前がまともに外出する姿を見てないんだけど」
理沙の肩が一瞬、強張ったように見えた。
「その間、ずっと家の中でゴロゴロして、リビングと俺の部屋を往復してるだけだよな。本当に彼氏なんて存在すんのか?」
「べ、別にいいじゃん!」
理沙は声を少し上ずらせ、スマホを胸元に抱え込むようにして身を起こした。
「毎日会う必要なんてないの。こうやって、SNSでメッセージとかやり取りしてるんだから。繋がってれば問題ないの!」
「ふーん」
純弥の目は疑いの色を失わなかった。
「じゃあさ、いつデートに行く約束をしてるんだ? 次のデートの予定は?」
「そ、そんなの、兄ちゃんに教えるわけないでしょ! プライバシーの侵害!」
理沙はベッドの上でくるりと背を向け、壁の方を向いてしまった。その背中が、どことなく小さく見える。
純弥は腕を組み、記憶の引き出しを探った。そういえば、数日前にリビングで聞いた会話があった。
「……そういえば、こないだ彩香ちゃんがうちに来たとき、言ってたな」
理沙の背中がびくっと跳ねた。
「お前ら、夏休みの予定が何もないからって、二人でどっか行く計画立ててたらしいじゃねえか。彼氏がいない同士で」
「はあ!?」
理沙は弾かれたように起き上がり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「あいつ、なんで兄ちゃんにそんなこと話してんのよ! 余計なことを!」
怒りに満ちた表情で純弥を睨みつけた瞬間、理沙は動きを止めた。
目の前にいる兄は、意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「あっ……」
理沙は自分の口を手で押さえたが、もう遅かった。
「語るに落ちたな、妹よ」
純弥は指をパチンと鳴らし、満足そうに笑った。
「彩香ちゃんはそんなこと一言も言ってないよ。俺のただの鎌かけだ。見事に引っかかったな」
「うぐぐぐ……!」
理沙は言葉にならない声を上げ、ベッドのシーツを両手で強く握りしめた。
彩香は理沙の小学校からの幼馴染で、この佐藤家にも自分の家のように頻繁に出入りしている。高校に入ってからも同じクラスになり、二人は常に一緒に行動していた。夏休みに入ってからも一度、理沙の部屋のエアコンが壊れる前に遊びに来ていたのだ。その際、リビングで麦茶を飲んでいた彩香が「今年の夏休み、本当に予定なくて暇なんですよね」とこぼしていたのを、純弥は覚えていた。
「だいたいさ!」
理沙は顔を真っ赤にしたまま、ベッドの上で膝立ちになった。
「なんで兄ちゃんが彩香とそんなお喋りしてんのよ。あの子は純粋で優しいんだから、兄ちゃんみたいなゴリラが近づいちゃダメでしょ!」
「話しかけてきたのは向こうだけどな。『お兄さん、大学受験の勉強大変ですか?』って」
「あの子は誰にでも優しいの! 勘違いしないでよね!」
理沙はそう怒鳴り散らした後、急に気まずそうに視線を下に落とした。ベッドの端のパイプを爪でカリカリと引っ掻きながら、蚊の鳴くような声で呟く。
「……なんであの子は、こんな奴のこと……」
「え? なんだよ?」
純弥が聞き返すと、理沙は再びベッドに倒れ込み、壁のポスターの方を向いてしまった。
「なんでもない。知らねえ」
投げやりな声だった。
言えるはずがなかった。
彩香が時折、純弥のことを気にするような視線を向けていること。純弥が部活で遅く帰ってきたとき、ベランダからその姿を目で追っていたこと。それを指摘したとき、彩香が恥ずかしそうに顔を赤らめて「お兄さん、かっこいいよね」と言ったこと。
親友が自分の兄に好意を抱いているかもしれないという事実。そして、もし二人が仲良くなってしまったら、自分の居場所がなくなってしまうのではないかという、子供じみた不安。そんな独占欲にも似た感情を、口にするのは絶対に嫌だった。
理沙は枕に顔を埋めたまま、天井のエアコンの吹き出し口を指さした。
「暑い。温度下げてよ」
「ダメだ。母さんから、電気代が跳ね上がるから設定温度は二十七度以下にするなってきつく言われてる。破ったら明日の晩飯が抜きになるぞ」
理沙は枕から顔を出し、深く、深い溜息をついた。
「……暑いね」
「ああ、暑いな」
二人の会話が途切れると、部屋の中は再び室外機の唸りと蝉の声に支配された。窓から差し込む陽光は少しずつ角度を変え、フローリングの上の光の帯を移動させていく。
沈黙が数分間、続いた。冷房の風が、理沙の背中で揺れる髪を小さく揺らしている。
「……そういえばさ」
理沙が壁を向いたまま、ぽつりと呟いた。
「なに?」
純弥は学習机の椅子に深く腰掛け、椅子の背もたれに頭を預けた。
理沙は少し躊躇うように、スマートフォンの角を指先でなぞった。
「覚えてる? 中学の頃……夏休みにおじいちゃんの家に行ったときのこと」
「じいちゃんの家?」
「うん。あのときさ、夜に裏の林にカブトムシ捕りに行こうって話になって」
純弥は天井の木目を眺めながら、記憶を辿った。確かに中学二年の夏、母方の実家である山あいの古い家に家族で帰省した。周囲には街灯もなく、夜になると完全な闇に包まれるような場所だった。
「なんかあったっけ?」
純弥の言葉に、理沙の肩が小さく動いた。
「……忘れたの?」
「いや、だって四年前だろ? カブトムシは捕まえた気がするけど。クワガタもいたっけな」
「そうじゃないよ」
理沙はゆっくりと身体を起こし、ベッドの上に座り直した。その瞳は、いつになく真剣で、どこか寂しげだった。
「あんとき、夜の林で急に懐中電灯の電池が切れてさ。周り真っ暗になって、あたし、怖くて泣きそうになって動けなくなったじゃん」
「ああ……あったな、そんなこと。お前、俺のTシャツの裾をちぎれるくらい引っ張ってさ」
「そのときだよ」
理沙は純弥の目をまっすぐに見つめた。
「兄ちゃんがあたしに言ったこと、本当に覚えてないの?」
純弥は眉をひそめ、記憶を整理しようとした。だが、出てくるのは蚊に刺された痒みや、草の匂い、暗闇の中での心細さといった断片的な感覚ばかりで、自分が放った具体的な言葉は一向に思い出せない。
「……ごめん、思い出せないわ。なんて言ったんだ?」
理沙はしばらく無言で純弥の顔を見つめていた。
その瞳の奥に宿っていた小さな期待のような光が、静かに消えていくのが分かった。
「……ばーか」
理沙はベッドの上にあったクッションを掴み、純弥の顔面に向けて力任せに投げつけた。
「うおっ!?」
クッションは純弥の顔に命中し、床に転がった。
「なにするんだよ!」
純弥が抗議の声を上げるより早く、理沙はベッドから飛び降り、素足でフローリングを叩くようにして部屋を出て行った。ドアが乱暴に閉められ、バタンという鈍い音が響いた。
「なんなんだよ、一体……」
純弥は床に落ちたクッションを拾い上げ、頭を掻きむしった。
妹がいなくなった部屋は、急に広くなったように感じられた。エアコンの風だけが規則的に吹き出し、開いたままのノートの端を小さく揺らしている。
窓の外では、蝉の声が一層激しく、部屋の隅々まで染み渡るように鳴り響いていた。
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開け放たれた窓から入り込む風には、心持ち乾いた匂いが混じるようになっていた。それでも日差しの強さは衰えを知らず、庭の木々からは、命を振り絞るような蝉の声が容赦なく降り注いでいる。
理
階下から響く金属音と、聞き慣れない男たちの低い話し声が、床板を通して微かに伝わってくる。
理沙の部屋には、二人の業者が入っていた。連日の猛暑に耐えかねた父親がようやく手配した、エア
アスファルトが溶け出しそうな、そんな午後だった。
ぎらぎらと照りつける太陽。白く焼けたコンクリート。空気を震わせる蝉の声の洪水。市民プールの入り口に立った純弥は、なぜ自分はここにいなけれ
すっかり日の落ちた住宅街を歩き、玄関のドアを開けると、家の中は昼間の熱気がまだ抜けきらずに澱んでいた。
階段を上り、自分の部屋のドアを開ける。冷気とともに、見慣れた後ろ姿が目に飛び込







