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アスタルロサ王国の国境とヴァーレンス王国の国境

アスタルロサ王国の国境とヴァーレンス王国の国境

Last Updated: 2026-06-05 10:20:34
By: 白い月
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Language:  日本語12+
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Synopsis

天馬乗りのアリカ=シュルツェ=ドレッシャー。アスタルロサ王国からの亡命者だ。国境警備をしていた彼女は、ヴァーレンス王国の国境警備に驚く。


Chapter1

その白は、優しさなどではなかった。
 視界のすべてを奪い、肺を刺し、思考を停止させる暴力的なまでの無色。火明星(ほあかりぼし)、アスタルロサ王国南端の海岸線。七千キロ先の対岸にあるはずの楽園——ヴァーレンス王国を望む凍てついた崖の上。
 そこに立つ警備塔は、今や巨大な氷の鍾乳石のような惨めな姿を晒していた。

「……く、……」

 アリカ=シュルツェ=ドレッシャーは、金属製の籠手に息を吹きかけた。
 吐息は白く凍り、すぐに風にさらわれて消える。かつて黄金の装飾が施されていた青い胸当ては、今は雪を纏ってくすんだ色に変わっていた。
 手足の感覚はとうに消え、ただ骨の芯まで響く冷気が、彼女の騎士としての正気を辛うじて繋ぎ止めていた。

 波の音。
 断崖の遥か下で、真っ黒な海が吠えている。
 ここからヴァーレンスまでの距離、七千キロ。絶望的な数字だった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★



 定期連絡用の魔導端末からは、軍の中央からの無機質な音声が流れていたが、それはもう「軍」としての体をなしていなかった。

『報告します……ジム隊長とドウェイン隊長が……まだ殴り合いを……もう、誰も止められません……』
『アメイモンが自壊。治癒を待たずに爆散。……もう駄目だ、陛下も王笏を落として笑っているだけだ……』

 あの噂。後に「三十パンチ事件」と語り草になるであろう、アスタルロサ軍部トップたちの泥沼の内輪揉め。
 自分たちは何を守ってきたのか。
 規律、誠実、揺るぎない王への忠節。そのすべてが、たった一つの、それも完膚なきまでの敗北によって瓦解し、今はオイルと泥と涙にまみれた茶番劇へと成り下がっている。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★



(終わったのだ)

 アリカは崖の縁へと歩みを進めた。
 一歩踏み出すたびに、雪の下で氷が軋む音がする。
 足元の雪を蹴散らし、海を見下ろす。そこには希望などなかった。ただ、果てしなく広がる死の色があるだけ。

「……主よ」

 命令されるだけの人生。
 斬り伏せるだけの日常。
 一度も、自分が「欲しい」と思うものを手に入れることなく、こうして虚無へと還るのか。

 傍らで、うな垂れていたペガサスの首筋を、アリカは静かに撫でた。
 相棒も、もはや限界に近かった。翼には霜が降り、自慢の白い毛並みも冷気に晒されて硬くなっている。本来ならばこんな天候で空を飛ぶなど自殺行為だった。
 だが。

「ここで、雪の一部になって終わるか。……それとも」

 それとも、あの七千キロの暗闇を越えるか。
 死を待つための忠節に、何の価値がある。
 自分を裏切り、国を裏切り、自らの魂だけを守るために翼を広げるのは——罪か、あるいは救いか。

 アリカの脳裏に、ヴァーレンスの空気がふっと過った。
 噂に聞く、霊波動と「魂」の等価交換が行われる国。
 戦うことではなく、幸せになることが義務だと豪語する、甘美なまでに退廃的な、けれど生命力に満ち溢れた国。

「ヴァーレンス、……。一度でいい。誰のためでもない、私のためだけに。暖かい甘いお菓子というやつを……頬張ってみたかった……」

 喉が詰まり、熱いものが頬を伝いそうになる。しかし、それさえも風に冷やされて結晶へと変わっていく。
 アリカは佩いていたアックスを強く握り直した。

 その時。
 七千キロ離れた対岸、ヴァーレンス王宮の一角で。

「ん? 風向きが面白いことになっているな」

 窓辺に立ち、芳醇な赤ワインを揺らしていたのは、公爵ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒだった。
 外は小雨の降るヴァーレンスの暖かな夜だったが、彼の青い瞳は七千キロ先の北の極寒を、正確に捉えていた。
 彼自身の肉体を霊波動に変換すれば、その距離は三分足らず。だが今、彼はそれを必要としなかった。

 ただ、一人の少女の魂が発した、強烈なまでの「生」への抗い。それが、彼の手にするワインの液面をわずかに揺らした。

「ミハエルさん! ミハエルさん、どしたーん!」

 賑やかな叫び声と共に、桜色の十二単を翻して桜雪さゆが乱入してきた。
 頭には太ったキツネの子どもを乗せ、桃色の髪をなびかせている。
 彼女は雪女だ。けれどその霊気は今、最高潮に「熱く」燃え上がっていた。

「見えたよ! 北の果て、あのお腹を空かせた、お菓子が大好きそうな女の子の魂が見えたのーん!」

「やかましいですよ。さゆさん」

 ソファに優雅に腰掛けていた漆黒の翼の持ち主、カーラが不機嫌そうに槍の手入れを止めた。黄金の目が、モニター越しの映像ではない「真実」を見通すように虚空を見ている。
 かつてのヴァルキリー。今は下界の飯に夢中の守護者。
 彼女は、魂の「味」には誰よりも敏感だった。

「気持ち悪ッ!! カーラが口調おかしい~~!」

「うるさいわっ! このアホ女! 何言っても暴走泊めてくれないから口調変えてみたんじゃ!!

 ふん。で、いい香りじゃないか。……あの崖っぷちにいる子、魂をほんの少し削りながら祈ってるわ。

 絶望しているが、全然死にたいって顔じゃないな。

 自分という形を、まるごと甘い蜜の中に放り込みたいって顔だ。嫌いじゃない、そういう執着は」

「おっと。お姫様の救出なら、オレの出番か?」

 壁に寄りかかり、滅炎剣と滅氷剣を軽快に回していたフレデリックが口端を上げた。
 緑の瞳にいたずらっぽい光が宿る。
 彼にとって、女性の救出こそがマジックナイトとして最高の仕事だった。

「7,000kmだぜ、フレッド。泳いで行くか?」
 ミハエルがからかうように問う。

「泳ぐ? まさか。オレはレディのところに辿り着く時は、最高の装いで行きたいんだよ。ミハエル、あんたの力を少し貸してくれりゃ、その7,000kmを『廊下』くらいの距離にしてやるぜ」

「……ま、放っておくには少々、不憫すぎる魂だな。……カーラ。君の言う『魂の味』とやらは、ショコラ一つで変容するか?」

「甘いぞ。チョコレート三つだ」
 カーラは不敵に笑うと、背中の漆黒の翼を大きく広げた。

「あのさ、ミハエル公。ヴァーレンスってのは、金じゃなくて『心』で食い物が食える国なんだろ? あの子、心は磨り減ってるけど、根はすごく綺麗よ。連れてきたら、腹いっぱい高級菓子をご馳走してあげなさいな。支払いは、わたしが彼女の背中を支えてやる対価ってことで」

 吹雪の密度がさらに増し、崖の上のアリカは視界を完全に奪われた。
 
「……よし。行こう」

 アリカはペガサスに跨がった。
 脚にかかる鎧の重さが、死への重りのように感じられる。
 7,000km。絶望の距離。
 だが、崖の上で黙って死を待つより、海に飲み込まれる方がまだましだった。
 せめて翼が折れるまでは、ヴァーレンスの方角へ手を伸ばし続けたい。

「飛べ!!」

 彼女の叫びに応え、ペガサスが力を振り絞って跳躍した。
 断崖の向こう、真っ暗な海原へ向けて。
 氷の結晶が皮膚を切り裂く。風が馬の脚を奪おうとする。

(冷たい。寒い……。誰か……)

 祈りは、届かなかったはずだった。アスタルロサの神はもう、あの「三十パンチ事件」の現場で腹を抱えて笑っている。
 だが。

「——よお、青い騎士ちゃん。そっちは随分、景色が悪いみたいだな」

「!? ……だれ……!?」

 真っ暗な、そして極寒の海の上。
 ペガサスの隣。そこに、浮遊する漆黒の騎士がいた。
 フレデリック=ローレンス。
 彼はまるで、午後の散歩でも楽しんでいるかのように、空中に立ち尽くし、片手を上げて挨拶をしてきた。

「フレ……? 魔法使い、……? ここは海上……1,000km地点……のはず……」

「1,000km? ハッ、10,000kmでも20,000kmでも変わらねえよ。俺のダチ(ミハエル)の慈悲ってのは、距離なんてもんに縛られないんでね」

 フレデリックが剣を軽く横に振るった。
 滅氷剣。
 その瞬間、アリカを取り囲んでいた吹雪が、物理法則を無視して消滅した。
 風が止んだのではない。「冷気という概念」が、その空間から削ぎ落とされたのだ。

「もんもん! ももももーん!」

 突然、夜空から桜色の爆発が起こった。
 桜雪さゆだ。彼女は空から舞い落ちてくるなり、アリカのペガサスの翼を抱きしめた。

「女の子、見ーつけたっ! あ、その馬さんお腹冷え冷えだよ。かわいそうだから、わたしがあっためてあげる! はいっ、火炎千本桜——極小出力っ!」

「あち、熱いっ!? 馬が……!?」

「大丈夫だよお、寿命までは燃やさないからねっ! 妖怪に任せなさいって! ももももーん!」

 驚愕に目を見開くアリカ。
 馬の翼から蒸気が立ち上がり、冷たかった脚が生き返ったような温もりを取り戻していく。
 何なのだ、この者たちは。
 あまりにも理不尽。あまりにも非道なまでの強さ。
 これが、軍が恐れ、そして一瞬で殲滅されたヴァーレンスの……バケモノたちの正体か。

「……ふん。生意気に槍なんか持って。あなた、騎士でしょ?」

 上空。そこには巨大な黒い翼を持つ、カーラがいた。
 彼女の黄金の目が、射抜くようにアリカを見ている。

「そんな重い防具着込んで、死ぬ気満々なのが魂から滲み出てる。ヴァーレンスに来るなら、まずその無駄な重り(プライド)を捨てなさいな。槍を貸しなさい。代わりに、これでも持って、生に固執することね」

 ブラックヴァルキリー・カーラが投げ捨てたのは、一本の金色の棒のようなもの。
 受け取ると、それは驚くほど甘い香りがした。

「……? これは、木……ですか?」

「ちがうな! 高級シナモンチュロス! まだ揚げたてなんだから、口に入れろ。魂の磨り減った女なんて、見てて不味そうだわ」

 アリカは困惑の極みにいたが、空腹と冷えきった体が、本能的にその「甘い棒」を口へと運んだ。

 カリッ。

「っ……!!」

 衝撃。
 脳が弾けるような感覚だった。
 濃厚な砂糖の甘み、シナモンの香り。
 バターの豊潤な脂が、カサカサだった喉を滑り降りていく。
 
「……ああ、……美味しい……、おいしい……です……」

 頬を伝ったのは、もはや氷の結晶ではなかった。
 本当の涙。熱を帯びた、生身の人間の水分。
 
「へへっ、いい顔になったな」
 フレデリックが肩を叩いた。

「さあ、案内するぜ。あとの六千キロは……ミハエルの旦那が『廊下』に変えちまった。向こうの出口まで、三秒くらいかな」

アリカが前を見た瞬間。
 海を隔てた暗闇に、巨大な「門」が開いた。
 七千キロの距離を零にする、霊波動の超越技。
 その門の向こう側には、昼間のような明るい光が満ちたヴァーレンスの王都、セント・ヴァレンティナの夜景が輝いていた。

「あのアスタルロサっていうゴミ溜めとは、ここでおさらばだ」
 カーラが嘲笑うように空へ舞い上がった。

「あっちに行ったらね、おっぱいぷるーんってすると反応おおありな公爵様が待ってるから、アリカちゃんも頑張って驚かせようね! おままごと開始だよぉお!」
 さゆが甲高く笑い、キツネを跳ねさせる。

 アリカは、温かいチュロスを強く握りしめた。
 手のひらに残るチュロスの熱。背中を撫でてくれる、ヴァーレンスの理不尽で温かな強者たちの視線。

「了解……、いたしました……」

 アスタルロサの騎士道。アスタルロサの訓練。
 そのすべてが、この「一口の甘み」に負けたことを、彼女は誇らしく、そして清々しく認めた。
 ペガサスが力強く羽ばたいた。
 一秒、二秒。
 
 閃光の中を駆け抜ける、金色の編み髪。
 境界線を、魂が跳び越える——。

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