Synopsis
期間限定のスパイの妹ができてしまった女子大生の話。
Chapter1
夕刻の私鉄沿線は、湿り気を帯びた排気ガスと、どこかの家から漏れ出す安価な揚げ物の油の匂いに満ちていた。アイはカフェの制服を詰め込んだ重いトートバッグを肩に食い込ませ、アスファルトに落ちる自分の影を数えながら歩く。大学二年生の日常は、講義とアルバイトの反復によって摩耗し、彼女自身の輪郭を曖昧にさせていた。アイは自分が、他人の顔色を窺うためだけに存在している透明な器のように感じることがある。駅前の喧騒を抜け、街灯の間隔が広くなる住宅街の入り口に差し掛かったとき、その影が不自然に重なった。
「ねえ、少し時間をもらえるかしら」
低く、しかし鼓膜の奥に直接響くような質感の声だった。アイが足を止めると、視界の端に深い庇のついた帽子が現れる。その下にある顔を覗き込んだ瞬間、アイは肺の中の空気が凍りつくような錯覚に陥った。そこにいたのは、自分だった。正確には、自分よりも数段険しく、鋭利な刃物のような光を瞳に宿した、もう一人の自分だ。左右の目の間隔、鼻梁の角度、唇のわずかな厚みの偏りまで、鏡の中に閉じ込めていたはずの虚像が、実体を持って街路樹の陰に立っている。アイは言葉を失い、喉の奥が痙攣するのを感じた。帽子を深く被り直したその女性――ノリスと名乗った存在は、アイの混乱を無視して距離を詰める。
「驚くのは後にして。今、私はひどく困っているの。一か月だけでいい、あなたの部屋に私を置いて。断る理由はいくらでもあるでしょうけれど、それ以上に私がここに留まるべき必然性があるのよ」
ノリスの言葉には、拒絶を許さない重力があった。アイは「警察」や「助けて」という単語を脳内で検索したが、指先ひとつ動かせない。ノリスの細い指がアイの手首を掴んだ。その体温は驚くほど低く、一方で脈動は機械的なまでに正確だった。アイは押しに弱いという自覚がある。それは単なる性格の問題ではなく、他人の意志に抗う際に生じる精神的な摩擦熱に耐えられないという、一種の生存本能に近い欠陥だった。ノリスの放つ圧倒的な「個」の強度の前に、アイの薄弱な自我はあっけなく瓦解した。二〇二号室の鍵を開けるとき、アイの手は小刻みに震えていたが、背後に立つノリスの気配がそれを強引に前へと進ませた。
***
ノリスにとって、この出会いは計算された偶然の産物であった。組織の任務において、追跡を断ち切り、観測網から完全に消失するための「穴」が必要だった。潜伏先を探してこの街を徘徊していた数日前、彼女は自分と全く同じ造作を持つ女、アイを見つけた。それは確率論を超えた奇跡というよりは、冷徹な戦術的選択肢として彼女の眼裏に焼き付いた。アイという個体は、ノリスが捨て去った「脆弱さ」をそのまま煮詰めたような存在に見えた。
アパートのドアが閉まり、内側から鍵がかかる。その金属音を合図に、ノリスは全身を縛り付けていた緊張の糸を緩めた。彼女にとって、外界は常に敵意に満ちた情報の戦場だが、この四畳半と六畳の古びた空間は、一時的に世界の理から切り離された空白地帯となる。
「……あの、本当に一か月だけなんですよね?」
アイがおずおずと差し出した問いを、ノリスは背中で受け流した。彼女はすでに、自分の居場所を定めるように部屋の隅々を視線で走査している。バスルームの扉を開け、湿った空気を確認すると、ノリスは躊躇なく身に着けていたものを脱ぎ捨て始めた。アイが悲鳴に近い声を上げて顔を背けるのも構わず、彼女は布の拘束から肌を解放していく。
シャワーを浴び、数日分の垢と火薬の匂いを洗い流した後、ノリスは一糸まとわぬ姿で脱衣所から出てきた。濡れた髪から滴る水滴が、アイが磨き上げたフローリングに小さな染みを作っていく。アイは壁際に身を寄せ、自分の体と全く同じ曲線を描くその肢体を直視できずにいた。しかし、ノリスにとっての肉体は、ただの機能的な容れ物に過ぎない。彼女はアイの怯えを愉しむ風でもなく、ただ解放感に浸りながら、無防備な姿で部屋の中を歩き回った。
「服、貸して。それから、寝る場所はあっちの部屋でいいわね」
ノリスの言葉は命令であり、同時にこの空間における新しい法律だった。アイは自分のクローゼットから、最も地味なスウェットを取り出し、震える手で差し出した。自分と同じ顔をした女が、自分の生活を侵食していく。その事実に恐怖を感じながらも、アイの心のどこかでは、自分一人では抱えきれなかった「日常」という重荷を、この強引な侵入者が半分持ち去ってくれたような、奇妙な安堵が芽生え始めていた。
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アイが恐る恐るまぶたを持ち上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまで銃を構えていた恐ろしい男たちが、全員、糸の切れた人形のように床に転がっている。そして、その
鉄錆と古いコンクリートの湿った匂いが、肺の奥にまでこびりつくようだった。アイは、ハヤシの背中に隠れるようにして、廃ビルの薄暗い階段を一段ずつ下っていた。心臓の鼓動が耳元で激しく打ち鳴らされ、自
時計の針が午前三時を回った頃、アイはリビングのソファで膝を抱えていた。テレビもつけず、スマートフォンの画面を眺めることすら忘れて、ただ玄関のドアノブを凝視し続けていた。ノリスが戻らない。
カレンダーの数字に斜線が引かれるたび、部屋の空気は少しずつ希薄になっていくようだった。アイにとって、自分と同じ顔を持つ居候――ノリスとの共同生活は、当初の戦慄を通り越し、今や生活の肌触りの一部







