空を盗む少女
Synopsis
若きドーラが、愛する夫や信頼できる仲間と共に「ドーラ一家」を築き上げ、伝説のラピュタを追い求める波乱万丈の冒険譚。
Chapter1
産業革命の煤煙が、港町バロンの空を永遠に鉛色へ塗り潰していた。海から吹き寄せる湿った風は、塩分と石炭の粒子を孕んで街のあらゆる隙間に潜り込み、人々の肺を黒く染め、かつて繁栄を極めた邸宅の壁面を無慈悲に侵食していく。ドーラが立ち尽くしている地下室の空気は、そうした地上の喧騒から切り離され、数十年の時を止めたまま澱んでいた。湿った石壁の匂いと、ネズミが齧り残した羊皮紙の死臭。18歳になったばかりの彼女の指先は、冷え切った空気の中で白く強張り、手にしたランプの火影が、乱雑に積み上げられた木箱の影を巨大な怪物の脚のように壁面へ投影させていた。父が死んでからというもの、この屋敷は緩やかな死を待つだけの骸骨と化していたが、地下の奥底だけは、まだ何かが呼吸を続けているような不気味な生気が漂っている。
彼女は、積み上げられたガラクタの山を力任せに押し退けた。埃が肺の奥まで入り込み、激しい咳き込みが静寂を切り裂く。その指が、分厚い帆布に包まれた巨大な筒に触れた。紐を解き、中から現れたのは、藍色の紙に白い線で描かれた、緻密にして狂気じみた幾何学の集積だった。タイガーモス号――父がその全生涯と莫大な財産を注ぎ込み、結局は未完成のまま地上に遺していった空飛ぶ船の設計図である。線のひとつひとつには、設計者の執念が宿っていた。揚力を生むための翼の湾曲、空気を切り裂くための舳先の鋭さ、そして動力伝達系を繋ぐ無数の歯車の噛み合わせ。それは単なる機械の図面ではなく、重力という名の呪縛から逃れようとした男の、絶望的なまでの祈りの記録だった。
設計図の傍らには、革表紙が擦り切れた古い航海日誌が転がっていた。ドーラがそれを開き、ランプの火を近づけると、父の震える手で記された文字が浮かび上がった。「ラピュタ」。その単語を目にした瞬間、彼女の背筋に冷たい震えが走った。それはこの街の酒場で酔いどれが語るお伽話であり、あるいは失われた黄金の都を夢見る愚か者たちの代名詞だった。しかし、日誌に記されているのは夢想ではなく、風向、気圧、高度、そして特定の海域で観測された「不自然な雷雲」の記録だった。父は、空の向こう側に実在する何かを見ていたのだ。ドーラは無意識のうちに、ポケットの中に突っ込んでいた木製のパイプを握りしめた。火の入っていない、冷たく硬い木肌。父が常に口に含んでいたその形見は、今や彼女にとって、この地上に自分を繋ぎ止める唯一の錨であり、同時にここから飛び立つための呪物でもあった。
地下室の階段を降りてくる、重苦しい足音が聞こえた。鉄の鋲を打った靴底が石を叩く音。ドーラは反射的に設計図を抱え込み、暗闇の中に目を凝らした。現れたのは、煤けた作業着に身を包んだ大柄な男だった。かつて父の右腕として、この屋敷の工房で昼夜を問わず槌を振るっていた機関士、モトロである。父の死後、彼は港の修理工場で端金を稼ぎながら、酒浸りの日々を送っていると噂されていた。男の顔には深い皺が刻まれ、その手の甲には無数の火傷の跡が、古い地図のように広がっている。
「……やはり、ここか。お嬢」
モトロの声は、錆びた歯車が擦れ合うような低い響きを持っていた。彼はドーラの足元に散らばった日誌と、彼女の腕の中にある青い紙を一瞥し、深く、長くため息をついた。その息には安酒の匂いが混じっていたが、眼光だけは、かつて空を目指していた頃の鋭さを失っていなかった。彼はゆっくりと歩み寄り、壁に立てかけられた壊れたプロペラの破片に手を置いた。
「その図面を燃やしてしまえと、旦那は言っていた。空は呪われている。一度魅せられれば、二度とまともな地面は歩けなくなると。だが、お前の目を見ればわかる。旦那と同じ、取り憑かれた者の目だ。バロンの煤煙に巻かれて死ぬのを待つくらいなら、墜落して砕け散る方を選ぶ……そういう顔をしている」
ドーラは何も答えず、ただ強くモトロを見据えた。彼女の沈黙は、肯定よりも強い意志を持ってその場を支配した。モトロは苦笑し、懐から油の染みた手拭いを取り出して、自分の汚れた指を拭いた。
「今の空は、昔とは違う。軍の連中が、空を飛ぶ権利を独占しちまった。民間人がプロペラを回そうものなら、翌朝には憲兵がやってきて、船ごとスクラップにされる。だが、お嬢、あんたが本気でその『蛾』を飛ばすつもりなら、俺の残りの寿命くらいは預けてもいい。俺たちには、足りないものが二つある。ひとつは、軍の包囲網を潜り抜けるための度胸だ。そしてもうひとつは……」
モトロは地下室の天井を見上げた。そこには、軍の飛行戦艦が通過するたびに響く、重々しい振動が伝わってきていた。
「……この死んだ図面に、新しい心臓を吹き込める技術者だ。設計図通りに組むだけじゃあ、今の軍用機には勝てねえ。空の理屈を書き換えられるような、本物の天才が必要だ」
「心臓なら、心当たりがあるわ」
ドーラが短く、断固とした口調で言った。彼女の声には、迷いの欠片もなかった。
「技術開発局の奥深くに、軟禁されている男がいる。ハンスという名の発明家よ。軍は彼の才能を恐れて、外に出そうとしない。彼を連れ出す。彼がいなければ、タイガーモスはただの紙屑のままだわ」
モトロは数秒間、ドーラの顔を凝視した。冗談を言っているのではないことを悟ると、彼は低く笑い、拳を壁に叩きつけた。
「軍の真っ只中に殴り込もうってのか。はっ、全くだ。旦那よりもよっぽどタチが悪い。いいぜ、お嬢。あんたが舵を取るなら、俺が火を焚いてやる」
バロンの街を覆う闇は、夜になると一層その濃度を増した。技術開発局は、港を見下ろす断崖の上に、巨大な墓標のようにそびえ立っていた。周囲を囲む高い鉄柵には高圧電流が流れ、一定の間隔で配置されたサーチライトが、獲物を探す獣の眼光のように暗い海面と地面をなめ回している。ドーラとモトロは、潮騒に紛れて崖の斜面を這い上がった。重い工具袋を背負ったモトロの呼吸は荒かったが、ドーラの足取りは羽のように軽かった。彼女を動かしていたのは、恐怖ではなく、自分の血の中に流れる未知の熱量だった。
二人は、事前に調べておいた排気ダクトの隙間から内部へ侵入した。建物の中は、外の静寂とは対照的に、巨大なボイラーの唸りと蒸気の噴出音が絶え間なく響いている。冷たいコンクリートの廊下を、警備兵の足音を避けて進む。ドーラは曲がり角のたびに立ち止まり、壁に映る影の動きを観察した。彼女の感覚は、極限まで研ぎ澄まされていた。空気の流れ、油の匂いの変化、そして遠くで聞こえる微かな金属音。
最深部にある実験室の扉は、重厚な鋼鉄製だった。モトロが慣れた手つきで鍵穴に特殊な針を差し込み、内部の機構を弄る。小さなクリック音が響き、扉が僅かに開いた。隙間から漏れてきたのは、眩いばかりの電球の光と、何かが削られる乾いた音だった。
部屋の中は、異様な光景だった。床から天井まで、無数の飛行機の模型や、奇妙な形状の翼の断面図、分解されたエンジンの部品で埋め尽くされている。その中心に、一人の若い男が座っていた。ボサボサの髪に、煤で汚れたシャツ。彼は背後で扉が開いたことにも気づかず、一心不乱に木製の翼を小さな鉋で削り続けていた。その指先は、恋人の肌を撫でるような繊細さで木肌を滑り、時折、耳を近づけては、木が発する微かな音を聴き取ろうとしていた。
ハンス――。ドーラはその名前を心の中で反芻した。軍が秘匿し、天才の名を冠した技術者。だが、目の前にいる男は、英雄でも犯罪者でもなく、ただ「空」という概念そのものに魂を奪われた、孤独な求道者のように見えた。
「ハンスね」
ドーラの声に、男の肩がびくりと跳ねた。彼は驚いた様子で振り返り、手に持っていた鉋を床に落とした。その拍子に、傍らにあった古いスパナがカランと音を立てて転がる。ハンスは慌ててそれを拾い上げると、緊張を紛らわせるように指先でくるくると回し始めた。それは、彼が思考を巡らせる際、あるいは極度の不安を感じた際に見せる、無意識の癖だった。
「誰だ……? 憲兵じゃないな。こんな時間に、何の用だ」
ハンスの瞳は、寝不足のせいで充血していたが、その奥には澄んだ知性の色が宿っていた。彼はドーラを、そして彼女の背後に立つ巨大な岩のようなモトロを交互に見た。
「あんたを奪いに来たのよ」
ドーラは一歩踏み出し、ハンスの作業台の上に、地下室から持ち出したあの青い設計図を広げた。ハンスは最初、当惑した表情を見せていたが、図面に描かれた線の正体を理解した瞬間、その瞳に火が灯った。彼はスパナを回すのを止め、吸い寄せられるように図面へ顔を近づけた。
「これは……タイガーモス? いや、違う。この揚力計算、それにこのエンジンの配置……。なんて無茶な。こんな設計、今の流体力学じゃあ空中分解するのが落ちだ」
彼はぶつぶつと独り言を言いながら、震える指で図面をなぞった。
「……でも、面白い。ここをこうして、フラップの角度を三度変えれば、あるいは……。いや、それにはもっと軽量で高出力な心臓が必要だ。今の軍のエンジンじゃ重すぎる。風を、風を味方につけるんじゃなくて、風を騙すような翼じゃなきゃ……」
ハンスは、自分を誘拐しに来たはずの相手のことなど、既に意識の外に追いやっていた。彼は鉛筆を掴むと、設計図の余白に猛烈な勢いで数式を書き込み始めた。その姿を見て、モトロは呆れたように肩をすくめたが、ドーラは違った。
彼女は、ハンスが木製の翼を削っていたその手つき、そして図面を見る際の、まるで恋人に触れるような熱を孕んだ視線をじっと見つめていた。この男は、計算だけで空を飛ぼうとしているのではない。彼は、目に見えない風のうねりを感じ、エンジンの爆音の中に混じる不協和音を聴き分け、機械を生き物として扱おうとしている。
「この男よ」
ドーラは確信を込めて呟いた。
「この男こそが、私の翼を造るんだわ」
ハンスが不意に顔を上げ、ドーラと目が合った。彼女の瞳の中に宿る、バロンの煤煙をも焼き尽くすような野心と、自分と同じ「空に取り憑かれた者」特有の狂気を感じ取ったのか、彼は初めてスパナを置き、深呼吸をした。
「……外は、風が吹いているか?」
「ええ、最高の風よ。あんたが閉じこもっている間に、世界は飛び方を忘れかけているわ」
ドーラは不敵に微笑み、ハンスに手を差し出した。その手は、かつての令嬢としての柔らかさを失い、地下室の埃と、決意という名の硬い角質に覆われていた。
「来なさい、ハンス。あんたの頭の中にある空を、私に見せて。その代わり、私はあんたを、誰も見たことのない高度まで連れて行ってあげる」
ハンスは、自分の細い指を見つめ、それからドーラの差し出した手を見つめた。彼は極度の高所恐怖症だった。地上から十メートルの梯子に登るだけで足が震え、心臓が口から飛び出しそうになる。だが、彼女の瞳の向こう側に見える景色は、科学の領域を超えた、もっと純粋で残酷なまでに美しい「青」だった。そこまで行けば、恐怖など意味をなさなくなる。彼はそう直感した。
ハンスは、ドーラの手を取った。その瞬間、遠くで警報のサイレンが鳴り響いた。侵入者が発覚したのだ。廊下を走る無数の足音と、銃器がガチャガチャと触れ合う音が近づいてくる。
「モトロ!」
「分かってるよ、お嬢! 派手な花火を打ち上げてやる!」
モトロが工具袋から取り出した自家製の爆薬に火をつけた。ドーラはハンスの腕を強く引き、窓枠を蹴り破った。夜の冷たい風が室内に流れ込み、ハンスの書類を乱舞させる。
「飛ぶわよ、ハンス!」
「待って、心の準備が――心臓に悪いって言ってるだろ!」
ハンスの悲鳴を、ドーラの高笑いが掻き消した。彼女はハンスの腰を抱きかかえるようにして、闇が支配する断崖の下へと身を躍らせた。背後で爆発音が轟き、オレンジ色の炎がバロンの空を一瞬だけ真昼のように照らし出した。落下する感覚の中で、ドーラは手の中にあるハンスの温もりと、ポケットの中のパイプの重みを感じていた。
自由。それは、地面を捨てる勇気を持った者だけに与えられる、最も過酷で、最も美しい刑罰だった。
二人の影は、追っ手のライトが届かない暗闇へと吸い込まれていった。それは、後に世界中の空を恐怖と羨望で震え上がらせることになる「空中海賊ドーラ一家」の、あまりにも無謀で、あまりにも鮮やかな産声だった。ドーラは落下しながら、空を見上げた。煤煙の向こう側、雲を突き抜けたその先に、父が夢見た黄金の城が、自分を待っているような気がした。
彼女は笑った。肺が痛くなるほど、冷たい空気を吸い込んで。
「さあ、私たちの船を造るわよ!」
その言葉は、風にさらわれ、誰の耳にも届くことなく、ただ夜の深淵へと消えていった。だが、ハンスの手だけは、ドーラの腕を折れんばかりに強く握り返していた。
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