Synopsis
ハーデスの力によって蘇ったデスマスクとアフロディーテが、元教皇シオンの密命を受ける。それは逆賊の汚名を被り自らは捨て駒となること、二人に課せられた知られざる壮絶な諜報作戦を描く物語。
Chapter1
十二宮の最前、白羊宮へと続く石段を踏みしめる足音は、かつて纏っていた黄金の響きを完全に失っていた。足元を覆うのは、月光を吸い込み、どす黒い紫の光沢を放つ硬質な物質である。それは身に纏う者の体温を奪い、魂の深淵まで凍てつかせるような、死者の国の冷気を孕んでいた。かつての聖衣(クロス)が持ち合わせていた、装着者の意志と共鳴し熱を帯びるあの生きた感触はどこにもない。ただ、沈黙した金属の塊が、寄生するように肉体に張り付いているだけだった。デスマスクは、前を行くシオンの、かつての教皇としての威厳を湛えた背中を凝視した。その背中には、現世の光を拒絶するような、重く、救いのない影が落ちている。
数時間前、彼らが冥界の暗闇の中で交わした「真の誓い」が、デスマスクの耳の奥で、止まった心臓の鼓動のように執拗に繰り返されていた。アテナを救う。その一事のために、これまで積み上げてきた聖闘士としての誇り、守り抜いてきた地上の正義、そして死後にようやく手にしたはずの安寧すらも、すべてを投げ捨てる。裏切り者という拭い去ることのできない泥を顔に塗り、かつての同胞に拳を向け、愛した聖域をその足で汚す。それが、シオンから提示された唯一の、そして最も残酷な勝利への道標であった。デスマスクの隣を歩くアフロディーテは、その長い睫毛を伏せ、感情の欠片も見せない。しかし、その指先が僅かに震え、自らの胸に咲く毒薔薇の棘を深く握りしめているのを、デスマスクは見逃さなかった。彼らは今、光の当たらない奈落の底で、神すらも欺くための孤独な巡礼を始めている。
白羊宮の入り口に、一人の男が立っていた。
ムウ。かつての戦友であり、この聖域の第一の門を守護する誠実なる羊。その姿を認めた瞬間、デスマスクは自らの内側で鳴り響く良心の悲鳴を、強引に、暴力的に押し殺した。代わりに、顔の筋肉を歪め、卑俗で、下劣な、見るに堪えない笑みをその唇に張り付かせる。それは、かつて彼が「力こそが正義」と嘯き、巨蟹宮の壁を死に顔で埋め尽くしていた頃の、あの凶悪な仮面だった。
「ひさしぶりだな、ムウ。相変わらず、そんな古臭い石の宮の番人をやっているのか。死者の国から戻ってみれば、ここも随分と埃っぽく見えるぜ」
デスマスクの声は、静寂を切り裂く毒のように響いた。言葉の端々に、あえて無意味な嘲笑を混ぜ、ムウの瞳の中に宿る困惑と憤りを煽り立てる。ムウの表情が、信じがたいものを見るかのように硬直していく。その清廉な小宇宙が、裏切り者の放つ穢れた気配に触れ、激しく波立つのを感じた。デスマスクは、その反応に満足したかのような仕草で、肩をすくめてみせる。内側では、ムウのその真っ直ぐな視線が、自らの魂を鋭く抉っていた。だが、ここで怯むわけにはいかない。自分たちが完璧な「悪」として立ち塞がらなければ、ムウは、そしてこの後に続く黄金聖闘士たちは、真の覚悟を持って自分たちを討つことができない。そして、自分たちが「敗北」し、冥界へ送り返されることこそが、この作戦の真の開始地点なのだ。
アフロディーテもまた、冷徹な美しさを湛えた反逆者として、その場に佇んでいた。彼は一言も発しない。ただ、その手にある一輪の黒い薔薇を見つめている。その沈黙は、雄弁な言葉よりも深く、かつての絆を断ち切る決意を物語っていた。アフロディーテにとって、この世で最も美しいものは「調和」であり、その調和を乱す戦いを終わらせるためなら、自らが「醜悪な裏切り者」という役回りを演じることに、何の躊躇もなかった。彼の瞳は、ムウを通り越し、その遥か先にあるアテナの神殿を見据えている。そこに至るために、目の前の友を傷つけなければならないのなら、彼はその毒を、一切の慈悲なく放つだろう。
「どけよ、ムウ。お前のそのしけた面を見に来たわけじゃないんだ。俺たちの目的は、ただ一つ。アテナの首だ」
デスマスクが吐き捨てたその言葉は、もはや修復不可能な決別を意味していた。ムウの小宇宙が、一気に膨れ上がる。それは悲しみを超えた、守護者としての峻烈な怒りだった。白羊宮の空気が、張り詰めた弦のように震え、空間そのものが軋み始める。ムウの背後に、無数の星々が瞬くような、幻想的で、かつ破滅的な光が収束していく。
「スターライト・エクスティンクション!」
ムウの叫びと共に、視界のすべてを焼き尽くすような、純白の閃光が放たれた。それはすべてを無に帰し、次元の彼方へと消し去る、牡羊座最大の奥義。デスマスクの視界が、一瞬で光に塗りつぶされる。
回避することは可能だった。積尸気の理を知る彼ならば、空間の歪みを読み、その直撃を逸らす術を持っていた。アフロディーテもまた、薔薇の霧に身を隠し、その光から逃れることができたはずだ。しかし、二人は動かなかった。それどころか、あえてその滅びの光を、全身で受け入れるように一歩踏み出した。
肉体が光に分解され、存在がこの現世から剥ぎ取られていく凄絶な苦痛の中で、デスマスクは一瞬だけ、ムウの瞳を見た。
そこには、戦士としての非情さと、消し去ることのできない悲痛な問いかけが混在していた。デスマスクは何も言わなかった。弁明も、謝罪も、真実の告白も、すべてはこの光の中に溶かして消した。ただ、その一瞬の視線の交わりの中に、自らのすべてを賭した覚悟だけを刻み込んだ。「あとは頼む」という、声にならない叫びを。
意識が遠のき、感覚が消失していく。
次に目覚めたとき、そこにあったのは、石造りの冷たい床の感触と、肺を圧迫するような、停滞した死の空気だった。
見上げれば、そこには聖域の清浄な星空ではなく、重苦しい雲に覆われた、色のない空が広がっている。ハーデス城。生者が足を踏み入れることを許されない、冥王の牙城。
デスマスクはゆっくりと身を起こした。全身の骨が軋み、冥衣(サープリス)が、まるで自らの罪の重さを象徴するかのように、以前よりも重く、冷たく感じられた。傍らでは、アフロディーテが乱れた髪を払い、静かに立ち上がっている。その顔には、もはや先ほどまでの冷徹な仮面はない。ただ、果てしない孤独と、これから始まる地獄のような潜入任務への、静かな決意だけが漂っていた。
「……始まったな、デスマスク」
アフロディーテの低い声が、静寂に沈む城内に響いた。
デスマスクは、自らの血に汚れた手を握りしめ、一度だけ、遠く離れた聖域の方向を振り返った。そこにはもう、自分たちの居場所はない。自分たちは、アテナの手によってすら救われない、永遠の闇を彷徨う亡霊となったのだ。だが、その胸の奥底には、決して消えることのない小さな焔が灯っていた。それは、誰にも知られることのない、真の忠誠という名の焔である。
二人は、言葉を交わすことなく、城の奥深くへと続く暗い廊下へと歩を進めた。
敗北という名の、最も困難で、最も誇り高い潜入作戦が、今、幕を開けた。
背後に残された白羊宮の光は、もう、彼らの影を照らすことすらなかった。
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冥界の最深部、一切の光を拒絶し、絶望そのものを物質化したかのような「嘆きの壁」の前には、凍りついたような沈黙が支配していた。それは物理的な壁である以上に、生者が決して越えることのできない形而上学
ハーデス城の最深部へと続く大広間は、もはや現世の物理法則が通用する場所ではなかった。天井の見えない闇からは、絶えず冷たい湿気が滴り落ち、それが石床に触れるた
城の深部を流れる停滞した空気が、不意に微かな震えを見せた。それは物理的な風ではなく、霊的な次元で弾けた純粋なエネルギーの余波である。デスマスクは岩壁に預けていた身体を僅かに硬直さ
ハーデス城の深淵は、物理的な深度を超えた場所にあった。石造りの階段を下るごとに、空気はその密度を増し、肺胞を押し潰すような重圧へと変質していく。デスマスクが辿り着いたのは、城の最下層、湿った岩肌







