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罪を運ぶ電車

罪を運ぶ電車

Last Updated: 2026-04-07 09:48:28
By: Nyaaan
Completed
Language:  日本語16+
4.2
3 Rating
19
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Synopsis

数年前に妻を亡くした男性が、ある日終電に滑り込むように乗車する。


精神的な疲れと、会社と家を往復する毎日の疲れで彼は眠りに落ちてしまう。


次に目を覚ますと、近くに亡くなったはずの妻がいた。


微笑みを浮かべる彼女を見て、夢の続きであり会いに来てくれたのだと解釈する。


しかし、電車の様子はどんどん怪しくなっていき、妻も音もなく消えていた。


次の停車駅を知らせる表示版には文字化けして読み取れない奇妙なものが表示される。


男性は、何故この様な事態になり、何処へ連れて行かれ、どうなるのか…。


Chapter1

蛍光灯の白い光が、事務机の上の書類を冷たく照らしていた。優は時計をチラリと見た。時針はとっくに23時を回り、長い針は59分を指している。今日は本当に最悪だった。後輩が入稿データを間違えたのを見つけたのは、夕方の定時が迫った頃のことだ。修正は優の仕事ではない。だが、先輩として黙って帰るわけにはいかない。若い男が青ざめた顔で謝ってくるのを見て、思わず手を貸していた。それがこうなる。データの修正、印刷会社への連絡、上司への報告。一つ一つは小さな作業でも、積み重なると時間を蝕む。気がついたら、最終電車の時刻が目前に迫っていた。


ため息をついた。大きく、深く、肺の底から絞り出すような息だった。身体が重い。特に肩と腰。デスクワークの疲れが、今日ばかりは骨の髄まで染み込んでいる気がする。急いでデスクの引き出しを閉じ、パソコンの電源を落とした。上着を羽織り、カバンを肩にかける。エレベーターは待っていられない。階段を駆け下りる。足がもつれそうになる。三日連続の残業で、睡眠時間は平均五時間を切っている。


駅までの道は、平日の喧騒を忘れたように静まり返っていた。優は走った。リュックが背中で不規則に跳ね、肺が熱くなる。終電は0時16分。現在0時6分。あと10分だ。改札の緑色の光が見えた時、安堵の息が漏れた。改札機に定期券をタッチし、階段を駆け降りる。ホームに辿り着いた瞬間、黄色い前照灯がトンネルの闇から浮かび上がった。銀色の車体が、滑るようにホームに滑り込んできた。


間に合った。本当に間に合った。胸を撫で下ろしながら、開いたドアに向かって歩いた。足取りはふらつく。頭がぼんやりしている。終電だというのに、車両はガラガラだった。サラリーマン風の男が二人、向かい合わせの席でうなだれている。それ以外は誰もいない。優は奥の方へ進み、隅っこの座席に腰を下ろした。クッションは硬く、冷たかった。身体を預けると、どっと疲れが吹き出した。目を閉じると、瞼の裏に赤と黒の斑点が踊った。頭蓋骨の内側が、ぼろぼろと崩れ落ちていくような感覚。眠る。今すぐ眠る。


ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。規則正しい音が、体を優しく揺する。子守唄のように、深い眠りへ誘う。意識が泥の中を沈んでいく。会社の書類の山。後輩の青い顔。上司の不機嫌な声。すべてが遠ざかっていく。ふわり、ふわりと、身体が浮く感覚。


はっと目を覚ました。今のは危なかった。寝過ごしたら、終電に乗った意味がない。次はどこだ。顔を上げて、ドアの上の表示板を見ようとした。視線が上に向かう。そこに、人影が立っていた。


見覚えのある後ろ姿だ。ロングの黒髪。白いブラウス。紺色のスカート。それは、間違いなく、玲だった。優は息を呑んだ。身体がこわばる。三秒か、五秒か、時間の感覚が曖昧になる。女性がこちらに向き直った。視線が合った。口元が、嬉しそうに、歪んだ。笑っている。あの、優の好きだった笑い方で。


そんなはずはない。頭の中で、誰かが叫んだ。彼女は死んだ。数年前の、あの雨の日に。車がスリップしてガードレールを突き破り、谷へと落ちた。玲は助手席にいた。運悪く、車体の助手席側は、谷の途中で折れていた大木にぶつかり、彼女だけを押しつぶすかのように車体をひしゃげさせた。泥まみれ、傷だらけになった優だけが生き延びた。葬儀の白い菊。遺影の中の玲は、まだ三十二歳だった。


恐怖が、胸の底から這い上がってきた。同時に、喉の奥に、別の熱い何かがこみ上げる。甘い。苦い。懐かしい。目の前の玲は、生前と変わらぬ姿だった。髪型も、化粧の濃さも、ブラウスの首元に付けていた小さなパールのブローチも。これは夢だ。そうに違いない。終電の中でうたた寝をして、夢を見ているのだ。都合のいい解釈だった。だが、優はそれに縋りたかった。彼女に会いたかった。毎日のように思い出していた。枕元の写真を見るたびに、胸が締め付けられるのを感じていた。


「玲……」


声が出た。掠れた、嗄れた声だった。玲は微笑んだままだ。近づいてこない。言葉も返さない。ただ、優を見つめている。距離は三メートルほど。終電のガラガラとした車内で、その距離は奇妙に遠く感じられた。優は腰を上げようとした。立ち上がって、彼女のもとへ行こう。足が重い。動かない。まるで、泥の中に埋められたように。


ふと、視線が表示板に向いた。次の停車駅を知りたかった。いつの間にか、電車は走り続けている。途中駅に止まる気配がない。表示板が青白く光った。そこに流れる文字を、優は理解できなかった。


「谺。縺ッ蝨ー迯」


文字化けだった。意味不明の記号が、規則正しくスクロールしていく。どこへ行くというのだこの電車は。玲への再会の喜びよりも、先に襲ってきたのは、生理的な嫌悪感だった。背中に冷たい汗が噴き出す。肌着に着ているシャツが張り付く。手のひらが湿る。心臓が、肋骨の内側で大きく跳ねた。


もう一度、玲の方を見た。白いブラウス姿の女性は、もうそこにない。三メートルの距離は、からっぽの空間だけだった。消えた。物音一つさせずに。まるで、最初から誰もいなかったかのように。優の呼吸が乱れた。吸おうとして、喉がひゅっと鳴る。吐こうとして、肺が震える。酸素が足りない。頭がくらくらする。


窓の外を見た。カーテンが閉まっているわけではない。だが、そこにあるのは、ただの黒だった。街灯もない。星もない。ただ、濃密な、漆黒の闇が、車両を包み込んでいる。電車は、依然として走り続けている。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。いつの間にか、その音は心地よくなくなっていた。機械的で、冷たく、何かを引きずるような音に聞こえる。


優は立ち上がれなかった。声も出せなかった。恐怖が、四肢の先から身体の芯へと這い上がり、骨を凍らせた。目を凝らしても、玲の姿はない。表示板は未だに文字化けしたままだ。そして、突然、電車の速度が緩やかになった。ブレーキがかかる音。床が、足裏に伝わる振動の質が変わる。停まるのか。どこに。誰が。


速度は落ちたが、電車はまだ走っている。外の闇が、少しだけ流れる速度を落とした。優は、背もたれに縋り付くようにして、前方を見つめた。喉が乾いて、唾を飲むこともできない。これは何だ。何が始まろうとしている。答えはない。ただ、ガタン、ゴトンという音が、いつしか優の鼓動と重なり合い、一つの不協和音となって、車内を満たしていた。

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