Synopsis
企画書を奪われた地味な社員が、仲間と“正義の技術”で先輩の不正を暴き、自分の夢を取り戻す痛快職場復讐譚。
Chapter1
深夜二時。KAKIテックのオフィスは、ほとんどの蛍光灯が落とされ、静寂が支配していた。その中で、新規事業開発部の島だけが、ぼんやりと青白い光を放っている。蟹江誠は、ディスプレイの光だけを頼りに、鬼気迫る表情でキーボードを叩いていた。画面には、無数のコードが滝のように流れ落ちては、彼の指先から生まれる新しい文字列に置き換わっていく。三ヶ月、彼はこの瞬間のためにすべてを捧げてきた。
彼の創造物、AIチャットボット『柿ボット』。それは単なる企画やプログラムではなかった。眠れない夜を共に過ごし、コーヒーとコンビニのおにぎりを分け合った戦友。行き詰まっては励まし合い、新しいアイデアが閃けば共に喜んだ、かけがえのない我が子。蟹江は最後の行を打ち込むと、エンターキーを静かに、しかし万感の思いを込めて押した。コンパイルが成功したことを示す緑色の通知が画面に灯る。「おやすみ」と、彼は画面の中のオレンジ色の柿のアイコンに囁いた。それは、我が子を寝かしつける父親の優しい声色そのものだった。机に散らばる資料と空のエナジードリンクの缶に囲まれ、彼は安堵のため息をつき、椅子の背にもたれかかった。ようやく、この子が世に出る準備ができたのだ。
数日後、社内コンペの最終選考会は、異様な熱気に包まれていた。各部署から選りすぐられた企画が次々と披露される中、最後に登壇したのが蟹江だった。彼は緊張で強張る手でマイクを握り、『柿ボット』のプレゼンテーションを始めた。静かで、訥々とした語り口。しかし、その内容は圧倒的だった。デモンストレーションで『柿ボット』が見せた驚異的な応答精度と、人間味あふれる対話能力に、会場はどよめいた。
「…以上です。ご清聴、ありがとうございました」
蟹江が頭を下げると、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が巻き起こった。審査員である役員たちは皆、興奮した面持ちで頷き合っている。結果は満場一致。最優秀賞は『柿ボット』の手に渡った。
「やったな、蟹江!」「すごすぎるよ、先輩!」「うちの部の誇りだ!」
席に戻った蟹江は、後輩の栗田実をはじめとする同僚たちにもみくちゃにされ、照れながらも誇らしさで胸がいっぱいだった。これで、自分のキャリアも、そして『柿ボット』の未来も、大きく開ける。そう確信した。しかし、その喧騒の中で、ただ一人、直属の上司である課長代理・猿島巧だけが、拍手もせず、祝いの言葉もかけず、蟹江を睨みつけていた。その目は、燃え盛る嫉妬の炎でどろどろに濁り、獲物を狙う爬虫類のように冷たかった。蟹江はその視線に気づいたが、祝賀ムードの中で深く考えることはしなかった。
そして、運命の全社会議の日がやってきた。月曜の朝一、全社員が詰めかけた大会議室は、期待と緊張感で満ちている。蟹江も、プロジェクトチームの一員として末席に座っていた。心臓が早鐘のように鳴っている。自分の子供が、今まさに社長の口から全社に紹介されるのだ。
やがて、社長が厳かに口を開いた。「諸君、本日は我が社の未来を担う、画期的な新規プロジェクトを発表する!」
ゴクリ、と蟹江は息を呑んだ。
「その名も…AIチャットBOT、『柿ボット』だ!」
きた!蟹江は拳を固く握った。スクリーンに、見慣れたオレンジ色の柿のロゴが大きく映し出される。同僚たちが称賛の目で蟹江を振り返る。だが、社長が続けた言葉は、彼の耳を疑わせるものだった。
「この素晴らしいプロジェクトをゼロから生み出し、見事にまとめ上げた立役者を紹介しよう。新規事業開発部、猿島巧課長代理だ!壇上へ!」
…え?
時間が止まった。脳が理解を拒む。割れるような拍手の中、猿島が満面の笑みを浮かべて立ち上がり、悠々と壇上へ向かっていく。スポットライトを浴びる彼は、まるで凱旋将軍のようだ。蟹江は、ただ口を半開きにしてその光景を見上げることしかできなかった。
「ご紹介にあずかりました、猿島です」
猿島は深く一礼すると、自信に満ちた声でプレゼンテーションを始めた。その内容は、蟹江が心血を注いで書き上げた企画書そのものだった。一字一句、寸分違わぬ言葉が、まるで自分が考え出したかのように、猿島の口から滑らかに紡ぎ出されていく。
「この『柿ボット』のコンセプトは、『寄り添う知性』。我々は三ヶ月間、寝る間も惜しんで開発に没頭し…」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。お前は何もしていないじゃないか。お前はただ、俺が提出した企画書にハンコを押しただけじゃないか。蟹江の心の中で、声にならない叫びが渦巻いていた。しかし、彼の身体は椅子に縫い付けられたように動かない。周りを見渡せば、社長も役員たちも、猿島の雄弁に感心しきった様子で頷いている。その熱狂の中で、真実を知る者は誰一人としていない。
「…素晴らしい!猿島くん、君の手腕にはいつも驚かされるよ!」
プレゼンが終わると、社長は手放しで猿島を絶賛した。
「よって、本日付で猿島くんを課長代理から、正式に課長へと昇進させることを決定した!そして、『柿ボット』プロジェクトの正式なプロジェクトリーダーに任命する!」
わあああ、と再び万雷の拍手と歓声が会議室を揺るがす。猿島は勝ち誇った笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。その時、社長がふと思い出したように付け加えた。
「ああ、そうだ。今回のプロジェクトには、サポート役として蟹江くんも尽力してくれたそうだな。ご苦労」
まるで付け足しのように、オマケのように、自分の名前が呼ばれた。向けられたのは、憐れみを含んだ数人の視線と、儀礼的な軽い拍手だけ。蟹江の功績は、その一言ですべてかき消された。
世界から、音が消えた。色が消えた。ただ、スポットライトの下で得意げに笑う猿島の顔と、スクリーンに映る自分の子供のロゴだけが、悪夢のようにくっきりと見えた。嫉妬に歪んだ猿島の目が、壇上から「見たか、これが現実だ」と嘲笑っている。身体中の力が抜け、魂がずたずたに引き裂かれていく感覚。我が子を目の前で誘拐され、その犯人が世界中から賞賛されている。そんな不条理な地獄の光景を、ただ無力に見つめることしかできない。拍手喝采の真ん中で、蟹江誠は、たった一人、自分の世界の崩壊を静かに感じていた。
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懲戒解雇という、会社員にとって最も重い処分が猿島巧に下された。あの日、役員会議室で響き渡った獣のような断末魔が、彼のキャリアのすべてに終止符を打ったのだ。数日後、私物を整理するた
臼井が集めた証拠の山は、それだけで猿島巧を懲戒解雇処分に追い込むには十分すぎるほどの威力を持っていた。横領、経費の不正請求、そして過去の複数のハラスメントに関する詳細な証言録。も
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