Synopsis
人魚と人間の間に生まれた少女は日本を騒がす女子大生スイマーとなっていた。人魚でもなく人間でもない。その間で揺れる彼女は存在すら知らない故郷との邂逅の機会を手にする。人魚か人間か選択を迫られる出した結論とは…
Chapter1
一人の男に、人魚が恋をした。それは、決して交わることのないはずの二つの世界が、奇跡のように触れ合った瞬間だった。紺碧の深海で暮らす人魚にとって、陽光きらめく地上に生きる人間との交わりは、古くからの掟で固く禁じられていた。同胞たちは、脆く、移ろいやすい心を持つ人間を蔑み、その交わりを不浄なものとして忌み嫌った。しかし、彼女の心に灯った恋の炎は、掟の冷たさにも、同胞の冷たい視線にも消されることはなかった。
「私は、あなたと生きたい。この尾ひれが醜い足に変わっても、二度と故郷の海に帰れなくなっても、構わない」
月明かりが差し込む入り江で、彼女は愛する男の腕に抱かれながら、震える声で誓った。男は言葉もなく、ただ強く彼女を抱きしめた。その温もりが、彼女の最後の迷いを溶かしていく。人魚は、悠久の時を生きる同胞との絆を断ち切り、美しい歌声を失い、そして何よりも、母なる海を捨てた。人間になるという選択は、燃え盛るような痛みと共に、二本の足と引き換えに、彼女の命そのものを削り取る呪いでもあったのだ。
やがて二人の間には、新しい命が宿った。海の色を映した瞳を持つ、愛らしい娘。束の間の幸福は、まるで水面に映る月のように満ちては欠け、そして儚く消え去った。陸に上がった人魚の命は、真夏の陽炎のようにあまりにも短かった。
「……あなたの娘を、産めて一緒に生きて、幸せ、だった……」
日に日に乾いていく肌、掠れていく声。男の腕の中で、彼女は最期の息を吐きながら、愛する夫と、腕の中で眠る幼い娘の顔を見つめ、微笑んだ。娘の記憶に残る母の姿は、陽光に溶けていく海の泡のように、ひどく朧気なものだった。
『お父さん、お元気ですか? 私は今、大学生活を満喫しています』
咲本あかりは、万年筆のペン先を滑らせながら、柔らかなクリーム色の便箋に言葉を綴っていた。彼女は都内の大学に通う、体育学部二年生、二十歳。一年のほとんどを海外の海を転々としながら研究に没頭している海洋学者の父親へ、こうして手紙を書くのが習慣だった。彼女の心を占める一抹の寂しさを埋める、大切な儀式のようなものだ。
「あかり〜!もうすぐ出番よ!」
不意に、背後から張りのある声が飛んできた。振り返ると、同じ水泳部の先輩が、ロッカールームの入り口から顔を覗かせている。
「はい、今行きます!」
あかりは短く返事をすると、書きかけの手紙をそっとクリアファイルにしまい、羽織っていたジャージを脱いだ。艶やかなセミロングの黒髪をテキパキとスイムキャップに収めると、しなやかな筋肉に覆われた肢体が、黒の競泳水着に包まれて顕になる。喧騒と塩素の匂いが満ちる会場へ足を踏み入れると、ひときわ大きな歓声が彼女を包んだ。
今日は、大学対抗の競泳大会。あかりは二種目にエントリーしており、昨日のレースでは既に一つ、金メダルを手にしている。
『第四コース、咲本あかり、東都体育大学!』
アナウンスがあかりの名前をコールすると、観客席の熱気は最高潮に達した。その期待と羨望が入り混じった視線を一身に浴びながら、彼女は静かにスタート台に上がる。競泳日本代表候補、咲本あかり。その名前は、既にこの世界では特別な響きを持っていた。
位置につき、すべての音が消える。心臓の鼓動だけが、耳の奥で時を刻む。
次の瞬間、電子音が炸裂し、静寂を切り裂いた。あかりの体は、美しい弧を描いて水面へと吸い込まれていく。水を得た魚、という陳腐な比喩では生ぬるい。彼女は、水そのものになったかのように、滑らかに、そして力強く水を掻き分けていく。他の選手たちが水飛沫を上げて必死に腕を回すのを尻目に、あかりは一人、次元の違う泳ぎでぐんぐんと差を開いていく。その姿はあまりにも圧倒的で、観る者の息を呑ませた。
ターンを繰り返し、最後の直線に入る。ゴールが目前に迫るにつれて、会場のボルテージはもはや制御不能なほどに膨れ上がっていた。沸騰するような歓声の中、あかりの手が寸分の狂いもなくタッチパネルに触れる。水面から顔を上げた彼女を祝福するように、電光掲示板には『1位 咲本あかり』の文字の横に、『大会新記録』という輝かしい称号が点滅していた。
「やりましたね、咲本選手!大会新記録です!」
「今後のオリンピックへの意気込みを!」
プールから上がった瞬間、眩いフラッシュの奔流があかりを襲った。マイクを突きつけ、矢継ぎ早に質問を浴びせる報道陣。実力と、彫刻のように整った美貌。そして、濡れた競泳水着越しにもはっきりとわかる、鍛え上げられつつも女性らしい丸みを帯びた豊満な肉体は、マスコミにとって格好の的だった。その好奇の視線に、あかりは少しだけ表情を硬くしながらも、当たり障りのない言葉を返した。
咲本あかり。二十年前、人間の父と人魚の母の間に生まれた、人魚の力をその身に宿す人間。それが彼女の真の姿だ。普段はごく普通の人間として生活しているが、一度その気になれば、母と同じように腰から下を美しい鱗に覆われた尾ひれに変え、誰よりも速く、誰よりも優雅に海中を舞うことができる。
しかし、彼女は決して競技でその力を使うことはない。ターコイズブルーのプールを切り裂くのは、あくまで人間としての咲本あかりが、血の滲むような努力の末に手に入れた力だけだ。母から受け継いだ水への適応能力という才能は確かにあった。だが、それ以上に彼女の競技力を支えているのは、日々の地道な鍛錬と、勝利への渇望に他ならない。
皮肉なことに、彼女が母から受け継いだのは、水の中を自由自在に泳ぎ回るための長所だけではなかった。陸で生きるための、致命的な短所もまた、その身に刻み込まれているのだった。
大会が終わり、女子更衣室は湯気と、勝利の昂奮、そして敗北の悔しさが入り混じった独特の熱気に満ちていた。あかりがロッカーの前で濡れた水着を脱いでいると、周りでは同じ大学の部員たちが口々に今日のレースを振り返っている。
「まーたやってる。あかり、そんなに塗りたくってどうするのよ」
呆れたような声に顔を向けると、同級生の真希が腰に手を当てて立っていた。
あかりは、淡い水色のブラジャーとショーツだけの姿で、腕や足に保湿クリームをこれでもかというほど塗り込んでいる最中だった。
「仕方ないでしょ。これをやらないと、肌が干物みたいになっちゃうんだから」
「それにしても量が多いっての。アンタの肌、化粧水飲んでるみたいじゃん」
軽口を叩きながら、あかりは化粧水のボトルを逆さにし、白い液体を手のひらに溢れさせる。本来、深海で生きるはずだった人魚の血を引く彼女の体は、極端なまでに乾燥に弱い。さらに、母がそうであったように、太陽の強い日差しもまた彼女の肌にとっては毒だった。
「あ、背中……! ねぇ、美咲、背中お願い!」
「もー、しょうがないですねぇ、あかり先輩は」
後輩の美咲が、楽しそうに笑いながらあかりの後ろに立つ。保湿クリームを受け取ると、その滑らかな背中にたっぷりと塗り広げ始めた。
「こうやって、その美貌とナイスバディを保ってるんですね〜。勉強になりまーす」
「ちょっと、からかわないでよ」
「おっと、手が滑った!」
茶化すような声と共に、クリームで滑る美咲の手が、わざとらしくあかりの脇腹から胸の方へと回り込む。柔らかく、しかし弾力のある豊かな膨らみが、その手にむにゅりと揉みしだかれた。
「きゃっ! ちょっと……美咲っ!……だめっ……!」
あかりの顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まる。その反応を見て、美咲だけでなく、周りの部員たちも「また始まった」と楽しそうに笑っていた。それは、この水泳部ではすっかり見慣れた日常の光景だった。
一通りのスキンケアという名の儀式を終えると、あかりは用意していた衣服に手早く着替えた。全身を隙間なく覆う、黒の冷感素材でできたロングTシャツ。そして、足首まで隠れる黒のロングレギンス。真夏だというのに、肌の露出は一切ない。完璧なまでの太陽対策を施し、彼女はチームメイトたちに手を振って、先に競技会場を後にした。
あかりたちが去り、徐々に閑散としていく会場の観客席。その一角で、一人の男がまだ腰を上げていなかった。深く被ったキャップにサングラス。その男が手にする競泳専門誌の表紙には、巻頭グラビアとして、悪戯っぽく微笑む競泳水着姿のあかりが大きく掲載されていた。
男は、その写真に写るあかりの顔を、まるで獲物を品定めするように、親指の腹でゆっくりと撫でた。そして、サングラスの奥の瞳を細め、口の端を歪ませる。
「ようやく、みつけた……」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、塩素の匂いが残る空気に不気味に溶けていった。
Latest Chapters
「今年の西は強いぞ。この十年で一番の豊作だ」
大会関係者のその言葉は、決して脅しではなかった。
東日本大学選抜対西日本大学選抜競泳大会。会場となる東京辰巳国際水泳場の電光
「人間は、裏切るものだ」
あの魚人の、凍てつくような警告が脳裏を何度も過っていた。けれど今、あかりの目の前にある現実は、その冷たい予言を真っ向から否定していた。秘密の共有という枷
スタートホーンの鋭い音は、あかりの意識を強制的にレースへと引き戻した。隣のレーンの真希が明らかに尋常ではない状態であることに気づいたが、今はもう問いただす時間はない。反射的に、彼女の身体
合宿六日目。空は厚い雲に覆われていたが、梅雨の晴れ間を惜しむかのように、土曜日の海岸は色とりどりのパラソルと浮き輪で溢れかえっていた。潮の香りと日焼け止めの甘い匂いが混じり合う中、今日は







