Synopsis
総課金額、三百万円。
社畜だった俺の唯一の癒しは、ソシャゲの最強アカウントだった。
ある日目覚めると、そのアカウントごと異世界に転移していた。
ステータスはカンスト。装備は伝説級。三人のSSRサーヴァントが跪いて待っている。
――だが、俺自身の身体能力は、日本の社畜ボディのまま。
剣が重くて持てない。最強なのに、最弱。この矛盾、どうすればいい?
Chapter1
一体何が悪かったのだろう。人生の歯車がどこで狂い始めたのか、午前二時のオフィスで蛍光灯の白い光を浴びながら、俺、山田健一(二十八歳)は真剣に考えていた。連続十四時間勤務。ディスプレイの反射に映る自分の顔は死人のようで、乾いた目には赤い血管が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。同僚たちのデスクはとうに空っぽで、静まり返ったフロアに響くのは、サーバーの低い唸り声と、俺が惰性でクリックを続けるマウスの音だけだった。
「はぁ……」
誰に聞かせるでもないため息が、虚しく空間に溶けていく。精神を保つため、ほとんど無意識にスマートフォンの画面をつけた。そこに飛び込んできたのは、俺が唯一の心の拠り所としていたRPGスマホゲーム『フォーゴットン・レルム』からの、残酷な公式通知だった。『サービス終了のお知らせ』。明日、正午をもって、三年間にわたる冒険のすべてが、ただのデータ屑になる。
「冗談だろ……俺の唯一の精神的支柱だったんだぞ、これ……」
声に出した独り言は、震えていた。画面の隅に表示された、自分がコツコツと育て上げたB級キャラクターの姿が、やけに惨めに見える。時間と、わずかな小遣いを注ぎ込み、ようやく手に入れたささやかな達成感。それすらも、明日には奪われるのか。絶望が胸に冷たい染みのように広がった、まさにその時だった。視界の端に、広告のポップアップがぬるりと現れた。『【急募】引退につきアカウント売ります。全SSRキャラ・カンスト済み。限定価格300万円』。
三百万円。その数字が、疲弊した脳に直接突き刺さった。俺の銀行口座には、先日振り込まれたばかりのボーナスが眠っている。三百十万円。深夜のテンション、あるいは自暴自棄というやつだろうか。頭の中で何かがぷつりと切れる音がした。「自分への……補償ってことに、しとくか」。気づいた時には、俺の指は「購入」ボタンをタップしていた。銀行口座の残高が急激に減る虚しさと、最強のデータを手に入れたという刹那的な高揚感が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
家にたどり着いたのは、東の空が白み始める午前四時だった。コンビニで買った安酒を呷り、死んだ魚のような目でパソコンの前に座る。サービス終了まで、あと数時間。俺は早速、三百万の価値があるというそのアカウントでログインを試みた。最後の最後に、最強プレイヤーの見る景色とやらを体験してやろうじゃないか。ログインIDとパスワードを打ち込み、エンターキーを押す。その瞬間、モニターが突然、目の眩むような白い光を放った。
「うおっ、何だ――」
網膜を焼くほどの純白の光に意識を奪われ、次に気がついた時、俺は柔らかい何かに寝転がっていた。うっすらと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、信じられないほど青い空と、ゆっくりと流れる白い雲。頬を撫でる風は生暖かく、草の匂いがする。体を起こそうとして、カチャリと硬質な音がした。見下ろせば、自分の身体はゲームのCGでしか見たことのない、白銀に輝く豪奢な鎧に包まれていた。手の甲に光る装飾、腰に提げられた大剣。すべてが見覚えのある、あのゲームの最強装備だ。
何が起きているのか、まったく理解が追いつかない。疲労のあまり、ついに幻覚でも見始めたのか。確かめるように、思い切り自分の頬をつねってみた。鋭い痛みが走り、一筋の涙が滲む。
「痛え……」
夢じゃない。これは、現実だ。その事実を脳が受け入れた瞬間、社会人として二十八年間で培われた危機管理能力が、最悪の可能性を弾き出した。
「お、俺……明日、出勤日なんだけどっ!!!」
異世界への転移という壮大なファンタジーよりも、明日の会議資料が間に合わないという現実的な恐怖が、俺の心を鷲掴みにした。社畜の魂は、世界線を超えても健在らしい。
「落ち着け、落ち着くんだ俺……これは何かの間違いだ。そうだ、きっと過労が見せた壮大な夢に違いない」
ブツブツと自己暗示をかけていると、目の前の空間が不意に歪んだ。三つの光の柱が、何もない草原にすっくと立ち昇る。光が収束していくと、そこには見間違えようのない三人の人影が姿を現していた。黄金の髪を風になびかせ、気高い瞳を持つ女騎士。全身を漆黒の装束で覆い、顔を仮面で隠した性別不明の暗殺者。そして、身長ほどもある巨大な杖を抱えた、愛らしい小柄な少女。ゲームのガチャ画面で、俺が喉から手が出るほど欲しがったSSRキャラクターたち――聖騎士アリーシャ、アサシンのシャドウ、大魔道士のミア。その三人が、揃って俺の目の前にいる。
俺が呆然と立ち尽くす前で、三人は流れるような動作で片膝をついた。先頭に立つアリーシャが、澄んだ声で告げる。
「お待ちしておりました、召喚者様。三百年……我ら三柱は、この日を、貴方様がお越しになるのを、ただひたすらに待ち続けておりました。どうか我らの忠誠をお受け取りください」
その言葉は荘厳で、現実感がなかった。俺の頭は完全にキャパシティオーバーを起こしていた。思考が停止し、口から出たのは、ゲーマーとしての素朴で、そして致命的に場違いな疑問だった。
「あ、あの……あなたたちは……生きてる人間? それとも、NPC……とか?」
その瞬間、アリーシャの完璧な微笑みを浮かべた口元が、ほんのわずかに引きつったのを、俺は見逃さなかった。彼女の碧い瞳の奥で、何かがカチンと音を立てたような気配がした。しかし、彼女はすぐに気品あふれる表情を取り戻し、あくまで優雅に、しかしどこか固い声で答えた。
「……私たちは、生きています。召喚者様」
「生きて……る?」
アリーシャは静かに頷き、状況を説明し始めた。俺がアカウントを購入した行為が、何らかの形で「召喚者の力」を起動するトリガーとなり、この世界『フォーゴットン・レルム』に魂ごと召喚されたこと。そして、このアカウントに紐付けられていた彼女たち三人は、俺のサーヴァントとして絶対的な忠誠を誓う存在であること。にわかには信じがたい話だったが、目の前の光景が何よりの証拠だった。
「つまり……俺は今、このアカウントの持ち主として、皆さんのご主人様になった、と? それに、この装備とか能力も……」
「はい。貴方様はレベル999、すべてのスキルをマスターした、この世界における最強の存在です」
アリーシャの言葉を証明するかのように、俺の目の前に半透明のステータスウィンドウが浮かび上がった。
【山田 健一】
Lv: 999
HP: 99999/99999
MP: 99999/99999
ATK: 99999
DEF: 99999
スキル: 全て習得済み
桁がおかしい。カンストした数字の羅列が、俺の脳を幸福な麻薬のように痺れさせた。社畜として過ごした日々の鬱憤、理不CDNな上司への怒り、将来への漠然とした不安、そのすべてが吹き飛んでいくような全能感。俺は最強になったんだ!
「よっしゃああああ! 最強だ! 俺は最強になったんだ!」
喜びのあまり、俺は我を忘れてその場で飛び上がった。人生で最高の瞬間だった。――そのはずだった。慣れない金属製のブーツが足元の草に引っかかり、俺の身体は無様にバランスを崩した。
「おわっ!?」
スローモーションのように、世界が傾く。俺はなすすべもなく、顔面から草原に突っ込んだ。土と草の匂いが鼻孔を満たす。いわゆる、犬が糞を食べる姿勢というやつだ。まさに、三百万の男の見る景色ではなかった。
しん、と辺りが静まり返る。風の音だけがやけに大きく聞こえた。恐る恐る顔を上げると、三対の目が、地面に這いつくばる俺を黙って見下ろしていた。アリーシャの優雅な微笑みは、完璧な形のまま凍りついている。仮面で表情は読めないが、シャドウの纏う空気が、先ほどより数度冷たくなった気がした。その沈黙を破ったのは、一番年若いミアの、悪意のない純粋な一言だった。
「ご主人様……よわいね?」
その言葉は、無慈悲な刃となって俺の心臓を貫いた。アリーシャの凍りついた笑顔、シャドウの深淵を増したかのような眼差し。三者三様の表情の中に、俺は確かに同じ感情を読み取った。それは、三百年の長きにわたる期待が、目の前で音を立てて崩れ落ちた瞬間の――底なしの失望だった。
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