Synopsis
「…オーガミ・コーポレーションのジェネシス・タワー。その最上階にある研究ラボから、ある物を『回収』してほしい、とさ」
その名が出た瞬間、店の空気が凍りついたように感じられた。オーガミ・コーポレーション。天照シティを、いや、この国を裏から支配する巨大複合企業。ジェネシス・タワーは、その権力の象徴であり、誰も侵すことのできない聖域だ。
「正気か、爺さん」ジンの声に、初めてかすかな動揺が混じった。「ジェネシス・タワーだぞ。警備システムは軍の基地以上だ。人間が潜入できるような場所じゃない」
「ああ、正気じゃないさ。依頼主も、それを受けようか考えているお前さんもな」ヤギ爺は皮肉っぽく笑った。「だが、依頼主はこうも言っている。『通常の手段では不可能だろう。だからこそ、ジンという男を指名した』と。お前さんの『アドレナリン・シンク』のことも知っている口ぶりだった」
ジンの背筋に冷たいものが走った。彼の能力は、ごく一部の人間しか知らないはずだった。誰だ?誰が、自分を…?
Chapter1
第一章
酸性雨が窓を叩く音は、天照シティ下層街では子守唄にも似ていた。ひっきりなしに続く、単調で、それでいてどこか心を削るリズム。ジンは安物の合成繊維のシーツの上、背中を丸めてその音を聞いていた。部屋は狭く、彼の伸ばした手足が壁に触れそうだ。いや、彼には手足と呼べる肉体はもうない。
ベッドから起き上がると、サーボモーターのかすかな駆動音が暗闇に響いた。彼が「腕」と呼ぶそれは、軍用グレードのチタン合金とカーボンナノチューブで構成された芸術品であり、呪いでもあった。ジンは床に座り込み、メンテナンスキットを広げた。指先のマイクロアクチュエーターが正常に作動するか、関節部の流体ジェルに漏れはないか。それは日課であり、生存のための儀式だった。左腕の装甲パネルを外し、剥き出しになった内部の配線に診断ツールを接続する。コンソールに緑色の正常を示す文字が流れ、彼は小さく息を吐いた。
「…あと三日か」
壁に投影された安物のカレンダーが、家賃の支払い期限を冷たく告げていた。データバンクの残高は、この四肢の月々の維持費を払えばほぼゼロになる。彼の義肢は特注品だ。短時間ながら神経系と直結し、常人を遥かに超える反射速度とパワーを発揮する「アドレナリン・シンク」機構を備えている。だが、その代償は高くついた。エネルギー消費も、メンテナンス費用も、既製品の比ではない。
ジンは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には栄養ペーストのチューブが二本だけ。彼は無言で扉を閉じた。選択の余地はない。仕事を探さなければならない。それも、割のいい、危険な仕事を。
彼はクローゼットから防塵コートを羽織り、フードを深く被った。四肢の接続部を再確認し、ロックの確かな感触を確かめる。カチリ、という硬質な音は、彼にとって唯一信頼できる世界の音だった。ドアを開けると、ネオンの洪水と、湿ったアスファルトの匂いが彼を迎えた。
「行くか」
誰に言うでもなく呟き、ジンは雨の街へと足を踏み出した。
下層街は、欲望と喧騒が飽和したスープのようだった。猥雑なホログラム広告が空中で明滅し、屋台から立ち上る得体の知れない煙が雨に混じる。人々はフードや傘で顔を隠し、互いに無関心なまま、速足で目的の場所へと消えていく。ジンはその流れに逆らうことなく、しかし決して混じることなく進んだ。彼の歩行音は、周囲のざわめきとは明らかに異質だった。湿った地面を叩く、重く、規則正しい金属音。
目的の場所は、雑居ビルの立ち並ぶ一角にあった。看板も出ていない、古びた骨董屋。だが、この界隈で「情報」を求める者は、誰もがこの錆びた鉄の扉を目指す。ヤギ爺の店だ。
ジンが扉を押すと、埃っぽい空気と、オイルの匂いが鼻をついた。店内はガラクタの山だった。旧世紀のアナログ時計、機能停止したドローン、正体不明の機械部品。その奥のカウンターで、痩せこけた老人が一人、小さな機械部品をルーペで覗き込んでいた。
「……来たか、ジン」
老人は顔も上げずに言った。ヤギ爺。この下層街で半世紀以上生き抜いてきた情報屋だ。
「ああ。何かいい話はあるか」
ジンはコートのフードを下ろし、カウンターの前に立った。彼の声には感情が乗っていなかった。
「お前さんにとっての『いい話』は、大概、碌でもない話だ」ヤギ爺はルーペを外し、濁った目でジンを見上げた。「また懐が寂しくなったか。その立派な手足は金食い虫だからな」
「世間話をしに来たんじゃない」ジンの声がわずかに硬くなる。「仕事だ。短期で、高額なやつを」
「そう急かすな」ヤギ爺はため息をつき、カウンターの下から古びたデータパッドを取り出した。「お前さんの腕を見込んでの依頼は、いつも山ほど来てる。だが、今お前さんが欲しがっているような『高額なやつ』は…」
言葉を切り、ヤギ爺はジンの顔をじっと見つめた。「命の値段が安い仕事だ。分かっているのか?」
「分かっている。だからここに来た」ジンは動じなかった。「あるなら見せろ」
沈黙が落ちた。外の雨音と、店内のどこかでショートしているらしい配線の、微かな放電音だけが聞こえる。やがてヤギ爺は諦めたように肩をすくめ、データパッドを操作した。一つのファイルが開かれる。依頼主、匿名。報酬、破格。
「…なんだこれは」ジンが眉をひそめた。「桁が一つ違う」
「そうさ。だから忠告した」ヤギ爺は言った。「依頼主は身元を一切明かしていない。報酬は成功時のみ、指定のデッドドロップ経由で支払われる。失敗すれば、お前さんという存在は最初からなかったことになる。そういう契約だ」
「内容は」
「…オーガミ・コーポレーションのジェネシス・タワー。その最上階にある研究ラボから、ある物を『回収』してほしい、とさ」
その名が出た瞬間、店の空気が凍りついたように感じられた。オーガミ・コーポレーション。天照シティを、いや、この国を裏から支配する巨大複合企業。ジェネシス・タワーは、その権力の象徴であり、誰も侵すことのできない聖域だ。
「正気か、爺さん」ジンの声に、初めてかすかな動揺が混じった。「ジェネシス・タワーだぞ。警備システムは軍の基地以上だ。人間が潜入できるような場所じゃない」
「ああ、正気じゃないさ。依頼主も、それを受けようか考えているお前さんもな」ヤギ爺は皮肉っぽく笑った。「だが、依頼主はこうも言っている。『通常の手段では不可能だろう。だからこそ、ジンという男を指名した』と。お前さんの『アドレナリン・シンク』のことも知っている口ぶりだった」
ジンの背筋に冷たいものが走った。彼の能力は、ごく一部の人間しか知らないはずだった。誰だ?誰が、自分を…?
「…オーガミに喧嘩を売って、こんな大金を払うような酔狂な奴は誰だ?ライバル企業か、反体制組織か」
「さあな。だが、どちらにせよ、お前さんはただの使い捨ての駒だ」ヤギ爺はデータチップを一枚、カウンターに滑らせた。「詳しい情報はこの中だ。施設の図面、警備ローテーションの予測データ。これだけでもかなりの価値がある。受けないというなら、それでも構わん。無理強いはせんよ」
ジンはカウンターの上の小さなチップを睨みつけた。それは彼の命と、当面の生活を天秤にかける重りだった。ジェネシス・タワー。考えただけで、全身のサーボが軋むような感覚がする。だが、脳裏に浮かぶのは、空の冷蔵庫と、冷酷な支払い期限の通知。
彼はゆっくりと手を伸ばし、チタン合金の指でそのチップを摘み上げた。指先に伝わるプラスチックの感触が、やけに現実的だった。
「…引き受ける」
「そう言うと思ったよ」ヤギ爺はもう興味を失くしたかのように、再び手元の機械部品へと視線を落としていた。「せいぜい、死ぬなよ。後始末は面倒だからな」
ジンは何も答えなかった。ただチップを握りしめ、背を向ける。店を出ると、雨足はさらに強くなっていた。彼は再びフードを深く被り、空を見上げた。厚い雲と汚染された大気の向こう、遥か上空で、一つの光が天を突くように輝いている。ジェネシス・タワー。神の住まう塔。
握りしめた義手の拳が、小さく震えた。雨が彼のコートを叩き、街の喧騒が遠くに聞こえる。ジンはただ一人、これから挑むべき巨大な敵を、闇の中からじっと見つめていた。
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