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大学へ入学。新学期、まだ何者でもない自分に出会う旅へ

大学へ入学。新学期、まだ何者でもない自分に出会う旅へ

آخر تحديث: 2026-09-27 14:32:40
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「友達100人、できるかな」――小学一年生のあの歌は、蓮見葵にとって呪いだった。岐阜の大学に入学した葵は、新入生名簿の中で自分が「何番目か」を気にし、学生寮の4人部屋で息を詰まらせる。だが、無口な三宅との五平餅の半分こ、古本市の雨の日の裏方仕事、ユゲ楽器店の木のコースター、小牧との金神社の会話。小さな「個人のつながり」を重ねるうちに、葵は気づく。100人集める必要なんてない。帰れる場所が1つあれば、世界は広がる。やがて秋、駅前で立ちすくむ新入生に、葵はそっと声をかける。まだ何者でもない僕たちの、まっさらな旅の物語。


الفصل1

【プロローグ】友達100人、できるかな

 小学一年生の、四月の朝。

 蓮見葵は、ランドセルを背負い、母に手を引かれながら、校門をくぐった。

「葵、今日から小学生だよ。友達、100人できるかな?」

 母が、楽しそうに言った。葵も、つられて笑った。

 その頃は、100人がどれほど多いのかも知らなかった。

 校庭には、同じようにランドセルを背負った子供たちが、何百人もいた。桜の花びらが、風に乗って舞っている。

「友達100人、できるかな♪」

 誰かが、あの歌を口ずさんでいた。葵も、一緒に歌った。

 でも、実際には、友達はなかなかできなかった。

 給食の時間、隣の子に「これ、いらない?」と野菜を渡そうとして、断られた。休み時間、誰かの輪に入ろうとして、視線を逸らされた。

「友達100人」は、呪いだった。


【第1章 シーン1】受付の長い列と、402号室の沈黙

 岐阜駅の改札を出た瞬間、コンクリートから照り返す春の乾いた空気が、思ったよりも冷たくて、蓮見葵は思わずスーツケースの持ち手を握りしめた。

「……着いた、のか」

 周りを見渡せば、大きな荷物を抱えた同世代の若者たちが、それぞれに不安そうな、あるいは浮かれた顔で歩いている。誰もがどこかへ向かっているのに、自分だけが取り残されているような、変な感じがあった。

 大学のガイダンス会場へと続く長い列の最後尾に並び、葵は手元の案内の紙に目を落とした。

 受付の長蛇の列が進むにつれ、新入生名簿が手渡されていく。ページをめくると、そこに自分の名前があった。

 蓮見葵。

 その文字を、三度目くらいで、ようやく自分のものだと認識した。ふと、自分の名前の前後に、何人の名前が並んでいるのか、気になった。100人?200人?その中の、自分はどこにいるんだろう。

 冷たい春風が、葵のコートの裾を揺らした。

 大学から指定された学生寮は、駅から少し離れた、古びた四階建ての建物だった。

 寮へ向かう道は、大きな通りから一本、路地に入ったところにあった。

 プラスチックの植木鉢が、軒下に並んでいる。二階のベランダには、洗濯物が、風で揺れていた。路地をゆっくり通り過ぎる、買い物籠付きの自転車。

 葵は、スーツケースの車輪を、慎重に転がした。

「402号室」のドアを開けると、すでに三人の男たちがそれぞれの荷物を広げていた。

「あ、どうも。俺、河合凛(かわい・りん)。岐阜の恵那から来た」

 一番手前にいた、茶髪の明るそうな男子が、慣れた調子で声をかけてきた。初対面なのに、まるで昔からの知り合いのような軽やかさがある。

 奥のベッドでは、大柄な体躯をした三宅蒼(みやけ・そう)が無言でうなずき、その隣の机では、小牧楓(こまき・かえで)がきっちりと整えられた教科書の山をさらに並べ替えていた。

「……蓮見、です。県外から来ました」

 自己紹介の声を出すと、一瞬、シーンとなった。

 誰からともなく会話が途切れ、それぞれの空間に閉じこもる。聞こえるのは、段ボールを開けるガムテープの音と、外を走る車のエンジン音だけだ。

 最悪のスタートだった。これからこの四人で、プライベートもない部屋で暮らすのかと思うと、胸の奥が重く沈んだ。

 葵は、自分のベッドに、スーツケースを置いた。

 窓の外には、路地の向こうに、長良川の水面が、銀色に光って見えた。


【第1章 シーン2】長良川の堤防と、半分こ

 夕方、息が詰まるような402号室を抜け出し、葵は足の向くままに歩いた。

 アスファルトの坂道を登りきると、コンクリートの堤防に出た。

「……うわ」

 思わず声が漏れた。目の前には、春の夕暮れを映して鈍く濁った長良川が、ゆったりと、しかし圧倒的な質量を持って流れていた。

 川幅は広く、対岸の建物や木々が遠くに見える。水面を渡る風が、コートの隙間から入り込んで、思わず身震いした。

 都会の雑踏とも、故郷の狭い川とも違う。知人柄の誰もいない、大きな水音だけが世界を支配しているような場所だった。

 堤防のコンクリートブロックに腰掛け、葵は膝を抱えた。スマホを取り出しても、通知画面は何もない。河合はどこかのサークルの新歓に行っているだろうし、小牧はすでに机に向かっているはずだ。

 自分だけが、この街の地図から外れてしまったような気がした。

「おい、お前もか」

 不意に声をかけられ、葵は肩をびくっとさせた。振り返ると、昼間に寮で一言も話さなかった三宅蒼が立っていた。

 ジャージのポケットに両手を突っ込み、少し猫背気味でこちらを見下ろしている。無言で葵の隣に座ると、三宅は持っていた茶色い包みを取り出した。

 駅前の商店街で買ったらしい、平べったい五平餅だった。

「……腹、減ってるだろ」

 三宅はそれを真ん中から無造作に割り、片方を黙って葵に差し出した。甘辛い味噌の香りが、春の冷たい川風に乗って鼻腔をかすめる。

「いいのかよ」

「……多すぎて、食いきれねえから」

 不器用な言い訳だった。葵は渋るように手を伸ばし、差し出された半分を受け取った。まだほんのりと温かい。

 一口かじると、香ばしい胡桃と味噌の甘さが口いっぱいに広がった。冷えかけた指先に、じわりと熱が戻ってくる気がした。

「うめえ」

「だろ」

 三宅はそれだけ言うと、もう半分を口に放り込み、黙々と川面を見つめた。他愛のない会話はそこで途切れたけれど、不思議と気まずさはなかった。

 ただ、二人の間に流れる川の音が、さっきよりも少しだけ近くに聞こえた。

 たったこれだけのやり取りなのに、葵はなぜか、胸の奥でずっと張っていた糸が、ぷつりと緩むのを感じた。

 五平餅をもう一口かじった。ポケットのスマホは静かなままだった。それでも、不思議と気にならなかった。

「……寒っ」

 三宅がぼそっと呟き、立ち上がった。

「もう戻るぞ。夜は冷える」

「ああ」

 葵も立ち上がり、三宅の背中を追って堤防の坂道を下り始めた。川の向こうで、夕日が金華山の向こう側に沈みかけている。空の境界線が、橙色からゆっくりと藍色へと染まっていく。

 寮へと戻る途中、駅前の広場には、昨日と同じように、大きな荷物を抱えた新入生の姿が溢れていた。

 その中で、一人、スーツケースのハンドルを握りしめて、立ちすくんでいる女子学生がいた。葵は一瞬、足を止めかけた。

 あの時の自分と、同じ顔をしている。

 声をかけようか。そう思って口を開きかけ、しかし、葵はそのまま足を動かした。

 まだ、自分を支えることで精一杯だ。

 でも、昨日とは何かが違っていた。

 ポケットの中で、五平餅の包み紙がカサリと音を立てた。

 僕たちはまだ、この大きな街の、たった一歩目を踏み出したばかりなのだから。


【第2章 シーン3】大教室の余白

 翌週から本格的な講義が始まった。

 全学共通の基礎科目が開講される大講堂は、高校時代の教室とは比べものにならないほど広かった。階段状に傾斜した座席には、数百人分の背中がずらりと並んでいる。

 どこに座るべきか迷った葵は、人の流れの最後尾について、一番後ろの、さらに一番隅の席に滑り込んだ。

 教壇ははるか下に見え、教授の声はマイクを通しても天井の高い空間で反響してくぐもる。

 配られたシラバスの端を、葵は爪の先でカリカリと引っかいていた。隣の席は空席のままで、自分の周囲だけが妙な余白として切り取られている気がした。

「――以上で、今日のガイダンスを終わります」

 教授の事務的な声とともに、一斉に周囲がざわめき出す。

 前方の席のグループが「ねえ、次の空きコマどこ行く?」「学食混む前に並ぼうぜ」と声を掛け合っていた。その何気ない輪の広がりを、葵は教科書を鞄にしまいながら、横目で見ることしかできない。

 自分には、その輪に入るための言葉も、きっかけも持ち合わせっていなかった。

 講義室を出て、人の波に流されるように廊下に出ると、聞き慣れた声が背後から飛んできた。

「お、蓮見じゃん。お疲れ!」

 振り返ると、河合凛が片手に色とりどりのチラシの束を持って立っていた。

 入学して間もないというのに、すでに学内のあちこちに顔を出し、いくつかの学生団体やボランティアサークルの連絡先をスマホに溜め込んでいる「友達製造機」だ。相変わらず、その周囲には数人の顔見知りが集まっている。

「河合、お疲れ……相変わらず忙しそうだな」

「まあな! 面白い先輩がさ、今度、長良川のイベント手伝わないかって誘ってくれてさ。人手足りないらしいから、蓮見も来るか?」

「いや、俺は……ちょっと、履修の課題もあるし」

「そっか。まあ、また暇なときいつでも連絡してくれ!」

 河合は軽い笑みを残すと、別のグループの男子に呼ばれて、ひらりと手を振って去っていった。

 その背中は、入学したばかりのときよりもずっと大きく、眩しく見えた。

 取り残された葵の手元には、スマホと、白紙のスケジュール帳だけがあった。


* * *


 夜の学生寮。402号室。

 ガチャ、と音がしてドアが開いた。

 三宅蒼が汗だくのジャージ姿で戻ってきた。体育会の部活動に正式に入部した彼は、毎日ヘトヘトになるまで走り込んでいるらしい。無言のまま冷蔵庫から麦茶を取り出し、一気に喉に流し込む。

 その隣の机では、小牧楓がデスクライトの光を頼りに、分厚い教育学の専門書に蛍光ペンを引いていた。すでに教職課程の履修計画を完璧に立て終え、一歩先を歩いている。

 河合は外の世界で新しい仲間を増やし、

 三宅は部活という縦社会で居場所を作り、

 小牧は自分の将来に向かって一直線に走っている。

 ――じゃあ、自分は?

 葵は自分の机の引き出しを開けた。

 そこには、ただ白紙のノートと、どこかで購入したままのボールペンが転がっているだけだった。

 引き出しを閉める。金属のラッチがカチリと鳴り、ボールペンが中で小さく転がった。

「……風呂、行ってくる」

 葵はバスタオルを掴むと、誰にも声をかけずに部屋を出た。

 夜の廊下は妙に静かで、自分の足音だけがコンクリートの床に乾いた音を響かせていた。外に出ると、初夏の気配を含んだ夜風が、火照った頬をなでていく。

 遠くで、夜の岐阜の街の灯りが、ぼんやりと揺れていた。


【第2章 シーン4】並木道の仮面

 翌日の昼休み。

 学食へ向かうため、葵はキャンパスの中央を貫くイチョウ並木を歩いていた。

 道の両脇には、折りたたみの長机がずらりと並んでいる。パイプ椅子、強風でバタバタと煽られるブルーシート、段ボールの裏にマジックで書かれた手作りの看板。

「フットサルサークル、週末に新歓コンパやります!」

「インカレのテニスです! 初心者大歓迎!」

 メガホンの声と、どこからか聞こえるアコースティックギターの弾き語りが混ざり合い、無秩序なノイズとなって鼓膜を叩く。

 葵は、なるべく視線を下げ、自分のスニーカーのつま先だけを見ながら歩いた。

 目の前で、新入生らしき三人組が、サークルの先輩たちに囲まれていた。

「出身どこ?」「とりあえずLINE交換しようよ!」。

 スマホの画面が次々と差し出される。新入生たちは愛想よく笑い、QRコードを読み込んでいた。

 けれど、先輩が別のターゲットを見つけて背を向けた瞬間、そのうちの一人の男子が、ふっと顔の筋肉を緩め、ひどく疲れたようなため息をつくのが見えた。

 ――無理をしてるんだ。

 葵は、立ち止まりそうになる足を必死に動かした。

 友達を作るために、居場所を見つけるために、みんな無理をして笑っている。明るくて、ノリが良くて、誰とでもうまくやれる「新入生」という仮面を被って、100人の群れの中に飛び込もうとしている。

「そこの君! 君だよ、黒いリュックの!」

 突然、目の前に蛍光ピンクのチラシが突き出された。

 金髪に近い茶髪の先輩が、満面の笑みで立っている。

「イベントサークルなんだけど、今週の日曜、長良川の河川敷でBBQやるから来ない? 他大の女子もめっちゃ来るから、絶対友達増えるよ!」

「あ、いや……」

「とりあえずLINEだけでも繋いどこうよ!」

 強引に距離を詰められ、葵は思わず後ずさりした。漂ってくる強めの香水の匂いに、息が詰まる。

「すいません、ちょっと、急いでるんで」

 チラシだけを受け取り、逃げるようにその場を駆け抜けた。背後から「えー、マジかー」という声が聞こえたが、振り返らなかった。

 並木道を抜け、キャンパスの端にある古いベンチに座り込む。

 額にうっすらと汗をかいていた。

 手の中に握りしめていた蛍光ピンクのチラシを広げる。

『一生の思い出を、100人の最高の仲間と作ろう!』

 極太のゴシック体で書かれた文字の横には、数十人が肩を組み、ピースサインをしている集合写真が印刷されていた。

 葵は、そのチラシを半分に折り、さらにもう半分に折った。

 自分には、あの並木道で仮面を被り続けるだけの体力がなかった。かといって、仮面を被らなければ、一生この大きな大学の片隅で、白紙のノートを見つめるだけの時間が待っているのだろうか。

 小さく四角くなったチラシを、ベンチの横のゴミ箱に捨てた。

 カラッ、と軽い音がした。

 見上げると、イチョウの枝の隙間から、初夏の眩しい光がアスファルトに影を落としていた。


【プロローグB】まっさらなチケット

 中学三年生の、卒業式の日。

 蓮見葵は、自分の名前が呼ばれるのを、ただ待っていた。

 卒業アルバムには、クラスメイトの名前が、40人分、整然と並んでいた。その中の、自分はどこにいるんだろう。

 これからの三年間で、その何百人、何千人という群れの中で、自分は「何者」になれるのだろうか。

 名前だけの存在から、形のある何かへ変われるのだろうか。

 高校の入学式の日、葵は、またあの歌を思い出していた。

「友達100人、できるかな」

 でも、今度は、少しだけ、違う風に聞こえた。

100人集めなきゃ、って焦ることが、本当に必要なんだろうか。

 冷たい春風が、葵のコートの裾を揺らした。

 まだ何者でもない僕たちは、この大きな街の、たった一歩目を踏み出したばかりなのだから。

 快速列車の窓から、見知らぬ街の屋根が流れていった。

 蓮見葵は、シートに深く腰を下ろし、ポケットの中の片道切符を、指でなぞった。

「高校に入ったら、友達100人作るんだ」

 中学三年生の、卒業式の日。葵は、自分の名前が呼ばれるのを、ただ待っていた。

 卒業アルバムには、クラスメイトの名前が、40人分、整然と並んでいた。その中の、自分はどこにいるんだろう。

 これからの三年間で、その何百人、何千人という群れの中で、自分は「何者」になれるのだろうか。

 名前だけの存在から、形のある何かへ変われるのだろうか。

 窓の外では、小さな駅のホームに、一人の老人が立っていた。手には、ビニール傘。雨は降っていないのに、なぜか、傘を手放せないようだった。

 列車が通り過ぎると、老人の姿は、すぐに視界から消えた。

「友達100人、できるかな」

 小学一年生の、四月の朝。母が、楽しそうに言った言葉が、ふと、蘇った。

 でも、実際には、友達はなかなかできなかった。

 給食の時間、隣の子に「これ、いらない?」と野菜を渡そうとして、断られた。休み時間、誰かの輪に入ろうとして、視線を逸らされた。

「友達100人」は、呪いだった。

 列車の座席の前のテーブルには、誰かが置き忘れたらしい、しおれたチューリップが一輪、転がっていた。茎の先から、少しだけ、水が滲んでいる。

 葵は、そのチューリップを、指でそっと押した。

 花びらは、すでに茶色く変色していた。

 でも、なぜか、捨てられずに、そこに置かれたままだった。

「……僕も、そうなんかな」

 葵は、呟いた。

 まだ何者でもない自分が、新しい街で「生まれ変わる」ための、まっさらなチケット。

 でも、それは、裏返せば、「何者でもない自分」を、誰かに認めてもらうための、必死のあがきでもあった。

 快速列車は、ゆっくりと、岐阜駅のホームに滑り込んだ。

 葵は、スーツケースを持ち、立ち上がった。

 ポケットの中の切符が、少しだけ、温かかった。


【第3章 シーン5】雨の逃げ道

 六月半ば、岐阜の街に本格的な梅雨がやってきた。

 重たい鉛色の雲が金華山の頂を隠し、朝からしとしとと細い雨が降り続いている。アスファルトは濡れて黒く光り、傘を打つ雨音だけがキャンパスのあちこちに響いていた。

 葵は、図書館の入り口の庇(ひさし)の下で、濡れた折りたたみ傘をパタパタと畳んでいた。

 スケジュール帳は、相変わらずほとんど白かった。

 周囲の学生たちは、スマホで天気予報を確認しながら「午後の講義、サボって駅前のカフェ行かない?」と楽しそうに連れ立って歩いていく。その輪に入れず、かといって寮の402号室に戻る気にもなれず、葵はただ、冷たい空気の漂う庇の下に立ち尽くしていた。

「――おい」

 低い声とともに、濡れたジャージの裾が視界に入った。

 顔を上げると、タオルで頭をゴシゴシと拭きながら、三宅蒼が立っていた。部活の練習が終わったのか、その肩や腕にはうっすらと泥が跳ねている。

「……三宅か」

「なんだよ、そんなゾンビみたいな顔して」

「別になんでもない。……雨、すごいな」

 三宅は視線を雨の降る中庭に向け、それからぶっきらぼうに言った。

「これから駅前の商店街で、古本市の荷物運びを手伝うんだ。人手不足で、河合から頼まれてさ」

「河合から?」

「ああ。あいつ、あちこちのサークルや自治会の仕事を引き受けすぎて、いよいよ首が回らなくなったらしい。『誰か力持ちを連れてきてくれ』って泣き言を言われた」

 三宅はそう言って、肩をすくめた。

 行くべきか、断るべきか。

 いつもの葵なら「面倒だな」と言い訳を探して、そのまま図書館の自習室へ引き返していたはずだ。けれど、白紙のスケジュール帳を開くだけの毎日に、少しだけ息が詰まっていたのも事実だった。

「……分かった。俺も手伝うよ」

 葵がそう答えると、三宅は少しだけ目を丸くし、それから「おう」と短くうなずいた。


* * *


 駅前へと続く古びた商店街のアーケードの下は、雨を避けた人々でざわめいていた。

「おお! 蓮見、来てくれたのか! マジで助かるぜ!」

 テントの下で段ボールの仕分けをしていた河合が、びしょ濡れのパーカーのまま飛び出してきた。相変わらずの笑顔だ。その周囲には、他学部の学生や、地元の商店街の老人たちが集まり、濡れた手でガムテープをちぎりながら雑談している。

 葵は渡された軍手をはめると、目の前にある古本の詰まった重い段ボールを持ち上げた。

 ずっしとした紙の重みが、手のひらに食い込む。

「そこ、右のテントの下にお願いね」

 通りすがりの見知らぬ女子学生に声をかけられ、葵は「あ、はい」と短くうなずいて箱を運んだ。

 誰かが自分を頼り、自分もそれに応える。

 ただそれだけのやり取りなのに、寮のベッドで天井を見つめていたときのような、あの息苦しさがなかった。

 雨粒がアーケードのトタン屋根を激しく叩く音がしているが、その下では、年齢も学部も違う人間が、同じ目的に向かって手を動かしている。

 作業の合間、ふと顔を上げると、アーケードの隙間から、雨に煙る長良川の方角の空が見えた。

 湿った風が、汗ばんだシャツの背中を冷やしていく。

「お疲れ、蓮見!」

 ひと段落ついたところで、河合が濡れた手で冷えたペットボトルを放り寄こした。

「お前、手際いいな。意外とこういう裏方、向いてるんじゃないか?」

「そうかよ」

 葵はボトルを開け、冷たい水を喉に流し込んだ。

 冷たさが食道を通っていく感覚が、妙に鮮烈だった。


【第3章 シーン6】ユゲ楽器店の角

 古本市の片付けを終えた翌日の夕方、葵は三宅に頼まれた買い物のついでに、商店街のずれ込んだ一角を歩いていた。

 雨はすっかり上がっていたが、アスファルトの隅にはまだ水たまりが残り、夕暮れの茜色を重たく反射させている。

 シャッターの閉まった店が目立つ古い一角に、その店はあった。

『ユゲ楽器店』と擦り切れた看板がかかった、間口の狭い店だ。店頭のウインドウには、埃をかぶった古いアコースティックギターや、型落ちのトランペットが並んでいる。

「あ、君、昨日の古本市の子だよね」

 不意に声をかけられ、葵は足を止めた。

 店先から出てきたのは、白髪混じりの髪を後ろで束ねた、エプロン姿の老紳士だった。古本市の会場で、ずっと古い絵本を整理していた店主らしかった。

「あ……はい。昨日はどうも」

「おや、そんなに緊張しなくていいさ。これ、昨日手伝ってくれたお礼だ」

 老人はそう言って、店の横に積んであった段ボールの中から、不揃いな形をした木の板を取り出した。ギターの端材で作ったという小さなコースターだった。

「よかったら持って行ってくれ。若い子が手伝ってくれると、この辺りも少し活気が出るよ」

「……ありがとうございます」

 受け取った木片は、まだほんの少し木の香りがした。

「この街はね、最初はただの古いコンクリートの集まりに見えるかもしれないがね」

 老人は西の空、金華山のシルエットに沈みゆく太陽を眺めながら、ぽつりと言った。

「よーく見ると、あちこちに小さな『通り道』があるんだよ。君みたいな外から来た子が、自分の足で一歩を踏み出すと、景色の方が勝手に広がるようになってる」

 老人はそれだけ言うと、「じゃあね」と店の中へ戻ってい Đi。

 葵は手に持った木のコースターを見つめた。

 大学のキャンパスで「100人の友達」を作ろうと焦っていたときは、周囲の人間がすべて「自分を評価する巨大なシステム」のように見えていた。けれど、この古い商店街の路地裏では、誰も自分を何者かなんて測ろうとしない。

 ただそこにいて、荷物を運び、言葉を交わしたという事実だけが、静かに残っている。

「……景色が、広がる、か」

 葵はつぶやいた。

 スマホを取り出し、スケジュール帳のアプリを開く。相変わらず、今日の予定の欄には何も入っていない。

 だけど、昨日までの白紙とは、何かが違っていた。そこにはもう、ただの空白ではなく、自分で歩いて手に入れた小さな手触りが確かにある。

 寮へと戻る道すがら、葵はふと足を止め、スマホのカメラで路地裏の夕暮れを一枚だけ写真に収めた。

 画面の中には、古い電柱と、濡れたアスファルトと、遠くに見える小さな山が写っていた。

 それは誰に見せるためでもない、自分だけの景色だった。


【第3章 シーン7】フルールの花と神社

 六月の終わり、湿った空気が少しずつ軽くなり始めた頃、葵は大学からの帰り道に少しだけ遠回りをしていた。

 ユゲ楽器店の店主から聞いた「小さな通り道」という言葉が、どこか頭の片隅に残っていたからだ。

 古いアーケードを抜けた先の住宅街に、ひっそりと佇む小さな花屋があった。店の名前は『フルール』。軒先には、名前も知らない色とりどりの野花や、季節の鉢植えが並んでいる。

 店頭では、小牧楓が真剣な表情で、店員と何かを話していた。

「あ……蓮見くん?」

 店から出てきた小牧が、驚いたようにメガネのフレームに手をかけた。その手には、包み紙にくるまれた小さな多肉植物の鉢が握られている。

 寮の402号室ではいつも教科書に向かい、自分の将来のレールだけを正確に走っているように見えた彼女の、意外な一面だった。

「小牧か。お前も、こういうとこ来るんだな」

「……まあ。部屋に少しだけ、緑が欲しかったから」

 小牧は少し照れくさそうに笑い、それから店の脇にある細い石段へと視線を向けた。

「この上にある金神社、知ってる? 静かで、勉強の合間に息抜きするのにちょうどいいんだよ。行く?」

 誘われるまま、葵は小牧の後に続いて石段を登った。

 鬱蒼とした木々に囲まれた境内は、街の喧騒が嘘のように静まり返っている。鳥居をくぐると、湿った土と緑の匂いが鼻腔を満たした。

「私ね」

 石段の途中で、小牧がぽつりと言った。

「高校の頃から、決められた道を外れないように必死だったの。教職を取って、ちゃんとした進路を選んで、そうしないと自分がダメになる気がして」

 小牧は持っていた小さな鉢植えを両手で包み込むように持ち、じっと見つめた。

「でも、ここで色んな人を見てさ。河合くんみたいに自由に動く人もいれば、三宅くんみたいに自分の軸で生きている人もいる。……蓮見くんが最近、なんだか変わってきたのも、見てて分かったよ」

 葵は少し驚いた。寮ではほとんど喋らない彼女が、そんな風に周りを見ているとは思わなかったからだ。

「変わった、かよ」

「うん。最初はただ怯えてるみたいだったのに、今は……なんていうか、自分の足で立ってる感じがする」

 境内の隅で、風に揺れる葉の音がサラサラと響いていた。

100人の友達を作る必要なんてない。誰かと同じレールを走る必要もない。

 小牧が彼女自身の選択でこの鉢植えを選んだように、自分もまた、この街で自分の足場を一つずつ選んで掴み取ってきたのだ。

「……ありがと、小牧」

「え? 何が?」

「いや、なんとなく」

 葵が笑うと、小牧は少しきょとんとした後、ふっと柔らかく微笑んだ。

 境内の隙間から、夕方の薄光が二人の足元を優しく照らし出していた。

 ポケットの中で、あの古いボールペンが指先に触れた。

 もう、白紙のノートを怖がる必要はない。


【第4章 シーン8】美咲荘のベランダの朝

 秋風が長良川の水面を渡り、岐阜の街に大学祭の季節を告げていた。

 十月の朝。

 葵は学生寮「美咲荘」の二階、402号室のベランダに立っていた。

 手には、お気に入りのマグカップから立ち上る白湯。ひんやりとした朝の空気が、眠気の残る頬を心地よく引き締めてくれる。

「おい、蓮見。朝飯食うぞ」

 部屋の中から、ジャージ姿の三宅が顔を覗かせた。相変わらず無愛想だが、その声には以前のような重たさはない。

 奥の机では、小牧が几帳面に教科書を広げ、その横で河合が「やべ、今日の1限レポート終わってねえ!」と派手に慌てふためいている。

 ガチャガチャとした、賑やかで、しかしどこか落ち着いた日常。

 春にあれほど息苦しかったこの402号室は、いつの間にか、それぞれの場所へ向かう人間が一時的に肩を休める、確かな基点になっていた。

 葵はマグカップを置き、自分の机の引き出しを開けた。

 そこには、かつて転がっていた「ただの白紙のノートとボールペン」ではなく、ボランティアのシフト表や、商店街の人たちと交わしたメモ、そしてあのユゲ楽器店でもらった木片のコースターが収まっている。

 誰かに強いられたわけでも、100人の群れに合わせようとしたわけでもない。

 自分の手で選び、自分の足で歩いた軌跡が、そこには確かにあった。

「なぁ、今日の大学祭の準備、お前らはどうすんの?」

 河合がネクタイを半ば引っ掛けながら訊いてきた。

「インフォメーションのテント番だよ。地域イベントの延長で頼まれてさ」

 葵が答えると、河合は「マジかよ、働き者だな!」と大げさに笑った。

「じゃあ、あとで差し入れ持って行ってやるよ」

 三宅もうなずき、小牧も資料を片手に「私も手伝いに行く予定です」と言った。

 それぞれが別の道を歩きながら、どこかで緩やかに繋がっている。

 その事実が、今の葵の胸を静かに満たしていた。

 ベランダの手すりに身を預け、見上げると、秋の澄み切った青空の向こうに、金華山と岐阜城のシルエットがくっきりと浮かんでいた。

 あの山の向こうへ、今日も新しい一歩を踏み出そう。

 葵は深く息を吸い込み、部屋の中へと振り返った。


【第4章 シーン9】駅前の新しい春の足音

 大学祭の熱気が過ぎ去り、岐阜の街に本格的な秋の気配が満ちた頃。

 講義の帰りに、葵はふと岐阜駅の北口ペデストリアンデッキに足を向けていた。

 駅前広場には、相変わらず大きな荷物を抱えた人々が行き交い、それぞれの目的地へ急いでいる。

 その喧騒の中で、葵は足を止めた。

 ペデストリアンデッキの隅、冷たいタイルの上に、一つの大きなスーツケースが置かれていた。

 その傍らに立つ女子学生は、スマホの画面と見知らぬ案内板を交互に見上げながら、どこか途方に暮れたように小さく肩を縮こまらせている。

 春の日の、あの場所での自分とまったく同じ姿だった。

(声を、かけるか?)

 心の中で、一瞬だけ迷いがよぎった。

 自分だって、まだ完璧にこの街のすべてを知っているわけじゃない。何者かになれたわけでもない。自信満々に案内できるほどの余裕があるわけでもなかった。

 けれど――。

 ポケットの中で、あの時握りしめた古ぼけたボールペンの感触が、ふと蘇った。

 あの春、三宅が半分こしてくれた五平餅の温もり。

 古本市の雨の中で交わした、見知らぬ人との短い言葉。

 ユゲ楽器店の店主が教えてくれた「小さな通り道」。

 小牧や河合と過ごした、あの402号室のざわめき。

 誰もが「100人の友達」や「何者か」という大きな呪縛に怯えながら、それでも自分の足で一歩ずつ世界を広げてきた。

 自分はもう、あの日の「ただ立ちすくむだけの存在」ではない。

 葵はスッと息を吸い込むと、迷うことなくその女の子のほうへまっすぐ歩み寄った。

「あの、もしかして……道、迷いました?」

 声をかけられた女子学生が、はっと驚いたように顔を上げる。その瞳には、かつての自分と同じ心細さが揺れていた。

「あ……はい。あの、大学のガイダンスの会場に行きたいんですけど……」

「ああ、それなら、あそこの大通りを真っ直ぐ抜けて、次の角を左に曲がったところだよ。一緒に行こうか?」

 少女の顔に、ふっと緊張が解けたような、安堵の笑顔が広がった。

「ほんですか? ありがとうございます……!」

「うん、行こう」

 葵は軽くうなずき、女子学生のスーツケースの持ち手を少しだけ手伝うようにして歩き出した。

 並んで歩くアスファルトの上には、秋の澄み切った夕日が、二つの影を長く伸ばしている。

 まだ名前のない明日へ向かう誰かのために、今日、自分は最初の景色になる。

 振り返らない。

 長良川の向こうへと沈む夕日が、新しい季節の始まりを、どこまでも鮮やかに照らし出していた。


【エピローグ】白紙のページの、最初の一行

四月から始まった季節は、巡って、また春の匂いを運び始めていた。

葵は机の前に座り、白紙のノートを広げる。

ペンの先が、紙の繊維にゆっくりと沈み込む。

「まだ何者でもない僕たちの旅は、ここから始まる」

一文字、一文字、丁寧に。

窓の外では、長良川の風が、新しい桜の枝を揺らしている。

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