SeaArt AI Novel
APP
بيت  / 幸福の値札ーー深淵の呪石ーー
幸福の値札ーー深淵の呪石ーー

幸福の値札ーー深淵の呪石ーー

آخر تحديث: 2026-09-10 13:35:48
By: しららふぃふす
قيد التطوير
لغة:  English16+
4.7
3 تصنيف
4
الفصول
0.4k
شعبية
26.8k
إجمالي الكلمات
يقرأ
+ أضف إلى المكتبة
يشارك:
تقرير

ملخص

「石になれば、幸せになれる。」


迷宮都市の地下三階。そこには、冒険者たちが持ち帰った遺物や魔物の素材、そして迷宮の呪いによって石へ変わった人間までを査定する、冒険者ギルドの解体所がある。


主席鑑定士ジンの仕事は、回収された品々の価値を見極め、等級と値段をつけること。彼の石化した右目には、普通の人間には見えない「呪いの波」が映る。石となった者の内部に残る感情さえ、わずかに感じ取ることができた。


その呪いがもたらすのは、苦痛ではない。 恐怖も後悔も溶かしてしまうほど深く、甘く、抗いがたい幸福だった。


ある日、解体所へ一頭の傷ついた黒犬が運び込まれる。処分を命じられたその犬の首に、ジンは三年前に失った相棒へ渡したはずの認識票を見つける。


止まっていた彼の時間が、再び動き始める。


迷宮の奥底に隠された記録。人間すら資産として扱うギルド。幸福の中へ沈んでいく者たち。そして、他人の感情を誰より鮮明に感じ取れるがゆえに生まれる疑問。


――誰かが幸福だと分かったなら、その人を理解したことになるのか。


命に値札をつける迷宮都市で、ひとりの鑑定士が「救う」という言葉の意味を問い直していく、ダークファンタジー。


الفصل1

【迷宮都市ギルド/資産管理記録】

処理区画:地下三階・遺物解体所

搬入品:二級呪石断片七点/回収装備二十三点

呪石内部の意識反応:継続/帰還意思:査定対象外

担当:主席鑑定士ジン/感応眼の連続使用を制限

注意:担当者の陶酔、判断遅延、作業放棄は曝露事故として記録する

補記:感応眼が検出するのは情動の波であり、対象者の記憶・理由・人格理解を保証しない


人間の左腕は、銀貨三枚より重かった。

ジンは天秤の皿に載せた腕を少しずらした。失われた手首の断面から、灰色に固まった骨の髄が覗いている。反対の皿へ分銅を足すと、錆びた針が中央で止まった。

「四斤と八分。二級、加工用」

見習いのトマは数値を復唱し、帳面に羽ペンを走らせた。十六歳になったばかりの少年は、石を見ないようにしながら、数字だけを丁寧に書き込んでいた。


地下三階には、錆と腐肉、薄めすぎた消毒液の匂いが澱んでいる。換気管の奥で羽根車が回るたび、天井から黒い埃が落ちた。

ジンはピンセットで断面をつついた。硬く、乾いた音がした。

その瞬間、温かな満足が胸いっぱいに広がった。


冬の仕事を終えて家に帰り、火のそばに腰を下ろす。もう誰も自分を呼ばない。明日の支払いも、やり残した約束もない。そんな、覚えのない幸福だった。

右目の眼帯の下で、硬いものがゆっくり脈を打つ。

ジンはピンセットを離した。幸福は消えず、数呼吸ぶんだけ胸に居座った。

「先生?」

「札を」

差し出された札に、二級呪石・加工用、と記す。石の腕へ麻紐を巻いた。荷札が回り、汚れた紐の下から古い傷痕が現れた。生きていた頃についた刃傷まで、石は丁寧に保存していた。

「これ、中の人は」

トマの声が止まった。


「申請書の裏を読んだな」

「意識が残るって。本当なんですか」

「残る」

「じゃあ、切ると痛いんですか」


ジンは引き出しから目覚め草を一枚つまみ出すと、奥歯で噛み潰した。乾いた葉が砕け、青臭い苦味が唾液へ滲む。舌の根が痺れ、喉がきゅっと狭まった。その不快さに押し返されるように、借り物の幸福がようやく一歩退く。だが退いた跡には、もう一度あの温かさへ沈みたいという欲求だけが薄く残った。

「感じ方が変わる。戻るより、そこにいたくなる」

「そこって」

「石の中だ」


少年は腕を見た。自分の袖を引き、手首を隠した。

壁際では、呪石の切れ端を燃料とする保温炉が青く瞬いていた。トマは冷えた指をかざしかけ、途中で引っ込めた。

「消すなよ」

奥で骨鋸を洗っていた解体長が言った。


「消毒槽の温度が落ちる。お前の下宿の湯も、同じ石で沸いてる」

トマは返事をしなかった。

ジンも何も言わず、次の欠片を皿に載せた。それは耳だった。天秤の小さな皿で横倒しになり、誰かの話を聞くように、こちらを向いていた。

査定一件につき銀貨三枚。加工場へ回せば、その十倍で売れる。粉末にすれば街灯用、形が残れば家庭用。意識が深く沈み、安定して呪力を放つものほど高い。


身分証と同じ袋に入っていた耳からも、幸福が届いた。

トマが帳面を閉じる音で、ジンは自分の口元が緩んでいたことに気づいた。


午前の終わりに、遺品受取窓口から呼び出しが来た。

格子の向こうに、パン屋の前掛けをした女が立っていた。ジンより少し年上に見えた。両手に、小さな受領票を握っている。

「指輪だけでも、と言われたんです」

女は受領票を差し出した。


照合すると、今朝の左腕と同じ搬入番号だった。指輪は金属回収の箱にある。ジンは箱から細い銀の輪を探し、水で洗った。内側の文字は、石粉で埋まっていた。

「これですか」

女はすぐに頷かなかった。指輪を光へ透かし、内側を爪でなぞった。

「ええ。安いものですけど」


ジンは買値を言いそうになり、口を閉じた。

女は指輪を握ったまま、格子の奥を見た。

「苦しまなかったでしょうか」

目覚め草の苦味が、舌に残っていた。


「回収時の記録は、ありません」

彼はそう答えた。

「そうですか」

女は受領票に名前を書いた。手が震え、最後の文字が枠からはみ出した。ジンは訂正させなかった。

歩き去る背中から、小麦粉の匂いがした。


戻ると、トマが腕の荷札を見ていた。

「今の人に、中で生きてるって言わないんですか」

「引き渡しには別の申請が要る」

「そうじゃなくて」


ジンは椅子に座った。

言えば、あの女は買い戻そうとするかもしれない。パンを何個売れば腕の加工価値に届くか。どこへ置くのか。切れた腕へ、何を話しかけるのか。

そんな計算はすぐにできた。しなくていい理由を見つける計算だけは、うまくなった。

「俺には、どこまで残っているか分からない」

「でも先生、幸せかどうかは分かるんですよね」

ジンはすぐには答えなかった。あの腕から流れ込んだ安堵なら、まだ舌の裏に残っている。だが、それが誰を思って生まれたのか、何を諦めた末のものなのかは見えない。

「分かるのは、波があることだけだ」

「それって、その人が分かるのとは違うんですか」

「名前も、理由も、何を望んでるかも見えない」

トマは少し考えた。

「じゃあ、先生の眼でも、全部は分からない」

「最初からそう言ってる」

「分かるところまででいいのに」

トマは荷札を戻した。

ジンはその言葉を叱らなかった。優しさからではなかった。叱れば自分が何を守っているのか、声に出してしまいそうだった。


昼の鐘が配管を伝って鳴った。

配給の黒パンを割ると、粉が机にこぼれた。ジンは札が置かれた側へ粉を払わないようにした。以前、油の染みを呪石の滲出と誤認され、半月分の報酬を引かれたことがある。

主席鑑定士という肩書きは、地下では椅子一脚ぶんの意味しか持たない。背もたれがあり、解体人夫より先に休憩できる。それだけだった。地上の主任たちは清潔な手袋で宝石を見て、彼には素手でなければ分からない品が回された。

壁の勤続表に、三本目の赤線が引かれている。


三年。この地下へ降りた日の革靴は、とっくに底を失った。片眼を石に変えた呪いだけが、変わらず彼についていた。

「先生は戻らないんですか。探索に」

「戻ってきたから、ここにいる」

トマは困ったように頷き、配給袋を抱えて立った。

問い返さないことも、この地下で覚える仕事の一つだった。


休憩所へ黒パンを取りに行くと、解体人夫が二人、給湯壺の前で声を潜めていた。

「またB七が増えたらしい」

「昨日だけで三つだとよ。上は景気がいいって笑ってる」

「笑えるか。十五階層の地図、先月から妙に書き換わってるだろ」


ジンが入ると、二人は口を閉じた。片方がわざとらしく咳をし、もう片方は今日の競売の噂へ話を変えた。深層から珍しい人型呪晶が上がった。地上の金持ちが見物に来る。支配人直々の案件だ——そんな断片だけが職員の食事場を渡り歩く。

正式な通達より一日早く届く噂も、記録にならなければ翌朝には仕事の音へ埋もれた。

「先生、B七って何なんです」

パンを抱えたトマが訊いた。

「知らなくていい区画だ」

「知らないままで仕事していいんですか」

ジンは答えず、自分の黒パンを半分に割った。質問を止めるのも、地下三階では立派な職能だった。


ジンは机の奥の革袋を確かめた。

金貨三十七枚と銀貨の端数。目覚め草と宿代を引いた残りを、三年かけて詰めたものだった。北の修道院なら石化した眼を診られる、と聞いて貯め始めた。診せたところで元に戻る保証はなかったが、袋の重さが増えるうちは、何かをしている気になれた。

袋の下には、二枚組の認識票の注文控えがあった。

二羽の燕が交差する意匠。片方は自分のため、片方はエリーのため。


彼女が二十三になった日に渡した。支払いを気にした彼女は、一羽ずつなら半額だったのに、と笑った。

そんなものを覚えているのは、三年間、新しく覚えたいことが何もなかったせいだ。

ジンは控えを伏せた。配管の鐘が鳴り終わる前に、鉄扉が開いた。


「深層便だ。中央を空けろ」

解体長の声とともに、荷車が敷居を越えた。乾いた室内に、硫黄と湿った黴の匂いが流れ込む。黒く変色した魔獣の肋骨、泥の詰まった盾、封蝋のある箱。回収員が車輪を押し、最後の一人が太い鎖を引いた。

巨大な黒犬が、踏ん張った足を床に滑らせて入ってきた。

首に鉄輪が食い込み、毛のところどころが血で固まっている。黄色く濁った眼は、近づく人間を片端から追った。鉄棒が背を打つ。犬は呻いたが、鎖を噛むのをやめなかった。


「生きてるものは厩だ」

ジンが言うと、回収員は伝票を投げた。

「主殺しだとよ。処分指定。毛皮と魔石だけ残せ」

伝票の従魔登録欄は、墨で潰されていた。


「主は」

「回収できず。文句は上へ言え」

犬が低く唸った。荷車の奥を見ていた。いや、荷車ではない。回収員の腰にぶら下がる、白い封蝋のついた鍵束を見ている。


解体長は伝票へ一瞥をくれ、人夫に顎を振った。

ハンマーが棚から外される。

ジンは机へ戻りかけた。犬一頭を止めても、明日は別の荷車が来る。分かっていた。トマが背後で息を詰めたことも、聞こえないふりをするつもりだった。

鎖が跳ねた。


黒い毛の下で、銀色の翼が光った。

たった半枚の翼だった。交差する二羽の、右側の燕。店の職人が彫り損ない、先端だけ少し短くなった尾。

「待て」

声より先に、ジンは秤の支柱から検査用の鉄棒を引き抜いた。


振り下ろされたハンマーの頭を斜めから打つ。鉄が鳴り、打面が犬の耳をかすめて床へ落ちた。腕が痺れた。三年ぶりの動作は、記憶ほど速くない。振り切った鉄棒を戻すより早く、人夫の手が襟へ伸びた。

「何をする!」

引き寄せられた次の瞬間、ジンは卓の角へ背を打ちつけた。

犬が吠えた。その吠え方に、今度こそ覚えがあった。


「買い取る」

ジンは机へ手を伸ばした。革袋を掴み、解体長の前へ置く。

「全部だ」

「規定を読め。魔物化の疑いがある従魔は、生体での払い下げ禁止だ」

「疑いなら、判定は俺の仕事だ」

「鑑定を偽る気か」

解体長の眼が細くなる。

ジンは犬を見た。飢えと疲労で立つのがやっとの身体から、呪いの甘い波が漏れている。それでも犬は怒っていた。何かを忘れまいと、牙を剥いていた。


「自我はある。指示待ちの従魔だ。七日間の隔離観察をつけてくれ」

「観察費も要る」

「袋に入ってる」

解体長は口紐を解いた。金貨を二枚、卓に並べた。もう二枚。その間にも、人夫の手はジンの襟を離さなかった。


「事故があればお前の責任。地上へ連れ出すな。給餌も治療も自分持ちだ」

彼は伝票を裏返した。

「トマ、例外払い下げの用紙を持ってこい。こいつの署名を先に取れ」


革袋は戻らなかった。

代わりに渡された鎖は、金貨よりも冷たかった。

ジンが膝をつくと、犬は牙を鳴らした。近づけた手の甲を浅く裂く。血が落ちた。ジンは手を引かず、指を丸めた。

「アッシュ」


犬の鼻が動いた。

「遅いぞ。お前、いつも先に戻るくせに」

自分の声が震えているのを聞き、ジンは唇を噛んだ。

血と目覚め草の匂いを、アッシュは長く嗅いだ。吠え声が途切れた。強張っていた耳が下がり、前足が一本、床の上を探るように滑った。


くぅ、と細い声が漏れた。

三年前、焚火から離れたエリーを探していた時と同じ声だった。

ジンが額に触れると、巨体がその手へ倒れかかった。重かった。生き物の重さだった。天秤では量れない揺れと温度が、腕へ戻ってきた。


首の鉄輪は回収隊のものだった。その下に、古い革紐が埋もれていた。

ジンは水で血をふやかし、慎重に紐を切った。銀の認識票が掌へ落ちる。二羽の燕。裏には、エリーの名と、彼女が自分で刻んだ小さな傷があった。

迷っても戻る。そう言ってつけた、帰還点の印。

「主殺しなんですか、本当に」


トマが水差しを持ったまま訊いた。

「知らない」

ジンは正直に答えた。

ここにあるのは従魔と認識票だけだ。彼女が生きている証拠でも、死んだ証拠でもない。だが、三年前に途切れた道の先から、何かがここへ届いた。


ジンは伝票の右上を見た。回収便の番号と、転送先の略号。

B七・保管。

魔獣の死骸はB三、装備はB二。B七は、この地下で働く者でも中を知らされない区画だった。


隔離用の空き房で、ジンはアッシュの傷を洗った。

犬は水に顔をしかめたが、噛まなかった。干し肉を差し出すと一度だけ食べ、それから扉を見た。白い封蝋の鍵が運ばれていった方角だった。

「まだ行けない」

アッシュは立った。


「お前、歩くのもやっとだろう」

犬は扉に鼻を押しつけた。低い声が胸の奥から響いた。

ジンは残りの干し肉を床へ置き、認識票を握った。

三年前も、彼女を探しに戻るつもりだった。片眼が石になり、足が震え、出口で膝をついた後でも、朝になれば戻れると思っていた。朝には封鎖命令が出た。翌日には捜索終了の印が押された。


戻れなかった、という言葉を、彼は三年間使ってきた。

「今度は、伝票からだ」

アッシュの耳がこちらへ向いた。

ジンは犬の前へ水を置いた。まず、戻ってこられる身体を残しておく必要があった。


夜半、解体所の炉が落とされた。

ジンは未処理伝票の束を持ち、帳簿室へ向かった。主席鑑定士の鍵で開くのは、搬入記録の棚までだ。床に白線が引かれ、その奥は管理職の立会いが要る。

当直の老人は眼鏡越しに彼を見た。

「この時間に照合か」

「深層便に登録漏れがある」

「明日にしろ」

「支配人の競売に間に合わなくても?」

老人は舌打ちし、入室簿を押し出した。ジンは時刻と名前を書いた。ここに来たことは消せない。その覚悟だけで、文字がいつもより大きくなった。


足元のアッシュを見られる前に、ジンは机の陰へ犬を寄せた。

「鼠除けか」

「隔離中です。目を離せない」

「紙を噛ませるなよ」

老人は外套を取り、湯を汲みに廊下へ出た。


B七の転送一覧は、白線の向こうにあった。

扉はない。棚と鎖、そして監査を信じる者だけを近づける場所だった。ジンは自分の鍵を机へ置いた。逃げれば誰が入ったかは分かる。彼は白線を跨いだ。

アッシュが唸ったので、振り返る。犬は奥へ行こうとせず、入ってきた扉を見ていた。見張っているのだと気づき、ジンは一度だけ頷いた。

伝票番号を追う。黒革の背表紙から一冊を抜く。回収隊の泥が指についた。最近ここへ運ばれた帳簿だった。


通常の搬入台帳には、重量と分類しかない。こちらには、その手前の数字が並んでいた。

配員。適性。誘導先。成熟見込。

ジンは頁の端を押さえた。

初心者四名、第十二階層。防毒装備の支給を保留。照明用呪石三体、回収済。

四人と三体。その間の一人については、歩留り不良、とあった。


隣の欄に、自分の査定番号があった。

今朝、腕につけた番号だった。

ジンは自分の手を見た。爪の端に石粉が残っていた。洗っても残るほど細かい粉だった。

失敗した者を回収しているのだと思っていた。助けられなかったものを利用する、それが都市の決まりなのだと。


彼は頁を戻した。行先を変更した係員の印と、売上を承認した印が、同じ名前だった。

紙の上では、最初から帰還者の欄がなかった。

廊下で茶碗が鳴った。ジンの指が止まる。アッシュは吠えず、扉を見ていた。足音は隣室へ遠ざかった。

今なら戻せる。鍵を持って、いつもの机へ帰れる。

ジンは次の頁を開いた。


B七・保管の明細に、エリーの名はなかった。

識別は、呪晶個体E一七。発見地点は第十八階層の旧暗渠、三年前の封鎖先と同じ水系。回収は二日前。追随従魔一頭、接近妨害あり、分離のうえ処分。

アッシュの首にあった鉄輪の規格まで書かれていた。

認識票は、個体識別完了により不要、とされた。廃棄するところを犬が奪ったのか、彼女が最後に託したのか。紙はそこまで答えない。


下に競売資料が挟まっていた。

永眠の乙女。意識循環型・高純度呪晶。

記載された年齢は、失踪当時の二十三のままだった。

エリーは、そこで歳を数えられることもなくなっていた。


添付の鉛筆画を見て、ジンは息を止めた。

膝をわずかに曲げ、両腕で自分を抱いている女性。髪は逃走中のまま乱れ、左の靴紐がほどけていた。気に入った服でも片方の紐だけよくほどく、その癖まで石になっていた。

顔には、かすかな微笑があった。

描いた者が整えたのか、本当に笑っているのか、紙からは分からない。


ジンは鉛筆の線へ指を触れかけ、やめた。絵に呪いは宿っていない。右目にも何も映らない。彼が知っているはずの顔が、知らないものになっているだけだった。

商品説明には、恐怖反応の消失、自己維持欲求の強化、外的刺激への応答減衰、とあった。

最後の一文は赤いインクだった。

帰還意思を刺激する呼名、音楽、所持品の接触を禁ず。出力不安定化のおそれあり。


資料の下に、検査時の観察票があった。

無反応、という判定に斜線が引かれている。別の筆跡で、呼名に同期した位相変化、と訂正されていた。さらにその上へ、商品価値への影響なし、という大きな印が押されている。

ジンは印の縁を指でなぞった。

誰かが、一度は気づいたのだ。ここに、呼ばれたことへ反応する者がいると。


その誰かも仕事を終え、食事をし、眠ったのだろう。自分が今朝の腕へ札を結び、パンを割ったように。

恐ろしいのは、読めない暗号ではなかった。文字がどれも分かることだった。自分なら同じ欄へ、同じ言葉を書ける。

観察票の余白には、検査者の控えめな疑問が残っていた。

快状態の維持は、帰還拒否と同義か。


返答欄は空白だった。

ジンはそこも書き写した。今の自分が答えられない問いを、まだ捨てたくなかった。

ジンはそこを二度読んだ。

呼びかけに意味がある。少なくとも、売る者はそう考えている。

彼は伝票の余白に、禁止事項と保管番号を書き写した。盗み出せばすぐに気づかれる。写しなら、朝まで猶予があるかもしれない。

奥の棚には未回収資産の図面があった。第十八階層、旧排水門。現地観測員全員帰還不能。核の摘出は呪流の視認を要す。そこに、自分の雇用番号が鉛筆で書き添えられていた。


投入候補、本人同意未取得。

ジンはその番号を見つめた。使う場所まで考えられていたのだ。三年間、地下でじっとしていたつもりの自分にも。

彼は図面を写した。今は意味が分からなくても、捨てていいものには思えなかった。

アッシュが一度だけ床を掻いた。

老人の足音が戻ってきた。


「終わったか」

「転送漏れでした」

ジンは白線のこちらへ戻り、鍵を取った。

老人は帳簿の位置を見た。目が少し長く留まったが、何も言わなかった。入室簿に退出時刻を書き、ジンへ向けて回す。


「明日の競売は七つ鐘だ。文句があるなら、先に言っとけ」

何についての文句か、ジンは訊かなかった。

廊下へ出ると、アッシュが急に足を速めた。下へ続く階段の前で止まり、鉄格子へ鼻を差し込む。

その向こうで、管理用の導管が青く光っていた。B七の保管室から集めた呪力を、地上の照明へ運ぶ管だった。


ジンの右目に、やわらかな金色が滲んだ。

絵ではない。管の継ぎ目から漏れる、生きた波だった。

彼は壁に手をついた。


暖かな風の吹く草原にいるようだった。

空腹も後悔もなく、誰かを待つ必要もない。ただ、ここにいることが嬉しい。呼吸すら要らないほど静かで、満ち足りていた。

ジンの喉から、笑いに似た息が漏れた。

アッシュが袖を引いた。弱く、二度。それから鼻先を鉄格子へ向け、泣くような声を出した。


ジンは目覚め草を噛んだ。舌を刺す苦味と青臭さが、金色の安堵を削る。冷たい壁、血の乾いた手、アッシュの包帯。嫌なものから順番に、現実が戻ってきた。

この波がエリーのものかどうか、まだ分からない。何体もの石が同じ管へつながれている。

けれど、そのどれかが彼女かもしれなかった。

「エリー」


鉄格子の向こうへ呼びかけた。

金色の光は弱まらなかった。強まりもしなかった。

ジンはもう一度名を呼ぼうとして、声を失った。

彼女がどこかで泣いていると、三年間思っていた。

泣いていてほしかったのかもしれないと気づいたのは、その時だった。

第二章 深淵の代価

آخر تحديث: 2026-09-10

第一章 残骸の目方

آخر تحديث: 2026-09-10

التقييمات والمراجعات

الأكثر إعجاباً
جديد

قد يعجبك أيضاً